:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★「菩提樹」西のふるさと、東のふるさと(そのー2)

2024-04-22 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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菩 提 樹

西のふるさと、東のふるさと 

(その-2)私はなぜマカオに行ったのか

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 私は、2月4日にマカオに着いていた。中国圏は春節(旧正月)の直前だったが、すでに人々の移動は始まっていた。

 

16世紀のアジアの宣教の拠点 教会の繁栄を偲ばせる遺跡

ファサード左側アーチの上にはイエズス会の紋章が

教会の壁には聖フランシスコ・ザビエルの足跡をたどるパネルが

 

しかし、民間信仰はやはり道教か?

 

  康大真君         福徳正神

万民是保 道法自然 

春節とあって公園にも張りぼてが

 

しかし、現代最強の神はなんといってもカジノのお金の神様

本物の三分の一のエッフェル塔がカジノの玄関に

昼間そのテッペンに登って見まわすと

カジノと黄金のホテル

 どこを向いてもカジノとホテルが林立している 日本もこんな景色を後追いするのか 向学のためにディーリングルームにも入ってみたが、写真は厳禁だった

大谷の通訳ではないから賭けるお金は持ち合わせなかった

 

広い河ほどの海面の目と鼻の先には大陸中国の巨大な建物が 中国上陸を志したフランシスコ・ザビエルの終焉の地ー上川島ーには行かなかったが、やはり中国本土とは至近距離にあったと思われる

 

ほうきの柄の先にゴミ袋を下げ、カジノの前の道路を清掃するおばあさん

 

 さて、私はなぜ今頃マカオに行ったのか? この問いに答えを出さないと、この一連のグログは終わらない。

 それは、私の司祭の召命の歴史に関係がある。もっと具体的に言えば、高校三年生のとき受験を目前に参加した黙想会の話にさかのぼる。大学受験に向けて精神面を強化するための合宿ぐらいの軽い乗りで参加した「黙想会」は、実は、真面目で純真なカトリック信者の生徒をターゲットにした「イエズス会への入会志願者獲得のために仕組まれたリクルート洗脳合宿」だった。イエズス会に入って生涯を神様に捧げることこそ、洗礼を受けた日本男児の最高の生き方だ、という想念を注入する集団催眠が目的だったと言ってもいいかもしれない。

 真面目な私は、コロッと洗脳されて、イエズス会入会への固い決意とともに家路についた。父親の期待を一身に背負い、自宅から通学できる関西の国立大学の理系の受験勉強の仕上げに入っていたはずの私が、帰宅するなり、開口一番「ぼくは東京の上智大学を受験してイエズス会に入ります。関西の大学の理系には進みません」と宣言したのだから、父親は仰天して腰を抜かした。息子に裏切られたと思ったに違いない。

 東大法科在学中に高等文官試験にパスし、飛ぶ鳥を落とす勢いの内務省に天皇から直接任命を受ける「勅任官」として入省。中でも、特にエリートが進む警察畑で幸先のいいスタートを切り、当時すでに大蔵次官であった兄貴の贔屓もあって、父は入省同期の間では頭一つ先んじてとんとん拍子に出世したことが仇になった。第二次世界大戦に敗北し、占領軍のマッカーサー元帥の指令で公職追放の憂き目に会い、若い愛妻には肺結核で先立たれ、踏んだり蹴ったりのダブルパンチを喰らい、戦後の大混乱の中、3人の幼い子供を抱えて無職・極貧のどん底の絶望を体験した父は、世間を学歴と肩書だけ渡ろうとする奢った生き方を、敗戦という社会の激動の前にあっけなく狂わされた苦い経験から、長男には社会の激変にも耐えて生き延びられる技量を身につけさせようと、理工系への進学を私に期待したが、父のその願いは見事に打ち砕かれた。・・・と、こんな調子で詳しく書き連ねるなら、とんでもない長い話になって、「なぜ今マカオへ?」の答えにたどり着くのに、何回ブログを書けばいいのが分からないことに気がついた。一回で終わらせるためには、話を極端に端折らなければならない。

 さて、翻意を促す父の声を無視して、上智大学でラテン語と一般教養を済ますと、広島の修練院へ進んだ。天国のような幸福な生活だったが、半年もすると疑いが生じた。洗脳の麻酔がそろそろ切れてきたか?このまままっしぐらに進んだら、世間知らずの独善的エリート神父になってしまうに違いないと思った。また、カトリックの神父は生涯独身のはずだが、尊敬する先輩が突然神父を辞めて結婚したという風の便りにも、自分の未来を見た気がした。修練院を飛び出して、東京に舞い戻ると、一般学生として中世哲学科を博士課程修了まで進み、研究室の助手をしながら論文を書こうとしていた矢先に、上智大学にも左翼学生運動の騒ぎが襲った。若い学生諸君の主張に共感を表明したら、大学当局から危険分子として睨まれ、助手を首になった。すると、戦前から日本にいたドイツ人神父たちが、失業した私をドイツの銀行に裏口から押し込んだ。国際金融業は刺激的で面白かった。ドイツのコメルツバンクに始まり、アメリカのリーマンブラザーズ、さらにイギリスの某マーチャントバンクを渡り歩いた。

 「人は、理由なしには嘘をつかない」という智恵に満ちたラテン語のことわざがあるが、仕事やプライベートで私はつまらない見栄や取り繕いのために度々嘘をついたし、少しは善いことをしたかもしれないが、悪いこともけっこう沢山しながら面白おかしくビジネスに没頭した。教会からは足が遠のいていた。ほんの2-3年の腰掛けのつもりが、アッと気が付いたらー浦島太郎ではないがー白髪が目立ちはじめた40代半ばに達していた。シマッタ!!本物の神父になりたくて、しばしの体験修業のつもりが、うつつを抜かし過ぎた。

 もう手遅れか?と、焦って教会の門を片端からたたいてみたが、いずれも固く閉ざされていた。後ろから悪魔が、「バーカ!今さら何の悪あがきか。お金の神様のもとに戻っておいで。お前に高給を払ういい銀行を紹介してやろう!」と誘ってくるが、その手に乗ったら私の魂は地獄行きだと思った。前に進めず後戻りもできなくて、左右を見たら、そこにバブルで活気にあふれた山谷や釜ヶ崎の日雇い労働者の世界があった。

 山谷での懺悔と浄化の時を経て、やっと巡り合ったのが高松の深堀司教様だった。しかし、事は思い通りにいかないものだ。今度は、東京の大神学校が私の受け入れを断ってきた。東京がだめなら、ローマしかなかった。ローマには聖教皇ヨハネパウロ2世の治世下にキコというスペイン人のカリスマ的存在=新求道共同体の創始者=の精神に基づいて新設されたばかりの「レデンプトーリス・マーテル神学校」があった。そこに住み、教皇庁立のグレゴリアーナ大学で神学を学び、世界の教会堂の母と言われるラテラノ大聖堂で助祭に叙階され、そのあと、高松の司教座聖堂で晴れて司祭に叙階された。すでに54歳になっていた。私はこの司教様とその後継司教に生涯の従順を誓った。

 司祭叙階後、神学教授資格を取るために再びローマにもどった。ちょうどそのとき、日本の全司教が5年に一度のアドリミナ(恒例の教皇表敬訪問)のためにローマで揃い踏みをした。その時、深堀司教様は新求道共同体の関係者から、私が学んだ「レデンプトーリス・マーテル神学校」の姉妹校の誘致を勧められた。司教様は気迷って、私に、「谷口君。こんな話があるがどう思うかね」と意見を求められた。「それはお受けするべきでしょう」と私は即答した。司教様は「なぜそう思うかね」と問い返された。「それは、高松司教区にはカトリック大学もなく、人材もなく、お金もない、無い無い尽くしの日本最弱小司教区だから、神様が働かれるのに最も相応しい場所だからです」と答えた。司教様はアドリミナの期間中に教皇様と個人面談され、「自分の教区にレデンプトーリス・マーテル神学院の姉妹校誘致の勧めを受けているが、教皇様はどうお考えですか」とお伺いを立てられた。そして教皇様は「それはいい話だ、ぜひ進めなさい」と、背中を押された。

 教皇様のお墨付きをもらった司教様にもう迷いはなかった。神学校設立に関する教会法第237条の第1項には、「各教区は可能かつ有効である限り大神学校を有しなければならない」とある。これが基本原則だ。ただし、第2項には「しからざる場合には、聖なる奉仕職を目指して準備する学生は他の神学校に委託されなければならない。又は、諸教区共立神学校が設立されなければならない。」とある。深堀司教は同条文の第1項に則り、ローマ教皇の励ましを受けて、正当かつ合法的に高松教区立として「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の設立を宣言された。

 しかし、日本の大方の司教たちの目には、その決定が時流に逆らった分不相応な計画と映り、皆一様に、早晩挫折するにちがいないと冷ややかに傍観を決めた。当時、日本のカトリック教会では、九州・沖縄の6教区が、教会法第2項に則って合同で「諸教区立大神学校」を福岡に持ち、北海道、本州、四国の10司教区のために、東京にもう一つの「諸教区立大神学校」があった。そして、今後の司祭召命の減少と教勢の衰えを見越して、両大神学校を統合した「東京大神学校」一校体制に移行する長期的展望に関する日本司教協議会の一般的了解があった。

 私が神学校教授の資格を取って高松に帰ってきたときは、高松の神学校はまだ貸しビルで運営されていて、毎月の家賃支払いでかなりの赤字を垂れ流していた。神学校の建設用地として広い土地が購入されてはいたが、教区の資金はそこでほとんど底をつき、建物建設の目途は全く立っていなかった。教区の会計主任になったばかりの私は、このままでは深堀司教が定年で引退された後に誰が司教になっても、赤字の神学校の維持は不可能と判断して、必ず閉鎖すると読んだ。日本中の司教様たちも一様に、深堀司教の分不相応な「夢想」に始まったこの神学校は、放置しておけばやがて消滅するのが必定で、全く相手にするに足りない、と冷ややかに無視していたに違いなかった。

