古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「那須直韋提の碑文」について(六)

2017年09月10日 | 古代史
 「那須直韋提」の碑文に「永昌元年」という年号があるのは「倭国」が「唐」(武則天)に追随していたと考えたわけですが、この考えは「二〇〇二年」に「石神遺跡」から出土した「具注暦木簡」に「元嘉暦」が使用されていたと考えられていることと一種「矛盾」するといえるでしょう。それは「元嘉暦」が「南朝」の暦であり、「隋」によりとうの昔に滅ぼされた「南朝」の暦を使用しながら「唐」に対し追随姿勢を見せていることは「矛盾」といえるからです。

 「奈文研」などの見解では「木簡」に記された「辛酉破上弦」「戊戌皮三月節」などの文字列から、この「具注歴」の暦として「元嘉暦」が相当すると考えられています。しかし、この「具注歴」に書かれた暦は本当に「元嘉暦」なのでしょうか。
 「奈文研」を始めこの「具注歴木簡」に書かれている暦が「元嘉暦」であるという点では異論を見ませんが、本当にそうかというのが当方の意見です。
 疑問に思う一点は上に見たように「永昌元年」という「唐」の年号との矛盾です。この年号の使用日付と「具注歴木簡」の日付(月)は同じなのです。全く同じ月を表現するのに「暦」は「元嘉暦」で、年号は「唐」の年号というのは甚だしい「矛盾」と言えるのではないでしょうか。「元嘉暦」が「南朝」の暦であり「唐」にとって「忌むべき」ものとも言える性格であることを考えると、「永昌」という年号と共存できるはずがないと言えるでしょう。この年次は「六八九年」とされていますが、「倭国」と「唐」の関係は「六四八年」に一旦国交が回復したわけであり、その時点で「唐」の暦を導入したと見るのが相当と思われ、「戊寅元暦」の使用があったものではないでしょうか。その後確かに「白村江の戦い」などにより「唐」との関係は悪化しますが、この「唐」の年号を使用するという段階で「元嘉暦」に戻っていたとも考えにくいのです。
 
 この「具注暦木簡」に表された日付や十二直などの表記は確かに「元嘉暦」で再現できますが、実は同様に無理なく再現できる他の暦が存在しています。それは上に述べた「戊寅元暦」です。これによってもこの「具注歴木簡」に書かれた干支や十二直は再現できます。但し「戊寅元暦」では「三月」が「小の月」となります。つまり「二十九日」までしかないわけです。
 「奈文研」が発表した復元案(※)によれば暦の冒頭に月名などを表記するために「四行分」の「スペース」を取り、その後に等間隔で三十日分の記事を書いているようになっています。つまり、写真を見ると「三月癸亥」の真裏に「四月戊戌」が来るように見えます。「四月戊戌」というのは「十六日」であるわけであり、三十日側から数えると十五行目となります。この真裏に「三月癸亥」があるわけであり、これが(「元嘉暦」のように)「大の月」なら「十一日」となりますから、先頭に四行スペースを取ると同様に十五行目となって「真裏」に来ることとなって位置の対応は適合するという訳です。しかし、スペースが四行分かどうかは実は不明であり、これが四行としているのは「逆」に「三月」を「大の月」とするためであり、「元嘉暦」が使用されているということを言おうとする為であるともいえます。
 この先頭分のスペースが「五行分」であったとすれば、「十六日」である「四月戊戌」は十五行目で変りませんが、「三月癸亥」が「十日」となっても同様に「十五行目」となって整合します。つまり、「三月」は「小の月」で良いこととなりますから「戊寅暦」であっても構わないこととなります。(スペースが五行あったとする方が月名などをそのスペースの真ん中に書き込むのに都合が良く、またバランスを取りやすいと思われます。)
 そもそもこの時の「暦」そのものが不明なのですから、「三月」が「大の月」と決まっているわけではないのは当然であり、「二十九日」までしかなかったという想定も充分有り得ます。(但し、これは『書紀』の『持統紀』に使用されている暦の種類の問題とは別であり、そこには「元嘉暦」によって記されているとしか考えられない記述が並んでいることは確かです。しかし、『書紀』の記述に使用されている暦が必ずその時点で使用されていた暦であると言えないのは古代の部分の記述に「儀鳳暦」が使用されている例からも当然であると思われます。)

