:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ キ コ の 壁 画 が 出 来 る まで (そのー3)

2017-05-18 17:24:54 | ★ キコの壁画

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キ コ の 壁 画 が 出 来 る まで

(そのー3)

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色付けのもとになる白黒のデッサンがほぼ出来上がった。 

手前のシルエットは只の見物人ではない(私みたいなのもいるが・・・。)多くはキコの弟子たちの画家の集団だ。キコは描く絵の中心人物の顔や手など、決定的な部分はすべて自分で描くが、衣服や景色や動物や背景や補助的人物の顔等は、教え込んだ弟子たちに意図的に手伝わせる。それは、彼が死んだ後も、キコ様式の絵を描き続ける一団を育てるためでもある。

画家たちは、イタリアやスペインを中心に世界中から家族を連れてここに結集し、自分の個性を完全に消して、せっせとキコの手足として絵筆を振るう。奥さんも子供も連れてくる。神学校の中に、にわか保育室までできた。子供たちが走り回っている。

 

空白部分は金色の絵の具でうめられていく。微妙な塗り斑が私の神経に障った。

 

絵と聖堂の後半部分との間にビニールのカーテンが出来た。埃を嫌うのか?

 

私はカーテンの中に入るのをしばらく控えていた

 

絵の色付けはどんどん進んで行く。上の段の椅子に座っているのはキコ。絵筆を振るっている。

 

伝統的なイコン画様式に沿って三位一体の神の絵を描いている

 

キコは美術アカデミー(芸大)の絵画部門の卒業生だ

 

 キリストの顔がほぼ完成に近づいた。黄色い余白の部分は、後日その上に金箔をおして仕上げられるだろう。なんだ、それなら下地の金泥の塗り斑は消えるわけだ。納得!

(つづく)

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★ キ コ の 壁 画 が 出 来 る まで (そのー2)

2017-05-14 18:13:15 | ★ キコの壁画

 

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キコの壁画が出来るまで 

(そのー2)

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増築部分の内部はどうなっているのだろうか?

天上まで20メートル近くある。ビルの4-5階に相当するだろうか?

 

 

正面のコンクリートの壁は全く凹凸の無い滑らかな面に仕上げられた

 

一旦足場を外すと、回りを素通しのガラスで囲まれた巨大なキャンバスが現れた。構造が単純なのと、作業をしている職人が壁から大分手前にいるので、実感がわかないかもしれないが、バチカンのシスティーナ礼拝堂の正面の壁より広い。その広い壁を囲む外の自然がそのまま見えるガラスの額縁は、実は日本の伝統建築から来ている。日本の庭園に配された屋敷の広間は、襖や障子を取り払うと、座敷から庭園の自然が連続して視野に入るのを立体的に模している。

 

職人たちは床に大理石を敷き始めている

 

あらためて足場が組まれ始めた。今度のは画家が壁に向かうためのものだ

 

移動式エレベーターも2基持ち込まれた。私は後日その一つに乗って天井近くまでい行ったが、高所恐怖症でなくても足がすくんだ。

 

背に上着のかかった椅子がキコの司令塔だ。ここから絵の全体を眺めて細部のバランスをチェックする。いつも水とパンとチーズぐらいが置かれている。

キコと、キコの建築顧問のマティアス(中央)と弟子の画家集団の一人

 

脇のテーブルには雑然と資料が置かれている

 

キコが現場でデッサンした顔や目

 

構図が固まったら色付けに入る。原色の絵の具の色見本。

 

休憩時間の職人たち。純朴で実直な人たちだ。

これで下絵を描き始める準備はほぼ整ったことになるか。

(つづく)

 

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★ キ コ の 壁 画 が 出 来 る まで (そのー1)

2017-05-08 18:32:06 | ★ キコの壁画

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キ コ の 壁 画 が 出 来 る まで

(そのー1)

バチカンのシスティーナ礼拝堂にミケランジェロの「最後の審判」の大壁画がある

今回、それよりも大きな壁画「黙示録」にキコが挑戦!

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ローマにも10年に1度ぐらい雪が積もることがある。

10年ほど前に雪が降った日、私は自分の部屋の窓からこの写真を撮っていた。

三角の屋根、「通称ピラミッド」の右奥に聖堂の建物が見えている。 

 

 

同じ窓から撮った2年前の写真。右上、ローマの松のとことの十字架は、

聖堂脇の鐘楼の十字架。

窓は東向き。冬は鐘楼の十字架より右(南東)から太陽が昇り、

真夏はこの画面の外、遥か左(北東寄り)から太陽が昇る。

 

 

 昨年の夏、コンサートツアーもあって日本に帰っていた。

秋の宵にローマにもどった翌朝、朝焼けの下に見慣れぬ大きなシルエットがあった。

 

 

聖堂の正面をぶち抜いて高さも幅も倍近くの増築が始まっていた。

全部同じ場所からだが、雪の写真にも次のにも、この部分はまだ存在しなかった。

 

 

正門から入ると、聖堂の増築部分は今まで一番高かった鐘楼の塔よりも高くなったのがわかる。

 

        

この増築は何のため?

聖堂の床面積を7割がた広くするためだが、それだけではない。

正面にキコが絵を描く巨大な壁面を作るためなのだ。

ふつう大家が絵を描くとき、キャンバスや襖や壁面にはそれほど金をかけない。

ところが今回のキコの壁画の場合、その壁を用意するために億単位の金がかかっている。

また誰か、信仰深いスポンサーを見つけたのだろうか?

 

 

これから、画家キコの壁画制作の過程をカメラで密着取材しよう。

どんな展開になるのか、

アルバム風に綴るので、次回からをお楽しみに。 

(つづく)

 

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★ 聖書から見た「サイレンス」―その(7)〔最終回〕

2017-04-30 18:42:54 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス―その(7)

〔 最 終 回 〕

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スコセッシ監督と俳優たち

聖書の本質的メッセージとは何か?それは「主、キリストは蘇えられた!」の一言に尽きる。こんな強烈なメッセージは「自然宗教」のどこを探しても決して見つかるものではない。

もし、ナザレのイエス、すなわちメシア(救世主)と言われたキリスト、が人間として本当に十字架刑の拷問の末に「死んで」三日目に「蘇えられた」、つまり「復活して生き返った―「死」を克服し「死」の支配に対して勝利を収めた―のでなかったら、キリスト教ほど馬鹿馬鹿しい、割の合わない宗教はない。

この世で、富も、名誉も、地位も、健康も、長寿も、いいことはなにも約束してくれない、ご利益を積極的に「全否定」するだけでは気が済まないで、「貧しい人は幸い」である(ルカ4章20節)。「悲しむ人々は幸い」である(マタイ5章4節)。「義のために迫害される人は幸い」である(同5節)。「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えの無いことであらゆる悪口を浴びせられるときあなた方は幸い」である(同11節)などと言ってはばからない。