 実は、このことと私の今回のマカオ行きが深く関係しているのだが、それをいま書き始めればまた長くなるので、その詳細は次回に割愛することにしよう。

 このテーマ、あと一回で終わることを誓います。

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★ 最後の徹夜祭

2024-04-07 00:00:01 | ★ 復活祭の聖週間

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最後の復活徹夜祭

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 私は前回のブログ〔「菩提樹」西の故郷、東のふるさと(そのー1)〕の最後に「なぜ私が急にマカオへ行く気になったのか、気になりませんか。それは、次回のブログ「菩提樹」(その-2)であらためてお話しすることにいたしましょう。」と書いたのに、復活祭を目前に、その他の事情も手伝ってなかなか筆が進みませんでした。そして、とうとう今になってしまいました。それで、「菩提樹」(その―2)は後回しにして、ひとまず復活祭風景を描いてみましょう。

 今年の復活の徹夜祭は、3月30日(土)の深夜に、東京の八王子大学セミナーハウスでおこなわれました。深夜の11時過ぎに始まって31日未明の4時半ごろまで、ほぼ5時間の長丁場でした。普段は夜は寝かされる子供たちも、この日ばかりは、昼寝をたっぷりさせられて、夜通し起きて過ごすことになります。

 ああ、これが東京での最後の徹夜祭になるのか、と思うと万感胸に迫るものがありました。真っ暗闇にまず復活のローソクに火をともし、そこからみんなが次々と手元のローソクに火を移していく光の祭儀は、世の救い主、神の子キリストによってもたらされた信仰の火が人々の心に伝えられ広まっていくのを象徴しています。とても神秘的な沈黙劇です。

 その中を、キリストを象徴する復活の大ローソクを高く掲げた私は、「キリストの光 ♫」と歌うと、一同は「神に感謝 ♫」と歌って答えます。それを音程を上げて3度繰り返しながら、私は会衆の中をゆっくりと進みます。

 

 

 その後、救いの歴史をたどる、新・旧約聖書から取られた長い九つの朗読が続きました。先ず創世記第1章「天地創造」に始まり、アブラハムによる息子イザクの生贄、出エジプトの物語、イザヤの予言、エゼキエル書、・・・パウロの書簡、そして福音朗読まで・・・

 

 

 交代で読まれる朗読のあいだ、後ろに座っている私の姿は、このアングルでは朗読台と祭壇の上のローソクの間にちょっと見えるだけで、ほとんど隠れています。この夜、福音だけは、私が朗読台からメロディーをつけて歌います。

 

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 その後、毎年の復活徹夜祭の慣例にもとづいて、今年も満1歳前後の3人の赤ちゃんの洗礼式が行われました。

 

 

 素っ裸の赤ちゃんを高くかかげ、私は、父と、子と、聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」、と叫びながら、ザブーンと勢いよく赤ちゃんを3度水に沈めます。今年は3人とも泣かなかった。洗礼盤を取り囲んでそれを眺める子供たちは、大喜びではやし立てます。ちょっと大きな女の子たちは、私も赤ん坊の時あれをやられたのかと想像して、恥ずかし気です。洗礼は罪に汚れた古い人間が水に沈められて死に、復活の命を身にまとって新たに生まれることを象徴しています。ただ額に水を注いで清められるだけではありません。私の後ろには先ほど火を灯したばかりのま新しい復活の大ローソクが。

 それにしても、もっといい写真があるかと思ったが、最近はみんなスマホで動画を撮っているので、私がブログで扱える静止画像をくれる人はほとんどいませんでした。

 金曜日の午後3時から徹夜祭が終わる日曜日の未明まで断食していた一同は、ラマダン明けの回教徒さながらに、持ち寄りとケータリングのご馳走のアガペー(お食事会)でお腹を満たし談笑し、夜が白むころ、キリストの復活の確信と喜びに満たされて三々五々家路につくのでした。これぞ、キリスト教信仰の原体験というべきでしょう。

 さて、来年、私はどんな復活祭を祝うことになるのでしょうか。

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★ 「菩提樹」 西のふるさと、東のふるさと (その-1)

2024-03-16 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=

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菩 提 樹

西のふるさと、東のふるさと 

(その-1)

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 私は今年の2月中旬香港のお隣のマカオに行ってきました。1964年にフランスの貨客船に乗ってインドへ旅する途中、初めて寄港し上陸した「外国」が香港でした。その時に強烈な印象は、私のブログの「インドの旅から」シリーズでお読みいただけます。

 しかし、マカオは今回が初めてでした。そこで私は、思いがけず菩提樹という札を下げた巨木をたくさん見ました。日本では大きくそびえる楠(くすのき)を知っていますが、菩提樹はあまり見たことがなかったような気がします。

 

幹には「假菩提樹」のエチケット    同じエチケットを付けた街路樹

 菩提樹と言えば、すぐ心に浮かぶのはホイヴェルス神父様です。師はさまざまな機会に結構な美声で、シューベルトの菩提樹の歌を歌ってくださったからです。昭和の最後の雲水と呼ばれた曹洞宗の澤木興道老師にホイヴェルス師をお引き会わせしたときも、師は老師に菩提樹の歌を歌って聴かせ、二人はたちまち旧友のように親しくくつろがれたのを今も忘れることは出来ません。

 そのホイヴェルス師は、「菩提樹」という題の一文を残しておられます。短いものですので、味わってお読みください。

「菩提樹」

ホイヴェルス著「人生の秋に」から

 百科事典を見ますと、菩提樹を三つの点でほめています。第一に、その樹の勇ましい姿のために。菩提樹は、たまに25メートルから30メートルまでもそびえるのです。第二は、その花から取れるおいしい蜂蜜のために。第三は、そのやわらかい材質のために。木彫師は菩提樹の材質を好んで、聖母の御顔を掘るためには最もふさわしい材質だといいます。

 私の父親も菩提樹が好きでした。父親は青年時代に、家の東に一本、南に二本、西に一本、菩提樹を植えました。西に植えた樹は特に繁っていました。私はギムナジウムのとき、その樹と生家を水彩で描き、その絵を遠方のウルスラ会の寄宿舎にいた妹に送りました。それは妹のホームシックを癒すためだったのです。また学校では、菩提樹の歌も学びました。“Am Brunen vor dem Tore・・・” この歌は私の一生の道連れになり、日本にまでついてきました。はじめ私は、日本には菩提樹もその歌もないものと思っていました。しかし今からほとんど半世紀も前のこと、ある日、立川駅のプラットホームで、ハイキングに行く若い人たちがこの歌をうたっているのを聞きました。私はとても嬉しく思いました。

 昭和のはじめ頃、方々の大学で講演会がはやり、私たちも全国をめぐって唯物論の魅力とその矛盾について話をしました。ときどき話がうまくいかないと、結びにリンデンバウムの歌をうたいましょうかと、私は聴衆にききました。皆、急に嬉しそうな顔をして、どうぞよろしくお願いいたしますと言い、私がうたうと皆もいっしょにうたいました。このことは数年もつづいて私の習慣になりましたが、いつも同じ歌ですから、私はすこし恥ずかしく思いました。たまたま二、三年前、ベルリンのフィルハーモニーの団員三人が知人からのよろしくを伝えにやってきて、いろいろ話をしていました。その中の一人が、「人々はよく私たちにドイツの歌曲をうたってほしいと頼むが、そんなとき、一体何をうたったらよいだろうか」と言いました。いま一人が、「さあ “Am Brunen vor dem Tore …" はどうだろう」と答え、三人とも賛成しました。私はこれを聞いて、ちょっとびっくりしました。有名な音楽家でも、このような単純な歌をうたうなら、私がうたってもおかしくはないはずだと思いました。三人の音楽家はすぐに鞄をあけて、この歌の楽譜があるかないかを調べました。私はこれをみて、私なら楽譜がなくても困らないと思いました。ともかくこれから後は、安心してこの歌をうたうつもりになりました、声のつづくかぎり。

 しかしその声が問題になったのです。あるとき聖堂で、ミサの説教中に突然声がでなくなりました。私はルカ伝の、ザカリアの話を思いだして彼の真似をしました。手をあげて口をさし、声が出なくなったと合図し、説教壇をおりて低い声でミサを終わり、また唱えました。そして、これで “Am Brunen vor dem Tore・・・” も終わりになると思いました。しかし不思議なことに、それからしばらくして、ふつうの話は嗄れた声のままでしたが、 “Am Brunen vor dem Tore ・・・” は、たぶん一生涯で一番きれいなはっきりした声でうたえたのです。

 およそ二十年前のことです。桜町病院に勤めていたプンスマン神父は、樹木の専門家でしたので、菩提樹の種を播き、一年経った苗木を私に贈ってくれました。ちょうど秋の頃で、鉢に植えられた一本の苗木は春を待っているところでした。ところが、春になってもなかなか芽を吹きません。夏になってもそのままです。もうなかばあきらめていましたが、ようやく秋のはじめに芽を吹きました。ヨーロッパの種でしたから、日本の気候に慣れるのに時間が余計にかかったのでしょう。しかし、その後なかなか一本の幹も伸びてこず、小さな枝ばかり出していました。けれども、今年になってやっと一本の幹らしいものがのびてきました。大きさは一メートルにも及びませんが、盆栽のようなものです。満足な菩提樹になるまでには、あと二百年も三百年もかかるでしょう。その時には、私の西のふるさとドライエルワルデと、東のふるさと東京で、“Am Brunen vor dem Tore ・・・” が社会の中にこころよく響いたら幸いだと思っています。

