須坂にある田中家本家は何度か訪ねたことがあるのだが、本当に行く度に圧倒される。また、毎回新しい知識を仕入れることができる。今回も、非常に意義深い訪問となった。
幕末、明治初年の騒動により、田中家の屋敷も焼き払われた。残ったのは、わずかに塀と日本庭園、そして灰かぶりと呼ばれる名物の茶碗だったそうだ。しかし、同じ時期に騒動は北信では多発し、そのために信州中野は長野県の県庁所在地になれなかったと言われるほどの事が頻発したらしい。この田中家も、一時の騒動くらいではビクともしないようで、その後も流石ともいうべき家屋に住んでいたようだ。
須坂藩主の愛でたる庭は、今は夏姿で背後の立木との区別がつきにくい。それでも、この3つ組になる石は、相当な雰囲気を醸し出す。
池の端にある、はまり役の老松のはずが、身のこなしが余りに軽く「現役」とも感じられる姿。
池に面する「清琴閣」が、夏のこの時期にだけ、特別公開されていた。じつは、この清琴閣は約2年前にも実に短期間のみ特別公開されたのだが、それと知って足を運んだ人はごく僅かだったのではないかと思う。使われている材も素晴らしいが襖絵など第一級の絵師が担当し、その保存がまた凄い。その襖絵が瑞々しいという感じで、まるで昨日描いたかのように残されている。ただし、清琴閣内部は撮影禁止なので写真はありません。まあ、著作権の問題もあるし、当然でしょう。
「清琴閣」を訪れる、この日最後の客となったらしく、Tさんと二人でこの建物をじっくりと味わうことができた。さらにラッキーなことに、案内役の学芸員の方も、興味があるのでしたらとことんまで付き合いましょう、という感じのスタンスで、我々の突っ込んだりボケたりの質問に、本当に誠実に答えて下さった。
清琴閣から渡り廊下を隔てた座敷で、干菓子とお茶をいただく。開け広げの座敷から、清琴閣は手が届くように見えるが、本当に格の高い楼閣で、当時の女性の当主でさえも、自身の婚礼の機会以外には足を踏み入れることが出来なかったという。
幕末、明治初年の騒動により、田中家の屋敷も焼き払われた。残ったのは、わずかに塀と日本庭園、そして灰かぶりと呼ばれる名物の茶碗だったそうだ。しかし、同じ時期に騒動は北信では多発し、そのために信州中野は長野県の県庁所在地になれなかったと言われるほどの事が頻発したらしい。この田中家も、一時の騒動くらいではビクともしないようで、その後も流石ともいうべき家屋に住んでいたようだ。
須坂藩主の愛でたる庭は、今は夏姿で背後の立木との区別がつきにくい。それでも、この3つ組になる石は、相当な雰囲気を醸し出す。
池の端にある、はまり役の老松のはずが、身のこなしが余りに軽く「現役」とも感じられる姿。
池に面する「清琴閣」が、夏のこの時期にだけ、特別公開されていた。じつは、この清琴閣は約2年前にも実に短期間のみ特別公開されたのだが、それと知って足を運んだ人はごく僅かだったのではないかと思う。使われている材も素晴らしいが襖絵など第一級の絵師が担当し、その保存がまた凄い。その襖絵が瑞々しいという感じで、まるで昨日描いたかのように残されている。ただし、清琴閣内部は撮影禁止なので写真はありません。まあ、著作権の問題もあるし、当然でしょう。
「清琴閣」を訪れる、この日最後の客となったらしく、Tさんと二人でこの建物をじっくりと味わうことができた。さらにラッキーなことに、案内役の学芸員の方も、興味があるのでしたらとことんまで付き合いましょう、という感じのスタンスで、我々の突っ込んだりボケたりの質問に、本当に誠実に答えて下さった。
清琴閣から渡り廊下を隔てた座敷で、干菓子とお茶をいただく。開け広げの座敷から、清琴閣は手が届くように見えるが、本当に格の高い楼閣で、当時の女性の当主でさえも、自身の婚礼の機会以外には足を踏み入れることが出来なかったという。
鯖江でもこんなすごいお家を見せていただく機会に恵まれました。
kikouchiさんが来られた時のことを想定して、
店主と仲良しになれましたので、
次回は必ずご案内できるものと思いますよ~
http://onmyojitatsuya.seesaa.net/article/105702008.html
このお宅の座敷の障子を開け広げて、畳でゴロゴロしたら、最高に気持ちがいいでしょうね。