まだしつこく続く。「富んでいるあなた方は、不幸である。」「今笑っている人々は不幸である。」「すべての人にほめられるとき、あなた方は不幸である」(ルカ6章24節以下)。つまり、市井の凡俗な我々が希求する価値観の全否定だ。

それでもまだ足りないか、ご丁寧に駄目押しの無理難題が並ぶ。「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。・・・あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬も向けなさい。・・・あなたの持ち物を奪うものから取り返そうとしてはならない。・・・(ルカ6章27節以下)。 

そんな無茶苦茶なことを要求した挙句の果てに、ローマ人が考案した最高に残酷な拷問刑―「十字架」―に磔けられて苦しみもだえ、「沈黙」する神に完全に見放され、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」という絶望の叫びをあげた後に哀れにも息を引き取ったキリストが、何の夢も希望も残さず、あっけなく死んで、「それで一巻の終わり!」なら、キリスト教ほどアホらしい宗教はない。

それでも、キリストの生前の魅力の集団催眠にかかった信者たちが、次々と拷問を甘受し、人が猛獣に喰い殺されるのを見て楽しむ野蛮なローマ人の娯楽ショーの消耗品として殺されていく姿は、ただ哀れとしか言いようがないではないか。

「自然宗教」的メンタリティーから言えば、要するに、これ以上にアホらしい宗教は絶対に考えられないのだ。

それなのに、なんでキリスト教(カトリック、プロテスタント、その他もろもろの宗派を合わせて)は世界人口の1/3、22.5億人もいるのか?

やはり、もしかして、キリストは本当に復活したのでは・・・?そうとでも考えなければ、この数字は全く辻褄が合わないではないか?)それとも紀元313年にコンスタンチン大帝に手籠めにされて帝国の「囲われ女」に身を持ち崩したキリストの花嫁(教会)が、最も成功した「自然宗教」として勢力を張っている姿なのか(これは恐ろしい話で、考えたくもないが・・・。とにかく、この体制は325年以降1965年まで、いや今日まで基本的に変わっていない。)

何はともあれ、そのキリスト教は今年も4月16日の日曜日に「復活祭」を祝った。厳密に言うと、15日の日没から16日の明け方まで、徹夜して復活祭を祝うことになっていた、というのが正しいのだが・・・。

だからどうした?何か起こったか?世界は何も変わらなかったではないか?

一見するところ確かにそうだ。私も全く同感だ。何も変わったようには見受けられない。

では、本当のところはどうなのか?本当に何も変わらなかったのか。変わる兆しもないのか?

10年前から45万人を切って、毎年平均1000人単位で信者が減少している日本のカトリック教会で、もし500人の信者が本当にキリストの復活を心から信じたとしたらどうだろう?彼らが本気で聖書の教えを信じて実践しようと努めたらどうなるか?

キリストは彼らに向かって「あなた方は地の塩である」「あなた方は世の光である」マタイ5章13節以下参照)と言われた。圧倒的少数者の彼らではあるが、世間を腐敗から守り、社会に味をつけ、世の闇を照らすだろうと言う予言だ

神が天地創造の最初に人類に命じられたこと「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」(創世記1章28節)という命令を忠実に守り、若い夫婦が一斉にピルも含め一切の避妊行為をやめて愛し合えば、どうなるだろう。避妊を完全に意識から排除した愛し合う夫婦の交わりの心身を溶かす絶頂の至福の一体感・陶酔感と、避妊の成功を前提に行われるセックスによる肉体的性欲の利己的・動物的満足感(孤独なマスターベーションと大差ない)との間に月とすっぽんほどの違いのあることは、経験したものにしかわからないだろう。(1968年、時の教皇パウロ6世はカトリック信者の人工的産児制限を禁止する回勅「フマネ・ヴィテ」を発表したが、全世界の教会指導者たちは、教皇の言うことは実践不可能として無視し、葬ってしまった。しかし、その後任の聖教皇ヨハネ・パウロ2世はそれが真面目に受け取られることを望み、そのために腐心された、という経緯がある。)

結果は、多い家族は10人以上の子宝に満ち、平均でも5人ぐらいにはなるだろう。そして、親が自分の持っているものの中で最高のもの、「命よりも大切な宝」を子供たちに受け渡すために最善を尽くすなら、つまり、命より大切な「信仰」を確実に子供たちに伝えていくことに成功すれば、それだけで一世代、30年以内にカトリック人口の減少傾向は止まり、やがて際立った増加に転じるだろう。また、復活したイエスが弟子たちに現れて「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」マルコ16章15節)と言われた命令を、彼らが忠実に守って、「物見の塔」の信者さんや「エホバの証人」の信者さんたち顔負けの熱意で、宣教活動のために街頭に打って出るならば、キリスト教を信じる人の数は飛躍的に増えていくに違いない。

しかし、このような信仰の生き方は、他方では「自然宗教」の仲良しクラブの中では付き合いにくい異分子として摩擦の種になるだろう。そんな時、イエスは言う。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。」(ヨハネ15章18節)さらに、「『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」(ヨハネ15章20節)

彼らには迫害に対する心の準備がある。「悪人に手向かってはならない」(マタイ5章39節)と聖書にあるから、迫害者と対決することはないが、逃げても、隠れても追い詰められて囚われれば開き直る。拷問や殉教が恐ろしくない人間などどこにもいないが、彼らは容易に転ぶこともしないだろう。「沈黙」はそこで、「殉教者は強者」で「転ぶものは弱者」、神は弱いものにこそ憐れみをかける、というような理屈を展開するかもしれないが、それは聖書的ではない。人間的に見て、殉教するものがころぶものより強いとは言えない。復活の確信、天国への希望は確かに支えになり、強めてもくれるだろうが、それは彼ら自身が強い人間であるという意味ではない。それは人間の力ではなく、上から注がれる信仰の恵みなのだ。信仰の恵みによらなければ誰一人として殉教などできるものではない。この神からの恵みは、苦しみを和らげ、耐えきれるものに変えて下さるだろう。さもなければ誰も最後まで耐えられるものではない。ころぶ人は、信仰の恵みと神からの助けを信じない。神の助けと力添えを期待もしない人間が、人間的プライドの強さにだけ頼り、その限界に達したときに転ぶのだ。その意味で、強い人こそ転ぶといえる。キリストにあやかり、キリストに似たものとなること、つまりキリストのように死ぬこと、を光栄としない者、無上の喜びとしない者にとって、神の恵みも助けも役に立たないということか。

私はキリストの「復活」を本当に信じる人々の小さな共同体に希望をつなぎたい。自分自身「キリストが復活したこと」を信じ、自分も「死」に打ち勝って復活することを希求し、その希望にすべてを賭ける人生を送りたい。

私は日本に帰ったら ―早く帰りたい!-20人、30人の同じ信仰を共有できる仲間と共に「キリストの復活の証し人」の共同体を作ることができれば、それで満足だ。

私は世界中にその萌芽をすでに見ている。教皇フランシスコのおひざ元のローマでも小さいながら始まっている。ひょっとして日本でもすでに?

