古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「持統紀」の「新羅」からの「弔使」に対する「勅」への疑問(2)

2016年10月16日 | 古代史

 『書紀』によれば「天武天皇」は「朱鳥元年」(六八六年)九月に亡くなっています。そして、明けてすぐの「持統元年(六八七年)正月」に盛大な「誄礼」の儀が行われています。さらに、一年後の「持統二年」(六八八年)正月には「殯宮参り」が行われており、この段階においてもまだ「埋葬」が済んでいないように見えます。
 このように「通常」の理解の範囲内の「葬儀関連」記事の他に「六八九年」の「葬儀」的儀式の記事があるのであり、この記事の存在は「不審」であると理解された「正木氏」により「三十四年遡上」という『書紀』に対する研究が発生したわけです。この「不審」はこの「新羅」からの「弔使」についても言えるのではないでしょうか。
 記事の流れから見ても「三十四年遡上」と考えられる「葬儀記事」と、この「新羅」からの「弔使派遣」とそれに対する「詔」という記事は一連のものであり、「葬儀記事」と同様、本来『孝徳紀』の記事であったものが移動させられているのではないかと推測されます。
 つまり、従来「天武」の「崩御」を知らせる役目であったと考えられる「田中法麻呂」が、「孝徳」崩御を知らせるものとなると、必然的に「巨勢稻持等」がその「喪之日」を「新羅」に知らせた「昔在難波宮治天下天皇」とは「孝徳」ではない、ということとなってしまうからです。
 この推測を傍証するものが「根麻呂」の奉勅の中にあります。そこでは「昔在難波宮治天下天皇」の崩御に際して「巨勢稲持」が「喪之日」を知らせる為に「新羅」に行った際、「金春秋」が「奉勅」したと書かれており、その時の彼の肩書きが「翳飡」とあります。これは「伊餐」と同じものであり、「新羅」の官位の十七階中第二位のものです。
 しかし、この「昔在難波宮治天下天皇」が「孝徳」を示すとすれば、彼が「六五四年十月」に亡くなったわけであるのに対して、「金春秋」は、『三国史記』によればそれ以前の「六五四年三月」に先代の「真徳女王」を継いで「新羅国王」の座についています。つまり、「孝徳」死去の知らせが来た段階ではすでに「金春秋」は「国王」になっているわけであり、その時点で「翳餐」という「第二位」の官位を持っている「官人」であったとするこの『書紀』の記事とは大きく食い違っているのです。

 また『書紀』によれば「六四六年」に「遣新羅使」が送られており、それに応え翌「六四七年」「金春秋」が「来倭」しているようですが、この時の「金春秋」の肩書きは「大阿飡」であったと『書紀』にあります。他方『三国史記』によれば「六四三年」の段階ですでに「翳飡」であったようです。(以下の記事)

「(善徳王)十一年(六四三年) 春正月 遣使大唐獻方物 秋七月 百濟王義慈大擧兵 攻取國西四十餘城 八月 又與高句麗謀 欲取党項城 以絶歸唐之路 王遣使 告急於太宗 是月 百濟將軍允忠 領兵攻拔大耶城 都督伊品釋 舍知竹竹・龍石等死之 冬 王將伐百濟 以報大耶之役 乃遣『伊飡』金春秋於高句麗」(『三国史記』新羅本紀)

 これに従えば『書紀』の記事にある「大阿飡」という官位が疑わしいと考えるのが通常でしょう。つまり「昔在難波宮治天下天皇」の「喪之日」を「金春秋」が「奉勅」したというのはずっと以前の事ではなかったかと考えられるわけですが、ではここでいう「昔在難波宮治天下天皇」とは「誰」を指すのか、というとそれは「利歌彌多仏利」を指すものではないかと推定されるわけです。
 歴代の「倭国王」の中で、「難波」に関係している人物で「六三〇年代付近及びそれ以前」というと、該当するのは年次的にも「利歌彌多仏利」になると考えられるからです。
 「利歌彌多仏利」は『隋書俀国伝』によれば「阿毎多利思北孤」の「太子」であったとされていますから、「六二二年」とされる「阿毎多利思北孤」の死去以降(法隆寺釈迦三尊像光背銘による)「倭国王」であったとみるべきであり、彼の死去がどの年次かは不明ですが、その時点で「巨勢稻持」が「喪使」として派遣されたと見られるわけであり、(少なくとも「六四三年以前」と見れば)六三〇年代のいずれかの時点ではなかったかと考えられる事となります。(続く)

ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« 「持統紀」の「新羅」からの... | トップ | 「持統紀」の「新羅」からの... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL