蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

京金  森下

2008-09-30 21:12:55 | 蕎麦
天保年間から続くお店だが、味覚を追及するフレッシュな感覚は、まさしく同時代人のように感じられる。


こちらの「田舎」は粗挽きの太打ち。これが、最も蕎麦の香りを感じやすい打ち方・切り方ではないか、と個人的に思っている。つるつるっとくる、細打ちの蕎麦ではとてもこの香は出せない、と思うのだが。


夢中になって蕎麦を食べ終わり、蕎麦湯を飲む段になって気がついた。このお店は、非常に上質な器を惜しげもなく使われている。
なかなか、できることでは無いでしょうね。


ご馳走様でした。

清澄庭園  江東区

2008-09-27 17:52:43 | 古民家、庭園
隅田川から掘割をちょっと入ったところにあり、江戸時代には交通の便がよい場所だったのだろう。安政の絵図をみると、久世大和の守の屋敷となっているが、紀伊国屋文左衛門の屋敷だったとの言い伝えもある。


明治になって岩崎家の所有となると、岩崎家は当時の主なる事業であった海運により、全国各地から名石を運んできた。それで質の高い庭石が、それも種類多く見られる。


家屋敷は今は失われているため、建築物としては、この涼亭がもっとも目につく。


庭の東奥の一角は、富士山に見立てた築山を中心として、別な一つの世界を作り出している感じだ。


この庭全体の要となる石組。


正面からながめれば、このような姿になる。

満る善  森下

2008-09-26 22:10:13 | 日本料理
お店は清澄通りに面してはいるが、間口は狭い。


六軒長屋の一軒だそうで、カウンターだけのお店だ。
見ているといささか狭い感じのカウンターで、ご主人と奥さんがきりもりするのだが、揚げたてを味わいに行く楽しさが素晴らしい。


天ぷらは、カウンター前の棚に置かれたバットに盛られる。その熱々を即座に食べるのが、よい(さもないと、全部を揚げきりのいいバットで受けることができない)。右方面の穴子は小ぶりだが、一口噛むと香りが口中に広がる。
左手はきすか。海老の味の濃さ、堪らない。


右手奥は烏賊。きれいに薄く切られて、とても柔らかい。右手前は2ラウンド目の海老。中央はシシトウ。
結構贅沢な種を使って、天ぷら盛り合わせ800円。

天ぷらのお店なので、どうしても脂じみた感じにはなる。そんな事を微塵も気にしないで、熱々をほうばるのが相応しい。


武陽山 能仁寺  飯能市

2008-09-25 22:03:46 | 神社仏閣
秩父、飯能、所沢と埼玉東部は絹織物の集積地であった。幕末には、関東一円で紡がれる絹織物を横浜への地の利のあるこの辺りの商人が売買を仲介し、莫大な富を得たとも聞いたことがある。


その名残を未だに残すのが、飯能織物協同組合の建物ではないだろうか。屋根には「しゃちほこ」のような飾りが載り、半洋式の下見造りのように見える。
しかし、富が集まればそれに目を付ける人々が出てくるのも必然。埼玉東部は、幕末から明治にかけて事件の舞台となってしまう。



飯能駅前から歩いて20分程のこの寺も、戊辰戦争の1コマの飯能戦争で彰義隊の陣地となり、寺は官軍に焼き払われて、その後の復興に70年を要したという。


大変な戦火に合いながら、この庭の基本となる石組はなんとか生き残ったようだ。




昭和9年に再建に着手する前は須佐まじいまでに荒れていたのだろうが、見事なほどに再建されている。




やはり、庭は生き物だから面白いと感じた。

朝倉彫塑館  谷中

2008-09-24 23:05:25 | 古民家、庭園
朝倉文夫は明治16年生まれの彫刻家。明治40年には東京藝術大学を卒業し、大正10年には藝大教授となる。
エリート芸術家なのだが、明治40年にここ谷中に居を構え、それ以降改築に改築を続け、最後の改築は昭和3年に開始して7年間を要したという。


建物は、新アトリエを中心としたコンクリート造りの部分と、その奥の池を過去む数寄屋造りの部分からなる。その昔に訪れた時は、数寄屋部分にまで気安く入れたのだが、現在は耐震強度の問題で数寄屋建築の部分には一切足を踏み入れることができない。


それでも来年春からは、数寄屋部分の補強工事にかかるため、かなり長い(おそらく数年か)にわたり、館は閉館してしまうと聞き、それならば少しだけでも見ておこうと、あわてて見てみる事にした。





