古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

倭国王と日本国天皇

2021年06月14日 | 古代史
 以前『善隣国宝記』の記事について解析しましたが、その中で「天武」に対して「倭王」という称号が使用されていることを記しました。
 ところで「天武」の場合「表函」の上書しか言及されておらず「国書」そのものは受け取らなかった可能性があります。
 「天智」退位の後は「捕囚」となっていた「倭国王」と思われる「筑紫君薩夜麻」が復帰する予定であったと見るわけですが、すぐにそれが実現できたかどうかが問題です。やはり「唐」の意向を含んだ王権の成立を拒否する人達も数多くいたことは間違いないものと思われ、それが「壬申の乱」という内乱として現実のものとなったということではないでしょうか。
 表函が開けられ、国書を受け取るという儀典の中に「唐」との関係がより従属的になることは避けられず、それでは国内に対する指導力を発揮できないという問題があることを「薩夜麻」がよく知っていたとすると容易に「表函」は開けられなかったであろう事が推測され、そのような葛藤の中に「薩夜麻」の苦悩も見え隠れするように思われます。
 しかし「郭務悰等」という人物は「百済」の「熊津都督府」にいた唐人のはずであり、彼らはあくまでも「熊津都督府」から派遣されてきたものであり、その行く先は(もし「筑紫都督府」があれば)「筑紫都督府」へ伝達されたはずのものですが、文章からはそうとは受け取ることができません。
 『善隣国宝記』によれば「郭務悰」が持参した「国書」は「筑紫」で提出しています。このことは「筑紫」には「都督府」がなかったという推測を裏付けるとともに、その時「筑紫」には「倭王」がいたことを強く示唆しています。つまり「天智」は「郭務悰」の来倭にともない「筑紫」に出向き、そこで「国書」を受け取ったとみられます。
 この時の「天智」への国書と「天武」への国書持参は同時期の訪問であり、このことは双方への国書は当初から用意していたことを示唆させます。つまり推測としては「唐使」(郭務悰等)は「天智」という存在及び「日本国」「天皇」という呼称により表現される統治体系を認めないという唐朝の意思と、それに代わる人物「天武」を旧来通りの「倭王」としてなら認めるという趣旨を伝達したものと思われます。
 「天智」は「日本国天皇」を自称していたものとみられるわけですが、『釈日本紀』によれば、「日本」という国号は(自ら名乗ったというより)唐から「号」された(名づけられた)ものとされています。どの段階で「号」されたかというのは「唐の武徳年中(つまり太宗の治世)」になって派遣された遣唐使が「国名変更」を申し出、受理されたとされていますが、さらにそれ以前にも「隋朝」に対し「倭」から「日本」へという国名変更を願い出たものの、同時に「天子」を自称するという挙に出たためそれを咎められることとなった影響で認められなかったとみられます。
 実際には『推古紀』の「国書」の内容から見て(「倭皇」という表記が見られる)「日本国」という国名変更は承認されなかったものの、「天皇」自称は一旦認められたものと思われますが、その後の「遣使」の際の「天子」称号の迂闊な使用から「宣諭」されるという失態を犯した段以降、元の「倭国王」(というより「俀国王」)に差し戻されていたものではないでしょうか。
 その後「唐朝」になり「太宗」の元に「使者」を派遣した際に再度「日本国」「天皇」号を認めるよう請願し一旦認められたものと思われますが、返答使として派遣された「高表仁」とのトラブルによって、またもや「倭国王」に戻されたと推察され、この後国交が途絶えた後「高宗」即位後「新羅」を通じて「起居」を通じるようになった時点以降(これは「高表仁」の件を「謝罪」したものと思われ、その甲斐あってのことと思われるが)「日本国」「天皇」号を認められるに至っていたものと推測します。
 「隋代」以来の経緯を踏まえた「天智」は(というより「倭王権」は)「天子」自称はせず(「伊吉博徳」の遣唐使派遣記録では「唐皇帝」を「天子」と称しており、自らを「天子」とする立場にはおいていないのは確かです)、しかもこの「伊吉博徳」の書をみるとこの時「日本国」という自称を「高宗」は受け入れていた模様ですが、それは倭国側が「新羅を通じて起居を通じる」(六四八年)という記事が唐側史料にあるところから見て、「高表仁」の一件について「謝罪」したからではなかったでしょうか、それを「唐」が受け入れた結果「日本国」という呼称変更とともに「天皇」自称を認めていたと思われのです。つまり「唐」の「天子」(皇帝)に対し「天皇」という位取りはそれほど僭越とは言えないため、これを「唐朝」として認めていたものと思われるわけです。そしてこれが「天智末年」まで続いていたと思われるわけです。
 そしてその時点で「白村江の戦い」等「百済」をめぐる戦いに関与した責任を問われる中で、再再度「倭王」という称号まで引き戻されていたものであり、これが「天武」から「持統」へと引き継がれた時点付近まで継続していたものです。
