古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について(再度)つづき

2024年08月13日 | 古代史
以下は前回の投稿の続きというか補足です。
 
筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について(続き)

 「庚午年籍」については『続日本紀』に「筑紫諸国」の「庚午年籍」に官印を押したという記事が出てきます。

「(神龜)四年(七二七年)…
秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」

 ところで、通常、戸籍には国印が押されていますから、この七百七十巻の筑紫諸国の「庚午年籍」には旧倭国王権時代の各地の国印(筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後)は押されていたと思われますが、当時「筑紫諸国」以外(直轄領域以外)では「諸国印」が存在していたかが問題となるでしょう。なぜなら「評制」下の諸国の国名は「二字」ではなく「三字」あるいは「四字」のものもあったからです。(「上毛野」「下毛野」「遠水海」「吉備道中」「波伯吉」「无耶志」などです。)
 これらについては後に二字に国名が統一(変更)されるまで継続したものとみられ、当時国印が作られていたとするとこの通りの国名で造られたものとみるべきですが、実際には「印」のサイズは規格化されていたと思われ、鋳造する際の「型」が決まっていたとすると、各国名で「字数」が異なるとすると技術的に対応が困難ではなかったかと思われます。
 ところで「奈文研」の評木簡データベースを渉猟すると年次と国と評がそろって記載されるもののうち最も古いものは以下のものです。

「乙丑年(665)十二月三野国ム下評大山 五十戸 造ム下部知ツ従人田部児安 032 荷札集成-102(飛20-29 石神遺跡」

 これによれば「庚午」の年(六七〇年)以前に「国」―「評」という階層制度が構築されているようではありますが、これ以前は「評」から始まる例(評-五十戸)が非常に多く、この時点では各地では「国」制がまだ試行されていなかったことが推定できます。すると当然この時代には「国印」はないこととなりますが、上に見るように「庚午」の年の付近で「国」が「三野国」など一部の地域で施行されるようになったとみられ、そこでは「国印」が鋳造されたとみることも可能ではありますが、いずれにしても現存する「大宝二年戸籍」のうち「三野国」に「国印」が押されていないという事は、それ以前の「庚午年籍」段階でも「三野国」には「国印」がなかったこととなり、それは「筑紫諸国」を除き他の諸国には「国印」がなく、押印されていなかったという可能性が大であることを示唆します。
 そもそも公権力の行使の手続きとしての文書行政に押印が必須であるとするなら、「筑紫」(ここでは「太宰府」)にだけ公権力があったという事になってしまいます。つまり当時「近畿」には「公権力」がなかったということになるでしょう。
コメント

「天智」と国号変更について

2024年08月12日 | 古代史
③「国号変更」について
 朝鮮の史書である『三国史記』の『新羅本紀』には「六七〇年」という年に「倭国自ら国号を更えて日本と号す。日の出ずる所に近し。故に名と為すと」と書かれています。この「国号変更」については以下のように考えられます。ただし彼の朝廷以外にこの時期他に朝廷がなかったのなら、「国号変更」となりますが、他にあったならその朝廷とは並立していたことになり、「創号」となります。
 彼の朝廷(近江朝廷)以外にはこの時期「朝廷」はなかったのでしょうか。それは「壬申の乱」の実情がこれに示唆を与えているようです。
 この「壬申」の乱は「東国」の勢力が反乱軍の主体のように言われることがあります。しかし、この反乱に参加した豪族の内訳を見るとそうとも言えないことがわかります。
 この反乱で「近江朝廷」側(つまり「日本国」側)についたのは「蘇我」「物部」「大伴」など古代からの氏族が中心となっていますが、反近江朝廷側(つまり「反日本国」側)は「高市皇子」がおり(彼は「宗像の君」の子供です)「大分の君」、「筑紫太宰」という肩書きの「栗隈王」、彼の息子という「美濃の君」、さらに、吉備太宰という肩書きの「当摩の君」があり、伊勢国司という三宅連、上毛野君、丹比君、対馬国守、難波吉士、出雲臣、三輪君など、九州から瀬戸内、近畿、東国など広範囲に渡っていることがわかります。「宗像」の勢力と「安曇」の勢力が非常に友好的な関係にあるのは周知であり、当然これに「安曇勢力」が加わって、強固なものになったと考えられます。さらにこの勢力に「唐」軍に捕虜となっていた「筑紫の君薩夜麻」が合流したと考えられます。
 「筑紫の君薩夜麻」という人物は、「六六二年」の白村江の戦いで唐軍の捕虜になっていたものが(捕虜になった時点では記載がありません)、六七一年(実は六七〇年)に唐の軍隊の先兵として帰国したのが初出です。「筑紫の君薩夜麻」は数千人に及ぶ唐の軍の「先触れ」として筑紫に帰国してきたのです。そして「壬申の乱」という戦いは彼が帰国していくばくもなく発生することとなるわけですから、彼がこの乱に非常に関係が深いと思われるのは当然であり、「反日本国」側の有力人物であったことの証左と考えられるものです。
 彼が加わった結果としての「反日本国」勢力が、特に「西海道」に強い勢力範囲があったわけであり、このような広範囲の勢力をまとめることは短期間でははなはだ困難なことと考えられ、「以前から」これらは「一定の勢力範囲」に所属していたものと推測されるものであり、これは「別の朝廷」の存在が強く示唆されるものです。特に九州は「筑紫」「安曇」「宗像」「大分」等が反近江朝廷側に入っている形となり、これらの中心的位置を占めていたのではないかと思われます。それに関しては「近江朝廷」から派遣された「佐伯連男」と「樟使主磐手」は「筑紫」と「吉備」について以前から「大皇弟」に付き従っていたとされており、そもそも西日本は「大皇弟」という人物の勢力範囲であったこととなりますが、そのことと「筑紫君薩夜麻」の勢力範囲が重なっているように見えるのは偶然ではないと思われます。

