市島家は16世紀終わりごろに新発田に居を構えてから、連綿と豪農として新田開発等に努め、頂点を迎えた明治期前半には全国の納税額で2位となる。
敷地は8,000坪、建坪は600坪に及ぶ明治期前半に建てられた大邸宅である。
明治前半が市島家の頂点となったのは、私の推測だが
・明治に入って新田開発が大っぴらにできるようになった
・信越線の開業前で、日本海側と関東地域の物流にも江戸時代と大して変わらない水運に頼らざるを得ず、この地域の影響力が相対的に高かった
というような理由があるのではないだろうか。
賓客しか利用することを許されなかった欅造の正面玄関。今日の見学客も、当然ここから上がることは許されない。
正面玄関を上がり、池の上に設けられた長い長い渡り廊下の突き当りには、奥座敷とでも言うべき湖月閣(明治30年竣工)が存在したのだが、
惜しくも平成7年4月の地震で倒壊してしまった。
湖月閣座敷の靴脱ぎ石辺りから見た庭園。ちょっと大雑把な感じで、あまり趣味性というかこだわりのようなものが感じられないのは何故なのか。
湖月閣から庭道を歩いて行くと、先ほどの渡り廊下に並行した露地に戻ってきた。
路地は水月庵と呼ばれる池水の上に建造された茶室に至る。
軒を支える桁は流石の一本。斜めに傾ぐ松は、昔はさぞやのものだったのではないだろうか。縁側の下方向に池水が見える。
水屋から坪庭のような庭越しに、当時としては珍しい洋間の書斎が見える。
敷地は8,000坪、建坪は600坪に及ぶ明治期前半に建てられた大邸宅である。
明治前半が市島家の頂点となったのは、私の推測だが
・明治に入って新田開発が大っぴらにできるようになった
・信越線の開業前で、日本海側と関東地域の物流にも江戸時代と大して変わらない水運に頼らざるを得ず、この地域の影響力が相対的に高かった
というような理由があるのではないだろうか。
賓客しか利用することを許されなかった欅造の正面玄関。今日の見学客も、当然ここから上がることは許されない。
正面玄関を上がり、池の上に設けられた長い長い渡り廊下の突き当りには、奥座敷とでも言うべき湖月閣(明治30年竣工)が存在したのだが、
惜しくも平成7年4月の地震で倒壊してしまった。
湖月閣座敷の靴脱ぎ石辺りから見た庭園。ちょっと大雑把な感じで、あまり趣味性というかこだわりのようなものが感じられないのは何故なのか。
湖月閣から庭道を歩いて行くと、先ほどの渡り廊下に並行した露地に戻ってきた。
路地は水月庵と呼ばれる池水の上に建造された茶室に至る。
軒を支える桁は流石の一本。斜めに傾ぐ松は、昔はさぞやのものだったのではないだろうか。縁側の下方向に池水が見える。
水屋から坪庭のような庭越しに、当時としては珍しい洋間の書斎が見える。
久しぶりの訪問になります。
この邸宅はすごいですね。
どんだけ敷地があるんだ、
って感じです。
その割に庭園は…。
んー、お金はあっても、
文化的にはイマイチだったということでしょうか。
それはそれとして、
一度は見ておきたい邸宅です。
でも、新発田市では、
なかなか訪れる機会には恵まれそうもないなあ。
来訪を、ひたすらお待ち申し上げておりました。
市島家のピークは明治前半で、その後は緩やかな下り坂。その上戦争直後の財産税が、家全体の規模を大きく変えたようです。明治の最盛期には、大変な文化を築いていた家なのかもしれませんが、たとえそれが有ったとしても維持することは不可能だったようです。
それでも、王紋酒造として日本酒文化には、それなりに貢献されている家のようです。
かつては沼のような水はけの悪い土地を、見事な水田に開発した功績は不滅でしょう。
にひぶこさんの思い出の場所だったのですか。
明治以前は一面の湿地だったようですが、今は見るものがいろいろある土地ですよね。
市島邸の写真をアップできて、よかったです。