生きているうちにその「希望」の証しを見たいものだと思う。

(このシリーズ終わります)

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★ 聖書から見た「サイレンス」―その(6)

2017-04-25 21:55:07 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」―その(6)

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何かおかしくないか?映画「サイレンス」について書きながら、書けば書くほど「超自然宗教」キリスト教の「自然宗教」化、空蝉のような形骸化の歴史を跡付けることになってしまった。この先にあるのは他の自然宗教ともども、地球規模の世俗化(secularization)の波に呑まれて、日本でキリスト教が自然消滅するのを自分の目で確かめることになるのだろうか。

日本の教会は土着化のイデオロギーに麻痺して、組織的宣教の意欲をほとんど喪失してしまった。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16章15節)というイエスの命令を弟子たちは忘れてしまった。だから、今のままでは教会の宣教活動による信者の目立った増加は期待できない。

他方、日本の出生率は1家庭当たり約1.4人ということだが、カトリックの家庭も日本の平均と大差ない。ということは、カトリックの夫婦もピルを含め、あらゆる手段を駆使して盛んに避妊をしているということだ。出生率が2.07人を割り込むと、その国の人口は減少に向かう。だから、信者の数も人口に比例して減少するかと思ったらそうではない。子供に洗礼を授ける親は、ヨーロッパの信者の家庭でも急速に減ってきた。日本では、信仰は物心がついてから自由に選ばせるがいい、という一見物分かりのいい親が多い。その結果、生ぬるい信仰の親の背中を見て育った子供が、思春期を超えて信仰を受け継ぐ可能性は極めて低い。つまり、生物学的には信者の子は一家庭1.4人だとしても、信仰の再生産は限りなくゼロに近いということになる。つまり、今いる信者が高齢化して死に絶えたらそれでカトリック教会は終わりということか。

私はそんな希望の無い宗教の終焉を見届けるために、妻子も持たず、富も地位も名誉も求めず、ひたすらみすぼらしい貧乏神父の道を選んだのかと思うと情けない。華やかな国際金融マンの生活をそのまま続け、安泰な老後を送った方がはるかにましではなかったろうか。

どこかで道を間違えたに違いない。それは、遠藤が「沈黙」を書くときに選んだ手法、キリスト教を聖書に依拠することなく、小説家の思惟のままに自由に作り替えていった結果に違いない。

それなのに、聖書に依拠しない遠藤イデオロギーには奇妙な誘惑的魅力があった。それにカトリックのインテリ、聖職者の多くが虜になった。それを土台にしたスコセッシの「サイレンス」は、同じ魅力でヨーロッパの現代のカトリックインテリ、聖職者を引き寄せようとしている。その媚薬の毒素は何処に潜んでいるのか。それを解き明かすには、遠藤が捨てた聖書を再び取り上げる必要があるだろう。

新約聖書の中に現れる最初の殉教者は事実上ナザレのイエスその人だった。彼は十字架の上で壮絶な最後を遂げる前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫んだと書かれている(マタイ27章46節)。これが遠藤の「沈黙」という題の本来の典拠だろう。イエスの天の父なる神が、イエスの殉教の場面で沈黙を通されたのであれば、彼の後の続いた殉教者の場合にも一貫して沈黙されるはずではないか。

だとすれば、踏み絵を前にしたロドリゴに「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」という言葉は誰の口から出たものか。聖書的には神の口からではあり得ない。前にも言ったが、それは神の口に嘘を語らせるもの、偽りの父、堕落した天使以外に考えられない。つまり、身も蓋もない言い方をすれば「悪魔」の囁きだ。

「サイレンス」では転ぶのは人間の弱さの結果で、神は、その弱さに同情すると描かれる。聖書ではどうか。イエスは受難の前夜、今夜、あなたがたは私につまずく。と言われると、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言った。(マタイ26章31節以下)また、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とも言った。それに対して、イエスは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度私を知らないというだろう」と予言した。(マタイ26節31節以下)その夜、ペトロは公衆の面前で、呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた。そして外に出て激しく泣いた。(マタイ26章74-75節)

相前後して、12使徒の一人ユダはイエスをユダヤ教の祭司長や長老たちに密告して銀貨30枚で売り渡した。すぐに後悔したが祭司たちに取り合ってもらえず、絶望して首を括って死んだ。イタリアのアッシジには聖フランシスコの大聖堂がある。三層の聖堂の二層目の壁の目立たない薄暗がりに、ユダの首を吊った場面がフレスコ画として残っている。よく見ると腹が割け、腸があふれて垂れ下がっている。思わず目をそむけたくなるような何とも陰惨な絵だ。

ペトロの裏切りとユダの裏切りとどちらが大きいかを論ずるのはあまり意味がない。ただ、ペトロは後悔し赦されて、後に教会の頭となり最後は立派に殉教を遂げた。ユダは絶望して自殺して、弟子の仲間に戻ることはなかった。「サイレンス」の吉次郎は、何度も転び、何度も懺悔し、かといって最後まで殉教はしなかった。「沈黙」は実に中途半端な人間として彼を描いている。それに対して、井上筑後守や、フェレイラや、ロドリゴは心弱くもころんだ事実をイエスに対する裏切りとして認めることをプライドが許さず、踏み絵のキリストが「踏むがよい」と言ってくれたから、と自分に言い聞かせて正当化し、神の憐みと赦しを求めることを拒み、ユダのように自殺するならまだしも、確信犯として迫害者の手先となって、信者が殉教の道に進むのを妨げ、彼らを自分と同じように転ばせるために執念を燃やすという、まさに最悪の道を選んだ。

迫害の時代、多くの人が殉教の血を流したが、その一方で、実に多くの人が転んで教えを捨てただろう。転んだ人に神の憐みの手が及ばなかったと断言する権利は誰にもない。神の憐みは限りがないからだ。ただ、殉教は無駄死にで、転ぶことこそ神の勧めであったかのごとき「沈黙」や「サイレンス」の描き方は、悪魔的なすり替えであることがはっきり理解されれば十分だと私は思う。

キリストの十字架の場面では―イエスは神の力を帯びたメシアではないかという期待感を背景としての話だが―「そこを通りかかった人々は、イエスをののしって言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』。同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』。一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」(マルコ15章29-32節)とある。

