:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 聖書から見た「サイレンス」―その(6)

2017-04-25 21:55:07 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」―その(6)

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何かおかしくないか?映画「サイレンス」について書きながら、書けば書くほど「超自然宗教」キリスト教の「自然宗教」化、空蝉のような形骸化の歴史を跡付けることになってしまった。この先にあるのは他の自然宗教ともども、地球規模の世俗化(secularization)の波に呑まれて、日本でキリスト教が自然消滅するのを自分の目で確かめることになるのだろうか。

日本の教会は土着化のイデオロギーに麻痺して、組織的宣教の意欲をほとんど喪失してしまった。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16章15節)というイエスの命令を弟子たちは忘れてしまった。だから、今のままでは教会の宣教活動による信者の目立った増加は期待できない。

他方、日本の出生率は1家庭当たり約1.4人ということだが、カトリックの家庭も日本の平均と大差ない。ということは、カトリックの夫婦もピルを含め、あらゆる手段を駆使して盛んに避妊をしているということだ。出生率が2.07人を割り込むと、その国の人口は減少に向かう。だから、信者の数も人口に比例して減少するかと思ったらそうではない。子供に洗礼を授ける親は、ヨーロッパの信者の家庭でも急速に減ってきた。日本では、信仰は物心がついてから自由に選ばせるがいい、という一見物分かりのいい親が多い。その結果、生ぬるい信仰の親の背中を見て育った子供が、思春期を超えて信仰を受け継ぐ可能性は極めて低い。つまり、生物学的には信者の子は一家庭1.4人だとしても、信仰の再生産は限りなくゼロに近いということになる。つまり、今いる信者が高齢化して死に絶えたらそれでカトリック教会は終わりということか。

私はそんな希望の無い宗教の終焉を見届けるために、妻子も持たず、富も地位も名誉も求めず、ひたすらみすぼらしい貧乏神父の道を選んだのかと思うと情けない。華やかな国際金融マンの生活をそのまま続け、安泰な老後を送った方がはるかにましではなかったろうか。

どこかで道を間違えたに違いない。それは、遠藤が「沈黙」を書くときに選んだ手法、キリスト教を聖書に依拠することなく、小説家の思惟のままに自由に作り替えていった結果に違いない。

それなのに、聖書に依拠しない遠藤イデオロギーには奇妙な誘惑的魅力があった。それにカトリックのインテリ、聖職者の多くが虜になった。それを土台にしたスコセッシの「サイレンス」は、同じ魅力でヨーロッパの現代のカトリックインテリ、聖職者を引き寄せようとしている。その媚薬の毒素は何処に潜んでいるのか。それを解き明かすには、遠藤が捨てた聖書を再び取り上げる必要があるだろう。

新約聖書の中に現れる最初の殉教者は事実上ナザレのイエスその人だった。彼は十字架の上で壮絶な最後を遂げる前に「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と大声で叫んだと書かれている(マタイ27章46節)。これが遠藤の「沈黙」という題の本来の典拠だろう。イエスの天の父なる神が、イエスの殉教の場面で沈黙を通されたのであれば、彼の後の続いた殉教者の場合にも一貫して沈黙されるはずではないか。

だとすれば、踏み絵を前にしたロドリゴに「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」という言葉は誰の口から出たものか。聖書的には神の口からではあり得ない。前にも言ったが、それは神の口に嘘を語らせるもの、偽りの父、堕落した天使以外に考えられない。つまり、身も蓋もない言い方をすれば「悪魔」の囁きだ。

「サイレンス」では転ぶのは人間の弱さの結果で、神は、その弱さに同情すると描かれる。聖書ではどうか。イエスは受難の前夜、今夜、あなたがたは私につまずく。と言われると、ペトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言った。(マタイ26章31節以下)また、「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」とも言った。それに対して、イエスは「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度私を知らないというだろう」と予言した。(マタイ26節31節以下)その夜、ペトロは公衆の面前で、呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ鶏が鳴いた。そして外に出て激しく泣いた。(マタイ26章74-75節)

相前後して、12使徒の一人ユダはイエスをユダヤ教の祭司長や長老たちに密告して銀貨30枚で売り渡した。すぐに後悔したが祭司たちに取り合ってもらえず、絶望して首を括って死んだ。イタリアのアッシジには聖フランシスコの大聖堂がある。三層の聖堂の二層目の壁の目立たない薄暗がりに、ユダの首を吊った場面がフレスコ画として残っている。よく見ると腹が割け、腸があふれて垂れ下がっている。思わず目をそむけたくなるような何とも陰惨な絵だ。

ペトロの裏切りとユダの裏切りとどちらが大きいかを論ずるのはあまり意味がない。ただ、ペトロは後悔し赦されて、後に教会の頭となり最後は立派に殉教を遂げた。ユダは絶望して自殺して、弟子の仲間に戻ることはなかった。「サイレンス」の吉次郎は、何度も転び、何度も懺悔し、かといって最後まで殉教はしなかった。「沈黙」は実に中途半端な人間として彼を描いている。それに対して、井上筑後守や、フェレイラや、ロドリゴは心弱くもころんだ事実をイエスに対する裏切りとして認めることをプライドが許さず、踏み絵のキリストが「踏むがよい」と言ってくれたから、と自分に言い聞かせて正当化し、神の憐みと赦しを求めることを拒み、ユダのように自殺するならまだしも、確信犯として迫害者の手先となって、信者が殉教の道に進むのを妨げ、彼らを自分と同じように転ばせるために執念を燃やすという、まさに最悪の道を選んだ。

迫害の時代、多くの人が殉教の血を流したが、その一方で、実に多くの人が転んで教えを捨てただろう。転んだ人に神の憐みの手が及ばなかったと断言する権利は誰にもない。神の憐みは限りがないからだ。ただ、殉教は無駄死にで、転ぶことこそ神の勧めであったかのごとき「沈黙」や「サイレンス」の描き方は、悪魔的なすり替えであることがはっきり理解されれば十分だと私は思う。

キリストの十字架の場面では―イエスは神の力を帯びたメシアではないかという期待感を背景としての話だが―「そこを通りかかった人々は、イエスをののしって言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ』。同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう』。一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」(マルコ15章29-32節)とある。

イエスのメシアとしての使命は、悪魔の声に耳を傾けて、「不従順」によって命の与え主である神から離れ、その結果死を招き寄せてしまった人祖の罪を、ご自分の父なる神のみ旨に対する十字架上の死に至るまでの「従順」によって贖い、死を打倒して私たちに復活の命を取り戻して下さることだった。そのイエスの贖罪の業がまさに成し遂げられようとしている瞬間を狙って、「それをやめるなら信じてやろう」というのは、これもまた悪魔の嘘の囁き以外の何物でもない。

遠藤の「沈黙」もスコセッシの「サイレンス」も、人間の心理の微妙な揺らぎに付け込んで、聖書の中の悪魔の嘘の囁きを、あたかも真理の新しい解釈であるかのごとくに描き出している。どれだけ多くの人が、インカルチュレーションのまやかしのイデオロギーに惑わされたことか。「沈黙」は日本の教会を骨抜きにすることに成功した。いま「サイレンス」がキリスト教的ヨーロッパを同じ道に導こうとしているのではないかと恐れる。

映画の中では、井上筑後守は一見温厚な好々爺のように描かれているが、その魂には冷たい反キリストの炎が燃えている。インタビューに応じるスコセッシの監督も、小さな柔和な叔父さんのように見受けられるが、「サイレンス」を描く姿勢には確信犯の明確な意思が秘められているように思えてならない。

(つづく)

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★ 聖書から見た「サイレンス」その―(5)

2017-04-21 18:48:55 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」その―(5)

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村娘役 小松菜奈

私は「サイレンス」を理解するために「自然宗教」について書いた。要約すると、「自然宗教」とは人間が先で神が後、人間が起点で神は人間が自然の偉大な力を前にして人間の想像力の産物として自然の中に射出したものだ。デカルトのコギト(我思うゆえに我あり)の世界だ。神をどのように描くべきかは、太古から人間が模索し形を整えてきた。その神自身に自我はなく、神が自分から祭ごとはこうあるべしと注文を付けてくる気配もなかった。だから、世の中に「自然宗教」しか存在しなければ、宗教問題は既に解決されているはずだった。

