消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

これは極め付きの朗報なのか?!

2019年08月29日 17時48分36秒 | ニャ!

        ここ2年ばかり、こういうのがじゃんじゃん家の中に入ってきて、ほとほと困っております。

 

              ほんまに役に立つのか!

      マグネット錠式のネコ出入り口

  使っているお方、 是非是非ご教示ください!

 さきほど、お昼にしようかと掛け時計を見ると、10時35分あたりで止まっています。

 電池切れやなと思い、時刻を確かめるため、時計の下のテレビをつけると、黒柳徹子さんと岸ユキさんが対談しています。

 岸ユキさんといえば、テレビの『サインはV』で人気を博した人ですが、72歳とか。しばらくお二方のやりとりを眺めていました。

 で、結論。前にも書いたんですけど、徹子さんって、いつまでこのなんたら部屋という番組を続けるおつもりなのか!

 悪いですけど、もうクチが回らないところがありすぎて、耳障りもいいとこ。そこらへんの爺婆が通り掛かりの人に話しかけてんじゃないんだからね、不完全な商品を公衆の面前にさらすのはいい加減やめたらどうでしょうか。こういうのを出し続けているテレビ局もテレビ局だよ。自戒を込めてモノ申すものであります。

 

 さて、余談から入ってしまいましたが、ここ2年ばかり、ニャの出入りを確保するためにいろんな知恵をしぼってきたのであります。

 しかし、結局のところ、自分ちのネコだけを通す工夫は出来ないのでした。

 したがいまして、ニャがfreeで出入りすれば、よそのネコさま、野良のネコさまも、あたかも我が家のごとく自由に出入りができるのは必然なのであります。

 もう、これは時代が進み、ネコの顔認証システムを搭載したネコ出入り口の登場を待つしかないな、という結論に達したのであります。まあ、そのころには、おらもニャも用済みですがね。

 

 それがぁ、最近、「マグネット式錠装備出入り口」というのがあることを知りました。(よんどころなき不都合のため、つづく)

 つづき。よんどころなき不都合とは、実は左手がかゆくて、ぼりぼり掻きながらキーを叩いていたのですが、ふと見ると左手の甲が異様に腫れあがっているのです! なんじゃいこれは! 

                                    左手    右手 

 単にかゆいんじゃなくて、なんか悪いやつに喰われるか刺されるかしたみたいです!

 んで、かゆかゆやってるうちに、みゃのやつがネタバレっぽいコメントを入れちゃってくれてるんで、このあとを書きにくいんですが、そのマグネット錠付き出入り口つうのは、こういうもんなんです。

https://shopping.yahoo.co.jp/recommend?store_id=allforwanslife&page_key=cm255&tcc=1&sc_e=yttreco_3x2_chomo_03

        

 

 

 つまりですね、従来の網戸にくっつける犬猫出入り口に、マグネット錠を仕込んで、自分ちのネコの首にかけたマグネット鍵と反応させる、つう仕組みなんですと!

 は、はあ、考えたもんやねえ。これならええわ、というのが、おらの感想で、2マンエンから3マンエンするけど、これで積年の悩みから解放されるなら、安いもんだと思うたわけでございます。

 しっかし、よく説明を読むと、網戸には取り付けられず、木製・金属性のドア、ガラス扉に大穴を開けて取り付けるんだそうです。

 そうなると、おらがいかに日曜大工の達人といわれていようとも、ちょっとムリかな。腕はあっても、道具がなくてね!

 つうわけで、職人を頼んで取り付けてもらうと、材料費込みの総計では5マンエンぐらいになりそうな気配なんですわ。

 まあ、ゼニは喰う物も喰わずになんとかするとして、おらが心配したのは、この費用をかけてほんまに自分ちのネコだけが出入りするかどうかなんでした。

 それで、実際にこれを取り付けたみなさまの声をお聞きしたかったのですが、みゃが悲観的観測を先走ってお届けくださいましたので、泣いて喜んでおります!

 もし、もしもですね、このマグネット錠付出入り口で悩みが解消されたというお方がいらっしゃいましたら、是非ご一報くださいませ。 

 

 

 

   


うっ、またか! 足長かい、今度は。どないしょ?

2019年08月18日 09時27分04秒 | 生き物

 ニャアニャアうるさいので窓から見てみたら、

   ニャだけでなく、足長がぶんぶん!

       こりゃ問題だな!

 

 朝からニャがうるさく言ってるので目が覚めました。

 ところが、部屋の中には姿が見当たりません。

 どうも、外のようだと網戸を開けて見回すと、いた!

 張り出し屋根に座って「入れろ、入れろ」とわめいている。

       

 いつからそこにいたのか、しょうがないやつだと思っていると、なにやら蜂がぶんぶん。寝ぼけ眼でよく見ると、ひさしに蜂の巣が急ピッチで建造されているではありませんか!

 去年はかなりスズメバチに悩まされましたが、今年は足長かい!                                      (過去記事・スズメバチに刺される!https://blog.goo.ne.jp/izu92free44/e/8464b26e0d17af59f37d8a906382f9b7

 出来れば放っておいてやりたいのですが、やっぱそうもいかねえべな、と思案しております。

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


敗戦の日、74年前のきょう

2019年08月15日 13時53分27秒 | 日記
  走り出したら止まりません。
  気がつけば、いつか来た道
 突っ立ったままでいられまっか?
 
 74回目の敗戦の日が巡ってきました。
 
 そのころ、おらは、まだ影も形もなかったのですが、少年少女の目や耳で体験した戦争を語ってくれる教師たちに育まれました。
 とても幸せなことだったと思っています。
 
 さて、若い頃に読んだ『兵役を拒否した日本人灯台社の戦時下抵抗』 (稲垣真美著 岩波新書1972) はおらの人格形成に相当な影響を与えた、と感じています。
 「灯台社」(ワッチタワー) というのは、戦前、米国から日本に入ってきた宗教で、キリスト教の異端、ということになっています。
 そうそう、帽子をかぶった婦人が二人連れで家庭を訪れてくる姿をよく見かけますよね。「ものみの塔」という団体、輸血拒否で物議をかもしたことがありました。客観的には、灯台社はあのものみの塔の前身にあたることになります。もっとも、いまのものみの塔側は、「なんの関係もない」という見解のようです。この本はいま手許にないのでamazonの古本販売のちなみ画像をupしておきました。
 
         
 
 この本の中で、若き日のおらをいたく刺激したシーンがありました。
 
 その役者たちは、ふたりの信徒A、B、確か指導者の息子たちだったような記憶ですが、違うかもしれません。 
 そのふたりが徴兵された後、部隊のなんだったか朝礼のような多くの人間が集まる場で、全員がご真影に対してだか皇居遥拝だかで、号令とともに深く拝礼する場面があるわけです。
 ところが、このうちのひとり、Aの回想では、自分はそんなものを拝まない、と棒立ちのまま立っているわけですが、だいぶ前のほうでやっぱり突っ立ったままの人間がひとりいるのが見えた、ということなんです。Bですね。
 