 ここで想定した「戊寅元暦」は「唐」で始めて改暦された記念碑的な「暦」であり、「唐」では「唐初」から「麟徳暦」に取って代わられる「六六五年」まで使用されていたものです。「中国」で作られた「暦」が既にその本国である中国で使用されなくなり、とうの昔に改暦されていても、周辺国では使用が継続しているというのはしばしば確認される事象です。なによりも、「戊寅元暦」がここに使用されているとすると、「永昌」という「唐」の年号との「矛盾」も解消する事が重要であると思われます。
 ただし、倭国ではこの「戊寅元暦」が既に「唐」では使用されていない古いものであったということにこの「六八九年」の「祝賀使」派遣の時点で気がついたということではなかったでしょうか。そのため帰国後「麟徳暦」への改暦が議論され決まったものと思われますが、通常「暦」の製作と頒布は「十一月朔日」に行なわれるものですから、この年はそれができなかった可能性があります(十一月がなくなってしまったため)。そしてその翌年の「十一月」の時点で「改暦」されたものと見られ、「麟徳暦」が使用される事となったと見られますが、またこの「六九〇年十一月」という時点は「庚寅年籍」の造籍が為された時点でもあり、これは「改暦」と同時の出来事であった可能性が高いと思料します。

(※)奈文研ニュース№8「具注暦木簡復元図」
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「那須直韋提の碑文」について(五)

2017年09月10日 | 古代史
 すでに故人となられましたが「岸俊男」さんという古代史学者がいらっしゃいました。彼には多くの業績がありますが、その中で当方が注目するのは「戸籍」に関する事です。彼の研究によれば古代において人名に「動物」の名がつけられている例が多く、それは生まれた年の「干支」を取り入れたためとされます。(※)たとえば、寅年生まれだと、「刀良」や「刀良売」、卯年生まれだと「宇提」「宇提売」「宇麻呂」などと名づけるのがそのような例です。このような命名法が一般化したのは暦法を取り入れて後のことであると考えるのは自然です。

 古代の「戸籍」には「生年」(干支)と「名前」が記録されており、そこから計算すると「庚寅年」以前にはそのような命名法と考えられる例が少なく(つまり「干支」と人名に対応が見出せない)、多くの人々にとっては「干支」というものが身近ではなかった事が窺えます。つまり、「暦法」が導入され、国内に施行されたことによって「干支」というものが日常生活の中に溶け込んでいったことがこの「命名法」からも読み取れるわけです。特に「班田」の制度の施行と「名前」に「生まれ年」の「干支」を関連づけることが行われるようになったことは深く関係していると思われます。それが「庚寅年」であることは重要であり、「庚寅年籍」の存在との関連が重要です。この年次に「戸籍」の調査と登録が行われ、そこで「初めて」干支紀年法を人々は知ったのではないでしょうか。そして「課税」と「班田」の年限の対応をわかりやすくするため名前に生年の干支をとり込むことが始まったと見られるのです。
 ところがこの対応関係が「丙申年」(つまり六九六年)以降一年「ずれる」現象が確認されています。つまり、実際の生年の干支の「翌年」の「干支」を人名に用いることが頻出するのです。

 具体的にいうと「丙申年」まではその年の干支を人名にしているのが多くなっています。たとえばその前年は「未年」ですが、「羊」や「羊売」などと命名されています。しかしこの翌年の「丁酉」になると突然、「酉年」であるのに「翌年」の「干支」である「戌」にちなんだ「犬麻呂」と言う名称が現れ、「酉(鳥)」に関する名称は見えません。以降も同様に生年の「翌年」の干支が名称に使用されており、その翌年は「戌年」ですが「猪手売」、更にその翌年である「己亥」年には「根麻呂」、「庚子」年は子年にも関わらず「牛麻呂」や「牛売」、「七〇一年」は丑年ですが「刀良」、「刀良売」、「七〇二年」は「壬寅」年で「宇麻呂」、「宇提売」などとなっています。そして、その年の干支を使用した例はそこまで「一件」も確認されていません。そして、この「ずれ」はこの「壬寅」つまり「七〇二年」で終了しその翌年からまた正常に戻ります。つまりそのつぎの「造籍」時に修正されたとみられるわけです。
 これについて岸俊男氏は「籍帳」を製作した実年時と提出された年次の相違に帰して考察していますが、そうとは言い切れないのは当然です。その場合その年次付近だけになぜ現れるかを説明しなければなりません。「丙申年」の段階でズレ始めるということは、その時点で「計帳」つまり「戸籍」の変動について調査が行われたと見られ、その際に何らかの「誤解」あるいは「暦」の変更が示されたという可能性があります。
 これについてもっとも可能性が疑われるのは「周正」への変更ではないでしょうか。
 これについては古田史学の会員であった「洞田一典」氏が「会報」等で発表した『持統「周正」仮説』が非常に参考になります。これは「武則天」が権力を握っている段階で、「周」の古制に復帰するという名目で「歳首」つまり一年の始まり(つまり一月)を十一月に変更したというものです。(※2)