 そしてその時点以降「日本国」「天皇」号が自称として使用する事が再開されたわけであり、それが『旧唐書』にその事情が書かれることとなった時点であると思われるのです。 
 「倭王権」はこの時以降「倭王」としての自称を「天皇」としつつ国名は「伊吉博徳」の記事からもわかるように「日本」という当初予定していたものに変えていたものであり、これらを通じて自らの立場の主張を表明していたものですが、結果として「唐」はそれを「隋」と同様否定することとなったものであり、それは「天智」という存在とともに否定することとなったものです。その理由が「百済」に援軍し、唐軍と戦火を交えたという(唐から見て)重大な「反乱行為」にあったからとみたのは明白であり、その責任を「天智」に帰着させるものであったようです。
 「唐」に対しその後「天智」がその地位を失い、「天武」が「倭王」として存在することとなりましたが、彼もまたその時点で「筑紫」にいたものであり、そこで「倭王」として国書の提出を受けたとみられます。
 推察するに「六四八年」以降「倭国」の体制が「日本国」と「天皇」という存在の元であったとすると、「薩夜麻」も同様「日本国天皇」であったこととなります。しかし、彼は「百済を救う役」に先頭に立って参戦したのち、いわば初戦敗退した結果となっており、それ以降「唐・新羅側」に拘束されていたものですから、「白村江の戦い」という直接唐軍と戦火を交える戦闘に対し何らかの指示もできる状態ではなかったものと認定されていた可能性があります。その場合「唐朝」としては彼に責任を問うことはしないしできなかったものと思われ、必然的にそれらに対する責任は「薩夜麻」不在時点において国内を総括していたはずの「天智」に帰着することとなるのは当然と思われます。(ただしその地位が後事を託されたことに由来するか、簒奪したものかは微妙ですが。)
 「薩夜麻」が「唐」の側にいわば寝返っていたかどうかは何とも言えないが、それが理由で責任を問われなかったとはいえず、あくまでも捕囚の身であった彼が戦闘指示などできたはずがないという一点で責任を免れたものと推量します。
 この時の「郭務悰等」の「唐使」が派遣される場合、明らかな軍事的な目的があったものであり、このような使者の場合、使者の行動・発言などが法令に準拠しているか監視、また時にはアドバイスなど是正する役割の「判官」(監察御史の類)など事務方など通常の編成に加え、兵器を携えた者など軍事力を伴う一団がその主要なメンバーとして付加されていたはずであり、それが『書紀』に2千人という人数として現れていると考えるべきでしょう。
 こうして「帰国した「薩夜麻」が「唐」側にとって重要な人物であったのは確かであり、彼を「倭国王」として遇することが唐にとって最も好ましい体制と考えられていたことは想像に難くなく、彼はこの時点以降「天武」という「唐」のお墨付きが付いた人物として「倭王権」の頂点に再度つくこととなったものです。ただし「日本国天皇」という称号は「天智」という存在とともにいわば「はく奪」されたものであり、「薩夜麻」は「天武」として旧来通り「倭王」といういわば後退した認識の存在として「唐」から認められることとなったものと思われます。
 ただしこのような経緯で「倭国王」となった彼について全員が賛意を表していたとは思われず(それが端的に表れたのが「大友」による「壬申の乱」であったと思われるわけですが)、以降も国内的には不穏な状態が継続したものと思われ(「謀反」を表す記事や流罪になる高位の者たちがいたことが書かれている)、その影響と思われるのが「大伴部博麻」の帰国の遅延でしょう。
 彼は「薩夜麻」を含む数人の意志あるいは指示を倭国王権に伝達するための旅費等を工面するという目的で「身を売った」とされる人物であり、彼の帰国は「天武」の死後です。これは偶然ではなく「旅費を工面する」という理由だけではこれほどの長期の逗留を説明できず(帰国費用はそれほどの費用とも思われないため)、これほど帰国が遅くなった最大の理由は「天武」の地位に対する不安定要因を避けるためであり、その目的が彼自身に対するものではなかったとしても一時的に「捕囚」の身となっていたという経緯が語られるだけで、彼に対する敬意と信頼を揺るがすに足るものであり、そのため彼の帰国は意図的に遅らせられていたものと思われます。
 その後「日本」と自称するのは「唐」の交渉が30年以上途絶えた後の「倭国」が滅びた後の話であり、いわば「時効」を迎えたと判断してのものと思われるわけですが、その意思の根源は彼らが自らの権威の根拠として「天智」を戴いていたことが重要であったと思われます。
 天智は「日本国天皇」という地位を自称していたわけであり、彼らはその後裔を自称していたものですから、当然のように「日本国天皇」という呼称を自称するようになったものであり、そこに「天武系」(つまり「薩夜麻」系)「倭国」の権威の否定を含んでいたものと思われます。
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