問題は、「自然宗教」の他に全く別種の宗教があった場合だ。自然宗教の世界では、醒めた理性が-大きな声では言えないが-神など本当は存在しない、みんな人間が考えたことだ、と内心思っていたら、突然、予期しない方角から、「神」ご本人が「私は居る」と声を発した場合に人間はうろたえる。

それは、宇宙を創造しその中に人間を置いた神は私だ、だから私を礼拝する宗教を作りなさい、と名乗り出た場合に起こる。

面倒なことに、自分たちの宗教はそのようにして出来たと主張する者たちがいる。厳密にはユダヤ教とキリスト教だが、回教やモルモン教などもその類に属すると主張している。

ユデオ・クリスチャンの系譜は宇宙の創造主、全知全能の神を信じる。神は目に見えない霊的な存在だが、「私は在る」という名を語り、理性と自由意思を備えた「生きている一者」で、「神と人間」は、「我と汝」の関係で歴史を通じて対話と意思の疎通を行ってきたと主張する。

人間から発する宗教か、神から発する宗教かでは同じ「宗教」でもベクトルの方向が正反対だ。前者を「自然宗教」と呼んできたが、後者は何と呼ぶべきか。自然を創造した神がこの自然界を超えた次元に実在ることから、仮に「超自然宗教」としようか。

これだけ違うと、世界各地の自然宗教の連合体、宗教村にそのまま素直に加入できるわけがない。ユダヤ教はもともと一民族一宗教の殻に閉じ籠っていたからまだ問題は少なかったが、キリスト教の神は「私が全人類を無から創造したまことの神だ。人間の手で作られた自然宗教の神々を捨てて、回心して私を信じなさい」と言って土足で踏み込んでくるから始末が悪い。当然、摩擦・衝突は避けられない。既存の自然宗教が地上の政治権力と手を結ぶと、そこに迫害と殉教の図式が生まれることは避けられない。

現に、ヤーヴェの神を信じるユダヤ民族は、「自然宗教」を信じる周りの国々から迫害され、さんざんな目に遭ってきた歴史がある。2000年前のユダヤ教は、ギリシャ・ローマの12神を信じる強力な自然宗教国家-ローマ帝国-に従属し、なんとかインカルチュレート(土着化)して、やっと束の間の微妙な安逸を見出していたのに、身内からキリストが現れると、まず帝国の手先に成り下がっていたユダヤ教指導者との間で、次いでローマ帝国本体との間で、他の「自然宗教」と融和できない異分子として叩かれ、激しい迫害と殉教の血なまぐさい状況に突入した。当然ながら教祖イエスが最初に十字架刑の血祭りにあげられ、あとを追って弟子たちも皆殉教した。

この摩擦を回避するためには、遠藤の小説「沈黙」の流儀で行けば、とりあえず転ぶこと。ころんで宣教などやめておとなしく恭順するほかはないはずだった。

ところが、キリストの死後300年間のローマ帝国ではそうはならなかった。迫害をすればするほど、殉教者は増える一方だが、信者の数は減るどころか帝国の最下層の貧しい人々の間で燎原の火のごとく広まり、手が付けられない状態になっていった。このままでは、キリスト教徒は皇帝を神として崇まず、税収は激減し、社会の土台は流動化して、帝国の崩壊さえ恐れられる状態になっていった。そんな時、為政者が考えることはいつも同じだ。力で抹殺できない者は、取り込んで、懐柔して、骨抜きにすればいい。

自分の意に沿わない女は殺してしまえ、から一転して、今までの側女たちを全部退けてお前一人だけを寵愛するから、俺に靡け、金銀宝石も宮殿も皆お前にくれてやる、と口説いて籠絡し、まんまと自分の女にしたのが、4世紀初頭のローマ帝国とキリスト教会の関係だった。

それまでの神々の神殿は打ち壊し、その上に神殿の石材を再利用して教会を建て、神々の像の代わりに十字架を置く。異教の神官たちは退け、キリスト教の司祭に元老院の盛装を纏わせ、宮殿に住まわせた。異教の神々を信じていた大衆は、「寄らば大樹の陰」とばかりに、回心もせず聖書の神も理解しないまま、昨日まで自然宗教を拝んでいた同じメンタリティーのまま続々と洗礼を受けて教会をいっぱいにした。聖書には「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」(マタイ6:24)とあるのに、全くお構いなしだ。キリスト教は完全に「超自然宗教」のプライドを捨てて、地上の皇帝の情婦となって「自然宗教」の世界に身を沈めた。これが遠藤の「沈黙」が描いたのとは全く違ったインカルチュレーション(土着化)のパターンだ。

違いは、日本の場合一切の妥協も例外も許さず、日本の島々をローラー作戦で年毎に執拗にキリシタン狩りをしたのに対して、ローマ帝国においては、聖書の本来のキリスト教が修道院の囲いの中や、砂漠の隠遁者の間で命脈を保つことには目をつぶり、稀に個人として聖書のキリスト教を純粋に生きようとして殉教する聖人の出現するのも寛大に許容してきたことであり、また、今や帝国の国教となったキリスト教が、帝国の威信の拡大に資する限り、宣教し拡散していくのをむしろ奨励した点だ。時代は一気に下がって、プロテスタント改革でキリスト教的ヨーロッパ(神聖ローマ帝国の流れを汲む)の半分を失ったカトリックが、失地回復のため新大陸発見後の植民地支配者の船に乗って日本までやってきてキリスト教の宣教を始めたのも、その流れの一環だった。

遠藤の「沈黙」の世界は行きつくところキリシタンの神父が転んで「沈黙」することだった。遠藤の新しい宗教的イデオロギーによれば、キリスト教が進んで自ら自然宗教化し、先輩の自然宗教たちと同じ土俵に並び、ともに手を繋いで協力できる範囲でよき隣人として土着する、これが日本の場合のインカルチュレーション(土着化)の円満な到達点だった。諸宗教対話に熱心になり、世界平和運動、人権問題、環境問題、等々、誰も反対できない現世の共通善に向かって自然宗教の仲良しクラブの一員になり切ることが最善の落としどころとなる。ここまで来るのに日本のキリスト教はどれだけ多くの殉教者の血を流したことだろう。ローマ帝国300年の迫害史の比ではなかったという説もある。しかし、遠藤の「沈黙」のイデオロギーのお陰もあって、カトリックの土着化は1970年代以降ほぼ完成の域に達した。

ではこの厄介な「超自然宗教」の神はどうして今も存在するのか。それは聖書があるからだ。ユダヤ教の聖典の旧約聖書は天地万物の神による創造から、楽園での人祖アダムとエバの創造、彼らの「罪」と失楽園、全人類の遺産となった「死」の運命などが記され、同時に、その「罪」と「死」の奴隷状態からの解放と救済の歴史の始まりが記されている。時が満ちると待望の救世主、メシアが現れるのだが、そこからは新約聖書に引き継がれ、キリスト教の世界になだれ込む。

ユダヤ教は一民族一宗教の閉鎖的宗教で、神の解放と救済の古い約束―「旧約」ーも専ら神の選民であるユダヤ人に向けられたものと理解されていたが、キリストの解釈は、全ての人類、全ての被造物にその救いは及ぶもので、その良いメッセージ「福音」を全世界に行って宣べ伝えよ、と神に命じられているというものであった。結果として、キリスト教は地の果てまで宣教し、改宗を呼び掛けるおせっかいな宗教となった。民族の違い、文化の違い、歴史の違い、風土の違いなどお構いなしだ。

聖書に依拠しようとすれば、遠藤の小説「沈黙」もスコセッシの映画「サイレンス」も成り立たなくなるのだが、逆に聖書の埒外で創作されたイデオロギーとしての面白さがそこにある。

たかが一冊の小説、一編の映画と侮ってはいられない。その影響には甚大なものがある。

結果として、日本のカトリック教会の中枢をなす司教協議会から、福音宣教を担当する部署が消えて、その仕事は各司教区の主体性に委ねられた。しかし、個々の司教区には自立して宣教活動を推進する活力がなく、結局すべて消えてしまった。その間に諸宗教対話や社会問題の委員会は強化され発展を遂げた。これも遠藤流のイデオロギーに沿ったインカルチュレーションの成果だったろう。