「天授元年正月庚辰,大赦,改元曰載初,以十一月為正月,十二月為臘月,來歲正月為一月。…」(『新唐書/本紀第四/則天順聖武皇后 武曌/天授元年』より)

 つまり「周」代においては「冬至」が正月だったわけであり、これを復元したというわけです。そのためその時点の「冬至」の月である「十一月」を歳首と変更したというわけですが、これを倭国王権が採用し同様に「十一月朔日」を「元旦」としたというものであり、これは当時「新羅」が追随していたもので、これを「倭国」でも採用したのではないかと思われるというわけです。
 彼の推定によれば本来の「干支」の一年先の「干支」が当年の年次に採用されたとしますから、上の趣旨にぴったりです。たとえば「文武」の即位と大嘗祭の年次についても、『延喜式』など見ると「七月以前の即位の場合はその年の十一月、八月以降の即位の場合は翌年の十一月」となっていたようであり、その意味では「文武」の即位が「八月」であって大嘗祭がその翌年の「十一月」であるのは一見問題なさそうですが、『皇年代私記』傍注も『歴代皇紀』と『一代要記』の本文も「大嘗祭」を「即位」と同年だとしています。詳細は「洞田氏」の論を見ていただくとして、解析の結果「周正」を導入したために一年ずれていることが明らかであり、それが「干支」を名前にするという中に遺存したと見られます。
このようなことが起きたことを傍証するのが「永昌元年」という「日付」が書かれた「那須国造碑」の存在だと思われます。

 この「永昌元年」という年次は「武則天」が「周正」を導入したその年であり(年末)、そのような年号が「碑文」として書かれているわけですが、この「永昌元年」という年号は「中央」からの「任命文書」様のものに記載されていたものと理解しています。そのようなものに「武則天」の「年号」が書かれている事は時の権力者が「武則天」に追随したことを示し、そうであれば「周正」も受け入れたであろうと考えるわけです。
 この年はその年度初めに「持統」が即位しており、本来ならば「十一月」に大嘗祭が行われるはずでした。しかし、自ら変更した「周正」により「十一月」という月そのものがなくなってしまったため、「大嘗祭」は翌年に実施せざるを得なくなったものです。さらにこれは「文武」の即位と大嘗祭にも影響し、即位の年とされる「丁酉」は実際には「戊戌」として「暦」に記され諸国に頒布されたと見られます。この様な混乱が発生した理由は上の『新唐書』の記載がヒントとなるようです。そこでは「正月」と「一月」が別に書かれており、この「正月」時点で「干支」か余計に一つ進んでしまったと理解したとすると混乱の理由がわかります。そして「計帳」年次である「丙申」の時点以降「誤った暦」に基づき出生したものに名前がつけられたみられます。
 この「周正」は「武周」においては「七〇一年」まで継続したものであり、その翌年「夏正」に復帰しました。(新羅も同様)「倭国」においてもこの時点で復帰したとすると「大宝二年」時点で元に戻ったこととなり、人名に「ずれた」干支が使用されるのが正常に復旧する時期と整合しており、それは「周正仮説」の正しいことを裏書きするものです。(続く)


(※1)岸俊男「十二支と古代人名 -籍帳記載年令考-」(『日本古代籍帳の研究』塙書房一九七九年)
(※2)洞田一典「持統・文武の大嘗を疑う「持統周正仮説」による検証」(『新・古代学』古田武彦とともに 第五集二〇〇一年新泉社)