 で、そのエピソードをうちの親父に話したところ、親父は鼻をぴくぴくさせながら、次のように話してくれました。
 
 「いま、学校なんかで校庭に生徒を並ばせてなんかやるとき、前の方にいるセンセたちは、生徒たちと向き合う格好になっているよな。だけど、昔は軍隊でも学校でもご真影拝礼や皇居遥拝の際は、全員が同じ方向を向いているわけだ。
  したがって、お辞儀していない人間がいたとしても、それに気づきようがないということもある。それから、だれかが、拝礼していなかったやつがいるゾ、誰それだと指摘すれば、それは自分もきちんと拝礼していないでよそを見ていたという証左になるので、指摘できるはずがなかったんだよ」
 
 おらはなにやら真に迫った親父の話を聞いて、無言のうちに「ははーん、こいつもシカトして拝礼しなかった人間やな」と理解するに至りました。親父はいろいろ欠けも多かったひとでしたが、この拝礼シカト、の点はおらがとてもじゃないが出来ないことをやった男として、尊敬に値するといまは思っています。
 やはり、たったのひとりふたりでも、長いものに巻かれない、という人間が必要な場合があるわな、と思っています。
 
 じゃあ、おまいはどうなの、と聞かれれば、恥ずかしながら大層なものはありません。まあ、ほんとにささやかなことでは1件だけヒットしましたけどね。
 
 それは会社勤務の時代、会社のなんかのパーティーの席でした。10年も前のことです。
 座が盛り上がるに従い、戦争体験など皆無の若い社長が軍歌を歌い出し、お追従の人間たちが、参加者全員で立ち上がって和するよう仕向けたのです。
 おらは戦争に現実に行った人びとが軍歌を歌うことはかなり自然のことと思いますが、このような何も知らん若造が歌うことには強い嫌悪感を感じる人間なのです。
 そこで、軍歌を歌わず座ったまま憮然としておりましたが、何曲か続けて歌うために、けっこう座り続けていなければならず、苦痛でした。
 このときの参加者200人以上のなかで、歌わず立ち上がらず、は、実際はおらひとりではなく、もうひとり、女性編集者がいたことが後になってわかり、大いに力づけられました。(実は、おらが座っていたテーブルでは、もうひとり、酔いつぶれて座席からずり落ち、テーブルの下でいびきをかいていたツワモノ編集者もおりました。爆)
 
   
 
 
  

第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ④

2019年08月14日 10時12分24秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

合流点 ④  izukun

      

 勢津子のおかげで本を出すことができた。これで俺のやるべきことはすべてやり終えた、と思った。もし、あの世で義父(おやじ)に出会っても物陰に隠れないで済む、と安堵した。

 ところが、そのうちに「本を買って読んでくれる読者は限られているぞ。ダイジェスト版を印刷して配れば、みんなに冤罪を知ってもらえるじゃないか」という内なる声が湧き起こってきた。一方で、「もうかなりの年齢になったじゃないか。そろそろ打ち上げの頃合じゃないのか? 少しゆっくりしなよ」そういうささやきも聞こえてくる。

 どうしたものか、いろいろ考えた末、結局、身体が許す限り、ビラ撒きをしていく、という結論に至った。勢津子は、あなたはお母さんとほんとによく似てる、とつぶやいた。

 そんな忙しない日々が過ぎていくうちに、あの大地震がやって来た。

 寒々としたあの日、俺は太白区の自宅にいて事なきを得たが、勢津子は若林区内の顧客宅に出かけていた。

      

 その夜、勢津子は帰らなかった。

 携帯も固定電話もつながらない。停電で生活ツールはなにもかも使えなくなった。あちこちの暗い路上に集まって話し合う人たちの声は聞こえたが、ラジオと伝聞しか情報源がなかった。確実な話は何も伝わってこない。ただ切れ切れの情報が乱れ飛んでくるだけだった。

 地震の後に大きな津波が何度も来て、若林区などの海に近いエリアは壊滅状態だという。歩いて避難して来た人に聞いたという情報だった。伝聞の伝聞なんていう話も、珍しくなかったのだ。恐ろしい余震が続いていて、その度に生きた心地がしなかった。

 俺は夜通し起きて待っていたが、白々と夜が明けても勢津子は戻ってこない。生きているのか、亡くなってしまったのか。俺は彼女の死を覚悟せざるを得なかった。

 きょうはなんとしても捜しに出かけなければならない。しかし、被災エリアには近づけないらしい。足の不自由な俺だが、歩いていくしかない。行ける所まで行ってみようと思った。

 いよいよ出かけようとしていると、玄関のドアが開く音がした。そーっと覗くと、勢津子が上がり框に座り込んでいる。

 生きて帰って来た! 

 俺は自分の目を疑った。髪は乱れ、顔は蒼白、唇は濃い紫。生乾きの服に、片足ずつ別々の拾った靴。よれよれの状態とは、このときの勢津子だと思った。津波に襲われたが、九死に一生を得たのだ。明け方から歩き続けてきたと涙声で話す。車もバッグも持ち物も全部失ったが、命だけは助かった。なんの文句があろうか。

 勢津子はよろよろと立ち上がると、本棚から俺の本を抜き取り、憑かれたようにページをめくった。そして、由太郎と大恩人の秋田刑務所元看守・江藤正毅のふたりが写った写真を食い入るように見て、大きなため息をついた。俺にはまったく不可解な所作に思えた。


 震災後一年が過ぎ、俺はビラ配布を再開した。

 そのころ、不思議なことに気がついた。在庫ビラの減り具合がおかしい。減り方が早い。

 勢津子が配っているのだろうか。いや、そんなはずはない。勢津子がビラ撒きを嫌っていることは、口に出さずとも俺にはよくわかっていた。だから、手伝ってくれと頼んだことはない。では、早いところ俺のビラ撒きを終わらせようとして、捨てているのか?

 また、勢津子は勤務の都合で週日が休みになることがあるのだが、そんな日に限って朝方の二、三時間、家を空けるようになったのも気になった。以前にはなかったことだ。

 ある振り替え休日、それは月曜日の朝だった。思っていたとおり、「ちょっと出てくるわよ」と勢津子は車で出かけた。俺も車に飛び乗って後を追った。彼女の軽乗用車は裁判所前の有料駐車場に入った。俺は車の中から成り行きを見つめていた。勢津子は車を降りた。ビラの束を抱えている。目の前の通りを渡ると、裁判所の門前でビラを配り始めた。

 びっくりした俺は五、六分の間、呆然と勢津子の姿を眺めていた。そして、彼女のところまで歩いて行って、ビラを一枚受け取った。「あら、ばれちゃったわね」勢津子は片目をつぶってそう言うと、小脇に抱えていたビラの半分を俺に差し出した。

      ♡

 震災の日、私はどうしても外せない用向きがあって、若林区荒浜の顧客を訪ねたのです。

 大きな揺れの次には津波が来る、それは十分わかっていました。一刻も早く逃げようと思うのですが、乗り捨てられた車がたくさんあって動きが取れません。もたもたしているうちに、あっという間に水が来て、車はみんなぷかぷか浮き始めました。