「…且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。…」

 これらのことから考えて天智天皇は「国号変更」と言うより「西日本」側の勢力とは「別に」「朝廷」を開き、「国号」を「創始」したと考えるべきかもしれません。
 『書紀』では「大海人」対「大友」に構図が「矮小化」されていますが、実際は「天智」が独立して「別個の朝廷」を開き、「大友皇子」がそれを継承した、ということであると推測されます。
 「天智」は「日本国天皇」を自称していたものとみられるわけですが、『釈日本紀』によれば、「日本」という国号は(自ら名乗ったというより)唐から「号」された(名づけられた)ものとされています。どの段階で「号」されたかというのは「唐の武徳年中(つまり太宗の治世)」になって派遣された遣唐使が「国名変更」を申し出、受理されたとされていますが、さらにそれ以前にも「隋朝」に対し「倭」から「日本」へという国名変更を願い出たものの、同時に「天子」を自称するという挙に出たためそれを咎められることとなった影響で認められなかったとみられます。
 実際には『推古紀』の「国書」の内容から見て(「倭皇」という表記が見られる)「日本国」という国名変更は承認されなかったものの、「天皇」自称は一旦認められたものと思われますが、その後の「遣使」の際の「天子」称号の迂闊な使用から「宣諭」されるという失態を犯した段以降、元の「倭国王」に差し戻されていたものではないでしょうか。
 その後「唐朝」になり「太宗」の元に「使者」を派遣した際に再度「日本国」「天皇」号を認めるよう請願し一旦認められたものと思われますが、返答使として派遣された「高表仁」とのトラブルによって、またもや「倭国王」に戻されたと推察され、この後国交が途絶えた後「高宗」即位後「新羅」を通じて「起居」を通じるようになり、「白雉年間」に派遣された連年の遣唐使時点(後の方)以降「日本国」「天皇」号を認められるに至っていたもののようです。
 この件に関しては、「隋代」以来の経緯を踏まえた「天智」(というより「倭王権」)が、「天子」自称はせず(「伊吉博徳」の遣唐使派遣記録では「唐皇帝」を「天子」と称しており、自らを「天子」とする立場にはおいていないのは確かです。)、しかも「伊吉博徳」の書をみるとこの時「日本国」という自称を「高宗」は受け入れていた模様ですが、それは倭国側が「新羅を通じて起居を通じる」(六四八年)という記事が唐側史料にあるところから見て、「高表仁」の一件について「謝罪」したからではなかったと考えられるでしょう。それを「唐」が受け入れた結果「日本国」という呼称変更とともに「天皇」自称を認めていたと思われるのです。つまり「唐」の「天子」(皇帝)に対し「天皇」という位取りはそれほど僭越とは言えないため、これを「唐朝」として認めていたものと思われ、これが「天智末年」まで続いていたと思われるわけです。
コメント