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 この短編を読んで、シューベルトの歌曲「冬の旅」から、フィッシャーディスカウの憂いを秘めた「菩提樹」歌声聞こえてきませんか。ホイヴェルス師はこのドイツ民謡を、講演会で、学生を集めた勉強会で、素敵な声で何回も何回も歌われたものです

     Am Brunen vor dem Tore  泉に添いて

     Da steht ein Lindenbaum        茂る菩提樹

     Ich träumt in seinem Schatten    したいゆきては

     So manchen süßen Traum       うまし見つ

     Ichi schnitt in seine Rinde       幹には彫(え)りぬ

     So manches liebe Wort         ゆかし言葉

     Es zog in Freud’ und Leide       うれし悲しに

     Zu ihm mich immer fort        訪(と)いしその陰

 

 目を閉じると、ホイヴェルス神父様のなつかしい歌声が心に響きます。

 さて、私が師の「菩提樹」について書く気になったそもそものきっかけは、今回のマカオへの短い旅でたくさんの「假菩提樹」の樹を目にしたからでした。

 それにしても、なぜ私が急にマカオへ行く気になったのか、気になりませんか。それは、次回のブログ「菩提樹」(その-2)であらためてお話しすることにいたしましょう。

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★ 女について

2024-03-06 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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について

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ホイヴェルス師は「女について」以下のようなことばを のこされました。

 この間、新聞のアンケートがあって、あなたはもういっぺん世の中に生まれてくるならば、男と女といずれを選ぶか、との問いに対して男の98パーセントは男の方を望む。反対に、女の方では60何パーセントが、男の生活の方を選びました。

 現代の哲学者、故マックス・シェラーは、一時は、とくに美しくカトリック的な思想を世の中に生かしたのですが、晩年には女性について失敗し、再び無神論に陥って、男女についてつぎのような説を宣言しました。「近ごろは女の解放のために女の人は誇って、あの女はすぐれた人間だなどというが、それはつまらない話だ。メンシュ(人間)というのは男ばかりにあたることばだ」と。こうして彼はアリストテレスの、女は未完成な男だ、という意見におちてしまった。

 シュプランゲル博士は言われました、青年は自分の力で自分の行くべき道をひらいてゆくが、娘は自分が将来どうなるかという心配のために、若い年ごろはちょっと嫌な気持ちになると。女子が大学を卒業し、社会のあらゆる分野で男と競争して優位を保つとしても、はたして自分の心はほんとうに満たされるであろうかという疑問は、なお残ります。

 ここまで平気でものを述べてまいりましたが、急に心配が一つ心に浮かんできました。私の国のウェストファーレンのある一人の婦人は、本科生として、しかもミュンヘン大学で四年間神学を勉強しました。非常に珍しいことであります。女性は詩人にもなり、あるいは、国を治める女王にもなりましたけれども、この神学生のように本気で神学を勉強した女性が、どこかにいたでしょうか。

 ウェストファーレンの婦人たちは、以前、愛子会(現・聖心の布教姉妹会)のテレジア会長(愛子会の創立者)にかんして書きましたように、ウェストファーレンの男よりも元気なものです。たとえばドロステ=ヒュルスホフは、ドイツ第一流の女の詩人であってウェストファーレンの人です。そこでこの神学を勉強した先の婦人は、文学も修めまして、日本に来て、東京の大学で教えました。ある日曜日のミサで私は従順について説教しましたが、たとえば子供は親に対し、学生は先生に対し、妻は夫に対し・・・などと。これをきいたその方はたいへん不満をおぼえられました。あとで、どうもホイヴェルス神父の神学は、三十年か三百年ぐらい遅れているというのです。私も一生懸命に反省するつもりでありましたが、その方は後ほどドイツへ帰り、そこで女性問題を取り上げて、著書を発表なさいました。Das Bild der Frau heute『今日の女性像』という題名です。その本をよんでみて二つの点が目立ちました。

 一つは、女という人間は男から理解することはできない。もっと根本的に人間の立場から見直されなければならない、ということです。そして、本人は立派に三、四人の子供の母親であるにもかかわらず、母の使命についてはほとんどふれていません。

 二番目の点は、神学のほうで、まったく新しく女の問題を問わなければならないとというのです。この本はある男の神学者によって批評され、たしかにいろいろの問題を喚び起こしたが、解決の道はまだ知らされていない。とくに、生物学の方から見た母の使命にふれないなら、何も女の本質的な説明にいたらないではないか。それについては、旧約聖書のはじめの方で、女についての賢いことばが見いだされる。それは、女は男の助けであり、生命の泉である、と。じつに今日でも、心理学者の女性心理の謎にかんする研究はまだ十分ではない。女性みずからもこの謎を解くことはできなかった。やはり対立した男からこそ、この観察と研究がなされるべきものだ、と。

 ちょうど、前にも申しましたように、日本人は自分のみを見て、日本人の心理を十分申し述べることはできますまい。いわゆる対立によって知識は光り輝きます。人間についても、われの対立によって人間はみずからを自覚するのであります。

 私の意見を述べてみますと、女の性質は創造主の特別の深い同情で計画されたものであります。神は弱い者に重い荷物を負わせ給うた。そして、人間の幸福は女によって生まれるのであります。この神の計画に賛成する女は幸いであります。なぜならば、人にとって、神の御旨以上によいものはないからです。ですから、女の人は男の二倍ぐらいの信頼で、神に自分の存在を委ねなければなりません。ミケランジェロはアダムとエヴァの創造を描いて、みごとに両性の心理の差別を見せてくれました。アダムは眠りから覚めて,眼を力強く上げ、第一に見るものは神の御顔です。エヴァは創造されてからすぐに神のみ前にひざまずきます。手を合わせ、顔を上げたその眼は、存在をいただいたその感謝でいっぱいであります。

 二番目のエヴァはマリアであります。二世紀のイレネウスは、キリスト教の確信として、はじめてこのことを文字に託しました。キリスト教によって、弱きものは特別に認められ、救われたと聖アンブロシウスも言いました。マリアによって女は美化され、キリストによって強められたのです。キリストにおいて、男も女も、同じ人格と価値、同じように神の子、キリストの弟子になります。キリストによって両性は高く揚げられ、男の野蛮的な性質、女の動物的な弱さは(キリストによって)向上し、直されたのです。聖アウグスチヌスによって、この話の結論を結ぶことにいたしましょう。聖人は、ある説教でこう申しました。

  「人間の身体は、創造主なる神からのものである。であるから、わが主キリストが肉身を受くべきものだとしたら、人間から身体を受けるはずである。世の中に、謙遜なものとしていらっしゃるために、むしろ女によって身体を受くべきである。ゆえに、両性に対して、改造の希望を与えるべく、ご自分は男として生まれ、しかも、女によって生まれ給うたのである。原始において、神の創造に悪いことはないということを知らせるために、人間をば男と女として創られた。そしてこの被造物の一つをも決して見捨てない。——見よ、われ(キリスト)は男として生まれた。われはもとより被造物を呪うものではない。罪だけを嫌う。ゆえに、両性はおのおのの名誉を認めよ。めいめいは自分の欠点を改め、双方は救霊を希望せよ・・・。」

 

 ホイヴェルス師は冒頭でマックス・シェラーの例を引いておられますが、思想堅固な哲学者といえども、こと女の問題でつまずくと、神への信仰を失うほどのダメージを受け、誤った男性優位主義に陥ることが有り得るということでしょうか。政治家も芸能人も、そして神父も、女性問題には気を付けた方がいい。

 シュプランゲル博士は男と女の間には身体的・生理的な性差のみならず、心理的にも実存的に本質的な性差が存在していることを示唆しているようにも思えます。

 ホイヴェルス師の時代までは、神学の象牙の塔は男世だけの世界だ、という風潮が支配的だったのでしょうか。師は、女性が社会のあらゆる分野で男と競争して優位に立とうとする意志に対して疑問を投げかけています。

 そんななかで、同郷、ウェストファーレン出身で日本で修道女会を創設した「御園のテレジア」会長は別格で、師と深い極めて親密な友情で結ばれた人ですが、私を日本各地に連れ歩き、古い友人を次々と紹介してくださった師でしたが、このテレジアさまにはついに引き合わされることなく、私にはついに謎の婦人のままに終わりました。

 上に書かれているミュンヘン大学で研鑽を積んだ稀代の女流神学者は、どうやらテレジアさまとは別人のようで、これも日本で師と親交のあった人のようだが、彼女はホイヴェルス師の女性に関する神学論を30年、いや、300年時代遅れと酷評したようです。

 しかし、師は反論します。女には子供を産むという、母として、命の泉としての使命がある。この点を無視し、捨象して男と対等な地位と権利をひたすら追求しても、女というものを理解しその存在の神秘を解き明かすことは出来ない、と。

 そもそも、神は、土(アダマ)から人(アダム)を形づくり、エデンの園に住まわされた。そして、彼を深い眠りに誘い、彼の胸から抜き取ったあばらで女を造り上げ男のパートナーとされた。目覚めたアダムは、彼女を見るや「これこそ私の骨の骨、私の肉の肉、男(イシュ)から取られた女(イシャ―)と呼ぼう。」と喜びの声をあげ、アダムは女をエバ(命)と名付けた。

 神は人に園の中央に生えている善悪の知識の木の実を食べたら死ぬといわれた。しかし、蛇(悪魔=うその父)はエバに「神は嘘つきだ。食べても死なない。食べて神のように善悪を自分で決められるようになると困るからそう言ったのだ。」という大嘘をついた。「神のようになりたい」というのは、今日に至るまで人間に対する最大の誘惑だ。エバはその誘惑に抗しきれず、取って食べ、アダムにも食べさせた。

 悪魔の大嘘を信じて、神の命令に背いて不従順の罪で命の源である神から離反した人間は、命の対極にある死を自分に引き寄せ、その結果、楽園を追われ天は閉じられてしまった。そして、男は額に汗してパンを得、女は苦しんで子を産み、女は男を求め、彼は彼女を支配することになってしまった。これが罪の結果としての男と女の関係性である。だから、基本的人権として男女は平等だというのは自由だが、男女には役割の分担があり、男女の性差は人間性の基本に横たわり、この両極性の緊張関係にこそ人間の本質が見られる。

 聖母マリアを第二のエバと呼んだのは二世紀のイレネウスだと師は指摘する。マリアの存在は単にキリストの死と復活によって贖われた新しい人類の母であるというにとどまらない。処女マリアは幼子イエスを産んだ。幼子イエスは、天地万物の創造主、全能永遠の三位一体の神の第2のペルソナ、神のみことば=ロゴスであり、神である。その神が、神としてのすべての属性を脱ぎ捨て、我々と同じ全き人間としてマリアから肉体を受けて赤子としてこの世に現れた。そして、彼は第2のアダムとなった。

 つまり、マリアはギリシャ語のテオトコス(神の母)であり、神の被造物に過ぎないはした女でありながら、造物主である神の母となった、という驚天動地のパラドックスの主人公となった。

 ホイヴェルス師が女について語るとき、被造物でありながら「造物主なる神の母」となったマリアの存在が意識の背景にある。全ての命の泉となり神の母となった母性に思いをいたすことなしに女について語ることは、決定的な片手落ちであって、問題の本質を完全に見誤ることになる。

 基本的人権としての男女平等を論じるのは勝手だが、男女の根源的な差異と両極姓の間に横たわる緊張関係を忘れ、女が男と対等・同位になることだけに視野狭窄した論議には、妥当性があるとはとても考えられない。その点、LGBTのイデオロギーなどは、錯乱の極みというほかはない。

 ホイヴェルス師の語り口には、神学の世界は男性の神学者に限られた聖域と見なす保守的ニュアンスが感じられないだろうか?1890年に生まれ、87才で生涯を閉じたホイヴェルス師より半世紀若い私の世代は、バチカンの最高の神学者集団である「教皇庁立国際神学コミッション」の約30人のメンバーの中に、5人ほど卓越した女性神学者がいるような時代を生きている。

 私の大の親友のマリアンネ・シュロッサ―博士は、現在オーストリアのウイーン国立大学の神学部長で、前出のコミッションの有力メンバーであるが、今やカトリック神学の分野への女性進出のシンボルとなっている。30数年前に初めて出会った時の彼女は、黒海に注ぐドナウ川の上流の街ドナウヴェールトの出身で、当時ミュンヘン大学の博士課程のまだういういしい女子学生だった。初めて会った時、二人で楽しい東京の休日を共に過ごした。その後、何度もドイツで、ウイーンで、ローマで彼女に会ったが、昨年秋、私は久しぶりにローマで彼女と再会した。その時の思い出は私のブログに書き留めてある。まだ、読む気力のある方は、下のURLをクリックしてください。

★ ローマの休日 - :〔続〕ウサギの日記 (goo.ne.jp)

 

 

 

 

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★「痛み」 ヘルマンホイヴェルス随筆より

2024-02-21 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 「人生の秋に」

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痛み

ホイヴェルス著 「人生の秋に」より

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 痛みというものに、私が初めてぶつかったのは3歳の頃のことでした。春の朝、私は東向きの庭の入り口に腰をかけ、温かい陽の光を浴び、庭の中を眺めていました。その時、まだ学校に行っていなかった兄は、垣根の中の黄蜂の巣を発見しました。彼は長い棹を堂々と運んできて、その巣を攻撃しました。一生懸命それを突っつきましたので、黄蜂は驚き、怒って飛びまわり、一匹はいきなりまっすぐ私の方に飛んで来て頬を刺しました。そのとき考えたことは、――この明るい世の中で、どうしてこんな嫌なことがあるのか、しかもいたずらした兄でなく、どうして私の方へ飛んできたのか?

 いま、私は七十の坂を越えましたが、このような事件は人類において、なおかつ疑問であることを学びました。人はみんな全部が、いずれ痛みという、いやなものに衝突する。詩人の悩みは、世の中で最も美しく栄えているものがどうして滅びるのか?哲学者はつねに存在のどん底を探りながら、痛みは神においてさえある不幸だという。あるいは、神を問題にせず、彼は人間の思想と勇気をもって解決しようと思うのです。たとえば、痛みは生物の保護となり、痛みがないなら、動物も人間も不注意からすみやかに滅亡する。また、苦しみのためにこそ人は強きものとなる。とくに、教育の力で鍛錬をほどこさないならば、たいした人格にならない。いろいろ苦労をした人物は顔まで上品さを示す、といったふうにです。

 また東洋の思想では、とくにものの調和を考え、世界の全体において、もののいいつり合いのために、やむをえないこととして、痛みは必要のものだと説きます。こうしてあきらめの心をつくる。西洋では反対に、たびたび、人の心の中に反感が生まれてくるのです。いつもは神を忘れてしまっている人でも、不幸なときには突然、神を思いだして不平を言います。ちょうど私が、あの黄蜂はなぜ、兄ではなく自分に向かってきたのかと言うように、どうして自分のようなおとなしいものに、このような不幸がおこったのか? と。

 でも、どんなに痛みについて論じましても、二つの塊は残っている。まず、「苦しみ」の数は多過ぎる。とくに罪なき人たちや、無邪気な子供たちが。どうしてこの渦巻きの中に引き入れられるのか?すでに旧約聖書の擬人たちが、この世の中の不公平を見て、よく悩んで神に不平を言いました。現在のフランスにおいて、カミュは無邪気な子供の苦しみに対して失望し、自分もまた自動車に乗って、超スピードで、大木に衝突して死んでしまいました。全ヨーロッパの人たちは、あんなに激しい哲学を述べた人が、そのような事故で死んだことを不思議に思いました。あるいはドイツのシュナイデルという思想家は、晩年、オーストリアのウイーンに行き、そこの戦争博物館に陳列されていたおびただしい武器を見物して激しいショックを受け、どういう気持ちになったのかわからぬまま死んでしまった。

 つぎに最も決定的な塊は、「死」です。死というものは鋭い切っ先です。あの子供の時の象徴的な黄蜂のように刺すのです。人は死によって、すべてのものを奪われる。短いその生涯の楽しみも苦しみも。昔から思想家は死の問題について無理に骨を折りましたが、結論は、単なる哲学で死の意味はわかりません。しかし、人には負けたくない心がありますから、こうした哲学者は哲学上の慰めということばを発明しました。

 その意味は〝慰めのない慰め〟であり、ついには沈黙してしまいます。そこで〝反感のあきらめ〟が生まれ、ここに現代では実存主義者が出てきました。また死との戦いにおいて、ハイデッガーは、人生は死に向かって落ち込む。ゆえに人生は、ほほえみをもって勇ましく死につきなさいとすすめています。けれども死の本当の問題は、単なる死ではない、なぜなら動物も死にます。人間はどのような気持ちで、どんな動機で死ぬのかということが問題です。死んでからどうなるか?もし何もないなら、人生は非常に簡単になります。不愉快になったならば安楽死を考えなさい。何の責任もない。したがって生きているときにも、そこに真の責任はないはずです。死後の問題にだけ真の責任が生まれます。普通の常識的な諺では、「死という病気に薬草はない」と言い、医者もその最後のつとめは、死の証明をするにすぎない。

 では、この痛みはどこからか。確かに創造主の神からでないなら、その起源を知ることができません。肉体の中には大変なこみいった痛みの設備があります。人間の体には、どんなに違ったタイプの痛みがあるでしょうか。心の中にも痛みの設備が立派にできています。神は人間を苦しめるために、そんな名作をおそなえになったのでしょうか。

 信仰の方で、この難問の説明はでてきますが、まっすぐに申しますと、神学上でこの痛みの問題の全部は、その学問をもって明らかにすることはできません。旧約聖書はもちろん、この点で足りない。新約においてキリストは、痛み苦しみなどについて、たくさんの理論をお述べにはなりません。むしろ率直に苦しんでいる存在を土台にして、それを忍ぶことを、自ら手本として見せて、おすすめになりました。

 すなわち、キリストは現実にご自分の苦しみと十字架、その復活とをもって、神のご計画なさった苦しみを弁明なさいました。この点において深い神の愛は、苦しみにさいして最も強くはたらきます。しかし世の中で、人が苦しみの玄義を学び取ることはなかなか困難な仕事です。ですから、多くの人は神との通信なしに苦しみの重荷を運んでいます。ニーチェさえも、「もし神を認めないなら、世界宇宙や世の中の出来事に意味が見いだせず、また、君が出会う苦しみには愛がない」と言っています。

 私たちは神の創られた織物の裏ばかりを見て、永遠の世界が、どんなにすぐれたよいものであるかがわからないでいるのです。この智恵は、キリスト教の国においては民間に生きています。

 たとえば、人に突然の不幸が起こると、「神の御手にふれられた」

 また、「神は傷をつけると薬もすぐつけ加える」

 あるいは「毛を刈りとられた羊には、神は暖かい風を吹かせる」などと。

 また、終わりにおもしろい諺をあげておきましょう。

 神はご自分の手の中のトランプをのぞかせない」

 どんなに哲学、神学がその知恵を尽くしても、世の中のすべてのくるしみの有様はきれいに解決することは出来ません。しかし覚えておくべきことは、「神の愛について失望するな」ということです。それは一番おそろしい誘惑です。神は、悪意をもって人を打つということは、絶対にないのです。

 

 