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「那須直韋提の碑文」について(四)

2017年09月10日 | 古代史
 この「永昌」改元はその前年の「六八八年四月」に「唐」の「洛水」から「聖母臨人 永昌帝業」と書かれた「図」が出たことを記念したものです。(ただし、これは言ってみれば「武則天」の「詐欺」のようなものでしたが)
 そして、この「改元」に先だって「六八八年五月」に「内外」に「祝賀の儀」への参加の「招集」が「詔」として発せられたようです。

「五月戊辰 詔當親拜洛,受寶圖有事南郊告謝昊天。禮畢御明堂朝羣臣。命諸州都督刺史及宗室外戚 以拜洛前十日集神都。」(『資治通鑑』による。)

 同様のことが『旧唐書』にも書かれています。

「其年五月下制 欲親拜洛受寶圖。先有事於南郊告謝昊天上帝。令諸州都督刺史并諸親 並以拜洛前十日集神都。…」

 これによれば「拜洛」の「十日前」には「神都(洛陽)」に集合しなければならないとされています。これは結局同年十二月(二十五日)のことであったものであり、これに合わせ「都督刺史及宗室外戚」が「洛水」に集められ、「武則天」が「圖」を「拝」するのに「内外百官」が陪従したとされています。

「十二月己酉(二十五日) 太后拜洛受圖 皇帝皇太子皆從 内外文武百官蠻夷各依方敍立 珍禽奇獸雜寶列於壇前 文物鹵簿之盛 唐興以來未之有也。」(『資治通鑑』による。)

『旧唐書』にもほぼ同様の記事があります。
「至其年十二月,則天親拜洛受圖 為壇於洛水之北中橋之左。皇太子皆從 内外文武百僚蠻夷酋長各依方位而立。珍禽奇獸並列於壇前。文物鹵簿自有唐已來未有如此之盛者也。」

 ここでは「内外文武百官蠻夷」や「内外文武百僚蠻夷酋長」という表現があり、結局「唐」国内だけではなく、周辺諸国にも「招集」がかかり、かなりの数の「祝賀使」が集められた様子が窺えます。この頃の「唐」の「勢威」はかなり強く、また「武則天」の性格から考えてもこのような祝賀のセレモニーが「大々的」に行われたであろう事は想像できるものであり、「唐興以來未之有也。」つまり、唐が興って以来今まで見たことがないぐらいだ、というわけですから、想像を絶するものであったと思われます。
 このセレモニーの「蠻夷酋長」に「海外諸国」が入っていないと考える理由は見あたらず、前年の五月に「招集使」が内外に派遣された際、「倭国」にも「使者」が来たのではないかと考えられます。そして「倭国」でもそれに対応するため急ぎ使者を派遣したのではないでしょうか。
 この時の使者が派遣されたとすると、これは単なる「祝賀使」であり、「献上物」の持参と儀式への参列のみ行ったものと考えられます。このため、唐側資料にも倭国側資料にも記載されていないのでしょう。(これは他の夷蛮諸国も同様ですが)
 そしてそれから数日後の「六八九年」の「正月」に「永昌」と改元されるわけです。

「永昌元年正月乙卯(朔日),享于萬象神宮,大赦,改元,賜酺七日。」(『新唐書/本紀 第四/則天順聖武皇后 武曌/永昌元年』より)

 「祝賀使」はこの「改元」を見届けたものと思料され、帰国したこの「祝賀使」からは「朝廷」に対して詳細な報告があったものと思われます。その報告の中には「武則天」に招集され「洛水」に集まった各国からの献上物の量とその内容、さらに直後に完成した「明堂」の規模と絢爛豪華さ。(高さは90m程度と推定されています)それらが報告されたものと推察されますが、さらに、「武則天」からは「封国」でない諸外国に対しても、「永昌」という年号を使用せよ、という言葉があったのではないかと推察されます。
 むろん「封国」ならばそうすべきですが、「柵封」されていたわけではない国々に対しても同様の「強い要請」が「武則天」からあったのではないかと思われ、「倭国朝廷」はこの「武則天」の「勢威」に押され、あるいは「怯え」、「永昌年号」を「正式文書」に使用することとしたのではないでしょうか。

