伊藤家は18世紀半ばより豪農およびその副業により財産を築きあげた。地主としてのピークは昭和初期らしく、敗戦後の農地解放時にも、その屋敷や庭はよく手入れされていたようだ。
なにしろ8800坪の敷地に、8年がかりで建てられた1200坪の屋敷である。
屋敷は、基本的には茶の間や台所がある住居部分の建物と、広間のある儀式用の建物を廊下でつなぐロの字型の構成になっている(寝室部分がまた別にあるようだが、単純化するとこうなる)。写真は、広間から中庭をはさんで住居部分を見渡したところ。この日は素晴らしい天気で、広間の障子はせいせいと開け放たれていた。
居住部分の二階から中庭を見れば、こんな感じである。
居住部分の一階から、広間ごしに奥の庭を見通すことも出来る。
広間の奥の庭は、回遊式庭園になっている。作庭は田中泰阿弥。柏崎出身で確か銀閣寺の石庭を復元した庭師だ。庭を見たとたんに、これはただものではないと感じた。
庭園内には、茶室が5つもあるという。回遊式庭園なので、それぞれの茶席やその近くからの眺めはまた、流石のものがあるのだろう。
しかし、広間やその縁側から眺めるだけでも、実に深い味わいを感じさせる庭である。
開け放った広間にいると、あまりに風が心地よく、目は庭の方を向いてしまうが、広間の床の間も、実に繊細で贅沢な造りだ。
広間の床の間の裏手、さらに奥に、次の間と奥の間があるのだが、その雰囲気が絶品なのである。欄間の細工した障子なども(解像度のせいで)壊れているようにも見えてしまうが、いや最高に贅沢なのだ。
床の間の小窓を開ければ、中庭が見えるのだが、先ほどとはうって変わって制限されたゆえの繊細な世界を見せる。
縁側から見渡す庭も、大広間の前の姿とは変わり、小ぶりで馴染みやすい。
そして、広間の前で使われたモチーフの、小規模な繰り返しが見られる。
なにしろ8800坪の敷地に、8年がかりで建てられた1200坪の屋敷である。
屋敷は、基本的には茶の間や台所がある住居部分の建物と、広間のある儀式用の建物を廊下でつなぐロの字型の構成になっている(寝室部分がまた別にあるようだが、単純化するとこうなる)。写真は、広間から中庭をはさんで住居部分を見渡したところ。この日は素晴らしい天気で、広間の障子はせいせいと開け放たれていた。
居住部分の二階から中庭を見れば、こんな感じである。
居住部分の一階から、広間ごしに奥の庭を見通すことも出来る。
広間の奥の庭は、回遊式庭園になっている。作庭は田中泰阿弥。柏崎出身で確か銀閣寺の石庭を復元した庭師だ。庭を見たとたんに、これはただものではないと感じた。
庭園内には、茶室が5つもあるという。回遊式庭園なので、それぞれの茶席やその近くからの眺めはまた、流石のものがあるのだろう。
しかし、広間やその縁側から眺めるだけでも、実に深い味わいを感じさせる庭である。
開け放った広間にいると、あまりに風が心地よく、目は庭の方を向いてしまうが、広間の床の間も、実に繊細で贅沢な造りだ。
広間の床の間の裏手、さらに奥に、次の間と奥の間があるのだが、その雰囲気が絶品なのである。欄間の細工した障子なども(解像度のせいで)壊れているようにも見えてしまうが、いや最高に贅沢なのだ。
床の間の小窓を開ければ、中庭が見えるのだが、先ほどとはうって変わって制限されたゆえの繊細な世界を見せる。
縁側から見渡す庭も、大広間の前の姿とは変わり、小ぶりで馴染みやすい。
そして、広間の前で使われたモチーフの、小規模な繰り返しが見られる。
散歩に寄れる範囲にお住まいですか。この屋敷の四季の姿を見てこられたのでしょうね。
羨ましい限りです。