イエスのメシアとしての使命は、悪魔の声に耳を傾けて、「不従順」によって命の与え主である神から離れ、その結果死を招き寄せてしまった人祖の罪を、ご自分の父なる神のみ旨に対する十字架上の死に至るまでの「従順」によって贖い、死を打倒して私たちに復活の命を取り戻して下さることだった。そのイエスの贖罪の業がまさに成し遂げられようとしている瞬間を狙って、「それをやめるなら信じてやろう」というのは、これもまた悪魔の嘘の囁き以外の何物でもない。

遠藤の「沈黙」もスコセッシの「サイレンス」も、人間の心理の微妙な揺らぎに付け込んで、聖書の中の悪魔の嘘の囁きを、あたかも真理の新しい解釈であるかのごとくに描き出している。どれだけ多くの人が、インカルチュレーションのまやかしのイデオロギーに惑わされたことか。「沈黙」は日本の教会を骨抜きにすることに成功した。いま「サイレンス」がキリスト教的ヨーロッパを同じ道に導こうとしているのではないかと恐れる。

映画の中では、井上筑後守は一見温厚な好々爺のように描かれているが、その魂には冷たい反キリストの炎が燃えている。インタビューに応じるスコセッシの監督も、小さな柔和な叔父さんのように見受けられるが、「サイレンス」を描く姿勢には確信犯の明確な意思が秘められているように思えてならない。

(つづく)

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★ 聖書から見た「サイレンス」その―(5)

2017-04-21 18:48:55 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」その―(5)

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村娘役 小松菜奈

私は「サイレンス」を理解するために「自然宗教」について書いた。要約すると、「自然宗教」とは人間が先で神が後、人間が起点で神は人間が自然の偉大な力を前にして人間の想像力の産物として自然の中に射出したものだ。デカルトのコギト(我思うゆえに我あり)の世界だ。神をどのように描くべきかは、太古から人間が模索し形を整えてきた。その神自身に自我はなく、神が自分から祭ごとはこうあるべしと注文を付けてくる気配もなかった。だから、世の中に「自然宗教」しか存在しなければ、宗教問題は既に解決されているはずだった。

問題は、「自然宗教」の他に全く別種の宗教があった場合だ。自然宗教の世界では、醒めた理性が-大きな声では言えないが-神など本当は存在しない、みんな人間が考えたことだ、と内心思っていたら、突然、予期しない方角から、「神」ご本人が「私は居る」と声を発した場合に人間はうろたえる。

それは、宇宙を創造しその中に人間を置いた神は私だ、だから私を礼拝する宗教を作りなさい、と名乗り出た場合に起こる。

面倒なことに、自分たちの宗教はそのようにして出来たと主張する者たちがいる。厳密にはユダヤ教とキリスト教だが、回教やモルモン教などもその類に属すると主張している。

ユデオ・クリスチャンの系譜は宇宙の創造主、全知全能の神を信じる。神は目に見えない霊的な存在だが、「私は在る」という名を語り、理性と自由意思を備えた「生きている一者」で、「神と人間」は、「我と汝」の関係で歴史を通じて対話と意思の疎通を行ってきたと主張する。

人間から発する宗教か、神から発する宗教かでは同じ「宗教」でもベクトルの方向が正反対だ。前者を「自然宗教」と呼んできたが、後者は何と呼ぶべきか。自然を創造した神がこの自然界を超えた次元に実在ることから、仮に「超自然宗教」としようか。

これだけ違うと、世界各地の自然宗教の連合体、宗教村にそのまま素直に加入できるわけがない。ユダヤ教はもともと一民族一宗教の殻に閉じ籠っていたからまだ問題は少なかったが、キリスト教の神は「私が全人類を無から創造したまことの神だ。人間の手で作られた自然宗教の神々を捨てて、回心して私を信じなさい」と言って土足で踏み込んでくるから始末が悪い。当然、摩擦・衝突は避けられない。既存の自然宗教が地上の政治権力と手を結ぶと、そこに迫害と殉教の図式が生まれることは避けられない。

現に、ヤーヴェの神を信じるユダヤ民族は、「自然宗教」を信じる周りの国々から迫害され、さんざんな目に遭ってきた歴史がある。2000年前のユダヤ教は、ギリシャ・ローマの12神を信じる強力な自然宗教国家-ローマ帝国-に従属し、なんとかインカルチュレート(土着化)して、やっと束の間の微妙な安逸を見出していたのに、身内からキリストが現れると、まず帝国の手先に成り下がっていたユダヤ教指導者との間で、次いでローマ帝国本体との間で、他の「自然宗教」と融和できない異分子として叩かれ、激しい迫害と殉教の血なまぐさい状況に突入した。当然ながら教祖イエスが最初に十字架刑の血祭りにあげられ、あとを追って弟子たちも皆殉教した。

この摩擦を回避するためには、遠藤の小説「沈黙」の流儀で行けば、とりあえず転ぶこと。ころんで宣教などやめておとなしく恭順するほかはないはずだった。

ところが、キリストの死後300年間のローマ帝国ではそうはならなかった。迫害をすればするほど、殉教者は増える一方だが、信者の数は減るどころか帝国の最下層の貧しい人々の間で燎原の火のごとく広まり、手が付けられない状態になっていった。このままでは、キリスト教徒は皇帝を神として崇まず、税収は激減し、社会の土台は流動化して、帝国の崩壊さえ恐れられる状態になっていった。そんな時、為政者が考えることはいつも同じだ。力で抹殺できない者は、取り込んで、懐柔して、骨抜きにすればいい。

自分の意に沿わない女は殺してしまえ、から一転して、今までの側女たちを全部退けてお前一人だけを寵愛するから、俺に靡け、金銀宝石も宮殿も皆お前にくれてやる、と口説いて籠絡し、まんまと自分の女にしたのが、4世紀初頭のローマ帝国とキリスト教会の関係だった。

それまでの神々の神殿は打ち壊し、その上に神殿の石材を再利用して教会を建て、神々の像の代わりに十字架を置く。異教の神官たちは退け、キリスト教の司祭に元老院の盛装を纏わせ、宮殿に住まわせた。異教の神々を信じていた大衆は、「寄らば大樹の陰」とばかりに、回心もせず聖書の神も理解しないまま、昨日まで自然宗教を拝んでいた同じメンタリティーのまま続々と洗礼を受けて教会をいっぱいにした。聖書には「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」(マタイ6:24)とあるのに、全くお構いなしだ。キリスト教は完全に「超自然宗教」のプライドを捨てて、地上の皇帝の情婦となって「自然宗教」の世界に身を沈めた。これが遠藤の「沈黙」が描いたのとは全く違ったインカルチュレーション(土着化)のパターンだ。