館内で撮影できるのは、、アトリエおよびその隣の控えの間から見た中庭と、屋上の庭園のみ。それにしても、彫刻家の作品がディスプレィされている館内で、写真が撮れることが不思議なくらい。アトリエの窓ガラスは大正頃のものと思われる歪みの多いもので、なにやら怪しい影がほの見える。




控えの間の窓は最近のサッシで、ガラスも歪まない。面白味はないが、いささか、庭の写真を少しでもと考える身にはほっとする。
アトリエの脇に書斎があるのだが、まるで図書館のように大変な蔵書で二階までの壁面が埋め尽くされている。その蔵書の背表紙を見るに、朝倉氏は相当に視野の広い知識人でもあったようだ。洋の東西を問わず、価値ある美術書の宝庫と言えるだろう。
その朝倉氏が自邸の改築を記録した「我家吾家物語譚」(未発表)で「アサクリック」なる言葉を使ったという(文脈としては、いろいろな國の建築形式を拝借するからちぐはぐになるのでこれも勝手気儘なアサクリックでゆくか)。手元のPCを使って、wwwサーバーに日記を書いている身としては、なんだかすっかり見通されているような気がしてくる。


川むら  谷中

2008-09-23 19:14:46 | 蕎麦
こちらは、いろいろな意味で谷中らしい蕎麦屋さんだ。


古い造りのそれらしい店構えが谷中の通りに面していて、休日は混雑する事が多い。少し時間を外したのでお店にすぐに入れたが、外で待つ人もいた。


結構蒸し暑い日だったので、まずはかまぼこ昆布に生ビール。


蕎麦は細打ちの江戸風。それ程特徴はないが、汁が甘すぎず、出汁もしっかりしていて、なかなか良い。


やはり、こういうお店が谷中にあると、それ程特徴はなくても、入りたくなってしまう。

おつまみ二品

2008-09-21 20:49:50 | おつまみ
台風の置き土産で、変に湿度の高い時などには、いいかなと思います。


奥信濃で仕入れた大辛コショウです。厚めの肉も中の種も驚くほど刺激が強いです。中辛とは、まるで違う世界です。


コショウは細かく切り、味噌にみりんを加えて炒り固めていきます。今回は、油は使いませんでした。


焦げる直前で火を止めれば、かなり強烈ななめろうの出来上がりです。慣れない方は、慎重に扱われることをお勧めします。


こちらは、茄子の南蛮付けです。ネギは別に焙りました。
南蛮漬けのタレは、醤油に、米酢、それにほんの少々の砂糖とごく少量のタマネギ。茄子は火が通りやすいように切り、油で揚げ、熱いうちにタレに漬けこむ。
味が馴染んだら出来上がり。


見た目では、茄子の方が華があった感じです。それに、コショウは大辛なので誰にでもどうぞという訳にはいかないでしょう。

赤城神社の祭礼

2008-09-20 18:43:53 | 神社仏閣
前回の日記でご紹介した赤城神社は、19日、20日、21日と祭礼でした。
神社本体が建て替えでシートに包まれている状態なのでどうなることやら、と思って見に行ってみました。



昼前から、着々と準備が進んでいます。建て替え中であるための影響など、なさそうです。

日暮れ時に行ってみれば


結構なにぎわいです。


画面中央やや左手に、お神輿がかろうじて見えます。



境内は大にぎわいです。お祭りの時のこういう屋台の演出って、本当に上手ですね。行くだけでも、気分が高揚します。


先ほどのお神輿が、坂を下っていく姿を、かろうじて見ることができました。


神社に付属する建物が既に取り壊されていたので、屋台の裏側を撮ることができました。これはこれで、ちょっと不思議な空間です。

赤城神社も建て替えらしい

2008-09-18 23:46:39 | 神社仏閣
今日、神楽坂と呼ばれているのは飯田橋から東西線の神楽坂駅にかけての、実際に坂のあるエリアである。
その通り沿いには、有名な毘沙門天と、坂を登りきった辺りの赤城神社がある。


昔、神楽坂と言えば外堀からせいぜい急坂を登りきった毘沙門天あたりだったというが、安政の時代の地図を見れば道筋はずっと先の赤城神社の先まで伸びている。
しかし、赤城神社は直にその道筋には面していない。境内も、近々に立て直しが行われ、この境内の姿は失われるようだ。


実は、赤城神社は神楽坂のメインストリートよりも300年も前の古道に面しているとい話を、どこかで読んだ記憶がある。
これが、その古道のようだ。安政図にも、この右カーブは登場する。