 この短い随筆を読むと、ホイヴェルス師が当時流行っていた実存主義の哲学に対して、深い興味と洞察をもっておられたことがよくわかります。

 フランスのカミュ、ドイツのハイデッガー、ニーチェなどの名前があがっていますが、その他にもサルトルやベルグソンなども深くよみこまれていました。そして、世に名を成した哲学者の到達した深みや限界を冷静に見極め、ご自分の信仰と詩的直観でバランスよく批判しておられる点では、それらの哲学者より一段高い境地に遊んでおられたのが分かります。

 神を知らない哲学者が真面目に最後まで存在の謎を掘り下げていくならば、自殺しかないが、神を知るものが哲学をすれば、こんなに楽しい知的遊戯はないと述べておられました。そして、私には大学の哲学の教授になる道ではなく、「哲学する悦び」の秘伝を伝えようとされたのではないかと今にして思います。

 痛みの意味を直観するためには、イエス・キリストの十字架上の極限苦しみと、その彼方にこそ輝く復活の栄光を黙想しなければならないことを教えておられます。

 神のままでは死ぬことが出来ない「私はある」という名の創造主が、受肉して人となり、ご自分の肉における極限の痛みと死を通して、人類に、私に、そしてあなたに対する無限の愛を示されたのです。痛みの神秘と苦しみの奥義を啓き示されたというべきでしょう。神の被造物に対する愛の極限の現れとして。

 

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★ 「最上のわざ」 ヘルマン・ホイヴェルス

2024-02-03 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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最上のわざ

ヘルマン・ホイヴェルス

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 前のブログに紹介したホイヴェルス師の著書「人生の秋に」の初版本には「年をとるすべ」という短編があります。そして、その中に「最上のわざ」という詩が含まれています。まず味わってください。

 

最上のわざ

この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり、

働きたいけれども休み、

しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうな時に希望し、

従順に、平静に、おのれの十字架をになう――。

 

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のためにはたらくよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること――。

 

老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために――。

 

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事――。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

 

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ――。

手は何もできない。けれどお最後まで合掌できる。

愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために――。

 

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と――。

 

* * * * *

 インターネットでホイヴェルス師の「最上のわざ」を検索していたら、雑賀信行さんというカトリックの信者さんの樹木希林さんに関する一文が目にとまった。

 2018年に亡くなり、15日に3回忌を迎えた女優の樹木希林さん。大の読書家としても知られたが、希林さんは「余分なものは何も置かない」という生活をしていたため、所有する本も100冊と決め、次のように語っていた。

 

樹木希林さん(写真:Andriy Makukha

「あたらしく気に入った本、手元に置きたくなった一冊がでてきたら、百冊のなかの一冊を、人にあげてしまうの。だから、いつも百冊

そして、最後まで遺(のこ)された100冊の中に1冊だけ、キリスト教の本があった。

そんな希林さんは、最期までホイヴェルス神父の本を手もとに置き、この「最上のわざ」を繰り返し口ずさんでいたのかもしれない。

* * * * *

「最上のわざ」は今日では大勢の日本人にホイヴェルス師の詩として愛されている。時には、それがカトリック司祭ホイヴェルス師の詩だと知らずに座右において口ずさんでいる人も多い。

 ある時ふと気が付いた。「人生の秋に」の「年をとるすべ」には、「昨年(これは師が来日44年目に初めて故郷の村を訪れた1969年6月のこと)私は故郷のドイツへ帰りましたが、南ドイツでひとりの友人からもらった詩」としるされていることに。

 しかし、それがたとえ南ドイツに伝わる無名の詩人の作であったとしても、晩年のホイヴェルス師は文字通りこの詩のままの心境で生きておられたのだと思う。だから、この詩はホイヴェルス師の最上のわざ」のままでいいのだと思う。

 この詩は普通は行間をつめて最後までつづけられ、ただ、都合によって改行が増やされていことがあるが、私は改行は「人生の秋に」のオリジナルのままにし、その代り、意味のまとまりに合わせて数行ごとにブロックにしてみた。何となくその方が心にしみ入る気がして・・・

 薔薇.jpg

 

 

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★ 美しき生家 ヘルマン・ホイヴェルス

2024-01-19 22:16:41 | ★ ホイヴェルス師

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美 し き 生 家

ヘルマン・ホイヴェルス

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 私の手元に今は絶版になって久しいホイヴェルス師の初期の著書「人生の秋に」の貴重な初版本がある。背表紙は半ば破れ、中表紙には私に宛てたホイヴェルス師の美しい筆跡のサインがある。奥付けを見ると1969年11月25日第一刷発行とあるから、師の手にとどいてすぐに頂いたことになる。その一冊の最初の短編「美しき生家」をここにご紹介しよう。

 

  

 

* * * * *

 1967年の夏の3か月のあいだ、私は44年ぶり、故郷のドライエルワルデを訪ねました。その時、土地の新聞は「美しきホイヴェルス家に大いなるよろこび!」という見出しの記事をかきました。これを見て、どうして美しい生家となったのかと考えてみました。もちろん学生時代には自分の生家をなつかし思っていましたし、いくどか生家を写生したこともありましたが、それが、よその人にも美しく見えるものでしょうか・・・。

 そこである日、アア川の橋の上まで行って、そこから国道を歩きながら右の方の生家を眺めてみました。なるほど景色のなかのきれいなその場面は、代表的なミュンスターラントの農家ではないでしょうか。ほどよく人と隣家からはなれ、ひじょうに明るい印象を与えます。

 どうしてそのような感じのよい家ができたのか? と考えてみて、やはりそれは父母のおかげだとわかりました。今でも、秋の森で嵐のざわめきを思いうかべると恐ろしくなります。

 父と母は1886年に結婚しました。この二人は将来の進歩に対するよい組合せでありました。かれらはグリムの昔話に出てくるように、その一番人間らしい年ごろ(新婚時代)この家について計画したのです。

 まず家のまわりにもっと光をいれたい。そこで森の一部を伐り開き、大木は船会社(造船)に売り出され、そのあとには新しい果樹が植えられました。家の東側と西側には一本の菩提樹、北には一本のブナ——これは避雷針の役目をつとめます。次の段階は家にかんするものでした。両親は、ひじょうに心の合った一人の大工と、家の改造についてゆっくり相談したのでした。母の希望は、屋根をもっと高く上げ、壁の窓はもっと明るくすること。パン(焼き)小屋を西から東へ移すことでした。この生家の屋根は後年、わらぶきから赤い瓦ぶきにとり替えられました。しかし北の方は今も昔のままの作りを残しています。

* * * * *

 なんとさりげない文章だろう。しかし、そこには晩年に初めて故郷に帰ったホイヴェルス師の生家に対する深い愛が感じられる。

 私は、1964年に師とともにインドに遊び、2000年の教会の歴史上はじめてヨーロッパの外に旅したパウロ6世教皇の形骸に触れた。時あたかも、第二バチカン公会議のさ中であった。

 1967の春から私は上智大学中世哲学研究室の助手を勤めていて、ホイヴェルス師の初めての帰郷に同伴することはなかった。しかし、1969年にホイヴェルス師、ビッター神父(イエズス会日本管区会計主任)、チースリク神父(聖心女子大教授・キリシタン史研究第一人者)ら戦前から日本に在住のドイツ人3宣教師推薦でドイツのコメルツバンクに就職した。そして、1974年から3年余り私はデュッセルドルフの地域本店に勤務し、1976年(の初夏?と記憶するが)、ホイヴェルス師の二度目の帰郷の際には、愛車を駆ってミュンスターランドのドライエルワルデに師の生家を訪れ、久々に師とお会いすることが出来た。

 

 私が師の生家を訪れたときに持っていたカメラはまだフイルムカメラだった。沢山の写真を撮ったはずだが、ネガの整理が悪く長年の間に散逸し、今はこの大きな納屋の前で遊ぶタンテ・アンナの子供たちの写真一枚だけになってしまった。まるで、120年ほど前にタイムスリップして幼いホイヴェルス兄弟を見ているような錯覚におちいる。母屋はこの左側で、ホイヴェルス師が描写した通りの佇まいだった。

 

 ホイヴェルス師の肉親として一人そこに存命であった姪御さんタンテ・アンナのおもてなしを受け、少年時代のヘルマン兄弟の勉強部屋で二人きりで昼食をご馳走になった。師はその時、「来年は細川ガラシャ夫人の歌舞伎をドイツで公演するから、お前はその現地マネージャーをするように」と命じられた。しかし、日本に戻られたホイヴェルス師からは、ドイツ公演の連絡はついに届かなかった。後で知ったことだが、師は1977年3月に教会内で転倒され、一時は新宿区下落合の生母病院に入院され、退院後の同年 6月9日に帰天されていた。私は9月に帰国してそれを知ることとなった。

 ノルトライン・ウエストファーレン州にあるホイヴェルス師の生誕の地ドライエルワルデは、森と豊かな農地の広がる美しい田園地帯であった。質実剛健なドイツ人の世界で、近くを流れる水量豊かなアア川には水車小屋があり、広々とした敷地に建つホイヴェルス家は、まことに明るく美しい佇まいであった。

 

 

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★ 泰阜村「カルメル会修道院」縁起 (そのー3)

2024-01-03 00:00:01 | 私的なブログ

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泰阜(やすおか)村「カルメル会修道院」縁起

(そのー3)

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 馬場神父を大阪教区から不正にして無慈悲にも追い出したのは、第2次世界大戦中から戦後にかけて37年の長きにわたって大阪大司教区に君臨した田口芳五郎大司教・枢機卿だった。

 戦勝国アメリカは、戦後の日本統治の手段の一つとして、キリスト教を大いに保護・優遇した。カトリック教会も占領軍を後ろ盾に日本各地の一等地にたくさんの土地を取得した。そして戦後の土地神話のもとで巧みに土地ころがしをして、教会に大いに富をもたらしたことで田口大司教は知る人ぞ知るの存在だった。