「天智」と「受命改制」―改暦と年次のずれについて

2024年08月12日 | 古代史
  ②「改暦」の有無

 ところで、「天智紀」において、倭国と「唐」が直接戦った「白村江の戦い」の年次が『旧唐書』などと食い違っているのがわかります。『旧唐書』などの中国側史料ではこの年次が「六六二年」であるのに対し『書紀』では「六六三年」となっており、一年ずれているのです。

西暦  現暦干支 異暦干支  記事・出典
六六二  壬戌   癸亥  白村江の戦い『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』
六六三  癸亥   甲子  白村江の戦い『日本書紀』

 この東アジア全体の共通点とも言うべき事柄が一年「日中」の記録で食い違っているのは、不審ですが、それが「構造的」なものであると言うことも考えられ、その場合その他の記事にも食い違いがあるのではないか、と云う強い疑いを生じます。これに関してはすでに「正木氏」の論(「亡国の天子薩夜麻」)において「半島」への出兵が『書紀』の年次より一年早いことが指摘されており、確実といえます。さらに「劉徳高」の来倭記事などにもいえることでもあります。

(六六五年)四年…
九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉徳高等等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍朝散大夫上柱國郭務悰。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。
冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。
十一月己巳朔辛巳。饗賜劉徳高等。
十二月戊戌朔辛亥。賜物於劉徳高等。
是月。劉徳高等罷歸。
是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。

 ところで、この時の「劉徳高」達は実は「泰山封禅」への参加命令も伝達に来たものと考えられ、それに応じて、「薩夜麻」本人とは別に「参列」するための人員を急遽派遣することとなったと考えられます。 
 この「泰山封禅」は「六六六年正月」に実施する、という詔が出されたわけですが、それが出されたのは「六六四年七月」とされています。この月の「朔日」(一日)に出されたものですが、当然周辺諸国も含め多数の参加者が想定され、またそうでなければ「権威付け」にならないわけですから、多くの国に「泰山封禅」開催を知らせる「使者」を出したものと考えられます。
 当然倭国にも「来るはず」であり、それが「劉徳高」の来倭であったと考えられるのですが、その年次が「六六五年七月」というのでは、余りに遅すぎるといえます。
 倭国のように海を隔てて「遠絶」した地域や、「西域」からも参加が考えられるわけですから、これらの国々に対しては「早期に」使者を派遣する必要があるはずですが、倭国への到着が「六六五年」では「高宗」が詔を発してから一年以上経過していることとなり、まさに「遅きに失する」こととなってしまいます。直後の「十月」にはすでに「高宗」に従駕する行列が始まっていますから、全く間に合わないと思われます。

