古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「持統紀」の「新羅」からの「弔使」に対する「勅」への疑問(1)

2016年10月16日 | 古代史

 現代では『書紀』の記述に疑いがあるというのは多くの研究者の常識というか通念となっているようですが、その「不審」の程度にはかなりの差があります。全く信じられないとする立場から「持統紀」以降は信頼できる(といっても『書紀』の最後が「持統紀」ですが)、あるいは「孝徳紀」以降であるとか「推古紀」以降であるとかさらには「六世紀」以降は大丈夫などいろいろな立場があるようですが、当方はその中でも「捏造」はないが「移動」はあるという立場で研究しています。以下にその「移動」の「影」とでもいうべきものを示していこうと思います。

 以前「本朝」と「天朝」という論を書かせていただきましたが、そこで「新羅」の「金春秋」にまつわる疑問を呈しておきました。それは「天武」の死去に際して「弔使」として「新羅」から派遣された「金道那」に対して「土師宿禰根麻呂」が「勅」を伝えるという中で疑問とされる記述があることです。今回その内容について再度検討し、事実誤認の部分があったことから再考察しました。以下にそれを示します。
(以下「金道那」への勅の抜粋)

「五月癸丑朔甲戌。命土師宿禰根麻呂。詔新羅弔使級飡金道那等曰。太正官卿等奉勅奉宣。二年遣田中朝臣法麿等。相告大行天皇喪。時新羅言。新羅奉勅人者元來用蘇判位。今將復爾。由是法麻呂等不得奉宣赴告之詔。若言前事者。在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。翳飡金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。又於近江宮治天下天皇崩時。遣一吉飡金薩儒等奉弔。而今以級飡奉弔。亦遣前事。…」(『書紀』持統三年(六八九)五月甲戌廿二条)

 『書紀』によれば「天武」の死去した翌年の「持統元年(六八七年)九月」に「たまたま」「新羅王子」一行が来倭しています。彼らは「奏請國政」つまり、何らかの政治的方針の表明などを要請に来たものかと推察され、この時点では「倭国王」の死去を知らなかったのではないかと思われますが、「天皇崩」という知らせを「大宰府」で聞き、そのまま「喪服」に着替え、「弔意」を表したとされています。さらにその後「正式」な「天皇崩御」の知らせを受けて、改めて「三發哭」という儀式を行い「弔意」を示しています。
 このようにすでに「王子」という高い地位の人間が「弔意」を表しているわけであるにも関わらず、一年余り経ってから「別の」弔使が(それも位の低い人物が)派遣されたというのも不審な話です。
 これらの事はこの「六八九年」の「新羅弔使」である「金道那」への「勅」記事の真偽について「疑い」を生じさせるものです。(続く)

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