 しかし、一人の人間が長期間、しかも終身にわたって権力の座についていると、様々な弊害が生じるのは聖俗を問わず世の常だ。大阪教区の板倉神父が大司教の教会統治の問題点を批判してパンフレットを作り流布した。それに対する制裁として大司教は同神父を幼稚園園長職から解雇した。首にされた神父は大司教を相手取って不当解雇撤回を求めて裁判に打って出たが、その神父を馬場神父ら「雑魚の会」のメンバーの若手神父たちが支援して立ち上がったのだ。

 カトリックの大司教と言えば、教会の中では絶対権力者だ。田口大司教の逆鱗に触れた「雑魚」どもが、教区外に追放されたのは当然と言えば当然のことだった。しかし、彼らが何か不正を働いたとか、悪徳に走ったとかいうわけではないから、一部の人々の同情は彼らに集まっていた。神様の目からすれば、彼らの方が正しく、正義と愛徳に反したのは大司教の方だったのではないか。

 泰阜村縁起のそもそもの発端は、この若手造反神父たちの追放にあった。無慈悲にも教区を追われた馬場神父らが、司祭としてのアイデンティティーと生き甲斐を求めて、もがき、苦しみ、手探りで障害児のコロニーの企画書をー私をもその賛同者に巻き込んでー作り、それをもって全国を巡り、やっと見つけたスポンサーが泰阜村だった。

 その後の展開については「泰阜村縁起」(そのー1)と(そのー2)に詳しく書いたからもう一度読んでいただきたい。

 田口大司教が1978年に亡くなると、安田大司教がその後を継いだ。

 安田大司教は正しい人だったのだろう。田口大司教の圧政の犠牲になって散らされた羊たちを探して、救済と名誉回復のために動いた。そして、馬場神父の好きな洋酒を一本下げて、わざわざ泰阜村までやってきた。不正に教区を追われた馬場神父に司祭としての身分を認証し名誉を回復するから教区に戻るようにと説得するためだった。

 しかし、馬場神父は過去の問題には蓋をして、ただ教区に戻れればそれでめでたし、めでたしという考え方には同意しかねた。そして、田口大司教の横暴に忖度して、馬場神父らに対する不当なイジメに手を貸した実行犯たちに対する何らかの処分を求めた。これにはさすがの安田大司教も怯んだ。田口大司教亡きあとも、それらの重鎮神父たちは教区の実権を握っていた。新任大司教といえども彼らに一目置かなければ教区の掌握は難しかったからにちがいない。 

 安田大司教は持参した酒を残して、成果なく帰っていった。こうして、馬場神父の処分解除と名誉回復の貴重なチャンスは失われ、引き続き泰阜村に放置されることになった。

 その後、馬場神父は体調を崩した。精密検査の結果、かなり進行した癌が見つかった。神父の身柄は泰阜村から大阪のカトリックのガラシャ病院に移されたが、この時の大阪教区による馬場神父への処遇には手厚いものがあったと思われる。

 馬場神父が田口大司教から迫害を受けて苦しんできたことを、心ある人々はみな知っていた。彼の葬儀は、教区を挙げて盛大におこなわれたと聞くが、彼の復権と名誉回復は死後になってやっと実現したと言えるかもしれない。

 私は今なぜこのことを書くのだろうか。

 それは、私がいま、あの時の馬場神父ときわめて類似した状態にいるからだ。

 私は、恩人の深堀司教引退後、同司教の路線を継承する使命を自覚し、新求道共同体のさらなる発展と、設立された「高松教区立レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の存続基盤を確かなものとする責任は自分に託されたと自負していた。

 一方、新任の溝部司教は「新求道共同体」の解体と「レデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院」の閉鎖を目標にして、自信満々乗り込んできたのだった。

 溝部司教が着任後初めて私に会ったとき、開口一番「谷口神父さん、あなたは神学校の建設や、深堀司教様の裁判問題の解決のために、教区に大変貢献してくださった。有難う。さぞご苦労が多かったことだろう。少し休息が必要ではないか。ついては一年間のサバティカル(休養年)を贈りたいと思う。ローマにでも行って少し羽を休めてはどうか。一年後にはまた元の三本松教会の主任司祭として続けてもらいたい」と切り出した。言葉は優しいが、魂胆は見え透いていた。 

 一方、その時の私は休暇どころではなかった。東讃地区の拠点である三本松教会の主任司祭になって、聖堂を改築・拡充し、地域の住民に呼びかけてカテケージス(信仰入門講座)を開いて、キコと聖教皇ヨハネパウロ2世が始めた「新求道共機関の道」の新しい小さな共同体が誕生したばかりだった。それらを捨て置いて、のんびりローマで休暇などあり得なかった。

 しかし、これは優しい勧めなどではなかった。新司教にとっては、新求道共同体の弾圧と神学校の閉鎖のプログラムの障害を取り除くために、私の排除は最初に実行しなければならない不可欠な一手だった。だからこの休暇案は司教権限による私への絶対命令だった。

 拒否すれば司教に対する不従順を口実に、聖職停止、教区外追放が待っているのは火を見るよりも明らかだった。受けても、断っても嵌められる諸刃の罠だった。

 三本松の信者たちーとくに新しい共同体のメンバーたちーは不穏な気配を察して、いくつかのグループに分かれて、それぞれ司教に面会を求め、「谷口神父は本当に一年後に私たちの主任司祭として戻って来るのですか?」と確認しに行った。そのたびに、司教はにこやかに「もちろんですとも。休暇が明けたら谷口神父さんは必ず皆さんのもとに帰ってきます。ご心配なく。」と確約した。

 一年間をローマでどう過ごしたかは省略するが、11カ月余りが過ぎたころ、司教から初めて届いた短いメールには、「残念ながら教区の事情は改善されていない。したがってあと2年間の教区外生活を命じる」と記されていた。

 「飢えるなり、野垂れ死にするなり、どうぞご自由に」という冷たい響きがそのメールにはあった。初めから経済的支援は司教の頭には全くなかったし、私の手持ちの金も底をついていた。しかし、何よりもひどいと思ったのは、三本松の信者たちにした司教の確約があっさりと反故にされたことだった。

 そうだ、日本に帰ろう。帰ればなんとかなる。

 私には日本にただ一か所、誰にも奪われることのない、秘密の隠れ家があった。

 新潟県との県境に近い長野県の北端に野尻湖という静かな湖がある。そのほとりにNLA(野尻湖国際村)と呼ばれるプロテスタント各派合同の外国人牧師らの集落があった。戦時中は敵性国の外国人の収容所にもなった場所だが、一山に300戸ほどの夏用の別荘がある。もともとは明治の時代に欧米からはるばる船で来日し、一生故国に帰ることもないかもしてないという覚悟で日本の宣教に献身した牧師たちの家族が、夏の休暇を一緒に過ごすために開いた村だった。

 その別荘の一つがアメリカ帰りの私の大叔父のもので、大学生の頃はよく遊びに行ったものだった。その近くに一人の未亡人が住んでいた。彼女には私と同じ年齢の一人息子がいた。東大から慶応の医学部に進んだ俊ちゃんという優秀な若者だった。その彼が自殺した。

 山尾夫人は愛する息子の思い出の詰まった野尻の家を手放しかねていた。そこに長い間姿の見えなかった私がふいに神父姿で現れた。私は午後のお茶を頂いて、懐かしい思い出話をした後、神学の勉強を続けるためにローマにもどった。その後から手紙が追ってきた。曰く、「あなたに会って心に閃くものがあった。息子の思い出の詰まった野尻の家をあなたに贈りたい。」

 私はすぐ高松の深堀司教様に手紙を書いた。「これこれだが、私は神父になる前に銀行マン時代に持っていた家も資産も全部処分して無一物になって聖職についたのに、今さら別荘など所有していいものか」と相談すると、「その家はきっといつかあなたを護ってくれるものになる。ためらわず受け取りなさい。」という返事が返ってきた。

 その司教様の予言がまさかこんな形で的中するとは夢にも思っていなかったが、私はローマから帰るとまっすぐこの山小屋に潜り込んだ。私を護ってくれるものはこの地上にこの家しかなかった。余談だが、その前後の数年間、不思議なことに私は新求道共同体の責任者たちから何の接触も、支援も受けなかった。全く孤立無援だった。

 最初の冬は厳しかった。板一枚の上をトタンで葺いただけの屋根。壁や床は夏の別荘としては十分だが、上越の豪雪地帯で気温零度以下、1.5メートル以上の根雪に埋もれると、隙間風の寒さを防ぐ術がない。朝起きたら布団の襟元に吐く息が凍って白くなっていることも稀ではなかった。

 根雪の上に新雪が30センチも積もると、買い物には雪の斜面を泳ぐようにして公道に出るしかない。寒さに震えながらひたすら遅い春が来るのを待ちわびる孤立無援の毎日が続いた。春のある日、地方の新聞に、「国際村の別荘に死後数週間の男性の凍死体発見」という小さな記事が出ていても不思議ではなかったが、冗談にもならない。

 初めての厳冬を辛くも生き延びた。しかし、恐ろしくて次の冬に立ち向かう勇気は湧かなかった。幸い、親友のシスターが施設長をしている養老院に、小金持ちのおばあちゃんがいて、山小屋の冬仕様への改造資金を出してくれた。200万円 近い額だった。

 こうして2度目の冬も一人寂しく雪に埋もれて耐えて、やがて2年間の教区外追放生活が終わろうとしていた。しかし、今度は司教から何の指示も来なかった。だからと言って、言い渡された二年間を超えてそのままいれば、今度は従順に反して勝手な生活をしていると、あらぬ言い掛かりをつけられる恐れがあった。そこで、満期の日に野尻湖の別荘を発って高松に向かって車を走らせた。