(再掲)
「(天智称制)四年(六六五年)是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

 この記事は「是歳」条記事であるものの、これはその記事の中でも触れられているように「唐使」を送る役割であったと思われますから、配列から考えて「十二月」のことであったのではないかと考えられ、そうであれば「守君大石等」達は「泰山封禅」の儀式そのものにさえ間に合ったかどうか疑わしいものです。このような「間に合わない」使節派遣などあり得るはずがありません。
 この推論に従えば、「劉徳高」の来倭の日付は「六六五年」ではなく、「六六四年」であった可能性が高いと考えられるものです。
 「高宗」は「倭国」等遠絶した地域からも参加が可能なように「時間的余裕」を考え「六六四年(麟德元年)七月朔」にこの式典開催を宣言しているのです。つまり、「封禅の義」まで、約一年半の猶予があるわけであり、この詔勅の「直後」に各国に使者が発せられたと考えるべきでしょう。まさに「劉徳高」の来倭はそのタイミングで為されたと考える方が正しいと思われます。
 このことからも『書紀』の年次が、「唐」に比べ「一年」の「ズレ」があることが推定できます。
 中国の歴史上「封禅」の規模は皇帝の「即位の儀式」さえも超えるものでした。そのため、「唐」の高宗はこの儀式を自身の威信をかけたものにするために、周辺の「唐に封ぜられた」諸国王も含め大量招集をかけたものでしょう。そのような中にははるか遠方の国もあるわけですから、かなり余裕を持った伝達でなければ間に合わないという可能性も出てくるため、特に遠方の国については「迅速」な伝達を行ったものと考えられます。
 この時派遣されたという「劉徳高」の官職名は「沂州司馬」というものですが、「沂州」が現「山東省」付近の事であり、遣唐使船などが往復に利用する港があるところですから、倭国へ使者を送るのには「最適」「最短」の場所にあると言えます。(だからこそ彼が選ばれたものでしょうか)
 『書紀』の日付が一年ずれているとすると「劉徳高」は「対馬」に「六六四年」の「七月二十八日」についたこととなり、「高宗」が「詔」を発したその月のうちに来た事となります。(事前に詔の内容が内示としてあった可能性もあるでしょう。この場合はそれ以前に準備はすでにされているわけです)
 また、当時の「唐」の船の構造も倭国の船に比べ外洋航海に適しており、(竜骨構造の採用など)ここから船出したとすると、修正年次の「六六四年七月二十八日」の到着も可能でしょう。
 実際の「遣唐使船」の行程を「六五九年」に派遣された「遣唐使」である「伊吉博徳」の記録である「伊吉博徳書」で確認してみると、「遣唐使」として訪れていた「唐」から「六六一年」に帰国した際には「四月一日越州から出発、四月七日『ちょう岸山』の南に到着、八日暁西南の風に乗って大海に乗り出したものの、『漂流』し、九日後(四月十七日)『耽羅』に到着した。」とあり、「劉徳高」の出発地である「沂州」にほど近い「『ちょう岸山』の南」から出航しています。そこから「最短ルート」を取ったものでしょう。この時の倭国の遣唐使船は、多少「彷徨」したようですが、「耽羅」(済州島)まで九日間で来ています。「劉徳高」が同じような、東シナ海横断ルートを取ったとすると、この日数と大きくは違わなかったのではないでしょうか。
 特にこのように急いで倭国に使者を送ったのは、もちろん「倭国」との間の「戦争状態」を集結させるためであり、「泰山封禅」に「捕虜」を連れて行くわけにはいかないわけですから、「倭国王」の出席を促すと共に至急「降伏」の意思表示を示すように督促したものと推量されます。(条件付き講和であったと思われます)
 「倭国」との折衝を通じて「百済禰軍」達はその後「捕虜」となった「高麗」地から連行されていたと思われる「百済」内某所(熊津城内か)の「薩夜麻」と、引率して来た「守君大石」達を引き合わせた後、「薩夜麻」達を「劉仁軌」に引き渡したものと推量します。
 その後「劉仁軌」は「薩夜麻」を含む「百済王」「耽羅国王」などを「船」で「泰山」の麓まで運んだとされます。

「旧唐書劉仁軌伝」
「麟德二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

「冊府元龜」
「高宗麟徳二(六六五)年八月条)仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。」

 この時「劉仁軌」は占領軍司令官として「百済」(熊津都督府)に滞在していましたから、「百済王」はもちろん「倭国王」もこの時点付近で「劉仁軌」の支配下に入ったものと考えられ、彼らを船に乗せて「黄海」を横切り、「泰山」の麓の港まで「連行」した、というわけです。
 ここで「高宗」は間近に「東夷」の国王達を見て、「東夷」が平定されたことを実感して、大変喜んだものと思われます。
 「劉徳高」の来倭の結果「派遣」されることとなった「守君大石」「坂井部石積」等は「劉徳高」達の帰国に併せ、「熊津都徳府」に向かったものと考えられ、そこで「薩夜麻」と合流したものと推量します。この後彼らはこの「倭国王」達の「高宗会見」などにも同船して向かったものと考えられます。
 このように「謝罪」を承けた「高宗」は「倭国」が「絶域」(遠距離)であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、「百済王」達にそうしたように「謝罪」と「降伏」を受け入れたものとみられます。ただし、処分は下され「千里の外で三年間の強制労働」というものが適用されたものと思われます。これは実質的には「熊津都督府」至近で「軟禁」状態になったことを示していると思われ、いってみれば「経過観察」状態に入れられたものであり、「反抗的態度」や「謀反」などの気配がないか観察されていたのではないかと考えられます。
 また、この「劉徳高」の倭国への遣使が「唐」の史書にありませんが、これは「泰山封禅」の式典に参加する各国への使者が余りに多く、記録上書ききれないため省略されたのだと考えられます。この時は国内全州、及び「柵封国」、「友好国」など非常に多くの参加者があったようであり、『資治通鑑』にも以下の文章があります。

『資治通鑑』「六六五年」(麟德二年乙丑)「冬十月丙寅上發東都從駕文武儀仗數百里不絶。列營置幕彌亙原野。東自高麗西至波斯烏長諸國朝會者各帥其屬扈從穹廬毳幕牛羊駝馬填咽道路。」