 私の車も流されるままに、学校のような大きな建物の陰に押し込まれたのです。次から次へと際限もなく車や金属製の物置、雑多な漂流物が打ち寄せられて来ます。押し合いへし合い、重なり合い、折箱にぎっしり詰め込まれた稲荷寿司か満員電車かというようなひどさでした。

 建物の中には人がいましたが、水が邪魔をして行き来ができません。私は自分の車の屋根に座り、足をボンネットに乗せていました。電気配線がショートしたのか、多くの車の盗難防止ブザーが勝手に鳴り続けています。やがて日が暮れて、五〇メートルほど離れた場所から火の手が上がりました。漏れ出たガソリンに何かの加減で引火したのでしょう。

 私は、多分ここで死ぬだろう、と腹をくくりました。悲しくはないけれど、身近な人を思いました。「うちの娘(こ)たちは大丈夫かしら」「誠一やお母さんはどうしてるかなあ」

 ふと見ると、車の横に年配の男の人がいます。お腹の上あたりまで水に浸かっているのですが、ニコニコ笑っています。確かに知っている人なのですが、誰だかわかりません。

「こっちへ下りてきな。水はそんなに深くないよ。手を出しなさい」

 その人は私を抱き取って水に下ろし、車の残骸のすき間を建物のほうへ泳ぐように導いてくれたのです。建物から人が何人か出て来て、びしょ濡れの私を引き入れてくれました。

 振り返ると、もうその人の姿はありません。「勢津子さん、本をありがとな。スミと誠一を頼んだよ。元気で暮らしなさい」

 闇の中から、力強い響きだけが伝わってきました。

 一度も会ったことはないのに、私にはその人が由太郎なのだとはっきりわかりました。

 このことは誠一にも誰にも話していません。到底、信じてもらえそうもありませんから。

 ただ、確かなのは、死と隣り合わせに過ごしたあの夜、由太郎・スミ・誠一の大きな川に、私もまた合流したということです。あの場所が合流点になったのです。 了 

 (原文縦書き、添付画像はfrom free、本文とは関係ありません。オリジナルには添付なし。 )               


第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ③

2019年08月13日 20時08分47秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

合流点 ③  izukun

      ♥

 俺と勢津子、そして母スミの三人暮らしは二十年近く続いた。その間には、どこの家庭でも起こり得るさまざまな問題が生じた。その大きなもののひとつは、俺が交通事故による後遺症で右足がかなり不自由になってしまったことだ。まともに働けなくなってしまった。それ以後、というよりはそれ以前も含めてだが、勢津子は生命保険の仕事で、ずっと家計を支え続けてくれた。彼女に不満がないはずはないが、それを一切口にせず、いつも明るく振る舞ってくれるのが大きな助けだった。

 母は持病の腰痛には悩まされたが、持ち前の強い精神力で冤罪被害者の家族らと連絡を取り合うなどの活動を続けた。由太郎の再審にも変わらぬ意欲で取り組み続けた。しかし、徐々にではあったが、心身ともに衰えていき、さすがに九十歳代半ばにさしかかると家庭での介護が困難となっていった。

 それまでに俺と母は、支援団体もなく、弁護士に依頼する金銭的余裕もないまま、自分たちだけで東京高等裁判所宛に再審請求を繰り返した。それは昭和の終わりから平成二十年までに計八回に及び、すべて由太郎の配偶者である母名義の請求だった。

 しかし、残念ながらすべて門前払いとなった。もともと確実な証拠なしに有罪としたゆえに冤罪云々という問題が起きるのだが、再審開始には無実の人間の側から新たな証拠を出さなければならない。濡れ衣を着せられた側に言わせれば、こんなに人を馬鹿にした制度はないのだ。

 高齢の母の状態を客観的に見ると、再審請求はもはやここまで、という結論に甘んじるほかはなかった。法律的に由太郎と親子関係にない俺には再審請求権がなかった。

 由太郎が死ぬ間際、その手を取って、「必ず汚名を雪(そそ)ぐ」と語りかけた俺と母。その約束をまだ果たしていない。そんな思いが、返していない借金のように、いつも心の隅にわだかまっていた。残されている手段はもう何もない、その確定的な結論が目の前をちらつき、あたかも強迫神経症のように俺を苦しめるようになっていた。

 そんな折、平成二十年(二〇〇八)の春だったが、地元のテレビで、自分の父母や兄弟姉妹のことを本にまとめた人が紹介されていた。その番組を見ているうちに、俺は気がついた。由太郎の事件を本にすれば、彼が無実だという記念(モニュメント)を世間に残すことができる。

 早速、原稿用紙というものを買ってきて、あのこと、このこと、さまざまに思い出しながら、少しずつ書き溜めていった。ところが、一筋縄ではいかない。なにしろ〝作文〟は子どものころから苦手中の苦手だ。勢津子に読んでもらって感想を聞こうとしたら、机の上に置いてあった原稿を既に読んでいたらしく、即座に厳しい指摘が返ってきた。

「あなたの原稿を読んで、書いてあることが理解できる人はあなたと私とお母さんだけよ! 原稿読む前に事実をよーく知ってますからね。こりゃだめだわ、書き直しね」

 悪戦苦闘の末、三か月以上かかって一応最後まで書き上げた。

 だが、それから先がまた大変だった。地元仙台の出版社をはじめ、上京の折に都内の出版社を何軒も訪ね歩いたが、どこも本にしてくれると言ってくれない。ちらっと原稿を見て、同じことを言う。

「興味深いテーマだと思いますが、うちよりよその版元を当たったほうがいいでしょう」

 結局、著者が出版費用を負担するタイプの出版社以外には色よい返事をもらえなかった。そのうちの一社に見積もりを送ってもらったが、手が届かない金額で、あきらめざるを得なかった。いささかがっかりして、勢津子にも出版は取りやめたと伝えておいた。

 ところが、二、三週間の後、その版元の編集者から電話が入った。法律系の専門部署にいるという無愛想な男だった。用件は、預かっている原稿の細部について聴き取りをしたい、とのことだ。はてな、俺の原稿はとっくに送り返してもらい、お蔵入りしているが…。

 なんのことかよくわからないうちに、その編集者は東京からやって来た。細かい記述についてあれこれしつこく質問を繰り返す。そして、答えをせっせと原稿のコピーに赤く書き込んでいく。俺はまったく心あたりがない成り行きに、不安に包まれた。

 途中で質問をさえぎり、恐る恐るこちらの疑問をぶつけてみた。彼のほうも驚いて、「はあっ?」と絶句したが、勢津子がお金を払って出版契約を結んだ経緯を呆れ顔で説明してくれた。まったく寝耳に水の話だ。そんなお金をどこで都合したのだろうか。

 その夜、疲れた様子で帰宅した勢津子に事情を尋ねた。しかし、なるべく穏やかに「ありがとう」から始めるべきなのに、脈絡もなく契約金の出所から問いかけてしまった。彼女は叱責されるのかと勘違いしたらしい。ぼそっと、「ああ、その件ね」と小声で言いながら、着替えのためにそそくさと二階への階段を上がりかけた。その途中で思い直したのか、いぶかしげに見上げる俺にニコッと笑いかけた。初めて会った日のような笑顔だった。