違いは、日本の場合一切の妥協も例外も許さず、日本の島々をローラー作戦で年毎に執拗にキリシタン狩りをしたのに対して、ローマ帝国においては、聖書の本来のキリスト教が修道院の囲いの中や、砂漠の隠遁者の間で命脈を保つことには目をつぶり、稀に個人として聖書のキリスト教を純粋に生きようとして殉教する聖人の出現するのも寛大に許容してきたことであり、また、今や帝国の国教となったキリスト教が、帝国の威信の拡大に資する限り、宣教し拡散していくのをむしろ奨励した点だ。時代は一気に下がって、プロテスタント改革でキリスト教的ヨーロッパ(神聖ローマ帝国の流れを汲む)の半分を失ったカトリックが、失地回復のため新大陸発見後の植民地支配者の船に乗って日本までやってきてキリスト教の宣教を始めたのも、その流れの一環だった。

遠藤の「沈黙」の世界は行きつくところキリシタンの神父が転んで「沈黙」することだった。遠藤の新しい宗教的イデオロギーによれば、キリスト教が進んで自ら自然宗教化し、先輩の自然宗教たちと同じ土俵に並び、ともに手を繋いで協力できる範囲でよき隣人として土着する、これが日本の場合のインカルチュレーション(土着化)の円満な到達点だった。諸宗教対話に熱心になり、世界平和運動、人権問題、環境問題、等々、誰も反対できない現世の共通善に向かって自然宗教の仲良しクラブの一員になり切ることが最善の落としどころとなる。ここまで来るのに日本のキリスト教はどれだけ多くの殉教者の血を流したことだろう。ローマ帝国300年の迫害史の比ではなかったという説もある。しかし、遠藤の「沈黙」のイデオロギーのお陰もあって、カトリックの土着化は1970年代以降ほぼ完成の域に達した。

ではこの厄介な「超自然宗教」の神はどうして今も存在するのか。それは聖書があるからだ。ユダヤ教の聖典の旧約聖書は天地万物の神による創造から、楽園での人祖アダムとエバの創造、彼らの「罪」と失楽園、全人類の遺産となった「死」の運命などが記され、同時に、その「罪」と「死」の奴隷状態からの解放と救済の歴史の始まりが記されている。時が満ちると待望の救世主、メシアが現れるのだが、そこからは新約聖書に引き継がれ、キリスト教の世界になだれ込む。

ユダヤ教は一民族一宗教の閉鎖的宗教で、神の解放と救済の古い約束―「旧約」ーも専ら神の選民であるユダヤ人に向けられたものと理解されていたが、キリストの解釈は、全ての人類、全ての被造物にその救いは及ぶもので、その良いメッセージ「福音」を全世界に行って宣べ伝えよ、と神に命じられているというものであった。結果として、キリスト教は地の果てまで宣教し、改宗を呼び掛けるおせっかいな宗教となった。民族の違い、文化の違い、歴史の違い、風土の違いなどお構いなしだ。

聖書に依拠しようとすれば、遠藤の小説「沈黙」もスコセッシの映画「サイレンス」も成り立たなくなるのだが、逆に聖書の埒外で創作されたイデオロギーとしての面白さがそこにある。

たかが一冊の小説、一編の映画と侮ってはいられない。その影響には甚大なものがある。

結果として、日本のカトリック教会の中枢をなす司教協議会から、福音宣教を担当する部署が消えて、その仕事は各司教区の主体性に委ねられた。しかし、個々の司教区には自立して宣教活動を推進する活力がなく、結局すべて消えてしまった。その間に諸宗教対話や社会問題の委員会は強化され発展を遂げた。これも遠藤流のイデオロギーに沿ったインカルチュレーションの成果だったろう。

―すでに一回分の量を超えてしまったので―

(つづく)

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★ 聖書から見た「サイレンス」-その(4)

2017-04-19 17:47:08 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」-その(4)

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ロドリゴと吉次郎

私は前回のブログの最後に「聖書」と「サイレンス」は別個の世界だと結論付けた。

では遠藤の「沈黙」は何に依拠して書かれたものだろうか。それは言うまでもなく歴史だろう。遠藤はかなり綿密に史実を調べ、その上に彼の小説を築き上げたものと思われる。「サイレンス」でも拷問や処刑の仕方は詳細を極めている。

一方では史実に沿って書きながら、宗教に関しては作者が自由に創作するというのも小説の世界ではありだろう。もともと、歴史と文化の営みの中で、人間が自然の中に投影した神々によって成り立つ「自然宗教」の世界では、神を人の思う通りのものとして描くことに何の不都合があるだろうか。従来西欧人はキリスト教の神をこのように描いてきたが、私は今まで語られなかったこのような面を神の中に見たい。実はそれこそが神の本当の姿ではないかと私は思う、という論調だ。そして、それに「そうだ、そうだ、そちらの方が私の心にもぴったりくる、納得がいく」と言う声がエコーとして加わる。

遠藤は、その小説の中で、踏み絵のキリスト像に「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」と言わせた。それは、スペイン人やポルトガル人がもたらした西洋のキリスト教ではかつて考えられたことの無いキリスト像だった。それが、「沈黙」が発表された60年代の日本では、キリスト教の日本への土着化(インカルチュレーション)として高く評価され持て囃された。これなら日本の諸宗教が構成する「村社会」に仲間入りし、「日本教キリスト派」として市民権を得ることも可能だろう。

仏教が外来の宗教でありながら、日本の「宗教村社会」に同化していったように、遠藤の提唱するような神観を日本のキリスト教会が取り入れれば、キリスト教の日本文化へのインカルチュレーション(土着化)に成功し、迫害を招くような緊張も摩擦も消え、殉教など起こりようのない状況が生まれるだろう。

このインカルチュレーションの過程は日本におけるキリスト教(この場合カトリック)の弾圧史の長い過程と並行して進んで行く。キリスト教迫害は江戸初期1587年の秀吉によるキリスト教迫害に発する400年以上前の過去にあった一過性の出来事と思う人もいるだろうが、実際は違う。その後も迫害はずっと陰湿に続いていた。

黒船の来航が1853年。まもなく外国人宣教師の入国が可能になった。1865年には、長崎の国宝大浦天主堂が建てられると、地下に潜伏していた隠れキリシタンたちが名乗り出てきた。悲劇は400年前からの禁教令がその時まだ法律として生きていたことだ。それから禁教令が解かれるまでの8年間、またしても激しいキリスト教迫害・流刑・拷問が全国に及んだ。浦上四番崩れなどと言われる一連の悲劇は、今からわずか150年余り前のことだ。このような歴史の厳しい試練から教会も多くを学んだ。

例えば、先の第二次世界大戦の最中に、上智大学事件というのが起きた。

1932年教練のために上智大学に配属されていた陸軍将校が、学生を引率し靖国神社を参拝した際、カトリック信者の学生の一部が参拝を拒んだ。

これを問題視した陸軍は配属将校引き上げの意向を示す。大学の取り潰しや教会の弾圧を恐れたカトリック教会は、文部省から「参拝は愛国・忠君のためのものである」(参拝が宗教行為か否かについては触れていない)という見解を取り付け、それを靖国参拝は宗教行為ではないと解釈して、カトリック信者にも愛国・忠君のための神社参拝が許容されることを公にした。これによって、配属将校は上智大学に復帰した。教会は軍部の圧力に完全に屈服することで危機を逃れた。