―すでに一回分の量を超えてしまったので―

(つづく)

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★ 聖書から見た「サイレンス」-その(4)

2017-04-19 17:47:08 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」-その(4)

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ロドリゴと吉次郎

私は前回のブログの最後に「聖書」と「サイレンス」は別個の世界だと結論付けた。

では遠藤の「沈黙」は何に依拠して書かれたものだろうか。それは言うまでもなく歴史だろう。遠藤はかなり綿密に史実を調べ、その上に彼の小説を築き上げたものと思われる。「サイレンス」でも拷問や処刑の仕方は詳細を極めている。

一方では史実に沿って書きながら、宗教に関しては作者が自由に創作するというのも小説の世界ではありだろう。もともと、歴史と文化の営みの中で、人間が自然の中に投影した神々によって成り立つ「自然宗教」の世界では、神を人の思う通りのものとして描くことに何の不都合があるだろうか。従来西欧人はキリスト教の神をこのように描いてきたが、私は今まで語られなかったこのような面を神の中に見たい。実はそれこそが神の本当の姿ではないかと私は思う、という論調だ。そして、それに「そうだ、そうだ、そちらの方が私の心にもぴったりくる、納得がいく」と言う声がエコーとして加わる。

遠藤は、その小説の中で、踏み絵のキリスト像に「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」と言わせた。それは、スペイン人やポルトガル人がもたらした西洋のキリスト教ではかつて考えられたことの無いキリスト像だった。それが、「沈黙」が発表された60年代の日本では、キリスト教の日本への土着化(インカルチュレーション)として高く評価され持て囃された。これなら日本の諸宗教が構成する「村社会」に仲間入りし、「日本教キリスト派」として市民権を得ることも可能だろう。

仏教が外来の宗教でありながら、日本の「宗教村社会」に同化していったように、遠藤の提唱するような神観を日本のキリスト教会が取り入れれば、キリスト教の日本文化へのインカルチュレーション(土着化)に成功し、迫害を招くような緊張も摩擦も消え、殉教など起こりようのない状況が生まれるだろう。

このインカルチュレーションの過程は日本におけるキリスト教(この場合カトリック)の弾圧史の長い過程と並行して進んで行く。キリスト教迫害は江戸初期1587年の秀吉によるキリスト教迫害に発する400年以上前の過去にあった一過性の出来事と思う人もいるだろうが、実際は違う。その後も迫害はずっと陰湿に続いていた。

黒船の来航が1853年。まもなく外国人宣教師の入国が可能になった。1865年には、長崎の国宝大浦天主堂が建てられると、地下に潜伏していた隠れキリシタンたちが名乗り出てきた。悲劇は400年前からの禁教令がその時まだ法律として生きていたことだ。それから禁教令が解かれるまでの8年間、またしても激しいキリスト教迫害・流刑・拷問が全国に及んだ。浦上四番崩れなどと言われる一連の悲劇は、今からわずか150年余り前のことだ。このような歴史の厳しい試練から教会も多くを学んだ。

例えば、先の第二次世界大戦の最中に、上智大学事件というのが起きた。

1932年教練のために上智大学に配属されていた陸軍将校が、学生を引率し靖国神社を参拝した際、カトリック信者の学生の一部が参拝を拒んだ。

これを問題視した陸軍は配属将校引き上げの意向を示す。大学の取り潰しや教会の弾圧を恐れたカトリック教会は、文部省から「参拝は愛国・忠君のためのものである」(参拝が宗教行為か否かについては触れていない)という見解を取り付け、それを靖国参拝は宗教行為ではないと解釈して、カトリック信者にも愛国・忠君のための神社参拝が許容されることを公にした。これによって、配属将校は上智大学に復帰した。教会は軍部の圧力に完全に屈服することで危機を逃れた。

さらに、神道の現人神(あらひとがみ)の天皇に対しても、類似の解釈を適用し、国家神道との間の宗教的摩擦を回避した。こうして、従来は他宗教の儀式への参加を禁じていた教会が、身の安全のために信者の魂を売り渡し、神社参拝を含む天皇制支配に屈服した。今からたった75年前のことだ。(その後の事例は、生々しいから省略する。)

フランシスコ・ザビエルがキリスト教を初めて日本に伝えて以来、今日に至るまで、さまざまなインカルチュレーションの試みがなされてきた。禅に学んだ瞑想のしかたを取り入れたり、日本の生活習慣に沿ってミサをしたり、諸宗教の平和と共存を思うあまりか、南無阿弥陀仏とイエスの天の御父を融合させたような「アッバ、アッバ、南無アッバ、・・・」などという祈りも生まれている。

教会は困難にぶつかるたびに学習し、妥協して、より摩擦の少ない、受け入れられやすい形に変容していった。遠藤の沈黙は、このような流れに対して、包括的に疑似神学的なイデオロギー的裏付けを与えたもののように私には思える。

遠藤の「沈黙」が日本のカトリックのインテリ、多くの聖職者に歓迎されたのも、今、スコセッシ監督のハリウッド映画「サイレンス」が、海外で好評なのも、現代人の心に潜むこのような疑似神学的イデオロギーを無意識のうちに待望する空気にぴったりくるものがあったからではないか。

長いブログを避けてここで一区切りつけるが、一人の神父として、このイデオロギーの様々な影響と、そこから生まれた結果について、懸念するところがある。この点を次回以降に少し掘り下げて考えてみたいと思う。

(つづく)

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★ 聖書から見た「サイレンス」-その(3)

2017-04-12 20:58:38 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」-その(3)

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(右)ころびキリシタンの迫害者 井上筑後守

小説「沈黙」の作者、遠藤周作は、どうすれば自分の人生観、宗教観にしっくりくるキリスト教を描けるかと腐心しただろうし、どのように描けば日本の読者に歓迎され、世界の読者から日本色豊かな新らしい解釈として注目を集められるかを意識したに違いない。また、日本の伝統的精神風土、諸宗教観にも敏感であるのは当然のことだ。

スコセッシ監督も「沈黙」を映画化するに際して、彼なりに同じような内面の思いに突き動かされたに違いない。 

だから、映画「サイレンス」で描かれたキリスト教は、今日の平均的日本人にとって、特別奇異な、或いは理解を超えたものとは感じられなかったはずだ。

そもそも宗教とは何か。

人間だれしも自分で望んで生れてきたわけではない。物心がついて、人間は等しく死すべき運命にあることを知るが、誰も好んで死にたい人はいない。愛する人の死を悼まぬ人もいない。死んで無に帰すると思うと恐ろしいが、魂の不滅を思うとき、死後の世界に生きるものと交流を持とうとする。祖先崇拝を中心とする宗教の起源だろう。

人間は自然がもたらす豊かな恵み無しに生きていかれない。しかし、自然が一旦荒ぶると手に負えない。地震、津波は言うに及ばず、様々な力が生存を脅かし、死をもたらす。そこで、自然の背後に神を想定し、その神と駆け引きをしようと考えた。神殿を建て、祭司を立て、祈りを捧げ、供え物をして、神のご機嫌を取り、恵みを最大限に引き出し、禍を遠ざけようとする。元はと言えば宗教とは人間の力で自然を制御しようという思いの産物だった。恵みと禍をもたらす自然現象は、際限なく区分できる。その自然の力の一つ一つに神を想定して、名前を付ける。風神、雷神、山の神、海の神、太陽の神、火の神、疫病神、死神、・・・こうして八百万(やおよろず)の神が誕生した。あまり品は良くないが、お金に見放されたら大変だから、お金の神様も数えておかなければならないだろう。これらをまとめて「自然宗教」と呼ぶ。人間が考え出して、人間が自然に投影した神々の世界だ。

時あたかも、映画「サイレンス」の舞台となった17世紀前半に、デカルトという哲学者がいた。ラテン語のコギト・エルゴ・スム「我思うゆえに我あり」という言葉で有名だ。ちょっと捻ると、「我神を思うゆえに、神あり」にもなる。しかし、デカルトの時代から考えると、科学は目覚ましい進歩を遂げた。かつて脅威であった自然の力の多くは、解明され、制御され、克服された。人は空を飛び、地球の裏側の人と顔を見ながら話をし、台風のコースはまだ変えられないにしても、天気予報は当たるようになったし、地震も津波も火山噴火も数分前には予知できるまでになった。

