蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

後の雪後庵  熱海市鳴澤

2014-01-07 23:45:54 | 古民家、庭園
谷崎潤一郎は、戦前から京都に本宅を構え熱海に別荘を持つ今でいうマルチハビテーションを実践していた。
しかも、京都も熱海もそれぞれ次々家を買い替えるという、引っ越し道楽のようなことであったようだ。そのなかでも最も贅をこらしたのが昭和27年から31年にかけて京都の家とした後の潺湲亭のようである。しかし、京都の冬の厳しさもありその邸宅は昭和31年にその家を売却した。
しかし同時並行して昭和29年から鳴澤の別荘を所有しており、昭和31年以降はこちらが本宅となった訳である。

谷崎の細雪は戦争中は軍部に睨まれて(そりゃ当り前だとも思うが)、自費出版の形で一部しか公開することができなかった。それが戦後にはベストセラーとなり、谷崎にはそれなりの印税が入った。戦後の熱海の邸宅を雪後庵と呼ぶのは、その印税が山荘購入の資金になったからに他ならない。谷崎は最初熱海市仲田に「先の雪後庵」を持ったが、昭和27年に後の雪後庵に転居する。
この時代の作品の「台所太平記」の第十四回から第十九回にかけて、この後の雪後庵の様子が、谷崎家の女中さんたちが活躍する背景として登場する。
谷崎は「台所太平記」の完成後も、昭和38年までここを本宅としていた。


昨年12月、谷崎がこの舘を売り払って50年後に後の雪後庵を訪ねてみた。
国道からおよそ200メートルの急坂を興亜観音へ向かって登り、さらに石段を六十段登るのは「台所太平記」の記述そのままであった。
ただ、その昔に谷崎が住んでいた時に賑わっていたであろう邸宅は何十年も見捨てられ、自分の足音もはっきり聞こえる静寂のなかに、荒れ果てた姿となっていた。
個人の所有になるものであるので、観光資源にする訳にいかない事情は理解できるがあまりに寂しい姿に見えた。
不思議な事に、この家の前に佇んでいた時、突然ソプラノのアリアを練習する声が遠くから響いてきた。無人である筈の邸宅の中から誰かに見られているかんじがして、ぞっとした瞬間であった。


後の雪後庵の前の石段の傾斜は厳しい。
谷崎自身も、松子夫人も、自らの足でこの石段を上り下りしたと思うと、特別な感慨を感じる。




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