「お金はね、タワービルから飛び降りたつもりで私が払いました。出したい本は出せばいいわよ! お母さんが生きているうちにね! 由太郎さんもきっと喜ぶわ!」

     ♡

 待ちに待った誠一の本は、平成二十一年の年明けに刊行され、仙台市内の本屋にも並びました。彼が、無愛想なやつだと言っていた編集者は意外にも親切で丁寧、きちんとした仕上がりの本になっていました。誠一の喜びはひとしお、私もまるで我が事のようにうれしかったです。言いたいことは全部書いてありました。ふたりの老後のために私がこつこつ蓄えていた預金は本に化けましたが、何も悔いはありません。

 仏前に報告する一方、介護施設に入っている九十九歳のスミに本の内容を読み聞かせるため、誠一は何度もその枕元に出かけていきました。スミは少し話がわかったとみえ、顔に表情が戻り、胸元に置かれた自分用の本を何度も撫でていたそうです。

 本が出版されたことで、誠一の由太郎に関する活動は完結したと私は思っていました。

 ところが、ところがです。春先になると、誠一は今度は本のあらすじ、つまり事件のあらましを書いたビラを大量に作り、東京霞ヶ関の東京地裁・高裁前をはじめ、可能な限り全国の裁判所前で撒くと言い出したのです。どうやら十万枚も印刷したようです。いったんこうと決めたら、スミと同様、何を言っても聞く耳を持たない人です。

 そうこうしているうちに、自分のボックス型軽トラックに布団や簡単な炊事道具を積み込んで、東京へ向かいました。七十歳に手が届く年齢、しかも足が不自由。私の心配などお構いなしに出かけて行ってしまったのです。

 半月ほどが過ぎ、帰ってきた誠一の話にまた驚かせられました。

 駐車料金が要らず、駐停車禁止に指定されていない場所を捜したら、東京港の埠頭ぐらいしかなかった。そこで、晴海埠頭の一画に軽トラを停め、仮泊しては裁判所前に通った、というのです。警視庁のパトカーが夜中にパトロールで回って来て何回も職務質問されたが、そのうちの何人かの警官とは顔見知りになってしまったなどと笑ってもいました。

 仙台でも、地裁・高裁前や市内の目抜き通りで、誠一は盛んにビラを撒きました。街頭でのビラ撒きというのは、なかなか大変なようです。無視する人がほとんどで、受け取ってくれる人はとても少ない。いったん手に取ってくれても、すぐに丸めて投げ捨てられる。その塵芥と化したビラを拾い歩くのは悲しいということでした。

 私はこのビラ撒きというのだけは嫌でした。性にあわないというか、とにかくやりたくないので、一度も手伝ったことはないのです。誠一も、自分が勝手に始めたこともあってか、一緒にビラを配布してくれとは一度も言いませんでした。

      

(つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free、 本文とは関係ありません。オリジナルには添付なし。)

                                                                  

 

 


第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ②

2019年08月13日 00時10分17秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

合流点 ②  izukun 

     ♥

  母が腰を痛めた時期、山際勢津子は川平(かわだいら)の自宅に母を見舞ってくれた。それも三回も来てくれたのだ。当時、俺の交代制勤務の都合で、母とはすれ違いのような生活になっていた。そのうえ、母を訪れる人など稀だったので、母は、とても励まされた、うれしかったと喜んでいた。一度は俺が家にいるときに来てくれたが、気が回る優しい人だと思った。

 その後、俺は「見舞いのお礼がてら」という名目で、仙台駅近くに彼女を呼び出し、ランチを一緒にした。そのとき、「旦那に叱られちゃうかな」と水を向けると、「私はいま、フリーよ」とシングルマザーであることを明かした。バツイチ同士の気楽さもあって、何回か会い、食事をしたり軽く呑んだり、若い人たちのデートの真似事のようなことをした。 

  彼女は、折々の思いを自己流の俳句や歌に託すのが趣味と言えば趣味だと笑った。結社に属すのは嫌いだという。それで、ついつい俺も短歌を少しやるなどと、いい加減なことを言ってしまった。

 こちらの家庭の事情や由太郎の事件のことは母がその相当部分を話していたようで、妙に隠し立てをしないで済むのが何よりも有り難かった。やがて恋人というような間柄になった後も、由太郎の事件のことは勢津子には滅多に話さなかった。彼女にはまったく関わりがないことだし、嫌がられるかも知れないと思ったからだ。しかし、かなり詳しく知っているようだった。

 ある梅雨寒の夜、国分町近くの洋風居酒屋で待ち合わせた。彼女は長めのグレーのスカートにオフホワイトのカーディガンを羽織ってあらわれた。軽く呑んでいるうちに、唐突に由太郎と俺の関係を口にしたので、ちょっと驚いた。

      

「由太郎さんはお母さんと結婚したけど、誠一さんとは親子縁組しなかったのよね?」

「ああ、そうだよ。義父(おやじ)はさ、仮釈放で選挙権もないような自分と同じ戸籍に入っちゃいかん、そう言い張って縁組をしなかった。だから姓は同じ伊藤でも、法律上は他人のままだったということになるんだ」

「ふーん、そうなの。…選挙の投票にも行けなかったんだ…」

「無期懲役の仮釈放だからな、死ぬまで刑期が終わらないってことなんだよ」

「いつまで経っても濡れ衣を脱ぎ捨てられないってことなの?」

「そういうわけだ。恩赦という、こっちも狭い門があるにはあるけど、それは罪を認めることが前提になる。義父は冤罪なんだから、それは絶対できっこなかったんだ」

「うーん、そうだよねえ。…それで…ひとつ聞いていいかしら? いつも不思議に思っていることがあるのよ。昔、お母さんの再婚に反対して、由太郎さんのこともあまり好きじゃなかったはずのあなたが、彼の無念を晴らそうとお母さんと同じように頑張っている。なぜそうなるのか? そこが私にはわからないのよ」

 俺は腕組みをしたまま、しばらく天井を眺めていた。何から話したらいいのだろうか。

「それはさ、俺がとんでもない間違いをしてしまったことに気がついたからなんだ。昔の裁判はまず予審というやつがあって、それから青森の地方裁判所、仙台の宮城控訴院、いまの高等裁判所だよな、そして大審院、いまは最高裁ね、そんなふうに何回も裁判を受けるんだ」

「裁判に間違いがないようにってことなんでしょ?」

「まあ、そういうことだな。それで、結局、義父は有罪になっちまった。だから、人を殺したっていうのは、本当のことなんだって俺は誤解しちゃったんだよ。いくらなんでも、やってもいない人間を犯人にしてしまうなんてことはあり得ないと思ってね」

 そう話し始めて、俺は心の中の引き出しから、とてつもなく苦い記憶を引っ張り出そうとしている自分に気づいた。一瞬、躊躇(ちゅうちょ)したが、彼女の白いブラウスに付いている小さな花模様の刺繍に視線を下げて、話を続けた。