さらに、神道の現人神(あらひとがみ)の天皇に対しても、類似の解釈を適用し、国家神道との間の宗教的摩擦を回避した。こうして、従来は他宗教の儀式への参加を禁じていた教会が、身の安全のために信者の魂を売り渡し、神社参拝を含む天皇制支配に屈服した。今からたった75年前のことだ。(その後の事例は、生々しいから省略する。)

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を初めて日本に伝えて以来、今日に至るまで、さまざまなインカルチュレーションの試みがなされてきた。禅に学んだ瞑想のしかたを取り入れたり、日本の生活習慣に沿ってミサをしたり、諸宗教の平和と共存を思うあまりか、南無阿弥陀仏とイエスの天の御父を融合させたような「アッバ、アッバ、南無アッバ、・・・」などという祈りも生まれている。

教会は困難にぶつかるたびに学習し、妥協して、より摩擦の少ない、受け入れられやすい形に変容していった。遠藤の沈黙は、このような流れに対して、包括的に疑似神学的なイデオロギー的裏付けを与えたもののように私には思える。

遠藤の「沈黙」が日本のカトリックのインテリ、多くの聖職者に歓迎されたのも、今、スコセッシ監督のハリウッド映画「サイレンス」が、海外で好評なのも、現代人の心に潜むこのような疑似神学的イデオロギーを無意識のうちに待望する空気にぴったりくるものがあったからではないか。

長いブログを避けてここで一区切りつけるが、一人の神父として、このイデオロギーの様々な影響と、そこから生まれた結果について、懸念するところがある。この点を次回以降に少し掘り下げて考えてみたいと思う。

(つづく)

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★ 聖書から見た「サイレンス」-その(3)

2017-04-12 20:58:38 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」-その(3)

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(右)ころびキリシタンの迫害者 井上筑後守

小説「沈黙」の作者、遠藤周作は、どうすれば自分の人生観、宗教観にしっくりくるキリスト教を描けるかと腐心しただろうし、どのように描けば日本の読者に歓迎され、世界の読者から日本色豊かな新らしい解釈として注目を集められるかを意識したに違いない。また、日本の伝統的精神風土、諸宗教観にも敏感であるのは当然のことだ。

スコセッシ監督も「沈黙」を映画化するに際して、彼なりに同じような内面の思いに突き動かされたに違いない。 

だから、映画「サイレンス」で描かれたキリスト教は、今日の平均的日本人にとって、特別奇異な、或いは理解を超えたものとは感じられなかったはずだ。

そもそも宗教とは何か。

人間だれしも自分で望んで生れてきたわけではない。物心がついて、人間は等しく死すべき運命にあることを知るが、誰も好んで死にたい人はいない。愛する人の死を悼まぬ人もいない。死んで無に帰すると思うと恐ろしいが、魂の不滅を思うとき、死後の世界に生きるものと交流を持とうとする。祖先崇拝を中心とする宗教の起源だろう。

人間は自然がもたらす豊かな恵み無しに生きていかれない。しかし、自然が一旦荒ぶると手に負えない。地震、津波は言うに及ばず、様々な力が生存を脅かし、死をもたらす。そこで、自然の背後に神を想定し、その神と駆け引きをしようと考えた。神殿を建て、祭司を立て、祈りを捧げ、供え物をして、神のご機嫌を取り、恵みを最大限に引き出し、禍を遠ざけようとする。元はと言えば宗教とは人間の力で自然を制御しようという思いの産物だった。恵みと禍をもたらす自然現象は、際限なく区分できる。その自然の力の一つ一つに神を想定して、名前を付ける。風神、雷神、山の神、海の神、太陽の神、火の神、疫病神、死神、・・・こうして八百万(やおよろず)の神が誕生した。あまり品は良くないが、お金に見放されたら大変だから、お金の神様も数えておかなければならないだろう。これらをまとめて「自然宗教」と呼ぶ。人間が考え出して、人間が自然に投影した神々の世界だ。

時あたかも、映画「サイレンス」の舞台となった17世紀前半に、デカルトという哲学者がいた。ラテン語のコギト・エルゴ・スム「我思うゆえに我あり」という言葉で有名だ。ちょっと捻ると、「我神を思うゆえに、神あり」にもなる。しかし、デカルトの時代から考えると、科学は目覚ましい進歩を遂げた。かつて脅威であった自然の力の多くは、解明され、制御され、克服された。人は空を飛び、地球の裏側の人と顔を見ながら話をし、台風のコースはまだ変えられないにしても、天気予報は当たるようになったし、地震も津波も火山噴火も数分前には予知できるまでになった。

もはや、お祈りやお供え物という非合理な方法でしか制御できない神々を思う余地は極端に狭まった。「自然宗教」の黄昏と共に、神々の存在を信じる人は文明社会にはすでに居なくなったのではないか。

しかし、自然宗教が完全に消えてしまったわけではない。死んだら人間はどうなるのか?無に帰するのか、死後に何かあるのか?四苦八苦と仏教は言うが、四苦(生、病、老、死)八苦(説明すると長くなるからネットで見てください)の問題は科学だけでは解決されない。医者は苦痛を緩和し死期をいくらか遅らせたることはできるが、彼の職業的サービスの本当の使命は死亡診断書に署名することだ。これが無ければ火葬もおぼつかない。冠婚葬祭には今も宗教が一定の役割を演じ、特に季節の祭りは伝統的に人々の絆を強めるのに貢献している。それぞれの地域、文化、歴史、社会生活に色濃く染めぬかれ、独特の発展を遂げ、人々の心に生きているのが宗教で、遠藤の、そしてスコッセシのキリスト教の神もこの「自然宗教」のコンテクストの中で他の神々と同列に扱われている。

デカルトの「コギト」で言えば、神は人間が居ると思えばいるし、信じない人に神は存在しないし、17世紀のポルトガル人、スペイン人の神もあれば、日本人の肌に合う神がある。かと思えば、日本の土壌に根付かない神概念もあるという具合に・・・。

日本にも神仏からイワシの頭に至るまで、伝統的な諸宗教があるが、その根底には共通して流れる空気、土壌のような宗教心がある。仏教は起源から言えば外来のものであったが、長い年月の間に土着化して日本教の大きな柱として根を下ろした。半面、後発外来種のキリスト教は、その熱烈な日本への片思いにもかかわらず、土着することに成功せず、拒絶反応にあった移植臓器のように壊死してしまった。