もはや、お祈りやお供え物という非合理な方法でしか制御できない神々を思う余地は極端に狭まった。「自然宗教」の黄昏と共に、神々の存在を信じる人は文明社会にはすでに居なくなったのではないか。

しかし、自然宗教が完全に消えてしまったわけではない。死んだら人間はどうなるのか?無に帰するのか、死後に何かあるのか?四苦八苦と仏教は言うが、四苦(生、病、老、死)八苦(説明すると長くなるからネットで見てください)の問題は科学だけでは解決されない。医者は苦痛を緩和し死期をいくらか遅らせたることはできるが、彼の職業的サービスの本当の使命は死亡診断書に署名することだ。これが無ければ火葬もおぼつかない。冠婚葬祭には今も宗教が一定の役割を演じ、特に季節の祭りは伝統的に人々の絆を強めるのに貢献している。それぞれの地域、文化、歴史、社会生活に色濃く染めぬかれ、独特の発展を遂げ、人々の心に生きているのが宗教で、遠藤の、そしてスコッセシのキリスト教の神もこの「自然宗教」のコンテクストの中で他の神々と同列に扱われている。

デカルトの「コギト」で言えば、神は人間が居ると思えばいるし、信じない人に神は存在しないし、17世紀のポルトガル人、スペイン人の神もあれば、日本人の肌に合う神がある。かと思えば、日本の土壌に根付かない神概念もあるという具合に・・・。

日本にも神仏からイワシの頭に至るまで、伝統的な諸宗教があるが、その根底には共通して流れる空気、土壌のような宗教心がある。仏教は起源から言えば外来のものであったが、長い年月の間に土着化して日本教の大きな柱として根を下ろした。半面、後発外来種のキリスト教は、その熱烈な日本への片思いにもかかわらず、土着することに成功せず、拒絶反応にあった移植臓器のように壊死してしまった。

場をわきまえず空気も読まず声高に宣教して歩いたり、日本教土着社会で不協和音をたてることをやめ、じぶんの内で密かに信仰を守ることに徹し、それでも運悪く迫害されたら、突っ張って殉教に走ったりせずに、心弱くも転んで神と周りの人の憐みと寛容にすがって生き延びなさい。異教の我意は引っ込めて、ひたすら西欧の珍しい文物をもたらすことで社会に貢献するならば、キリシタンの名前を保って加入することを許そうではないか、と日本教集団は懐の深さを示した。日本教キリスト派として土着化するには、西欧の強い父なる神を取り下げて、日本人の心に優しい母なる神に置き換えなさい。それこそ異文化への受肉、信仰の土着化の道だ、と遠藤は結論付ける。

現代のグローバル化した国際世俗社会で、世界中どこでも旗色が悪くなって壊死寸前になっているキリスト教に対して、スコセッシの「サイレンス」が掲げたメッセージは、時代が変わった、土壌も変わった、現代世界にキリスト教が生き延び、新しい文明に改めて土着化するためには、日本のキリシタンとその宣教師たちがたどった道に倣い、迫害があったら安んじて転びなさい、神は弱い者の神なのだから。現代の「国際自然宗教クラブ」に加入するために、今までのキリスト教のかたくなな主張を引っ込めて、分別のあるしなやかな女性っぽい宗教に自己変革しなければ生きていけないよ、というメッセージを時代が発信している。

そして、欧米のナイーブなキリスト教徒のインテリたちはその聖職者たちとともに、ああ、これこそ我々が探していた新しいキリスト教の活路だ、と遠藤とスコセッシを礼賛することになる。

こうして、ハリウッドの興行収益は伸び、社会の摩擦は減少し、転んだキリスト者の良心の呵責は麻薬を打った時のように集団的に緩和される。

デカルトのコギト・エルゴ・スムによれば、私が居ると思うから、私は居る。いないと思えば、いない。神が居ると思えばいる。こういう神は鬱陶しいからいない、と思えばその神は居ない。こういう神こそ好都合だ、と思えば、そういう神が居ることになる。「自然宗教」の神とはもともとそういうものだったのではないか。遠藤とスコセッシは、従来のキリスト教が今まで提唱しなかった神を発見してくれた、これこそ日本に土着できる、現代世界に復権できる新しいキリスト教の神の姿なのだ。

こうして見るかぎり、遠藤=スコセッシの世界には聖書は出てこない。聖書は関係ない、必要もない。作家遠藤と監督スコセッシの自由な創作の世界が生んだ彼ら好みのキリスト教観に尽きる。

主役の会話や行動に明確に聖書を踏まえた箇所は皆無だったことからしても、結論として、聖書と映画「サイレンス」は無関係、別個の世界ということが検証されたのではないかと思う。

(つづく)

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★ 聖書から見た「サイレンス」-その(2)

2017-04-11 00:37:16 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」-その(2)

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フェレイラ

 

前回私は、若い神父ロドリゴに対して、足元の踏み絵の銅板のキリスト像が沈黙を破って「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」と語りかけた、と書いた。もちろんこれは、小説家遠藤周作が思いついたアイディアであって、聖書の言葉ではない。

しかし、遠藤が描いたこの場面に平行し、対比できる箇所が聖書にはある。それは、キリストの十字架刑の場面の次のやり取りだ。

ルカの福音書は言う。処刑場の丘の上でイエスを真ん中に、2人の犯罪人もその両脇に十字架に架けられていた。犯罪人の一人がイエスに向かって「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園に居る」と言われた。(ルカ23章32-43節参照)

これを「サイレンス」の場面に当てはめると、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」という犯罪人は、フェレイラに対応する。フェレイラにしてみれば、転ばない限りでのロドリゴの姿は、転んだ彼の良心を無言のうちに責め立てる。もちろん「我々」の中にはフェレイラの他に、穴刷りの拷問の中で緩慢な死に向かっている「すでに転んだ信者たち」も含まれる。この点、遠藤の描く井上筑後守は大嘘つきだ。転んだらすぐに穴吊りの刑から解いてやると約束しておきながら、ロドリゴを転ばせる手段として利用するときには、いとも簡単にこの約束を反古にした。フェレイラはロドリゴに言う。「私は転んで穴吊りの信者を救ってやった。お前も転んでこの者たちを救ってやれ(私も救ってくれ)」と。

それに対して、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分やったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」というもう一人の犯罪人の言葉は、穴吊りの刑にもだえ苦しんでいる「転びキリシタン」からフェレイラの向けられた言葉だ。彼らは不覚にも転んでしまって罪を犯したのだから、穴吊りの苦しみの中で死ぬのは自業自得と思ったかもしれない。しかし転んでいないロドリゴは違う。

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」という言葉は、穴吊りの苦しみの中からすがる思いでロドリゴに向けられた言葉なのだ。その裏には、「後生だから、あなただけは私たちのように転ばないで、イエスのように立派に殉教を遂げて下さい。そして、そのことを通して、私たちを、そしてあの哀れなフェレイラ神父をも、救ってください」と。ここまでは、遠藤の小説は聖書の筋書きを忠実に受け継ぐことになり得たと言えるだろう。

では、その次はどうか。イエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園に居る」と言われた。そして、3時ごろイエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。これは神の「沈黙」に対するイエスの絶望の叫びに他ならない。そして「イエスは再び大声で叫び」(マタイ27章50節)「父よ、私の霊を御手にゆだねます」(ルカ23章46節)次いで「成し遂げられた」(ヨハネ19章30節)と言って息を引き取られた。イエスが神のみ旨を成し遂げたとき、この絶望の彼方のどんでん返しとして、復活の命「ハライソ」が輝き出たのだった。

これを遠藤の場面に当てはめるとこうなる。イエスは、つまりロドリゴは、穴吊りの哀れな信者たちに、「私は転ばない。もうすぐあなた達の後を追って穴吊りの刑で殉教を遂げる。私は転ばずに殉教して天国に凱旋する。あなた達は転んでしまったが、赦されてわたしと共に天国に入るだろう」と言って励ますはずだった。その時ロドリゴは穴吊りで死に瀕している信者たちの中に、十字架の上で死にゆくイエスを見て礼拝することもできたはずだった。