 このように「祝賀使」の報告を受け、朝廷内部の公的文書に「唐」の年号を使用することとなり、「評督」任命の公文書に「永昌元年」という年号が書かれることとなったとすると(「碑文」に書かれた「永昌元年四月」はここまで「朝庭」からの文書にあったとみるべきです)、それが記載された文書が彼の元に届いたのは「六八九年四月」以降のこととなるでしょう。いずれにしても「唐」から帰国してすぐに公文書が書かれたこととなり、かなり「慌ただしい」事とは推察されますが、決して不可能ではないと思われます。(倭国内に頒布された暦に「永昌」という年号が記載されていたかは不明ですが、その可能性は否定できないと考えています。)
 そしてこの時「武則天」が「周」の古制に復帰するとして「周正」つまり「十一月」を最首とするという改定をするわけですが、その情報もこの「改元」の時点ですでに関係者には伝えられていたのではないかと考えられ、それも倭国に情報として伝えられたということが想定できます。(続く)
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「那須直韋提の碑文」について(三)

2017年09月10日 | 古代史

 この碑文では冒頭に「永昌元年」と書かれていますが、これは「武則天」時代の「唐」の年号です。なぜ北関東の石碑に「唐」の年号なのでしょう。

 「永昌元年」は西暦で言うと「六八九年」であり、「持統天皇称制三年」に当たります。(また、この年代は「九州年号」によれば「朱鳥」年間に当たります。しかしここでは「朱鳥」年号は使用されていません)
 ここで「唐」の年号が使用されている理由として考えられるものは、「評督」に任命する、という「朝廷」からの文書に「永昌元年四月」という日付表示が書かれていたのではないかというものです。
 「群馬県」にある「多胡の碑」にも「弁官符」という書き出しになっていますが、これは「符」(朝廷からの文書)の丸写しではないか、と考えられ、この「那須直碑」も同様ではないかと考えられるわけです。そもそも自らの「権威」の根源としての「公式文書」であればそれを「引用」した形で「碑文」を構成したとして当然とも思えます。
 しかし、一般にはこの碑文は、この「那須」という地域に「唐」の事情に詳しい人物かあるいは「新羅」に関係ある人物がこの頃(「六八九年」から「七〇〇年の間」)存在していて、彼からの情報により、「唐」の年号が「六八九年」に「永昌」に改元されたことを受けて書き込んだとされていますが、正直言って良く理解できるとは言えません。
 「唐」でいつ改元したとか言う知識と「飛鳥浄御原宮」から「評督」を受号することの間に何らかの関係がある、とは思えません。明らかに「那須」地域の事情と言うより、「朝廷」と「唐」の間に何らかの関係があったとしか考えられないからです。そこに「年号」が書かれている、と言う事はその「年号」の朝廷とそこに書かれた事象との間に関係があることを示すものであり、「永昌」という年号と「飛鳥浄御原宮」との間に何らかのつながりがあることを示唆するものであって、それ以外ではないと思われます。

 ところで、「碑文」で見ると「評督」に任命されたのは「六八九年」の「四月」です。しかし、「永昌」に改元されたのは「六八九年」の「正月」のことです。  「評督」に任命する、という文書に「永昌元年」と書かれていた、とすれば「この間」に「改元」の情報が「倭国」に伝わらなければなりません。そのようなことが「短期間」に可能であったのでしょうか。  もし「不可能」であったと考えると、この「唐」の年号が「石碑」に書かれているのは「石碑」造立事の「造作」であると言う事になるでしょう。