 京都を過ぎたあたりで、司教館に電話を入れて、2年の追放が終わったからいま司教館に帰るところだと告げると、「司教は東京に行って留守だから、引き返せ。来るな。」と司教館の職員が言う。私は、「もう目と鼻の先まで来ている。今さら引き返す気はない。このまま司教館に乗り付け、そこで司教の帰りを待つ。」と言って一方的に電話を切った。司教館の駐車場で車に寝泊まりをしながら司教の帰りを待とうと腹をくくっていたが、着いてみると、事務職員は客室を空けて待っていた。急ぎ東京の司教と相談したのだろう。

 私が司教館に住み着いて動こうとしないのに業を煮やした司教は、私を追い出すために一計を案じた。深堀司教の時代にアントネロ神父が司教の許可を得て高松市の郊外に宣教拠点を開いていた。溝部司教はその例に倣って、八十八か所の名刹「志度寺」で有名な志度町に開拓宣教拠点を開け、支度の一時金として150万円を支給する、と提案してきた。

 私は「準備が整ったらそこへ移る」と言ったが、「それはだめだ。今すぐ司教館を出て、それから準備にかかれ」ときた。それで、当時まだ存在していた神学校に私物をまとめて移り住み、そこから宣教拠点開設の準備を始めようとした矢先に、「計画は変わった、宣教拠点の話は白紙に戻す。150万円の支度金ももう渡す必要はないだろう。」と言ってきた。全ては追い出すためのだまし討ち、大嘘だった。

 ごたごたしているところへ、ローマ教皇に任命された全権特使のハビエル・ソティル神父が高松にやってきた。司教は私を旅人神父として教区外に放出すると提案し、ハビエル神父は、司教が書くべき派遣状の文面を用意したが、司教は自分ではそれにサインせず、司教館事務局長の信徒にサインさせた。

 以来、今日に至るまで、私はその紙切れ一枚を根拠に国際放浪神父の生活をしている。

 本来、サバティカル(休暇年)は長年の功労に対する報奨として、本人の請求に基づいて許可されて与えられるものではあるが、司祭不足の昨今、普通にはそう簡単に与えられる贅沢ではない。まして、教区外に追放するための口実として、命令で取らされるべきものではない。

 同様に、旅人神父の身分も、本人が心にそのカリスマと召命を感じて、申し出て、許可されて与えられるものだ。本人がそのカリスマを感じず、希望も出していないのに、教区外追放のために、司教命令で取らされるものではない。

 馬場神父たち「雑魚」は田口大司教を批判して教区外追放にあった。しかし、最後には名誉は回復され大阪教区の司祭と認められて死んだ。

 私の罪状は「新求道共同体」と「神学校」という深堀司教の遺産を護ろうとしたことだ。私が教区に居て正当な地位・職責にとどまっていたら、新任の司教が前任者の遺産を乱暴に破壊しようとしても、抵抗して簡単にそれを許さないだけの自信がわたしにはあった。

 私は誰も攻撃したり批判したりしなかった。それなのに、私は教区外追放にあった。私は死んだらどうなるのだろう。打ち捨てられたままの野垂れ死にが目に浮かぶ。キリストはそうなった。そして、天の御父は彼に復活をもって報われた。

 私は正直なところ、溝部司教に司祭の給料を打ち切られて教区外に追放された時、これからどうやって生活すればいいかと先行きを恐れた。世俗に戻って働かなければならないかと心配もした。しかし、その後の生活を通して聖書の言葉に偽りがないことを、身をもって体験した。

 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ 6:26)「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」(マタイ6:28-30)

 しかし、イエスはまたこうも言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20)私もそうなった。

来し方を振り返るいま、これらの言葉はまさに文字通り真実だということを納得した。馬場神父もきっと身をもって同じ体験をしたに違いない。

 

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★ ブロガー神父からの素敵なクリスマスプレゼント

2023-12-25 00:00:01 | シンフォニー「メシア」

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ブロガー神父からの素敵なクリスマスプレゼント

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 世界中は今年も人類の救い主、人類のすべての罪の贖い主であるイエス・キリストの歴史的誕生を祝います

 私は、その幼子の誕生祝いに、ブログを読んでくださっている日本中の皆様に素敵なプレゼントをお届けしたいと思います。

 それは、「メシア」と題するキコの2作目の「シンフォニー」の映像と音源で、このブログの末尾の URL をクリックすれば見られます。去る11月19日、作曲家ヴェルディ―ゆかりのトリエステのヴェルディー劇場での初演の模様です。

テアトロ・ヴェルディの内部

「メシア」(または「メサイア」とも言う)は、「救世主」の意味ですが、それはキリスト教の創始者イエス・キリストの別名でもあります。キリストの降誕を祝う12月25日に、「メシア」と題するシンフォニーを贈るというのは、ふさわしいことではないかと思いました。

 

シンフォニー「メシア」のカバー

 私のブログのカテゴリーにある一連の「シンフォニー」の記事も参照してください。それらはキコのシンフォニーの第一作「罪のない人々の苦しみ」に関するものですが、その中には2016年の東日本大震災5周年記念の福島、郡山、そして東京はサントリーホールでのチャリティーコンサートツアーの様子も含まれます。

 今回の第二作もキコの独創的な作曲法で実現しました。今回の「メシア」は第一作より技術面でも表現力においても数段進化したと私は評価しています。

 実は、キコは楽譜が読めず、したがって作曲も自分で楽譜を書くことによって行うことは出来ません。

 キコの今回の第二作目は、オーケストラと合唱にピアノコンチェルト様式も取り入れた野心的なものですが、楽譜が書けないキコは、この複雑な作曲をおそらく音楽史上、作曲史上、空前絶後の彼にしかできない奇想天外な手法を駆使して完成しました。

 かれは先ず、曲の主題を自分でギターを爪弾きながら歌って人に聞かせます。人はそれを採譜して楽譜に固定します。次に、キコは自分の楽器に相当するオーケストラを招集します。メンバーはキコの「新求道期間の道」を歩む全世界の信奉者の中から、プロ、セミプロの演奏家を一堂に集めたお抱え楽師たちです。このオーケストラを彼は自分のギター同様に楽器として自由自在に操って作曲を進めます。

 先ずオーケストラの前で自分の曲想を披露し、弦楽器、管楽器、打楽器にそれぞれのパートの演奏を口移しで試させます。

 各パートの奏者は、その都度それを採譜します。そして、試しに合奏し、ダメ出しと修正を繰り返し、さらに演奏者の意見や即興の試みも取り入れて、次第に磨きをかけていきます。オーケストラもコーラスもピアニストももちろん指揮者も単なる受け身の楽器ではなく、それぞれが才能と楽想を持った生身のプロたちですから、全体の統合を任された指揮者の意見も取り入れて、全曲が見事に完成されて行きます。ちなみに、キコのオーケストラの指揮者は国際的にも著名なチェコのトーマス・ハヌスですが、彼もキコの信仰共同体の熱心な一員です。

 

      

トーマス・ハヌスは2016年のサントリホールでも指揮をした

 私はチャンスに恵まれてキコの第1作「罪のない人々の苦しみ」のシンフォニーの制作過程と練習風景に密着し、最後には東日本大震災の5周年2016年の日本ツアーと、東京のサントリーホールのコンサートをマネージした全制作過程の生き証人です。

 キコは自分の作曲したシンフォニーの50%は自分が創造したもの、残りの50%は自分の分身である音楽家集団とのコラボから生まれたものだと評しています。

 ベートーベンやモーツアルトなどの天才には思いもつかない奇想天外なシンフォニーの作曲法で、後にも先にもこの方法で作曲できる人は二度と現れないのではないかと思います。

 なぜなら、それは単に資金の問題でも、才能の問題でもなく、キコの宗教的カリスマと、それに心酔して手弁当で集まる信仰者の演奏家集団の存在が絶対に必要な条件だからです。

 第2作「メシア」の完成は予定より4年近く遅れました。それは、コロナ禍の間、彼の楽器であるオーケストラとコーラスの結集が妨げられていたからです。

去る11月19日のテアトロ・ヴェルディでのキコのオーケストラ

+ + + + +

 もうこれぐらいで前置きは十分でしょう。今年のクリスマスのプレゼントに、キコのシンフォニー「メシア」のベルティ劇場での初演の様子をたっぷりお楽しみください。

 なお、最初の28分余りはキコのイタリア語の挨拶と解説なので、ことばのわからない人は飛ばしてください。また、ユーチューブなので邪魔な広告が入ります。4-5秒のカウントダウンの後に広告をスキップ▶」と出たらすぐクリックして広告を消し、先へ進んでください。

 

では、メリークリスマス! よいお正月を!