 東西の各国からの使者や高官がその随行員を率いて「唐」の「高宗」に「從駕」し、その長さが「数百里」に及んだように書かれています。当然これに参加した彼ら「東西諸国」からの使者なども「唐」からの「使者」によりこの式典に来るよう指示なり招待なりを受けたものと思われます。しかし、このような各国への「唐使」派遣記事は唐側の史書には記載されていないのです。
 ただし、上の『資治通鑑』記事では「東自高麗」と書かれ「新羅」や「倭国」などのことが書かれていません。一見彼らは「泰山封禅」に参加しなかったかのようですが、これは「東都」(洛陽)から「泰山」への陸上移動の様子であり、「倭国王」達はそれとは別に「船」で直接「泰山」(太山)へと「劉仁軌」により運ばれていたものですから、この「従駕」の列には書かれていなくて当然であるわけです。
 また、これに参加したと考えられる「境部石積」などの帰国の日時も「一年ズレ」の対象記事と考えられます。

「(天智称制)六年(六六七年)(中略)十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この年次についても「修正」の結果「一年前」の「六六六年」十一月となり、従来「六六六年」正月に行われた「泰山封禅」から二年近くも経過した「六六七年」十一月の帰還というものがはなはだ不自然であり、その理由が不明であったものが解消されます。
 つまり、「守君大石」「坂合部連石積」らについての「泰山封膳」への出発が「六六四年」十二月、「泰山封禅」が約一年後の「六六六年」正月、帰国がさらにその約一年後の「六六六年」十一月となれば、使者の往還に要する時間もきわめて自然なものになります。(続く)
コメント

「天智」と「受命改制」

2024年08月12日 | 古代史
 中国では「天子が『天命』により交替した場合は国家の制度も変わる」という考え方があり、これを「受命改制」と言いました。
 ですから、単なる親と子の間の継承ではない場合など、通常の形態ではない王朝交替があったときは「受命」があった(天命を受けた)と解釈することになります。一種の言い訳として使用されているわけですが、この際「前王朝」の各種制度は基本的に改変されます。
 「受命」があった場合「改制」されるものとしては以下のものがあります。
 ①「国号変更」
 まず第一に「国号」(王朝名)が変更されます。「国号」はその天子の理想を反映したものであるべきであり、天命により天子が替わったのですから、国号も変更されて当然です。「王朝」交替で国号が変更されなかったことはありません。
 ②「改暦」
 続いて「改暦」が行われます。天体の運行は「天帝」の命令そのものであり、その異常、つまり天体の運行を正確に予報できないことは即座に自分自身の「天命」が尽きることを意味します。「暦」は地球の自転、公転、月の公転など天体の運行を正確に把握しなければ作成できないものなのですから、正しい「暦」を造ることがまず「天子」の重要な仕事となります。
 ③「前史」作成
 さらに「前史」、つまり「前王朝」の(までの)史書を著します。これは、正常ではない王朝交替であることを「粉塗」するため、あるいは大義名分を「誇示」、「保持」するために「前王朝」の治績などについての史書をつくるわけです。たとえば、「隋書」は「初唐」に書かれ、「旧唐書」は「北宋」の時代に書かれています。三国志は「魏」の正当であることを記述していますが、書かれたのは次の「西晋」の時代です。「漢書」は「前漢」についての史書ですが、「後漢」の時代に書かれたものです。
 しかし、全ての場合「前王朝」を「批判」する、というわけではありません。
 通常でない王朝交替には「禅譲」「奪取」「打倒」などがあり、たとえば「魏」から「晋(西晋)」などは「一応」「禅譲」ですが内実は「奪取」に近いものがあります。また「隋」から「唐」は「奪取」ないし「打倒」でしょう。隋皇帝「煬帝」はクーデターにより「殺された」のです。殺した将軍が「李淵」であり彼が「唐の高祖」となったのです。その「唐」から「宋(北宋)」へというのは「奪取」であると思われます。
 このように王朝交替の内実は様々であり、「禅譲」であった場合は「前王朝」への強い批判は避けられます。というよりむしろ「賞賛」されることもあります。『三国志』などがそうでしょう。「魏」は正当な王朝であることを示すために書かれた『三国志』では「魏」は賞賛され、「呉」や「蜀」はけなされています。それに対し、「隋」を打倒して造られた「唐」により書かれた『隋書』では、特に皇帝「煬帝」は嫌われています。「徳」のない、好戦的で横柄な「暴君」として書かれています。このようにパターンはいくつかありますが、前史を著すことが自王朝(新王朝)の大義名分に繋がる、という点では一致しています。