   *

 由太郎と俺たち母子が一緒に住むようになってからというもの、俺は毎日毎日、むしゃくしゃした気持ちでいた。まだ、たかだか中三の俺は、この男さえいなければ元の平穏な暮らしに戻れる、そんな安直なことをいつも考えていた。

 俺は思いつめていた。ある日、気がついた時には、台所の包丁立てからその一本を手に取り、両手で構えていた。そのまま裸足で外に出る。庭の隅にスコップで塵芥(ごみ)捨て場の穴を掘っていた由太郎の背中に近づいていく。異様な気配を感じたのか、振り向いた彼は、息を呑んで顔色を失った。

 偉丈夫で、スコップを手にしている彼が反撃に出れば、中学生の俺なんかひとたまりもない。だが、彼はスコップを脇に投げ出し、無言のまま俺に向かってひれ伏した。顔を上げては俺を拝み、またひれ伏す。何回も何回もそれを繰り返した。身体全体が小刻みに震えている。必死の形相で見上げる目は涙でうるみ、悲しみに満ちていた。

 ぬかるみの地べたに伏す由太郎、それを見た瞬間、俺は彼の無実を信じた。この人には人殺しなどできっこない、と確信した。俺は包丁を投げ捨て、膝を折って泣き叫んだ。おずおずと右手を差し出すと、強い力で握り返された。心の底から後悔した。

「ひどいことをしてしまった。ごめんなさい」「真犯人だろうと疑ったことを謝ります」

 このときの思いがずっと絶えることなく生き続け、母とともに由太郎の無念を晴らすことが、俺の人生の目的のひとつになった。

 それ以来、俺はこの顚末を誰にも話すことはなかった。母が由太郎から聞いたのかどうかも知らない。由太郎と俺の会話にも、彼が死ぬまで一度たりとも出てこなかった。

 しかし、俺の心にはいまでもこの日の情景が色あせずに残っている。時にその映像が立ちあらわれて、俺を苛(さいな)む。俺は駆り立てられるように、がむしゃらに行動した。

 高名な裁判官に成り上がったかつての予審判事と談判し、その謝罪を獲得した。真犯人と対決し、自らの犯行である旨の告白を引き出すこともできた。しかし、それらのやりとりが確かに存在したことを客観的に証明付けられなかった。時は過ぎ去っていった。

  *

 勢津子は空のコップを右手に持ったまま、目をつぶって俺の話を聞いていた。彼女の目から何度か涙がすーっとこぼれ落ち、俺はその度にあらぬほうへ視線を移した。話が尽きても、ふたりはしばらく押し黙ったままでいた。

      ♡

 母親と結婚し新しい家族となった由太郎に、包丁を構えて向かっていった中三の誠一、そのときの暗い気持ちを推し量ると、私もひどく沈痛な思いにとらわれました。まだ思春期にさしかかったばかりの誠一を覆い尽くした辛さ、悲しさ、やりきれなさはいかばかりだったろうか。さらに思いは広がっていき、私と誠一の関係について、私の娘たちがどう受け止めてくれるのかが気になって仕方がありませんでした。

 でも、それ以上に強い衝撃を受けたのは、この事があった後、誠一の由太郎への気持ちが大きく変化したことでした。まったく百八十度の転換です。ただただ驚いてしまいました。

 感激したとか感動したという種類の感情ではなく、呆然として言葉を失ってしまったというほうが当たっています。親子は別かも知れませんが、例え近い血縁であったとしても、これだけ他者に寄り添うことは難しいでしょう。ましてや、誠一と由太郎は親子縁組さえしていないのです。私には、スミと誠一の母子が何かとても不思議な存在、手が届かない遠い所にいる人たちに思えたのです。

 このまま誠一とお付き合いを続けても、彼やスミのように由太郎の問題と濃密に関わることはできないだろう。表面はともかく、心の奥では単なる傍観者の域を超えることは難しいのではないだろうか。そんなふうに思えてなりません。これ以上彼と会うことはお互いを傷つけるだけではないか、そう考えるようになっていきました。私は意識的に誠一と距離を取るように自分を仕向けていったのです。

 誠一は何度も連絡をくれました。とにかくもう一度会って話を聞いてくれとのことでした。ある晩、これが最後と思って会いました。

 そのとき彼は、自分とスミは事件を背負っていくしかないが、私には関係がない、と断言しました。しかし、同じ屋根の下に住む以上、そんなわけにはいかない。悲しいけれど、もう会うことはないだろうと思いました。

 そんな吹っ切れない悩みを抱えたまま、時が過ぎていきました。

 ある夕刻、勤めから帰ると、ポストに誠一からの葉書が一枚、ぽつりと入っていました。短歌が一首、二行に分けて書いてあるだけでした。

   待ちわびし時はたちまち過ぎゆきて

             待ちわびる日のはじまりとなる 

 私には誠一の気持ちが痛いほど伝わってきました。私も同じ気持ちで、辛い日々を過ごしていたからです。偶然としか思えなかった誠一との出会いは、必然だったのではないか。彼を失えば、ふたたび私の心に灯がともることはないと思えたのです。

 数日後、私も葉書に歌を一首だけ、一行に書いて投函しました。いつかふたりで遊びに行った閖上浜(ゆりあげはま)の海を思い出しながら詠んだ歌です。

   空のあお海のあおとがいりまじる  彼方に行かむ妹背のごとく

 こうして、私と誠一は、娘たちが巣立った後、一緒に住むことになりました。        

 八十歳、傘寿(さんじゅ)を迎えたスミは、諸手を挙げて私たちの結婚に賛成してくれました。彼女の笑顔が本当にうれしかったです。

(つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free、本文内容とは関係ありません。オリジナル原稿には添付なし。 )

 


第2回仙台短編文学賞落選作 『合流点』 izukun ①

2019年08月12日 16時01分32秒 | コト殺人事件と坂本せいいちさんのこと

 きょうの東伊豆はほぼ2週間ぶりに、昼過ぎまででしたが陽ざしがなく、にわか雨も降りました。気温も24度から28度程度で、ほんとに一息つきました。

 うちのニャも板の間から、籠のねぐらに入って、爆睡でした!          

 ただし! いま、午後2時段階ではまたまた暑くなる気配です。室温29度。

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 ところで、「コト殺人事件、義父の汚名を雪がん!」というおらの過去記事の中に次のような記述があります。

 https://blog.goo.ne.jp/izu92free44/c/27c4cb7438fffe4bac1f871fcd814e74 

【9年も前になるでしょうか、坂本さんの著書を出した後、おらは得意のいい加減さで「そのうち、コト殺人事件がらみの小説を書いて、世論に訴える」と坂本さんに約束したのでした。その後、『魔切(まきり)』というタイトルの小説を一応書き上げたものの、そのままになっていました。「魔切」は、犯行に使われたことになっている、未発見の刃物の名称です云々】

で、昨年10月の某公募コンペの送信締め切り時刻20分前の午後11時40分に、10年近く寝ていた原稿は改訂版『魔切』として脱稿しましたが、添付すべき住所やら経歴といった個人情報を入力しているうちにアウトとなりました。これは、今後、また手入れをして、今年はなんとか送信したいと思っています。

しかし、そうしているうちにもおらにも坂本さんにも“諸般の事情”というやつが来ないとも限らないので、前述の坂本さんとの約束が果たせなくなるという事態をおらは恐れたのです。

そこで、目に付いたのが仙台短編文学賞という創設2年目の文学賞でした。

『魔切』とは別に、坂本ご夫妻をモチーフにした短編を書いてみようと考えたのです。もちろん入選するつもりですよ!(エラいねえ!)