しかし、遠藤はそうは書かなかった。ロドリゴはフェレイラ(聖書では悪い犯罪人)の言葉に耳を貸し、穴吊りも待たずに、早々と踏み絵を踏んで転んでしまった。そして、現世に自分の命を長らえるとともに、殉教の栄光を目前にしていたキリシタンたちをこの世の惨めな命に生還させてしまった。こうして、ロドリゴも、フェレイラと、井上筑後守と同じ陣営に合流することになる。ここに及んで、聖書が「神の沈黙」「キリストの復活」「神の国」(ハライソ)の永遠の命の栄光に入る「解放の道筋」を描いているのに対して、遠藤の「沈黙」の世界は、偽りの「神の声」のささやきに耳を貸して、現世の日々の苦しみと、老いと死と絶望への逆戻り、救いの希望の無いこの世の閉塞地獄への転落に終わっている。 

ころんで、ひと時の苦しみから逃れても、その後20年、30年とこの世のみじめさの中に生き永らえた挙句の死の先に、何の希望があるというのだろうか?来る年も、来る年も、宗門検めで踏み絵を踏み続け、そのたびに屈折した良心は苛まれ、転びものとして仏教徒からもさげすまれながら、この世で生き恥を晒し、生き地獄をさ迷うために、フェレイラは、ロドリゴは日本にやって来たのだろうか。信者から、ハライソ(天国)の希望を奪い取り、無残にもそれを打ち砕くために・・・?そして、もしこの後、新たに宣教師神父が鎖国中の日本に潜入してきたら、ロドリゴもフェレイラや井上さまと一致協力してその神父を転ばせるために執念を燃やすのだろうか。

聖書はそんなことを教えてはいない。

スコセッシは彼らの末路を、日々、迫害者に飼われた下僕として、オランダ商人の商品の品定めに明け暮れるつまらない毎日として描いている。「毒を喰らわば、皿までも!」、という言葉があるが、一層徹底して、井上筑後守のように、最も恐ろしい冷酷な迫害者として、キリシタン狩りに執念を燃やせばよかったのだろうか?

ところで、聖書によれば、天の父なる神は、キリストの十字架の場面では一貫して沈黙を守った。イエスの、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」は、徹底的な「神の沈黙」に向けられた悲痛な叫びだった。

遠藤の小説の主題はまさにこの聖書の「沈黙」する神ではなかったのか?神が本当に沈黙を貫いたのだとすれば、フェレイラとロドリゴが聞いた「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。」という声は一体誰から来たのか?その効果において、そのもたらした結果において、神からの声ではなかったことは明らかではないか?

ではどこから?・・・それは、堕落した天使から以外には考えられない。この悪しき天使のことを聖書は「嘘の父」と呼ぶ。聖書を読めば、人間よりはるかに賢いこの霊的存在は、最も巧妙な形で、アダムとエヴァの失楽園を演出して以来、人類の歴史において、キリストの生涯において、節目、節目に、何度も人類を、そしてキリストを、嘘の罠に落とそうとした前科がある。作家遠藤は、そして映画監督スコセッシは(おそらく自分でも気が付かないうちに)その領域まで描いてしまっている。多くのナイーブな人たちを無意識のうちに巻き込みながら・・・。

遠藤の小説「沈黙」が一世を風靡した時、日本中が、特にカトリックのインテリと聖職者たちの多くが、見事にそれにはまった。そして今、スコセッシの「サイレンス」のお陰で、ヨーロッパのカトリックのナイーブなインテリたちがその餌食になりつつあるのではないか、と私はクールに観察している。

(つづく)

 

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★ 聖書から見た「サイレンス」=スコセーシ監督と遠藤周作の世界=

2017-04-08 21:44:23 | ★ 映画評

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聖書から見た「サイレンス」

スコセーシ監督と遠藤周作の世界

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私のブログがカトリックの月刊誌「福音と社会」に転載され、反響がとてもよかった、と聞いて気をよくしたわけではない。もともと圧倒的に書き足りなかったので、続編を書こうと思っていたところだった。

ハリウッド映画の「サイレンス」が今の時代に世界で注目されるのは、「キリスト教を信じる立場」から「殉教」をテーマにしているからではなく、「キリスト教を信じない立場」から「棄教」をテーマにしているからだと私は思う。

遠藤周作も私と同じ12歳でカトリックの洗礼を受け、スコセッシ監督もニューヨーク生まれのシチリア系イタリア人として、少年時代にカトリックの司祭を目指したというから、二人ともある面では私と似たような成長過程を共有して今日に至ったのかもしれないが、小説家としてはそれなりの評価を得た半面、信仰をより深く生きようとした精進の印は、その後の彼らの業績からは見出せない。

宗教と神に対する姿勢についても、一般の知識人が人間的知恵と、瞑想と、修行などを通して到達しうる「自然宗教の神」以上のものは彼らの作品の中に登場しない。

人間の自然な営みの埒外に永遠の昔から存在した神の側からの無償の恵みとして与えられ、個人との関係では、自由な同意によってのみ成立するキリスト教の生きた血の通った信仰の躍動感が、彼らの作品からは特に感じられないのはそのためだろう。

たまたま縁あって少年時代にカトリックの洗礼を受けたとしても、その後信仰を深めるために精進を続けたわけでもなく、神学者でも、まして聖人でもない一人の文学者と一人の映画監督が「キリスト教の棄教」をテーマに生み出した作品は、作者の人生観と文化論的主張を反映するものではあっても、キリスト教の伝統的信仰が見落としてきた点を発見したり、より優れた解釈に光を当て得るほどのものではとうていあり得ない。

「サイレンス」の美しい映像はスコセッシ監督の真骨頂であるが、ストーリーのクライマックスの一つ、迫害下の危険な日本に潜入した若く情熱的なイエズス会士ロドリゴ神父と、イエズス会の有徳の指導者としてロドリゴたちの敬愛の的であったが、今は棄教して迫害者の側に立ったフェレイラ元イエズス会士とのやり取りは特に興味深い。

拷問に耐えかねてすでに棄教を誓っているのに、神父が棄教しない限りその苦しみと迫りくる死から解放されない哀れな信者たちを前にして、フェレイラは自らの棄教によって彼らを救うべきでないか、自分はその道を選んで棄教した、とロドリゴに迫る。一見理にかなった説得力のある言葉に聞こえないだろうか。

実は、これは、自らもキリシタンであったが、踏み絵を踏んで殉教を免れ生き延びただけでなく、キリシタンに最も恐れられる迫害者に立場を変えた井上筑後守が、信仰に燃えたキリシタン・バテレンを転ばせるために考え出した実に巧妙な仕組みなのだ。 

ロドリゴに対して、足元の踏み絵の銅板のキリストは沈黙を破って語りかける。

「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためにこの世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ」何という誘惑に満ちた言葉だろう。しかし、これは聖書の言葉ではない。作家遠藤周作の文学的創作活動の果実だ。

このブログの読者の皆さん。あなたがロドリゴ神父の立場なら、この「沈黙しないキリスト」の言葉に説得されて、同意して踏み絵を踏むだろうか。実は、この点こそ「沈黙」が出版された当初から多くの人の心に棘のようにひっかかった核心的な部分なのだと思う。そしてまさにこの点が今、スコセッシ監督の「サイレンス」を見たヨーロッパのカトリックのインテリの心に違和感なく溶け込んでいきつつあるように思われる。

私は一編のブログの長さの都合から一旦ここで筆をおくが、次のブログではこの点を聖書の言葉と対比しながら、綿密に検討しようと思う。

つづく)

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★ 吾輩は「犬」である=福島被災地に生まれて

2017-03-23 00:52:45 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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吾輩は「犬」である 福島の被災地に生まれて

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元銀行マンの私は、十数年前、神父をしながら四国・高松の司教館で、教区会計の仕事をしていた。

その時以来ずっと今まで付き合っている人の中に、Kさんという若い女性がいる。彼女は、私が東京に居ようが、ローマに居ようが、お構いなしによく電話を掛けてくる。多い時は、日に2度、3度、5度とかかってくることがある。だが、内容はいつもあっさりしていて、実に短い会話で終わるので、さほど苦にならない。出られるときはなるべく出てあげるように努めている。

