喜多家 石川県宝達志水町 2009-10-23 20:59:57 | 古民家、庭園 喜多家は江戸後期には大地主となり、加賀藩独特の制度の十村役を三代にわたって務めた。 能登半島を三分の一位北上し、また戻ってきたので、喜多家に到着した時には日は西に傾きかけていた。 母屋は陣屋の機能も兼ねていたそうだが、あまり目立たないように地味に作られている。ただ、入口は、身分に応じて4か所もある。 随分、ややこしい時代だったのだろう。 御座の間の奥には庭があるが、今ではこれぞという程のものは残されていない。 母屋の手前の表門は茅葺で、それらしい姿を残している。 #国内旅行 « 天竹 築地 | トップ | サイノ テイクアウト・カレー »
2 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (j-garden) 2009-10-24 06:15:28 喜多家が全盛のときは、庭園は、どれくらい整備されていたんでしょうね。庭石とかは、どんどん持ち出されてしまうので、今残されているだけではないんでしょう。それでも、長い年月を経過してきた貫禄のようなものは、感じられます。 返信する Unknown (kikouchi) 2009-10-26 21:52:36 時々あるのですが、この屋敷でも家を継ぐべき立場の方から説明を聞くことができました。この陣屋兼庄屋は、あまり目立たないように地所を掘り下げて、そこに屋敷を造ったそうです。そうやって、その当時にどの位の富が蓄積していたか、なるべく隠そうという雰囲気が感じられました。恐らく庭も、ちょっと見には地味に、しかし素晴らしい石なども立てたのでしょう。それを持っていくのも、随分と用意がいりそうですが。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
庭園は、
どれくらい整備されていたんでしょうね。
庭石とかは、
どんどん持ち出されてしまうので、
今残されているだけではないんでしょう。
それでも、
長い年月を経過してきた貫禄のようなものは、
感じられます。
この陣屋兼庄屋は、あまり目立たないように地所を掘り下げて、そこに屋敷を造ったそうです。そうやって、その当時にどの位の富が蓄積していたか、なるべく隠そうという雰囲気が感じられました。
恐らく庭も、ちょっと見には地味に、しかし素晴らしい石なども立てたのでしょう。
それを持っていくのも、随分と用意がいりそうですが。