というわけで、仙台短編文学賞に応募して、見事落選したのが、この小説『合流点』です。

坂本さんとの約束を果たすには、小説を書くだけではなく、公開しなければなりません

落選作品にて、他者の手で公開してもらえないからには、まことに恥ずかしながら、自分で公開するしかない。これこそが、当ブログに『合流点を』掲載する所以であります。

お暇な向きもお忙しいお方も、ご一読くだされば幸いです。

なお、本作は一部に実際の出来事をちりばめておりますが、実録ではなく、あくまで創作であります。

 

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 合流点 ①  izukun

     ♡

  今となっては三十年以上も昔、昭和六十一年(一九八六)のことです。

  九月も半ばを過ぎたというのに、真夏のような陽ざしが照りつける朝でした。契約更新のため顧客の事務所へ向かおうとしていた私は、路上で突然気分が悪くなり、ビルの陰にしゃがみこんでしまいました。

  仙台一の繁華街、青葉通りの一番丁交差点を北から南へ渡りきったところでした。いまはサンモールのつなぎ目になっているところです。前の夜、立て込んでいた仕事に追われ、ほとんど寝ずに処理したので、とても疲れていました。

  同じビル陰のすぐ横に相当年配のおばあさんがいて、私に気づくと、腰掛けていた椅子から立ち上がって声をかけてくれました。通りがかりに、ここでよく見かける方です。

「大丈夫かい? じっとしていなさい、救急車を呼ぶかい?」

「いいえ、ちょっと休めば落ち着くと思いますから。ありがとうございます」

 おばあさんは、「夫は無実です」と書かれたタスキをかけていました。会社の同僚の間では〝署名おばちゃん〟と呼ばれている一種の有名人でした。小さな台に事件のあらましが書かれた簡単なビラを置き、旦那さんと思しき遺影を掲げて署名活動をしているのでした。

 遺影は優しそうな笑顔を浮かべています。ところが、写真の下のほうには「人殺しの濡れ衣を着たまま逝った伊藤由太郎(よしたろう)」という、まったく不釣合いな説明書きがあります。

  彼女は心配そうに私を見つめ、手を取って椅子に座らせました。布袋から水筒と小さなコップを取り出すと、良かったら一口どうだい、と勧めてくれたのです。そう言えば何も飲む余裕(ひま)がなかった、喉が渇いている、と気がつきました。薄い麦茶のような味でした。

    

      ♥

  あの朝、母はいつものように早起きして、俺の弁当を作ってくれた。台所のテーブルを見たら、ふたりの弁当が並んで置いてあった。自分のものを置き忘れたまま出かけてしまったのだ。

  俺は遅番で、十一時過ぎに家を出ようとして、それに気づいた。勤務先の食材工場とはちょっと方向違いなのだが、少しばかり遠回りすればいい。母の〝職場〟に立ち寄って、忘れ物を届けてやろうと思った。十五分足らずの寄り道だから。

 星陵町の東北大病院東から市役所東を抜け、東二番丁通りから青葉通りへ右折した。少し走っていくと、左手のケヤキ並木の間に母の姿が見えた。いつも使っている椅子には女の人が座っていて、母は何か飲ませているように見えた。

 俺は車から降り、弁当を包んだハンカチの結び目をつまんで、顔の前で少し揺らした。

「ああ、ありがとう。いま水筒出したらさ、おべんと忘れてきたのに気がついたよ」

「ハハハッ、おっかあも七並びの年齢(とし)になって、頭が少しホアホアになってきたんかねえ。こちらさん、どうかしたの、具合でも悪くなったんかい?」

「この人ね、ちょっと働き過ぎで目が回ったらしいんだよ。大神宮の近くまで行くっていうから、誠一(せいいち)、あんたちょっと乗っけてってちょうだい」

  出勤時刻が気になったが、その女の人が固辞するのも構わず、車の助手席に乗せた。

「お母さんのお姿、毎日のようにお見かけしますけど、大変ですよねえ。この間は裁判所の前にもおられて…。夏場は暑かったでしょうに」

「今年の七月で、あの事件から五十年が経ちました。それで一念発起して署名を集めるって言い出したんですよ。朝八時半から夕方四時までやってる。お袋ももう七十七ですから、無理はできない。それでも、いくらやめろと言っても聞かないんです。こうなったら死ぬまでやるって言ってますけど…」

  断片的な会話に過ぎなかったが、彼女は山際勢津子(やまぎわせつこ)という名前だとわかった。生命保険の仕事が長い。娘がふたりいて、下の娘が来春は高校を出るというのだから、四十半ばぐらいの年齢かも知れない。

 仕事柄か、濃紺のスカート、長袖の白いリボンタイブラウスという控えめな服装、低めの位置できゅっとまとめたポニーテールの髪型も好ましかった。

  彼女は何度も礼を言って車から降りていった。俺がクラクションを短く鳴らすと、振り向いて、つぼめたベージュの日傘をあげてニコッと微笑んだ。俺は鼻歌でも出そうな気分になり、自分ながら呆れていた。久しぶりに軽やかな心持ちになっていた。

     ♡

  出勤時や出先への往復の途次など、通りがかりに、署名おばさんこと伊藤スミと私は、挨拶だけでなく二言、三言、話を交わすようになりました。そんなことが重なり、スミはいろいろなことを話してくれるようになったのです。

  昭和三十年代半ば、スミは鍛冶職の夫を病気で失い、息子の誠一と青森県北津軽郡の故郷で暮らしていました。一方、強盗殺人犯の濡れ衣を着せられた旧姓坂本由太郎も、そのころまでに秋田刑務所から仮釈放されて帰郷していました。

  由太郎は、昭和十一年七月に五所川原で起きたコト殺人事件の犯人だと断罪され、無実を訴え続けていました。そのふたりを、スミの遠縁の人が引き合わせたのです。

「なぜ、そんな過去がある人と私が再婚したのか、あなた、不思議に思うでしょ?」

  スミは、そう言って微笑みました。夫が犯人になったという例は数限りなくあるし、誤審で犯人にされてしまった例もあるはずです。でも、犯人ではないのに犯人にされた人をご主人にした、という話は聞いたことがありません。

  私は答えに窮し、スミの顔を見つめながら黙っていました。「この人は、わざわざ大変な人生を選んだんだなあ」と心から驚嘆していたのです。その一方、正直なところ、「私にはできそうもない」そう思いました。