彼女はずっと以前から犬を飼いたいと望んでいるが、ペットショップの20万円も30万円もする仔犬を買う資力がない。かといって、保健所に掛け合って捕獲されたわけありの犬を貰いに行く才覚もない。

昨年の暮れ、所用あって福島県のある町に投宿した時、泊めてもらった家に大小の犬が7-8匹、まるで家族の一員のように、小学生の子供たちと一緒に家の中でじゃれ合っていた。毎日生命にあふれたお祭り騒ぎだ。

最近拾われて家族に加わった雌の野良犬が、私の泊まった翌朝、2匹の仔犬を産んだ。私は、これは神様の仕業だと思った。

そのうちの黒い雌を欲しいと言ったら、いい返事が返ってきたので、その場で高松のKさんに電話を掛けると、彼女もぜひ欲しいという。とはいえ、生後一日の仔犬を母犬から離したら、高松で生き延びられるとは思えない。しかも、私は数日後にローマに帰らなければならない。3か月したら日本にまた戻るから、それまで頼む、と言い残しその場は引き払った。

ローマから帰ってすぐ連絡したら、その仔犬はあげられない事情が発生した、ということだった。すっかりなついて今さら子供たちから引き離せないということか?だが、待ちわびている高松のKさんに、あの話は駄目になったとも言えない。ただでさえ傷つきやすい彼女に、神父は嘘つき、という印象を植え付けることは避けたかった。さりとて、帰国早々、自力で代わりの犬を見つけられる展望もなかった。

大迷惑を承知で、無理に福島で代わりの犬を探してもらった。幸い、この写真の仔犬が見つかった。推定生後2か月余りの野良公。まだ名前はない。福島県下で拾われて保健所にあずけられたが、一定の期間以内に里親が決まらなければ、屠殺処分される運命にあった。

東京のペットショップで移送用のケージやもろもろの付属品を買い求め、福島へ急いだ。帰りの新幹線の中では、知らない人にどこに連れられて行くのか不安で、狭いケージの中で落ち着かず、結局、頭だけ出して私にあやされながら東京に着いた。

3泊4日、東京の私の部屋に泊まり、朝晩は新中川の土手を散歩した。行き交うお犬様たちは、柴犬や、ダックスフンドや、プードルやらの血統書つきばかりで、雑種の野良犬なんかいない。ところが、それがかえって珍しいのか、散歩の人からは「あら、可愛い!」と声がかかる。 

この季節、新中川の土手の斜面には今年も土筆が生えていた。 

お散歩の間は可愛いパンパースを外して犬らしく裸で走り回る。お利口にも私の小指ほどのウンチもオシッコも外で済ませてくれた。

新幹線「のぞみ」に乗って一路岡山へ!私にすっかり慣れて信頼したか、おとなしくケージの中でウトウトしていることが多かった。

マリーンライナーで瀬戸大橋を渡って坂出の私のアジトに着いた時は、さすがに疲れたか、甘えて、甘えて、どうしようもなかった。ちょっと他の仕事に集中すると、クーン、クーンと甘えてくる。甘噛みのつもりだろうが、歯先は鋭くけっこう痛い。パソコンの電源ケーブルも、ボロボロで導線剥き出し寸前、危うく食いちぎられそうになった所を未然に防いだが、そうなっていたら大被害、彼も感電していたかもしれない。

体重計にまず手ぶらで乗って、次に仔犬を抱いて乗って、差を計ったら、ちょうど4キロだった。足が太くしっかりしているから、あと3-4カ月で10キロほどの中型犬になるだろうか?なつかれると、情が移って手放したくなくなったが、世界を放浪する貧乏神父ではどうしようもない。心を鬼にして、明日には待ちわびているKさんに渡さなければ・・・。

幸いKさんはとても気に入ってくれた。彼女は彼に「チビスケ」という名を贈った。(けっこう大きくなりそうだが?)朝晩の散歩で彼女は少しやせるだろうか。2人とも幸せになれよ!と祈った。

 それなりに色々忙しい仕事の合間を縫って、東京から福島まで新幹線で、そこからレンタカーでメルトダウン事故を起こした福島第1原発から遠くない町まで行って、一匹の仔犬を引き取って、ペットショップで買い求めたケージに入れて、東京を経由して、新幹線で岡山へ、マリーンライナーで高松へ、最後に仔犬をKさんに無事届けて東京に戻るまで、大変な手間と時間と、馬鹿にならないほどのお金がかかった。

お前は一体何をやっているのか?と自問した。それは神父の仕事か・・・? そんなことして何になる? 世の中何も変わらない!

高が仔犬一匹ーされど命。Kさんーどこにでも居そうな自閉症気味の孤独な女の子。この娘が愛情を注ぐ相手の小さな命に出会い、その小さな命は優しいし女主人に可愛がられて10数年の命を幸せに全うできるなら、この「愚かな大仕事」も神様の前に無駄ではないと思える心境になった。やはり歳をとったせいだろうか?

大災害から6年、福島県の浜通りには野良犬が多いのではないかと思う。避難した人々に遺棄された哀れな犬たちだ。「チビスケ」はその2世だろうか?野生に戻っても、餌が豊富とも思えない過酷な世界では、生き延びるのも楽ではないだろうに?

★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

私は福島の原発事故と、何十万人の被災者と、天文学的な廃炉費用と、何十年、何百年も後を曳く放射能汚染にもかかわらず、なおも原発推進、原発輸出に血道をあげる為政者に同意しない。北朝鮮のミサイル基地への先制攻撃能力を持とうとする意志に抗議したい。PKO戦死者の命を9000万円の弔慰金で買おうとする國の方針を悲しく思う。

この仔犬のつぶらな瞳を見つめながら、人間の命とは何かと自問した。

天地万物の創造主なる神様! あなたは確かにおられます。

罪人の私を、全ての人を、そのまま、在るがままに

愛してくださいます。

永遠の命、復活の命!

私を憐れんでください。

 

 

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★ 〔加筆〕 神父の独白 (そのー1)

2017-02-25 08:29:04 | ★ ローマの日記

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〔加筆〕神父の独白 (そのー1)

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(2017年2月11日に書き始め、25日に加筆) 

深夜、机の前の窓から見上げると、空はむら雲に星もなく真っ暗だった。

数時間前には黄色い満月が雲間に見え隠れしていたのに・・・

満月を見ると思うことがある。懐かしい思い出が・・・

 

2月14日は満月からはや3日後の月

この2か月間、ほとんど外出することもなく、

神学校の広い敷地内に閉じこもった。

もうすぐ93歳の平山司教の老々介護の他は、

キコの新刊「アンノタチオネ」( “Annotazione”)

「覚え書き」とでもしておこうか-

の翻訳で時が流れる。

 

僧院の修道僧のように世間を絶った静かな時間、

昨日10ページ、今日4ページと、むら気な進捗ながら、

4月には最後まで通しの粗い訳が出来上がるだろうか・・・

 *****

午後遅めのお茶の時間は、司教様との至福の時間。

日々工夫を重ねながら、煎茶の美味しい入れ方を追求する。

貴重な虎屋の羊羹が底をついたら、中村屋の柚子羊羹も悪くはない。

先輩の教訓に満ちた昔話に時は静かに流れる・・・

***** 

夕食の後は、

「メンドーサ枢機卿様にご挨拶」???

・・・は、二人の合言葉。

そう、司教様のお部屋に戻って、クリスタルの丸いクグラスで、

「カーディナル・メンドーサ」という銘柄のブランデーを戴くのだ。

 

証拠写真が欲しくて、午前2時、そっと忍び込んで戴いてきた

深夜、キコの本の翻訳をしながら、

私は何者か、と問うてみた。

キコに影響されたか:

お前は、傲慢で、利己主義で、

好色で、淫蕩で、嫉妬深く、怠慢で、

恩知らずで、裏切り者で、人殺しで、

金に汚く、嘘つきで、盗人で、

食い意地が張って、酔っ払いで、

すぐにカッとなり、強情で、残虐で、

猜疑心が強く、・・・

と、リストはまだまだ続くが、全部そのまま自分の身に当てはまり・・・

要するに、わたしは救いようのない大悪党であることが

身に染みてよく分かってきた。

外資系銀行を辞めて、せっかく神父なったけど、

「日暮れて、道遠し」とはこのことか?