 ④「制度」改変
 さらに、「前王朝」の政治に「非」がある場合は、「制度」にも問題がある場合も多く、それらを継続する事は避けられるのが通常です。たとえば、「律令」の改変、官僚の制度や行政制度の変更などが行われる場合が多く見受けられます。たとえば「隋」は南朝「陳」を滅ぼして、統一国家を作りましたが、それまでの「州-郡-県」制度を改め、「県」を「州」の直轄とすることとし、「州-県」制に変更しました。

 これらの事がほぼ同時に行われているようであれば、「受命」があり、それに伴う「改制」が行われたと判断される訳です。その意味で「天智」の場合が注目されます。
 ①「受命」の有無
 『書紀』には「天智天皇」が「天命」を受けたと思われる記述があります。「天命将に及ぶか」という言葉が彼の近江への遷都の後に使用されています。

「六六八年」(天智七年)「秋七月。高麗從越之路遣使進調。風浪高故不得歸。以栗前王拜筑紫率。于時近江國講武。又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至。又饗夷。又命舍人等爲宴於所々。時人曰。天皇天命將及乎。」

 「大系」の読み下しではこれを「みいのちまさにおわりなむとす」と読んでいますが、この読みは無理でしょう。そうは決して読めるものではありません。これは明らかに「天智」に「天命」が「及んだ」と言うこと以外を意味しないものと思われます。
 『隋書』の「隋」の「文帝」についての記事に同様に「天命將及乎」が使用されており、その後「隋」が建国されていますから、この用語が使用される状況も共通していたと見るべきでしょう。
 漢詩集『懐風藻』の「序」にも「及至淡海先帝受命也 恢開帝業云々」という文章があり、「天智天皇」が「受命」した、と書かれています。
 また、『書紀』の天王の治世を示す用語としては「御宇」「治天下」「御寓」など各種の用法が確認されますが、「天智」以降は「御宇」で統一されています。それ以前は「治天下」が使用されており(ただし「孝徳」の詔の中にだけ「御寓」が現れます。これについては別に述べます)、『書紀』の編者は「天智以前」と「以後」を明確に区別して書いていることになるでしょう。
 このことは彼の諱「天命開別」というのにも現れています。「天命」により「別国」を「開いた」という名称になっているのです。これらのことから「天智天皇」が「日本国」王朝の初代王であり、「倭国王朝」を見限って近江に建国した人物、ということができるでしょう。(続く)
コメント

「壬申の乱」の際の「符」について

2024年08月12日 | 古代史
  「壬申の乱」の前に近江朝廷から各地に「興兵」つまり「軍事行動」を起こすようにという指示が出されています。

「…夜則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣百足。及弟百枝。物部首日向遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國『授苻』之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。男至筑紫。時栗隈王『承苻』對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還之。…」

 これをみると「符」が「筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人」に授けられています。

「…磐手到吉備國『授苻』之日…」、「…時栗隈王『承苻』對曰…」

この両者への「符」は「大友皇子」からの「軍事」に関する執行命令であり、形式的には「勅符」であったと思われます。
 「大宝令」の「公式令」では「勅符」が規定されています。これは中務省を経ずに伝達される形式をいうようであり、「勅旨」が在京の官人、諸司に向けたものであるのに対して、「勅符」は在外諸司に向けたものという性格があるとされています。
 しかし上の記事によればそれ以前にすでに「勅符」が文書形式として成立しているようであり、それは「公式令」様のものがその時点で存在していたことの表れではないかと思われることとなります。これに関してはすでに「大宝令」以前の「古くから存在した勅命伝達文書の系譜」を想定するべきとの説もあり、それは当然「近江令」という存在につき当たることとなるでしょう。
 「天智」が「令」を公布したとすると、これは一種の「受命改制」ではないかと考えられます。
 私見によれば六五四年以降日本国が成立していたと見ていますが、派遣された「遣唐使」の言葉によっても正当な手続きによる王権の交代を反映したものではないと思われ、すると当然その権力移動は一種「革命」であり、「受命」があったということとなります。
 中国では「天子が『天命』により交替した場合は国家の制度も変わる」という考え方があり、これを「受命改制」と言いました。
 ですから、単なる親と子の間の継承ではない場合など、通常の形態ではない王朝交替があったときは「受命」があった(天命を受けた)と解釈することになります。この時の「天智」も同様な状況であったと考えられることとなるでしょう。(続く)
 
コメント