 そもそもこの「石碑」が建てられたのはいつ頃のことでしょうか。それはこの「石碑」が「倒されていた」と言うことからある程度判断できます。そのようなことがされたのはこの「石碑」に書かれたあることが「存在が許容されないこと」だったからであると思われます。それは「評督」という表記と「永昌元年」という年号の二つであったと思われます。  これらはいずれも「新日本国王権」にとって見れば「あってはならないこと」であり、消去したい事実であったと思われます。「評督」は「前王朝」の制度でしたし、「永昌」という年号は「唐」の軍門に下っていたことの証明となってしまいますから、共に隠蔽せざるを得なかったと言うことではないでしょうか。そう考えると、この石碑が倒されたのは「七〇一年」以降その至近の時期であると考えられますから、「石碑」に「永昌元年」という年次が書かれたのはそれ以前のことであることとなります。  しかもこの碑文中には「六月童子」という表現があり、これが「六ヶ月の喪に服す子供」の意という解釈もあり、そうであれば「喪の明けない」内に立てられたということが考えられ、それ以降「追記」したものと考えるということとなるでしょう。つまり、「意提」の死去した年の内にこの碑は建てられ、碑文も書かれたとなるわけですが、その時点で「永昌」という「唐」の年号を「追刻した」こととなります。  「永昌元年」という年号はこの時点での造作であり、「評督」任命の文書には「唐」の年号は「書かれてはいなかった」と言うこととなりますが、その場合本来の「任命」文書には、何と書いてあったのでしょうか。  これについては『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」には「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

「凡公文応記年者。皆用年号。 釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 この答は「庚午」の年には「年号」があったということを前提としたもののようにも考えられます。それが使用されていないのは「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかったからと受け取れるものであり、このことから「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかったともいえるでしょう。そうであればこの碑文も同様に「干支」だけが書かれていたと考えるべきこととなり、それを「七〇〇年」の「石碑」造立時点で「唐」の年号を書き加えたこととなるわけです。しかしそのような想定が不審(というより「荒唐無稽」というべきです)なのはいうまでもないでしょう。「前王朝」の影を「隠蔽」するのに「唐」の年号を書き加えるという意味が全く不明です。  また「碑面」には「改削」の跡らしきものも全く見いだせません。つまり、このような「隠蔽」工作をしたという想定は成り立たないと考えられる事となります。  そもそも「評督」という称号をもらったことを「誇るべき経歴」として「韋提」の家族はこの石碑を建立したはずであるのに、その授与した「王朝」の名前は出されていても「唐」の年号を書き加えるのは、全くの「矛盾」と思われます。

 以上の論理進行から推測して、やはり「永昌元年」という年号は「碑」が立てられた段階以前から「韋提」に関することとして記録・記憶されていたものであり、彼に対して「評督」が任命される段階において「倭国中央」からもたらされた「公文書」に書かれてあったものとみられ、「永昌」改元した「六八九年正月」から「任命」月の「四月」までの間に「唐」から「倭国」に「情報」が伝達され、「任命文書」という公文書に書かれることとなったものと考えるしかないこととなります。  「歳次庚子年」とあるように「碑」を建てた時点の日付は通常の「干支」によっていることからも、「永昌」という年号の存在は「韋提」が「称号」を受領し任命されたということと深く関係していることの現れと思われるわけであり、任命文書にその年号が記載されていたことを窺わせるものです。

 「年号」を使用すべしというルールがなかったはずであるのに「唐」の年号だけは書かれたこととなりますが、それは「唐」への畏怖(というより恐怖)によるものではなかったでしょうか。唐により封国となっていたら当然「唐」の年号を使用すべきですから、この「飛鳥浄御原朝廷」の帰属意識が注目されます。  この「永昌」年号を使用することとなった事情とその改元情報はどのようにして「倭国」にもたらされたものでしょうか。(続く)

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「那須直韋提の碑文」について(二)

2017年09月10日 | 古代史
 そもそも「那須国」及び「那須国造」は『書紀』の記載から見てかなり古い時代から存在していたように見受けられます。これが「七世紀」に入っても「倭国王権」の支配が強く及ばず、「クニ」がそのまま存続していたという可能性が高いと思料します。仮にこの「国造」が「国司」(国宰)と同等のものであったとすると、授与されるべきは「下毛野国司」であり「那須」のそれではないと思われます。「那須」はあくまでも「下毛野」という大領域の一端をしめるだけであり、国府もそこには存在していませんでした。
 