 *****

高松の神学校がローマに移されて早くも8年になる。

その間に、この神学校を出た若い神父たちは、

カトリックの最高学府、グレゴリアーナ大学などで、

神学修士、博士の学位を取って、

アジア各地の第一線で宣教・教授活動に励んでいる。

日本の田舎の小さな神学校は、

いつの間にかアジア全体の宣教の拠点に育ちつつある。

 

司教様は、神学校の日本帰還まで死を見ない、と楽観しておられるが・・・。

哀れみ深い神様!彼の最後の願いをどうか聞き届けてください。

お願いします、神様!

 *****

ローマに来てよーく分かった。バチカンの中は俗世の組織と選ぶところがない。

例外もあろうが、押しなべて能力もモラルも凡庸なお役人たちによって、

旧態然とした効率の悪い肥大した官僚組織の中で、

多数派の保守と少数派の革新がしのぎを削っている。

嘘も、怠慢も、誹謗中傷も、罠も・・・暗殺も、なんでもありの世界だ。

何も昨日、今日に始まった話ではない

http://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/54748ace9ce6f15f2de45317dbce5eb5

忘れられた中世の町「アナーニ」への郷愁

「教皇ボニファチウス8世の屈辱」

(ブログ2014年3月17日参照

2000年前、無学なガリレアの漁師たちに託されて以来、

中世を経て教会はずっとそうだった。

宗教業界ナンバーワンの規模と暖簾の古さを誇るカトリック教会が、

こんなに肥大したおんボロ船でありながら、

2000年の歴史の荒海を乗り切って沈没を免れたきたことは、

神の存在とそのご加護が無ければ、

全く説明不可能だ。

これほど明白で強固な神の存在証明が他にあるだろうか?

 

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★ 《映画》 “SILENCE” 「沈黙」を見て

2017-01-27 16:41:31 | ★ ローマの日記

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《映画》 “SILENCE” 「沈黙」を見て

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M・スコセッシ監督の映画「サイレンス(Silence)」が今ローマではブームです。日本人のわたしは「サイレンスを見たか?」「お前はどう思ったか?」と、しつこく聞かれます。見なければ答えようもないので、実に久しぶりにイタリアの映画館に行くことにしました。

昼間は忙しい。夕食後に郊外の大型レジャー施設に行きました。ポーリング場も、ステーキレストランも、バーも、子供の遊技場も、うるさいBGMの中、満員の熱気に包まれていました。初老のカップルも若者に負けじ!と、手を繋いだりキスしたり、子供が数人でロビーを走り回ったり・・・。私はビールの大瓶をテーブルにドンと載せて、10時の最終回を待つ間ゆっくり現代ローマ人の生態を観察しました。教会に人が来なくなったと思ったら、こんなところに集まっているのですね。

「沈黙」は10ほどあるマルチ映写室の7番目でやっていました。客の入りは半分ほど。青年も、初老もほとんどが男女のカップル。一人ボッチは神父の私ぐらいなものでした。

さて、ここからずばり私の感想を書くはずですが、写真がない、どうしよう?ネット上に散見する写真は借用を許される?ソースからご注意あればすぐ謝って削除するとして-営利目的でもなし-ひとまずお借りいたします。

  

1966年に遠藤周作の「沈黙」が出ると、日本では大評判になり、海外でももてはやされました。しかし、中世哲学研究室の助手の耳目に勝手に飛び込んでくる論評はなんとなく胡散臭く、読む気になりませんでした。ただ、最後の長編の「深い河」(1993年)だけは読み、95年の映画も見ました。そして、フーン?!これが遠藤の辿り着いた世界かと、別に感慨もなくそのまま忘れていました。 

当時、私は私なりに、自分の信仰と生きる道を真面目に考えていて、東京オリンピックの開会式を白黒テレビで見た夜の12時に、密かに横浜港から貨客船に乗って日本を脱出しました。25歳のときでした。

半年ほどかけてインドを放浪し、旅の終わりにはガンジス川のほとりの町や村を巡って色々な体験をしていたので、深い河の映像は見慣れた世界でした。 

私をうろたえさせたのは、そこそこ教養を身につけたカトリック信者のイタリア人たちが、遠藤の「沈黙」を優れた作品として持ち上げ、私にも同意を求めるそぶりを見せたことでした。わたしには「棄教を肯定し美化するなんて・・・!」と言って怒る単純なご婦人方のほうが、よっぽど正直に思えました。

ナザレのイエスが、十字架の上で壮絶な最後を遂げようとした時、天の父なる神が「沈黙」を破って、「そんなに苦しまなくてもよい、奇跡の力を使って十字架から降りなさい」と言ったとは、聖書のどこにも書いてありません。キリストの場合でさえも、拷問にまさる究極の苦しみ、つまり、神にも見捨てられたという絶望の彼方にしか、復活の栄光は輝き出なかったとすれば、信者の殉教を見た神父の懊悩に、神が沈黙で応えるのは当たり前ではありませんか。

遠藤が、迫害の極限状態における神の「見かけ上の沈黙」は、実は神が人間の弱さに同情して、暗黙裡に「踏み絵を踏みなさい、転んでもいいよ」と言っているのだと言う都合のいい解釈は、結局、そうでない神は受け入れられない、つまり、「神は存在しない」と言っているのと同じではないでしょうか。

「沈黙」をもてはやすカトリックの高位聖職者や神学者らの論評に接するほどに、読む気が失せていった裏には、そんな思いがあったような気がします。

今回、スコセッシ版のハリウッド映画に見る遠藤の世界には、聖書の神、ナザレのイエスの天の父なる神はいませんでした。いるのは日本の神々の神、森羅万象に秘められた力に「人間が勝手に名を貼り付けた神」であって、森羅万象を無から創造した「生ける神」、モーゼに「私は在りて、在る者なり」と「自分の側から名乗りを上げた神」はいませんでした。

映画「サイレンス」に深い感銘を覚たと言って、私に同意を求めるイタリアの紳士淑女の心の中にも、「ナザレのイエスの天の父なる神」はすでにいないのではないか、と不安になりました。これは文化や風土の違いではなく、信仰内容の質の問題でしょう。

鍵を握っている概念は「復活」です。ザックリ言って紀元前2000年ごろに、ユダヤ人の祖先アブラハムに「アブラハム!アブラハムよ!」と人類に初めてはっきりと語りかけた神を信じる一神教には、「復活」「永遠の命」の概念が根底にあります。と言うか、日本に限らず、キリスト教以外の宗教にはそれが欠落しています。(同じアブラハムから派生したユダヤ教や回教においてさえそれは曖昧で希薄です。)

日本人は、キリスト教の様々な祝い事や外国のお祭りを上手に取り入れて、何でも金儲けの機会に利用します。クリスマス商戦が典型だが、バレンタインデーも万聖節やハロウィーンなどもその中に入ります。ところが、キリスト教にとって最大のお祭りである「復活祭」だけは、どうもしっくりと馴染まないようです。「復活祭記念バーゲンセール」も銀座のクラブでは政治家の「復活祭パーティー」も聞いたことがありません。

しかし、この「復活」の信仰なしに「殉教」もあり得ません。私が今回数枚の写真をお借りしたサイト

https://www.fashion-press.net/news/25736

は、「サイレンス」のあらすじを:

17世紀江戸初期、幕府による激しいキリシタン弾圧下の⻑崎で、棄教したとされる宣教師フェレイラの真実を確かめるために日本にたどり着いた若き司祭ロドリゴとガルペ。⻑崎に潜⼊した彼らが⽬撃したのは、⻑崎奉⾏による想像を絶する弾圧の現状だった。
次々と犠牲になる⼈々。守るべきは⼤いなる信念か、⽬の前の弱々しい命か。⼼に迷いが⽣じた事でわかった、強いと疑わなかった⾃分⾃⾝の弱さ。追い詰められた彼の決断とはー。

と言う言葉で始めています。

フェレイラ神父はすでに穴釣りの拷問に耐えかねて棄教していました。神父のガルペは「むしろ巻き」にされて海に投げ込まれた美しい村娘(小松菜奈)を助けようと飛び込んで溺れ死にました(これは一種の殉教と言えるでしょう)。問題のロドリゴは、棄教し妻子のある役人になっていたフェレイラに会い、穴吊りの拷問に苦しみもだえる信者たちの姿を見て、穴吊を待たずに踏み絵を踏んで転び、妻を得ます。

