消えゆく霧のごとく(クンちゃん山荘ほっちゃれ日記)   ほっちゃれ、とは、ほっちゃれ!

きらきら輝く相模湾。はるか東には房総半島の黒い連なり。同じようでいて、毎日変わる景色。きょうも穏やかな日でありますよう。

歯医者さん

2018年08月29日 18時37分14秒 | おらあ、文句があるだよ!
 ボッチが出っ張ってれば、頬肉に触るのは理の当然!?
  腹が出てくりゃ太っ腹、頬もついでに太っ頬なのか!


 今回の記事のカテゴリーは「おらあ、文句があるだよ!」なんですけど、ホントはそこまでは行ってないのです。
 そのちょっと手前、なんとなく釈然としないなあ、というレベル。
 ただ、納得したと言うわけでもないのです。

 勤めていた会社の三軒先、まあ言わばお隣さんに歯医者があり、在職中に10年ばかり、お世話になりました。退職後も6年ほど、時たまですが、埼玉に戻った日取りでわざわざ新宿御苑まで出向いていました。退職した年に、ここのセンセイに長らく欠損したままだった右下奥歯の“跡地”にインプラントを入れてもらいました。
 で、繰り返しですが、6年以上、特に何も指摘がないまま、年2回は全体の定期メンテを受けてきたのです。

 話は変わりまして、この7月のいつだったか、なにかの加減で鏡で歯を見たら、左の上のほうに虫歯が出来かかっていて黒っぽくなっているところがあるのに気がつきました。
 そこで、いま居るここ伊豆の山を下りたところの歯医者さんに診てもらいました。暑いさなか、新宿まで行くのは面倒ですからね。

 その箇所は難なく治療してもらうことが出来ました。
 ところが、その際に山の下デンテストは、右下奥のインプラントの“ボッチ”が右頬の肉に始終触っていることを指摘、「嫌だなー」とおっしゃるのです。「嫌だなー」て聞かされちゃ、こっちも「イヤやなあ」ということになります。
 ボッチ、というのは、インプラントに被せてある金属を外すときに簡単に外れるように、リムーバーを引っ掛けるためのごくごく小さな突起が取り付けられている、それなのです。そのボッチが頬肉にいつも触っているというのです。

 「センセイ、嫌だなーとおっしゃるのは、例えば頬肉がガン化するかもしれん、というような意味合いなんですか?」
 「そうなんですよ、年がら年中金属が触っているのは良くないねえ。いま、奥歯の一番奥の下側にボッチが付いているんですが、私ならずっと手前の隣の歯に接したあたりに取り付けて、頬肉に始終触らないようにしますねえ」

 その頬肉の場所を照らし出して鏡で見せてもらうと、確かにボッチの大きさの何回りかの大きさで赤くなっており、直接ボッチが触っているところは白っぽくなっている。
 ははぁーん、これは確かにガン化しかかっておるわい、まずいわな、死ぬ前にガン化する可能性がある、と専門家のおらは自己診断しました。

   
    画像は記事とは関係ありません。From Free.

 山の下デンテストがおっしゃるには、新宿の歯医者さんとか、ほかの歯科医にセカンド診断をしてもらったらどうかというのです。

 そこで、新宿にメールを入れて、これこれこういう訳なんだけどどうすんべか、と尋ねたのです。
 そうしたら、新宿まで出向いてくれれば善後措置を(無料での感触)してくださる、というのですが、もう新宿にはこれ以外には用事がなく、億劫です。それに、「もう何年もボッチが頬肉に接触していたのを見ていたはずなのに!」という思いがあります。加えて、おらが太ってか年齢をくってかして、頬肉がたるんできたのが原因だと言い出し? 言い出され? かねない感触もありました。
 それなら、保険適用外の措置につき、費用がどれぐらいかかるかによって、どちらで措置してもらうか決めることにしました。

 結局、そのボッチを削り取ってしまうのが一番簡単な方法ということになりました。
 このボッチを取り除いても被せ物を外す必要が出てきた際に外すことがまったく出来ないわけではないらしいのです。ただ、取っ掛かりがなくなりますよね。それで、いわばこじ開ける恰好になるので、被せ物がお釈迦様になる可能性があるということでした。
 で、その費用はと尋ねると、山の下のセンセイは、「…そんなに高いもんじゃないですよ」と、即答がないのです。
 しばし、センセイは頭の中のレヂを操作しておられたようです。して、その結果は?