場をわきまえず空気も読まず声高に宣教して歩いたり、日本教土着社会で不協和音をたてることをやめ、じぶんの内で密かに信仰を守ることに徹し、それでも運悪く迫害されたら、突っ張って殉教に走ったりせずに、心弱くも転んで神と周りの人の憐みと寛容にすがって生き延びなさい。異教の我意は引っ込めて、ひたすら西欧の珍しい文物をもたらすことで社会に貢献するならば、キリシタンの名前を保って加入することを許そうではないか、と日本教集団は懐の深さを示した。日本教キリスト派として土着化するには、西欧の強い父なる神を取り下げて、日本人の心に優しい母なる神に置き換えなさい。それこそ異文化への受肉、信仰の土着化の道だ、と遠藤は結論付ける。

現代のグローバル化した国際世俗社会で、世界中どこでも旗色が悪くなって壊死寸前になっているキリスト教に対して、スコセッシの「サイレンス」が掲げたメッセージは、時代が変わった、土壌も変わった、現代世界にキリスト教が生き延び、新しい文明に改めて土着化するためには、日本のキリシタンとその宣教師たちがたどった道に倣い、迫害があったら安んじて転びなさい、神は弱い者の神なのだから。現代の「国際自然宗教クラブ」に加入するために、今までのキリスト教のかたくなな主張を引っ込めて、分別のあるしなやかな女性っぽい宗教に自己変革しなければ生きていけないよ、というメッセージを時代が発信している。

そして、欧米のナイーブなキリスト教徒のインテリたちはその聖職者たちとともに、ああ、これこそ我々が探していた新しいキリスト教の活路だ、と遠藤とスコセッシを礼賛することになる。

こうして、ハリウッドの興行収益は伸び、社会の摩擦は減少し、転んだキリスト者の良心の呵責は麻薬を打った時のように集団的に緩和される。

デカルトのコギト・エルゴ・スムによれば、私が居ると思うから、私は居る。いないと思えば、いない。神が居ると思えばいる。こういう神は鬱陶しいからいない、と思えばその神は居ない。こういう神こそ好都合だ、と思えば、そういう神が居ることになる。「自然宗教」の神とはもともとそういうものだったのではないか。遠藤とスコセッシは、従来のキリスト教が今まで提唱しなかった神を発見してくれた、これこそ日本に土着できる、現代世界に復権できる新しいキリスト教の神の姿なのだ。

こうして見るかぎり、遠藤=スコセッシの世界には聖書は出てこない。聖書は関係ない、必要もない。作家遠藤と監督スコセッシの自由な創作の世界が生んだ彼ら好みのキリスト教観に尽きる。

主役の会話や行動に明確に聖書を踏まえた箇所は皆無だったことからしても、結論として、聖書と映画「サイレンス」は無関係、別個の世界ということが検証されたのではないかと思う。

(つづく)

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★ 聖書から見た「サイレンス」-その(2)

2017-04-11 00:37:16 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」-その(2)

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フェレイラ

 

前回私は、若い神父ロドリゴに対して、足元の踏み絵の銅板のキリスト像が沈黙を破って「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」と語りかけた、と書いた。もちろんこれは、小説家遠藤周作が思いついたアイディアであって、聖書の言葉ではない。

しかし、遠藤が描いたこの場面に平行し、対比できる箇所が聖書にはある。それは、キリストの十字架刑の場面の次のやり取りだ。

ルカの福音書は言う。処刑場の丘の上でイエスを真ん中に、2人の犯罪人もその両脇に十字架に架けられていた。犯罪人の一人がイエスに向かって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園に居る」と言われた。(ルカ23章32-43節参照)

これを「サイレンス」の場面に当てはめると、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」という犯罪人は、フェレイラに対応する。フェレイラにしてみれば、転ばない限りでのロドリゴの姿は、転んだ彼の良心を無言のうちに責め立てる。もちろん「我々」の中にはフェレイラの他に、穴刷りの拷問の中で緩慢な死に向かっている「すでに転んだ信者たち」も含まれる。この点、遠藤の描く井上筑後守は大嘘つきだ。転んだらすぐに穴吊りの刑から解いてやると約束しておきながら、ロドリゴを転ばせる手段として利用するときには、いとも簡単にこの約束を反古にした。フェレイラはロドリゴに言う。「私は転んで穴吊りの信者を救ってやった。お前も転んでこの者たちを救ってやれ(私も救ってくれ)」と。

それに対して、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分やったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」というもう一人の犯罪人の言葉は、穴吊りの刑にもだえ苦しんでいる「転びキリシタン」からフェレイラの向けられた言葉だ。彼らは不覚にも転んでしまって罪を犯したのだから、穴吊りの苦しみの中で死ぬのは自業自得と思ったかもしれない。しかし転んでいないロドリゴは違う。

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」という言葉は、穴吊りの苦しみの中からすがる思いでロドリゴに向けられた言葉なのだ。その裏には、「後生だから、あなただけは私たちのように転ばないで、イエスのように立派に殉教を遂げて下さい。そして、そのことを通して、私たちを、そしてあの哀れなフェレイラ神父をも、救ってください」と。ここまでは、遠藤の小説は聖書の筋書きを忠実に受け継ぐことになり得たと言えるだろう。

では、その次はどうか。イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園に居る」と言われた。そして、3時ごろイエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。これは神の「沈黙」に対するイエスの絶望の叫びに他ならない。そして「イエスは再び大声で叫び」(マタイ27章50節)「父よ、私の霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)次いで「成し遂げられた」(ヨハネ19章30節)と言って息を引き取られた。イエスが神のみ旨を成し遂げたとき、この絶望の彼方のどんでん返しとして、復活の命「ハライソ」が輝き出たのだった。

これを遠藤の場面に当てはめるとこうなる。イエスは、つまりロドリゴは、穴吊りの哀れな信者たちに、「私は転ばない。もうすぐあなた達の後を追って穴吊りの刑で殉教を遂げる。私は転ばずに殉教して天国に凱旋する。あなた達は転んでしまったが、赦されてわたしと共に天国に入るだろう」と言って励ますはずだった。その時ロドリゴは穴吊りで死に瀕している信者たちの中に、十字架の上で死にゆくイエスを見て礼拝することもできたはずだった。

しかし、遠藤はそうは書かなかった。ロドリゴはフェレイラ(聖書では悪い犯罪人)の言葉に耳を貸し、穴吊りも待たずに、早々と踏み絵を踏んで転んでしまった。そして、現世に自分の命を長らえるとともに、殉教の栄光を目前にしていたキリシタンたちをこの世の惨めな命に生還させてしまった。こうして、ロドリゴも、フェレイラと、井上筑後守と同じ陣営に合流することになる。ここに及んで、聖書が「神の沈黙」「キリストの復活」「神の国」(ハライソ)の永遠の命の栄光に入る「解放の道筋」を描いているのに対して、遠藤の「沈黙」の世界は、偽りの「神の声」のささやきに耳を貸して、現世の日々の苦しみと、老いと死と絶望への逆戻り、救いの希望の無いこの世の閉塞地獄への転落に終わっている。 