小松菜奈

素朴な日本の信者たちは、神は人類を不死のものとして創造したのに、人間は傲慢の罪で命の源である神から自らを切り離し、当然の結果として死ぬべき運命を引き寄せてしまった。その人類を憐み、罪と死の影から救い出すために、神の子キリストは「十字架上の死」を通して「死」を打ち滅ぼし、「復活の命」と永遠の幸せの国、キリシタン用語で「ハライソ(パラダイス=天国)」を取り返して下さった、と教えられた。パードレ(フェレイラやロドリゴ)から「ハライソ」の信仰を植え付けられた彼らは、その言葉を信じて天国にあこがれて殉教していった。捕えられ拷問を受けることを恐れながらも、殉教者たちの姿に励まされ、自分も殉教しようと覚悟を固めていた矢先、その信仰を教えてくれたパードレが踏み絵を踏んで転んでしまうとは、なんという残酷な裏切りだろう。

パードレたちは自分が頭で信じていた教えを信者たちに植え付けたが、彼ら自身はその神の存在を心では信じていなかったということか。17世紀のパードレの不信仰は、遠藤によって共有され、その神の非存在は60年代、70年代の日本のカトリックのインテリに感染し、今や、イタリアの自称カトリック信者の中に広く蔓延して行きつつあるのだろうか。

パラダイスの存在を固く信じず、それに憧れることのない信者は、心底では神を信じてはいない。だから、神が沈黙すれば彼らは踏み絵を踏み、転ぶ道を選ぶ。遠藤がたどり着き、スコセッシ監督が台湾の美しい自然に託して描写した「ころびキリシタン」の運命はイタリア人をふくむ「我々人間の限界」の発見を意味するのだろうか。

しかし、ここで忘れてはいけないのは、「神がいる」ことへの信仰と、それに基づく「殉教」は、神の一方的な恵みのよるものであって、人間が自らの力で獲得できるものではないということだろう。人間にはできなくても、神が居るなら、神が一緒ならできることがある。

もし、世界を-そして人間を-愛をもって創造した神が居るなら、天国は確かにある。その天国にあこがれる人には、殉教を成し遂げうる力が神の恵みとして与えられる、と信じることは今日でも可能なはずではないだろうか。私はとんでもない罪深い人生を送ってきたという自覚があるから、手の届きそうにない殉教に敢えて憧れる。殉教者は無条件に「ハライソ(天国)」に入れると教えられ、キリシタンはそれを信じた。私ごとき罪人には、そうでもしなければ救われないのではないか、という思いがある。死は一瞬の通過儀礼に過ぎず、人は「復活」して永遠に生き続ける。これがキリスト者の「信仰告白」、殉教者の「証し」ではないか。

それにしてもこれほど多くの日本人俳優がそろい踏みしたハリウッド映画は、過去に例が無かったように思った。日本人はハリウッドまで占領するつもりなのだろうか?

 

中央はスコセッシ監督 

 【ワシントン時事】 トランプ米大統領は25日放送されたABCテレビのインタビューで、テロ容疑者の尋問に関して、拷問に当たる水責めなどの手法は「機能する」と主張した。さらに、治安当局に求められれば、法律の範囲内で復活に尽力すると明言した(オバマは拷問を禁じていたのに・・・)

〔陰の声〕 トランプさん!拷問なら日本人が発明した「穴吊り」が最もよく「機能」しますよ。レシピは以下の通りです。

穴吊りは、1メートルほどの穴の中に上半身が入るよう逆さに吊す。吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がって早く死なないようにする。頭に充血して死なないようにこめかみや耳に小さな穴を開けて血を抜く。二枚の板を半月形にくりぬき、腰のあたりを挟みつけて穴の中を暗黒にする。穴の中に糞尿などの汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛む。足から吊されたまま放置すれば、身体全体の耐えられぬほどの激痛に加え、孤独、無力、助けと励ましになるものもなく、時間はゆっくり流れていく。あとは苦しもうともがこうと捨て置くだけ。転ぶ意志を示して信仰を棄てるか死ぬまでそのままかのどちらかであった。
この刑罰は実に効果的で、外国人の宣教師達もこれで何人も『転んだ』が、中浦ジュリアンは棄教せずに死を選んだ。

しかし、転ばせることを念頭に置かないなら、ローマ人が発明しキリストがその犠牲になった十字架刑よりも残酷な処刑方法はない。ゲテモノ食いの物好きさんは私の本「バンカー、そして神父」その実態がいかなるものかをリアルに詳述したのでご照覧あれ。http://books.rakuten.co.jp/rb/4122150/

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★ トランプ大統領就任式=新世紀の幕開け

2017-01-20 21:29:01 | ★ ローマの日記

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トランプ大統領就任式=新世紀の幕開け

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ローマ時間夕方の5時半は、日本の深夜の1時半だろう。

アメリカの大統領就任式を最初から最後まで、日本のどこかのチャンネルが全部生中継したかどうかは知らないが、されたとしても、徹夜でそれを見た日本人は少なかろう。

ところが、ここローマでは、沢山の市民が、この時代を画する大イベントを見ようと、テレビの前に釘付けになっていたのだ。私たちのリーダーのキコは、増改築なった神学校の聖堂に巨大壁画を描くためにここに居合わせた。彼は数名のアシスタントの画家と一緒にこのテレビ中継を見るために神学校の応接間に陣取った。たまたま彼と打ち合わせすることがあった私も、誘われて一緒に見ることになった。今どきのハイヴィジョンの画面はきれいで、写真に撮っても画質は何とか保たれる。

実況中継を見損なった皆さんに何枚か写真を選んでお伝えしよう。

 

就任式場はワシントンの米連邦議事堂の前で行われた

 

ファンファーレが広場に響き渡っていよいよ就任式が始まった

 

テレビの画面の下には、赤のストライプの中に「トランプ、ホワイトハウスに就任する日」とあって、その下の黄色いストライプには、イタリア山岳地方で雪崩が直撃したホテルの速報「少なくとも10人生存、3人の子供・・・バランガホテル」とある。

 

議事堂前広場を埋めた群衆 遠くにオベリスクが聳える

 

就任式で聖書に手を置いて宣誓するトランプ新大統領

 

宣誓が終わると祝砲が轟く

 

応接間でテレビを見守るキコと画家集団

 

キコは新しい時代の幕開けをどう受け止めているのだろうか 時代の変化を敏感に感じ取っていることだけは確かだ

 

議事堂のドームの上の星条旗の下に見える宣誓式の壇

 

就任演説をする新大統領 相変わらずのトランプ節が展開された アメリカ第一主義!

 

トランプの演説を聞く敗れたヒラリー夫人と 退くオバマ前大統領 その胸の裡は・・・?

 

演説を終えてガッツポーズのトランプ

 

トランプの演説のあと 宗教代表者の挨拶があった 日本の国会では有り得ない光景

最初が前列右端のユダヤ教の教師(ラビ) その次が右から3人目の空色のネクタイのプロテスタントの牧師 最後がマイクの前にいる青紫のシャツに白いカラーを付けた黒人牧師 そして神妙に聞くトランプ

カトリックの高位聖職者の姿はこの場面にはなかった。

 

アメリカの国歌を独唱する美人のソプラノ

 

式典終了後退席するクリントン夫妻 ヒラリーの心の整理はついたのだろうか 意外とさわやかな顔に見えた

 

 

見終えて感想はいろいろあるが、一言では言えない。トランプに核のボタンをゆだねたのは狂人に刃物、と言うひともいるだろう。トランプの就任は第3次世界大戦の不吉な前触れと言う人もいるかもしれない。アメリカ人はこの男に権力をゆだねたが、狂犬を巷に放ったことにならなければいいが。果たして彼は任期を全う出来るのだろうか?ケネディーは暗殺された。プロの殺し屋の凶弾二発を腹部に受けたローマ法王聖ヨハネパウロ2世は、絶対に死ぬはずだったのに奇跡的に生きながらえた。ヒットラー暗殺の試みはことごとく失敗して多数の処刑者を出した。歴史とは不思議なものだ。これから何が起こるか分からなくなった。祈るしかないように思う。

(おわり)

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