 このとき、スミは印象的なことを言ったのです。

「由太郎という大きな川に、私のようなささやかな川が合流したのね。そして、私よりいくらか太い川かも知れない誠一も間もなく合流したわ。小さい川も、合流点の先は大きな川そのものになるのよ」

  やがてその川に、私の人生が大きな関わりを持つとは、夢にも考えませんでした。

  仙南平野を木枯らしが吹き抜ける季節になりました。スミの姿が街角から消えて十日も経ちます。月曜から土曜まで、休まずに街頭に出ていたはずですのに…。裁判所近くに場所を移したのかも知れないと行ってみましたが、見当たりません。気になりました。

  ある土曜日の午後、私は思い立って、ビラに書かれていたスミの住所を訪ねました。仙台市の北西にあたる郊外でした。戸口に立って声をかけると、奥からしっかりしたご本人の返事が聞こえましたが、姿が見えません。しばらくして、そろりそろりと玄関に出てこられました。以前からの腰痛が、このところの急な冷え込みで増悪したとのことでした。

  居間に上げてもらい、近況から始まって、由太郎の事件の経緯を聞かせてもらいました。このような話は、読んだことも聞いたこともなかったので、理解できない単語もたくさんありました。聞くに堪えないひどい話で、溜息をつきながら耳を傾けました。

  その三年ほど前に、冤罪の有力な証拠になるとみられた古い刃物が発見され、新たな証言も得られたのですが、最近になって刃物は鑑定不能という結果に終わったこと。また、再審へ向けて調査活動を続けてきた青森県の弁護士会が調査打ち切りを決めたこと。どれもこれも残念な結果となり、スミは大きな落胆を味わったはずです。でも、愚痴は一切口にせず、淡々と経緯を語るだけでした。そして、毅然としてこう結んだのです。「由太郎の遺言どおり、これまでと同じように、裁判所と世間様に無実を訴え続けていくだけです」

  このとき、私が一番聞きたかったことを彼女は話してくれました。なぜ、出獄してきた由太郎と再婚する決心がついたのか、ということです。

  働き者だった由太郎は故郷ではとても評判が良い人で、彼が身柄を拘束された後も、多くの人が「犯人は別にいる」「由太郎は冤罪だ」と考えていたそうです。それは一種の世論にさえなっていました。

  スミも事件の詳しいことは知りませんでしたが、漠然と同じように考えていました。しかし、土地の郵便局長だった親戚が由太郎との結婚話を持ってきたときには、困惑して相当迷った、と回想していました。

  中学校三年生だった誠一のほうは、母親の再婚そのものが嫌だったのでしょうが、相手がいわく付きの人物ということで、さらに強く反対したそうです。あるときには母親に殴りかからんばかりの見幕でくってかかり、怒鳴り散らしたといいます。

「選りに選って、人を殺して刑務所に入ってたやつと再婚するなんて! 俺は絶対嫌だ!」

 しかし、スミは事件の経緯を由太郎本人から何度も聞いているうちに、間違いなくこの人は無実だ、と確信したのでした。

 「琴線(きんせん)にふれるっていうのかねえ、心の底からとつとつと訴える由太郎の話に、私の心が共鳴したんだよ。理不尽すぎるいきさつには怒りが湧いたわね。私は思ったのよ、なんとか汚名を突き返させてやりたい。少しでもこの人の役に立ってあげたいってね。誠一も追い追いわかってくれると思っていたわ」

  このようなわけで、誠一の気持ちとは裏腹の成り行きでしたが、ふたりは結婚し、由太郎はスミの伊藤姓を名乗りました。再審へ向けて新たな歩みが始まったのです。

  再審の門を叩くには、新しい証拠が必要です。由太郎はスミをオートバイの後ろに乗せ、あちこち訪ね歩いたそうです。事件当時の捜査関係者から真相を引き出そうとしていたのです。驚いたことに、それらの人びとはみなおずおずと面談に応じ、居丈高な態度で拒絶する人などひとりもいなかったそうです。

  そのころの大きな出来事として、東京のテレビ局が由太郎の冤罪を取り上げ、長時間の特別番組を放映したということがあったとのことです。結局、これが再審開始につながりはしませんでしたが、世の中にこんな理不尽な冤罪事件があったと知ってもらえる好機になったようです。 

          (つづく、原文縦書き、添付画像はfrom free 。本文内容とは関係ありません。オリジナル原稿には画像添付なし。 )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


んなことするなら、国会でもそうやれっちゅうの!

2019年08月12日 00時20分48秒 | 安倍ど腐れ極右政権

    国会論戦の与野党野次合戦が良くて

  なんで街頭の野次は駄目って規制するんや!

 官邸の根回しか、道警の忖度か?あきれるわな

 新聞は、特別な場合しか読まないおらです。

 特別な場合というのは、重大事件が起きたときとか? 

 ♪ いえいえ、そうではありません。そーれは、

 誰かがなんか送ってきてくれた荷物のクッションとして、新旧の新聞紙が詰められてくる場合です。

 これがなかなか面白いので、おら以外にも似たような愛好者がおられるんですよ!   

https://blog.goo.ne.jp/1234sayu/e/da600f4c2fbb3b50e34e84df32d6cec5

https://blog.goo.ne.jp/1234sayu/e/35a0e15b11bc72f3b924b3bfb50a270a 

 で、話は本題の最近届いた荷物に入っていた毎日新聞の今年7月18日付朝刊の社会面肩の記事に移ります。

 その記事には、先だってABが北海道で参院選の応援演説やった際に、ABに批判的な、つうてもたいしたことは言ってねえんだけど、野次を飛ばした人がサツ官に“隔離”されちまったっていう出来事が書かれていました。その切抜きはいま見当たらないんですが、発見したらスキャンの仕方がわかんねえんで、画像を載っけときます。(上の5行の行間とこの辺の行間では全然違うんだけど、なんでこうなるねん?)

 そうしたところ、きのう、旧みんなのブログを眺めていたら、このことに関連して札幌でデモがおこなわれた報道を紹介するブログに行き当たりましたので、孫紹介させていただきます。リンクフリーの表示がありますので、管理者には失礼ながら欠礼いたします。

https://blog.goo.ne.jp/tenseijin101/e/6b7cce0f891574ea7a845a3e21a0a4d4?utm_source=admin_appeal&utm_medium=realtime&utm_campaign=realtime

 つうわけで、多くのAB支持のみなさまには申し訳ありませんがね、ABがいるだけで世の中、どんだけワルくなるかのサンプルとして掲載しておきます。

戦争は知らない〜歌詞は忘れたねのりちゃん版〜

          【作詞】寺山修司 【作曲】加藤ヒロシ

野に咲く花の名前は知らない/ だけども野に咲く花が好き /ぼうしにいっぱいつみゆけば/ なぜか涙が 涙が出るの
戦争の日を何も知らない/ だけど私に父はいない/ 父を想えば あヽ荒野に/ 赤い夕陽が夕陽が沈む
いくさで死んだ悲しい父さん/ 私はあなたの娘です/ 二十年後のこの故郷で /明日お嫁にお嫁に行くの
見ていて下さいはるかな父さん/ いわし雲とぶ空の下/ いくさ知らずに二十才になって /嫁いで母に母になるの

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


アイスクリームメーカー

2019年08月11日 21時04分58秒 | やってみなはれ!