ころんで、ひと時の苦しみから逃れても、その後20年、30年とこの世のみじめさの中に生き永らえた挙句の死の先に、何の希望があるというのだろうか?来る年も、来る年も、宗門検めで踏み絵を踏み続け、そのたびに屈折した良心は苛まれ、転びものとして仏教徒からもさげすまれながら、この世で生き恥を晒し、生き地獄をさ迷うために、フェレイラは、ロドリゴは日本にやって来たのだろうか。信者から、ハライソ(天国)の希望を奪い取り、無残にもそれを打ち砕くために・・・?そして、もしこの後、新たに宣教師神父が鎖国中の日本に潜入してきたら、ロドリゴもフェレイラや井上さまと一致協力してその神父を転ばせるために執念を燃やすのだろうか。

聖書はそんなことを教えてはいない。

スコセッシは彼らの末路を、日々、迫害者に飼われた下僕として、オランダ商人の商品の品定めに明け暮れるつまらない毎日として描いている。「毒を喰らわば、皿までも!」、という言葉があるが、一層徹底して、井上筑後守のように、最も恐ろしい冷酷な迫害者として、キリシタン狩りに執念を燃やせばよかったのだろうか?

ところで、聖書によれば、天の父なる神は、キリストの十字架の場面では一貫して沈黙を守った。イエスの、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」は、徹底的な「神の沈黙」に向けられた悲痛な叫びだった。

遠藤の小説の主題はまさにこの聖書の「沈黙」する神ではなかったのか?神が本当に沈黙を貫いたのだとすれば、フェレイラとロドリゴが聞いた「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」という声は一体誰から来たのか?その効果において、そのもたらした結果において、神からの声ではなかったことは明らかではないか?

ではどこから?・・・それは、堕落した天使から以外には考えられない。この悪しき天使のことを聖書は「嘘の父」と呼ぶ。聖書を読めば、人間よりはるかに賢いこの霊的存在は、最も巧妙な形で、アダムとエヴァの失楽園を演出して以来、人類の歴史において、キリストの生涯において、節目、節目に、何度も人類を、そしてキリストを、嘘の罠に落とそうとした前科がある。作家遠藤は、そして映画監督スコセッシは(おそらく自分でも気が付かないうちに)その領域まで描いてしまっている。多くのナイーブな人たちを無意識のうちに巻き込みながら・・・。

遠藤の小説「沈黙」が一世を風靡した時、日本中が、特にカトリックのインテリと聖職者たちの多くが、見事にそれにはまった。そして今、スコセッシの「サイレンス」のお陰で、ヨーロッパのカトリックのナイーブなインテリたちがその餌食になりつつあるのではないか、と私はクールに観察している。

(つづく)

 

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★ 聖書から見た「サイレンス」=スコセーシ監督と遠藤周作の世界=

2017-04-08 21:44:23 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」

スコセーシ監督と遠藤周作の世界

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私のブログがカトリックの月刊誌「福音と社会」に転載され、反響がとてもよかった、と聞いて気をよくしたわけではない。もともと圧倒的に書き足りなかったので、続編を書こうと思っていたところだった。

ハリウッド映画の「サイレンス」が今の時代に世界で注目されるのは、「キリスト教を信じる立場」から「殉教」をテーマにしているからではなく、「キリスト教を信じない立場」から「棄教」をテーマにしているからだと私は思う。

遠藤周作も私と同じ12歳でカトリックの洗礼を受け、スコセッシ監督もニューヨーク生まれのシチリア系イタリア人として、少年時代にカトリックの司祭を目指したというから、二人ともある面では私と似たような成長過程を共有して今日に至ったのかもしれないが、小説家としてはそれなりの評価を得た半面、信仰をより深く生きようとした精進の印は、その後の彼らの業績からは見出せない。

宗教と神に対する姿勢についても、一般の知識人が人間的知恵と、瞑想と、修行などを通して到達しうる「自然宗教の神」以上のものは彼らの作品の中に登場しない。

人間の自然な営みの埒外に永遠の昔から存在した神の側からの無償の恵みとして与えられ、個人との関係では、自由な同意によってのみ成立するキリスト教の生きた血の通った信仰の躍動感が、彼らの作品からは特に感じられないのはそのためだろう。

たまたま縁あって少年時代にカトリックの洗礼を受けたとしても、その後信仰を深めるために精進を続けたわけでもなく、神学者でも、まして聖人でもない一人の文学者と一人の映画監督が「キリスト教の棄教」をテーマに生み出した作品は、作者の人生観と文化論的主張を反映するものではあっても、キリスト教の伝統的信仰が見落としてきた点を発見したり、より優れた解釈に光を当て得るほどのものではとうていあり得ない。

「サイレンス」の美しい映像はスコセッシ監督の真骨頂であるが、ストーリーのクライマックスの一つ、迫害下の危険な日本に潜入した若く情熱的なイエズス会士ロドリゴ神父と、イエズス会の有徳の指導者としてロドリゴたちの敬愛の的であったが、今は棄教して迫害者の側に立ったフェレイラ元イエズス会士とのやり取りは特に興味深い。

拷問に耐えかねてすでに棄教を誓っているのに、神父が棄教しない限りその苦しみと迫りくる死から解放されない哀れな信者たちを前にして、フェレイラは自らの棄教によって彼らを救うべきでないか、自分はその道を選んで棄教した、とロドリゴに迫る。一見理にかなった説得力のある言葉に聞こえないだろうか。

実は、これは、自らもキリシタンであったが、踏み絵を踏んで殉教を免れ生き延びただけでなく、キリシタンに最も恐れられる迫害者に立場を変えた井上筑後守が、信仰に燃えたキリシタン・バテレンを転ばせるために考え出した実に巧妙な仕組みなのだ。 

ロドリゴに対して、足元の踏み絵の銅板のキリストは沈黙を破って語りかける。

「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」何という誘惑に満ちた言葉だろう。しかし、これは聖書の言葉ではない。作家遠藤周作の文学的創作活動の果実だ。

このブログの読者の皆さん。あなたがロドリゴ神父の立場なら、この「沈黙しないキリスト」の言葉に説得されて、同意して踏み絵を踏むだろうか。実は、この点こそ「沈黙」が出版された当初から多くの人の心に棘のようにひっかかった核心的な部分なのだと思う。そしてまさにこの点が今、スコセッシ監督の「サイレンス」を見たヨーロッパのカトリックのインテリの心に違和感なく溶け込んでいきつつあるように思われる。

私は一編のブログの長さの都合から一旦ここで筆をおくが、次のブログではこの点を聖書の言葉と対比しながら、綿密に検討しようと思う。

つづく)

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