 「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」が行なった「改革」については、「戸籍」などの研究により、この「改革」を受け入れなかった地方があることが指摘されています。たとえば、「美濃」や「出羽」などです。この事は「東山道」からつながる「東国」において「倭国王権」の権威が届かない、あるいは届きにくい領域がかなりあったことを示していると考えられます。「那須」がある「下毛野」についても同様であった可能性があり、それはここが元々「関東王朝」の領域であり、「独立」的指向の強い領域であったと考えられ、「総領」である「高向大夫」たちの統治・支配に従わず、そのまま「那須」という「クニ」が継続していたと推定されるものです。
 つまり『常陸国風土記』では「我姫」を「八国」に分けたとするわけですが、「常陸」以外の「我姫」の「内部情勢」は不明であり、それらの「国」(下毛野国など)でも「常陸」同様「国造」の「クニ」が「県」(あるいは「評」)に変わったかというとそうではなく、そのまま「国造」が残り、「国宰」も派遣されていなかったという可能性もあると考えられます。それは「東山道」の整備が遅れていたことと関係があるのではないかと推定されるわけです。
 「古代官道」のうち「近畿」から以東は「七世紀」の始めつまり『隋書待国伝』にいう「利歌彌多仏利」の時代以降整備が進められていったと考えられますが、まず「難波」「飛鳥」領域周辺の整備が先行したものであり、「東山道」など東方の「諸国」を連絡するものの整備はかなり遅れたものと考えられ、そのことが「那須」という地方に「改革」が及ばなかった最大の理由ではないかと推察されます。
 東国へは「東海道」の整備が先行したと考えられるものであり、そのことが「常陸」などについて「倭国王権」の統治が強く及ぶこととなった理由と思われます。
 「古代官道」が「倭国中央」の「軍事力」の「展開」に関係していると考えるならば、それが未整備であると言うことと、「制度改定」に従わない地域があると言うこととは直接関連した事柄であると考えられます。つまり「軍事・警察力」が展開できず、「法」と「力」による統制が効かない地域がかなりあったものと思われるわけです。

 またこの碑文には「一世之中重被貳照」という、「一生」のうち「起死回生」とも言える事が二回あった、という意味の文章が書かれています。この二回が官位授与などを指すのかは不明ですが、「評督」を授与されたという顕彰碑の中で述べられているわけですから、少なくとも一回はこの「評督」の授与と関連しているといえるでしょう。
 彼の死去した年次と成長した子供が複数いるらしいことなどを考えると、その生年は「六三〇年」前後ではないかと考えられ、「国造」を「父祖」から「継承」したのは「六六〇-六七〇年頃」と推定されます。このタイミングは「百済」を巡る戦いが勃発した時期でもあり、また「近江朝廷」の創立と滅亡の時期であります。これらの「争乱」に彼が関わったという可能性はあるといえるでしょう。これらの戦いでは「蝦夷」を含む「東国」が参加しているようであり(捕虜として唐に抑留されていた人達の帰国者の中に「陸奥」出身者がいるという記録があります)、「那須」地方からも軍が発せられたと言うことがありうると考えます。この中で彼は九死に一生を得たのかも知れません。これが「第一回」ではなかったでしょうか。さらに「国造」の自称を認定され「評督」を授与されるという晴れがましいことが起きたものであり、これが第二回と言うことでしょう。

 また、「追大壱」という「冠位」を受けたということはその時点(以前)で「倭国王朝」の支配下に「完全に」入ったという事となりますが、それは「六八四年」に起きた「東南海」地震などで、東海以西がかなりの打撃を受けたことと関係していると考えられます。
 この時は関東の内陸地域には余り大きな被害がなかったと見られ、勢力としては健在であったものであり、当時の倭国王権にとって見ると、彼等がこの機を捉えて「反乱」など起こさせないように「臣従」を強いる必要があり、その為改めて「冠位」を授与するという政策が行われたのではないでしょうか。
 この「六八四年」という時期には広く各位に「朝臣」姓を賜与していますが、「下毛野君」に対しても「朝臣」が賜与されており、これらも「東南海地震」による動揺を抑える意味があったのではないかと推量されます。(『二中歴』にも「朱雀」の記事として「兵乱始めて起こる」意味の事が書かれており、国内にかなりの動揺があったことが知られます。)
 また、この時点で「評督」を授与していないのは「駅舎」という軍事拠点が設置されていなかったという可能性が大きいことと、それが「関東」勢力の「軍事的」脅威を警戒し、「譲歩」した結果ともいえるでしょう。ある意味「自治権」を認めたという事とも思われ、そのため王権に直結するような軍事施設などを整備しなかったものではないでしょうか。
 そして、その後「持統朝廷」段階で「東山道」がほぼ完成し、「全国」に対して「軍事展開」が可能となった段階で、「駅家」が「那須」にも設置されたものであり、「評督」という「駅家」の監督官としての職掌が置かれることとなった際、「国造」である「韋提」に白羽の矢が立ったということではないでしょうか。その際に「評督」へ「横滑り」したものであると考えられます。