 (ここをクリック

CR06 手段メリット型 冒頭1 (youtube.com)

薔薇.jpg

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★ ローマの休日

2023-12-20 00:00:01 | ★ 旅行

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ローマの休日

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 私は一つ前のブログをローマで書いた。

 それは、総勢17名のツアーの一員としてローマを訪れ、本隊が帰国した後も、我が人生最後になるかもしれないローマの休日を味わう中で、ブログを書くわずかなひと時を見出したからだった。

 話は19年前に東かがわ市がバチカンの庭園に桜並木を寄贈したことにさかのぼる。

 地元の人々は、大内町に「高松教区立国際宣教神学院」が開設され、過疎化が進む東讃地域に若い健全な外国人の青年たちが集う施設の誕生を、地域の国際化に資するものとして歓迎した。

 そして、その感謝の気持ちを表すために、東かがわ市の中条市長以下90名余りがバチカン庭園に桜の苗木20本余りを寄贈した。植えた時は太さ1センチほどの苗木が、今は15センチほどの成木になり、春ごとに見事に咲いて人々の目を楽しませるまでに育っている。

聖ペトロ大聖堂のクーポラを背景にした日本のさくら

 

花見の頃には野生のインコが蜜を吸いに集まる

 日本の桜を聖教皇ヨハネパウロ2世に献上した「東かがわ市国際交流協会」の新会長に選ばれた六車さんは、その桜の木が今どうなっているかを自分の目で確かめたいと思い、花見の季節ではなかったが今回の11月ツアーとなった。

 

19年前の植樹記念のプレート

今回のツアーに花はなかったが 参加者一同銘板と桜の木を囲んで

 

 この桜植樹に最初から関わったキーマンの私は、今回もバチカン当局との折衝役として参加した。そして一行が無事に帰国した後も、ローマに残り、一人静かに「永遠の都」の休日を堪能したのだった。

 ローマ後半のハイライトは、マリアンネとの再会だった。

 マリアンネ・シュロッサ―嬢と初めて出会ったのは、もうかれこれ40年近く前のことだ。当時私は英国の名門銀行サミュエル・モンタギューを最後に、国際金融業からさっぱりと足を洗い、東京は瀬田の聖アントニオ神学院でフランシスコ会の志願者として受付に座り電話番をしていた。

 瀬田の神学院には「ボナヴェントゥーラ研究所」があり、ミュンヘン大学の同名の研究所と日・独交互に総会を開く慣例があった。その年はデットロフ教授が秘書にマリアンネ嬢(当時大学院博士課程)を連れて東京での総会に臨んだ。

 その時、私がドイツ語ができるということで、初めて来日したマリアンネの息抜きに、東京見物に連れ出す任務を院長から託された。それが、彼女との出会いの始まりだった。

 当時、彼女は26歳の学者の卵、私は46歳の元銀行マンから修道者志願1年生だったが、その日は開放的で心楽しい「東京の休日」となった。以来、二人にはそれぞれに人生の紆余曲折はありつつも、心の交流はずっと続いた。

 彼女は修道生活を望んでいたが、既存のどの会にも心惹かれるものがなかった。それで、ミュンヘンの大司教のもとで個人的に「終生乙女の誓願」を立てた。それは、初代教会に生まれ、中世に消滅し、第二バチカン公会議で再発見された女性信徒の正式な身分で、ドイツでは彼女がその第1号となった。彼女はミュンヘン大学神学部に教授職を得て祈りと研究の生活をしていたが、オーストリアのウイーン国立大学の神学部が学部長を公募しているのを知って応募し、女性神学者として見事に神学部長の椅子を射止めた。

 一方、私は希望を持って入会したフランシスコ会をまわりの誤解嫉妬で追い出され、落ちるところまで落ちて山谷で日雇い労働者をしていた時も、その後、高松教区の神学生としてローマで神学の勉強をしていた頃も、彼女との交流はずっと続いた。

 ドナウ川に沿った美しい中世の街、ドナウヴェールト郊外の彼女の母親の家に泊まったり、ウイーンの彼女の居所を訪ねたりした。また、ローマの中心のサンマルコ教会で学生神父をしていた時は、彼女の弟の結婚式をドイツからやってきたお母さんの見守る中で司式をしたこともあった。

 

マリアンネの生まれたドナウヴェールト中心部の美しい街並み

 

  

マリアンネのお母さん 庭のフサスグリの実 ジャムのために摘むマリアンネ   

 

ウイーンのマリアンネのアパートの建物はもと中世の修道院だった

よく見ると建物の左上の旗の下にはベートーベン終焉の家とある

 その彼女が、聖教皇ヨハネパウロ2世の後継者となったラッツィンガー枢機卿改めベネディクト16世教皇の神学的教説を集大成し、その論文を教皇に献呈したのを機に、教皇と女性神学者マリアンネとの間にドイツ人同士の親密な私的交流が生まれ、それは教皇の最晩年まで続いた。

 そして今、彼女はバチカンお抱えの最高神学者集団である「国際神学委員会」(約30名で構成)のメンバーの一人に選ばれ、バチカンの公費でウイーンとローマを往復し、ローマでは教皇フランシスコの私生活の場でもある「聖マルタの家」(ホテル)の一室に常宿している。要するに、彼女は教皇との特別に親密な個人的関係も含めて、カトリック界では女性として考え得る最高のキャリアーを登り詰めたと言っても過言ではない。しかも、「天は二物を与えない」というが、彼女の場合それは当たらないのだ。神学者として傑出した才能の輝きを発揮した彼女は、コロラトゥーラのソプラノ歌手としても知る人ぞ知る存在である。正規のコンセルヴァトワールは出ていないが、ミュンヘンの大聖堂で復活祭のミサでソロを歌うほどの実力者なのだ。

 

バチカンの衛兵に護られるフランシスコ教皇の居室のある聖マルタの家

マリアンネはローマではこの建物に住む

 

 他方、私はと言えば、生涯にわたり無位無冠の貧乏神父として巷に埋没し、迫害され、数えきれない失意と挫折にまみれ、手負いの野良犬のように老いて朽ち果てようとしている。彼女のキャリアーと名声の頂点に立つ輝かしい姿と、みすぼらしい無名の敗残者老神父の間には、天と地ほどの身分の隔たりがある。しかし、40年前の若い可能性の卵の彼女と、まだ可能性を信じていた40男の神学生との間に生まれた友情だけは今も全く変わっていない。

 今回、彼女は偶然「国際神学委員会」の公務でローマにやって来ることになっていた。彼女は多忙なスケジュールをやりくりして会議の始まる二日前に着き、グループを日本に帰して自由になった私とうまく時間がつながって、最後になるかもしれない二人だけの「ローマの休日」が実現することになった。

 一緒に古い教会を巡り、食事を共にし、ワイングラスを傾け、話題は自然に神学問題になる。私は神学者ではないが、神学的にきわどい問題については妙に敏感なところがある。そして、それを彼女にぶつけると、彼女の博識と深い信仰に裏打ちされた手応えのある意見が返ってくる。今回も私は、素朴な体験の中から自分なりに得た強い心証と教会の伝統的な教えとの調和を求めて疑問を吐露した。そして、それに対する彼女のコメントは実に的確で、聞いていてこころ楽しいものがあった。

 しかし、今回思ったのは、彼女の答えは常に教会の伝統的な立場を擁護するものではあるが、私の人生経験と直感に基づく大胆な新説に必ずしも理解を示すものではないことにいささかの失望を覚えた。

 教会の教えが断固「天動説」であった時代に、ガリレオ・ガリレイは、同じく地動説を支持したブルーノが火刑に処せられたこともあり、自説を撤回し終身禁固の判決を甘受したが、退廷するとき、「それでも地球は動く」とつぶやいたと伝えられているように、今回、私もマリアンネのお説に対して、似たようなつぶやきを禁じえなかった。

(じつは、ここにその神学的疑問の具体的な内容を詳しく書き始めたが、長くなりそうだし、多くの読者には専門的すぎるので、思い直してバッサリ省略した。)

 しかし、それは大したことではない。ローマの街を二人連れだってそぞろ歩き、教会をはしごし、ワイングラスを傾けること自体が心楽しかった。40年の歳月を飛び越えて、二人の初めての「東京の休日」の思い出に浸ることが出来ただけで、私の心はもう十分に満たされていた。

 私が彼女の輝かしいキャリアーを称賛すると、「確かに私は最高のキャリアーを登り詰めた、しかしあなたの一見挫折と失敗に埋もれた惨めな生涯が、神様の目には大きな輝きを放つものでないと誰が言えようか。ナザレのイエス・キリストも人間的に見れば最大の失敗者、最も苦難に満ちた人生を生きて最後は無残に孤独に十字架の上で刑死した。しかし、天の御父は彼に復活の栄光で報われたではないか」と言って慰めてくれる。それが彼女の優しさだった。

* * * * * 

 暇を見つけてこのブログの原稿を少しずつ書き進んでいたこの一週間の間に、NHKのテレビで「ローマの休日」をやっているのを偶然見た。

 

 ローマの休日 : 作品情報 - 映画.com 

『ローマの休日』(Roman Holiday)は、1953年に公開されたアメリカ映画。主演はグレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーン

ローマの休日 に対する画像結果.サイズ: 168 x 185。ソース: eiga.com

 1953年と言えば、私がまだ14歳、中学生の頃だ。無論白黒映画だった。今までに何度見たか数えきれない。ローマに住んだ通算20年近い日々の間に、あの映画のロケ地は全部巡ったりもした。

 シェークスピア原作のロメオとジュリエットの物語は、私の理解が間違っていなければ、確かほぼ一昼夜の間に完結する出来事ではなかったかと思う。アーニャとブラッドレーのローマの休日も、夜に始まって次の日の夜にはほぼ終わる24時間の出来事だった。私とマリアンネの「東京の休日」も同様にたった一日の出来事だった。浅草で一緒にアイスクリームも食べた。隅田川で水上バスにも乗った・・・

 ヨーロッパ某国の王女様とアメリカ人の新聞記者の物語と、ドイツ人の女流神学者と日本人のさすらい老神父の物語を同列に語るのは、とんだ場違いの艶消しものかもしれないが・・・

P.S. (追伸):  普通いただいたコメントはコメント欄に残すべきものですが、私の尊敬する人から素敵なコメントを頂いたので、匿名を条件に本文に追伸として転載させていただきます。

* * コメント * * 

ブログ、拝読しました。

 いつもながら読み応え充分でしたが、谷口神父様は、“無位無冠の貧乏神父として巷に埋没し、迫害され、数えきれない失意と挫折にまみれ、手負いの野良犬のように老いて朽ち果てようとしている〜〜みすぼらしい無名の敗残者老神父”ではありませんよ。

 谷口神父様を知っている人は、誰もそのようには思っていないでしょう。

 もし仮にそうだとしても、世の囚人となって真っ当な者を迫害する高名な現代のファリサイ人、より、よほど立派でイエズスの姿に近いというものです。(M.M.)

(本人の陰の声: M.M. さま。有難うございます。神父冥利に尽きます。)

 

 

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