 自家製アイスクリーム製造器!で

 バニラアイスを作ってみたけどさ、

    砂糖が多すぎねえか?

 暑いねえ! ことしは7月29日以来、もう14日間の猛暑日とかで、おらもかなり参っています。みなさまは如何?

 というわけで、きょうはアイスクリームを自分ちでつくってみることにしました。

 画像下左が電気アイスクリームメーカーというやつ。こいつはパカッとふたつに割れ、画像下右の保冷材料入れ(下)とプロペラが見える駆動部(左)に分かれるのであります。材料入れの壁には冷凍液が仕込まれているらしく、製造開始に先立ち3時間ばかり冷凍庫に入れて冷凍しとけよ、と能書きに書いてあります。

           

 今回作るのは、以下、手持ちの材料だけでまかなえる「バニラアイス」つうことにしました。

 卵の黄身1個、生クリーム100ml、砂糖40g、牛乳80ml、バニラエッセンス少々をよくかきまぜて保冷材料入れに入れろ、つうことです。

 んで、保冷材料入れを4時間ばかり凍らせたあと、前記材料を流し込み、駆動部を取り付けてスイッチを入れました。

 そうしますと、前掲画像のプロペラがぐるぐる回り始めました。音はせんね。

 待つこと20分強。確かにアイスのようなものがあらわれて参りました。

              

 売っているようなカチカチにはならんようです。

 ガラスの器に入れてみたら、こんな具合。

 2、3人分ぐらいかねえ。アイスというよりソフトクリームに近いかな、という感じでございましたよ。

 

             

 

 反省

 ①材料もある程度冷蔵しといたらもっと硬くなったのかもしれません。

 ②ガラスの器も冷やしておけば、器に盛った瞬間に融け始めることはないと思われました。

 

 それにしても、①うーん、アイスにゃ、生卵がへえっているのか、この暑いのにだいじょぶかな? ②砂糖40グラムってけっこう量があって、全体をひとりで喰ってしまうと砂糖の摂り過ぎやないか、と思いましたね。

 なにっ?がきやないんやろ、いっぺんに食べんと、取っときーな!って、ほんまやね。良い子はそうして!

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 


きょう長崎原爆忌

2019年08月09日 07時33分49秒 | 日記

 原爆投下の正当性=「より早い日本の降伏を実現」はホンマかいな?

 膨大な市民犠牲者。戦争は、軍隊同士でやってもらいたかったよ!

 今朝、クレーンのうぃーんといううなり声で目が覚めました。時計を見ると5時20分。

 げぇっ、と外を見ると、目の前の電柱にでっかいクレーン車のアームが伸び、吊り下げられたゴンドラに作業員2人がいて、なにやらやっている。日中は暑くてたまらんので、涼しい早朝にやっつけてしまうべえ、ということなんですかねえ。もちろん、事前連絡などありませんよ。

 地上で作業を見ている1人の職員に、「てめえら、こんな時間にナニやってんだ!目が覚めちまったじゃねえか。ええかげんにさらせ!」という趣旨をもう少しやわらかな表現でお伝えすると、そそくさと立ち去っていきました。えっ? そんなら、初めからやるなよ!

 つうわけで、長崎原爆忌の朝は明けたのですが、きのうの報道に、『被爆十字架、米国から長崎へ 大司教「揺るがぬ証人に」』(朝日デジタル)というのがありました。 https://digital.asahi.com/articles/ASM875771M87TIPE02Y.html?_requesturl=articles%2FASM875771M87TIPE02Y.html&rm=429

 原爆で灰燼に帰した長崎のカトリック浦上天主堂の礼拝堂にかかっていた十字架が、米国のなんとか大学付属機関から浦上教会に返還された、という内容。日本敗戦後の占領時期に一人の米海兵隊員が「譲り受け」、この大学が保管していた、とあります。

 そのうち、ローマ法王が来日するということもあって、なんとなくむにゃむにゃの気分です(追記・むにゃ✖2ではわからん、のメッセージあり。まあ、返還元にあざとさのようなものを感じてしまうぜ、ということだす。)が、「米国で原爆投下(の是非について、だろうと思われる)についての議論がなされるべき」との返還元のコメントには大いに賛同するものです。

 それにしても、なんでもかんでも持ち返っちまうんだよね、戦勝国つうのは。これは世界共通の“現象”で、もちろん日本軍もね、おらは行ったことはないのですが、大英博物館なんつうのは、世界中からかっぱらってきたものばかりが展示されている、と聞いておりますです。

 

 

     最近、おらちのベランダに来る「占領軍」

 

 

 

 

    


74回目の広島原爆忌を送る

2019年08月07日 00時09分13秒 | 日記

 もはや80歳の爺婆でも記憶に残っていない、

    という時代ではありますが、

 経験しなきゃわからん、というのではあまりに寂しいわな!

 きょう6日は広島原爆忌。

 先月29日以来つづきまくっている猛暑の1日でした。

 74回目というのだから、現在生きている日本人の7、8割は、広島、長崎の惨禍を直接には記憶していないということでしょう。

 ネットの無料動画サイト「ギャオ」で、アニメ『はだしのゲン』を見ました。9日の長崎原爆忌には『はだしのゲン2』を見ようと思っています。

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 体調不良で2か月ほど何も出来なかったわが猫の額ガーデン、すっかり荒れ果てて、主なき庭の様相になってしまいました。

 例年になく鹿の出没がひんぱんで、庭やミニ菜園にはほとんど何も残っていません。大きな鹿が庭先をうろうろしているのを何回も目撃する状態です。

 キュウリ、かぼちゃ、ピーマン、さつまいも、ししとう、オクラ、トマト…全滅。

 こんな事態を予想して、100均の小フェンスを組み合わせた防御のための檻(おり)を作り、苗の段階でかぶせておいたのですが、その後体調がおもわしくなく放置してしまったのです。

 そうしたら、その檻の隙間から苗が上にぐんぐん伸びていったのですが、その伸びた部分が全部食べられてしまいました。

 おまけに、例年なら手をつけなかった唐辛子の実、葉、キキョウの葉・茎、フキのがさがさの葉っぱ、くさいはずのドクダミの葉っぱまで軒並み食べてしまいました。ざっと庭を見ると、葉を失ったなにやかにやの茎が呆然と立っていて、怒る気にもなれません。禁猟区のこのへんでは、鹿が異常に増えてしまったのでしょう。エサがないのもかわいそうですが、食われたほうも気の毒ですわい。

 庭木も伸び放題なので、陽がかげった夕方、例によってあの木、この木の床屋をやりました。全身、汗にまみれてしまいましたが、せいせいしましたよ。こんなふうな仕上がり例です。

 

 Before こんなに大きな画像を載せる必要はないのですが、調節できないのです。

 

 After