 また、ここでは「国造」で「追大壹」であった「韋提」が「評督」に任命されていることとなりますが、この「評督」という「称号」(制度)は「利歌彌多仏利」の父である「阿毎多利思北孤」によって造られた制度であると考えられ、当然彼は「九州倭国王朝」の権力者ですから「碑文」に見える「飛鳥浄御原宮」というものが「九州倭国王朝」の系譜につながる存在であることがわかります。(これは「九州」の「筑紫朝庭」のことを意味すると考えられます)
 逆に言えば「八世紀」の「新日本国王権」につながると考えられる「近畿王権」がこの「評督」を授与したのではないことは明白です。そうでなければ「なぜ」彼らの正規の史書である『書紀』に「評」の片鱗も見えないのかが説明不能となります。
 明らかに「評」という制度は「隠されて」います。それほど忌み嫌った制度を、ここで自分たちの制度として「授与」することはあり得ないでしょう。このことは「飛鳥浄御原宮」という表現が「近畿王権」ではなく「九州倭国王権」を指すものである事を示すものであり、当時(六八九年四月)に「九州倭国王権」が「筑紫なる」「飛鳥浄御原宮」から「全国統治」を行っていた事を示すものです。
 
 ところで、この段階になって「那須」のような「北関東」(群馬、埼玉、栃木)付近に「評」制が施行されたように見えるのは「奇異」に映るかもしれません。この「六八九年」という段階で「評制」がなぜ施行されたのかと考えると、その翌年の「庚寅年」の改革が「予定」されていたということと関係があると思われます。
 明らかにこの「六八九年」段階では、次年度の予定として「遷都」とそれに伴う「機構改革」が行われる予定であったと思われます。「遷都」するためにはなによりも「統治範囲」の安定化と拡大がその前提と考えられ、たとえば「上毛野」という地域を「評制下」に置くようなことが求められていたと思われます。
 この時の「遷都」の動機ないしは条件というものは、それまで延伸と拡幅が行われていた「古代官道」の整備がほぼ完了したことにあると考えられ、それは(当然)「東方」への支配の強化のためであったものであり、それを現実のものとするように「東山道」の末端に位置する「上野」地域の「有力者」を「倭国王権」の一端に加えるという作業が強く求められていたものと思料されます。
 「近畿」を始めとして「東国」も含む全ての「列島」諸国を「倭国王」が「直接」統治する、という「利歌彌多仏利」以来の「政治改革」を行ったのが「六九〇年」(庚寅年)という時点であり、この「評督」任命はその「趣旨」に則ったものと言え、今まで「統治」の網がかかっていなかった場所に対して「評督」という地域代表者を決めて任命し、「統治」の最下層の構造を確定させることとしたものと思われます。
  
 ところでこの碑が発見されたときこの石碑は「碑文面」を下にして、埋もれていました。これがなぜ倒れていたのかは不明ですが、可能性としては「倒れていた」のではなく「倒されたのではないか」とも考えられます。そして、それは建てた当の本人が自ら行ったのではないでしょうか。
 これが建てられた「七〇〇年」の翌年に「九州倭国王朝」から「新日本国王朝」に「行政府」が切り替わり、制度も切り替えられたとみられます。「七〇一年」に「新日本国王朝」(近畿王権主体)が成立して以降、「評」制が廃止され、替わって「国-郡-里制」となったのです。
 そして「評」に関する事物の「隠蔽」の指示が来たのだと思われます。彼らに対して「碑」の文章を削るように、という指示があったのかもしれません。しかし、彼らは(「韋提」の息子達)は自分の父親の韋業を顕彰するためにせっかく建てた「碑」とその「碑文」を残したかったのではないかと思えます。彼らは「碑文」を疵付けるには忍びなかったので、碑文を「下」にして「倒して」対応したのではないかと思われるのです。(続く)
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