 恐怖の5、6秒ののち、「まあ、1000円ぐらいでしょうね」とおっしゃる。
  (1000円と言えば、岡山のきなこママは大枚千円を道で落として泣いたらしい⇒千円落とした顚末はこちら)

 おらは、1000円と聞いて急激に元気を回復。
 おう、それなら、近い将来のガン化も困ると言えば困るんで、山の下歯科医院にお願いして、ボッチを削り取っていただくことにしました。
 それが、2週間前の話でした。

 さてさて、いざ削り始めようとして、アーンをした、その時。
 山の下センセイは、「うーん、これはボッチを削り取って、手前に移して溶接すれば、一番好都合だな」とおっしゃるのです。
 で、急遽とりやめて、「そんなことが出来るのかどうか、歯科技工士とも相談してみますよ」ということになりました。

 そうして、きょう、ボッチを手前に移動させた被せ物が完成、元どおりに装着していただいて、今しがた帰宅したところであります。

 えっ、費用はいくらかかったのかって?

 この部分に限っては、3000円プラス消費税で、新宿を往復するよりはるかに安上がりだったのであります。

 ありがとう、山の下センセイ!

さくらももこさん逝去に思う

2018年08月28日 19時47分40秒 | 日記
 53歳の死に思う、寿命って…

 人間の寿命とはいったいなんなんだろう、とつくづく思いました。
 
 寿命、天寿、長い場合、短い場合。

 何事かを為し終えている場合、為しつつある場合、為していない場合。

 …まあ、いずれにしても、寿命はやがて尽きますが…。

 それにしても、チビマル子ちゃんのキャラクターは、テレビアニメの声優の声とあいまって、サザエさん同様、多くの人に愛されました。
 おらも、たまたまテレビがついていて、マル子ちゃんが映っていると、そのままニヤニヤしながら見ていたことを思い出します。

 そのももこさん、これまでお顔の画像を一度も見たことがありませんで、きょう初めてお会いしました。
 まったく、マルちゃんそのもののようですね。ちょっと古い画像のようですが…。

   

 忙し過ぎて、定期的な検診を受けなかったんだろうな、と残念に思いました。

   

 

鳩対策に大汗!

2018年08月27日 10時05分07秒 | ちょっとした“お仕事”
  その後も卵を発見!
 入れねえようにしたぜ


 埼玉の住まいの理事会があるんで、きのう朝5時スタートで戻りました。
 焼けるような日差しで、まだ伊豆のほうが数段マシでした。
 その暑さの中、駐輪スペースの整理なんかやっているわけでして、なんともはや。

 で、巣立った鳩の消息を家人に聞きましたら、その後、また同じ場所に同じカップルらしいのがうろうろあらわれるので注意していたが、1回、卵を2ケ産みつけられてしまったとのことでした。

 うーん、その度にとろろに落として食べるわけにもいくまい、ということで、しっかりしたディフェンスを作ることにしました。今朝のことです。

 その作品が、これ。
 大汗をかきました。

   

もく星号事故 『風の息』(松本清張) 画像追補あり

2018年08月25日 11時57分47秒 | 読書の楽しみ、読書の...
  操縦ミスか米軍機のミス銃撃か、はたまた…
 伊豆大島・三原山山腹から静岡県舞阪沖へ  
 意図的に日本側の目をそらさせた米軍情報


 このところ、伊豆に持ち込んだ書籍入り段ボールの整理を心がけている。⇒進捗していない、という意味です。
 そんなことをしていると、「ああ、こういう本があったな」という本に再会し、また読み始めるということがある。⇒従って進捗しない。

   
   新潮文庫・上中下 1978年版

 松本清張『風の息』もそのひとつ。昭和27年(1952年)4月9日朝に千葉県館山から伊豆大島を結ぶ空路で消息を絶った日本航空「もく星号」の墜落事故を題材とした作品です。この事故では、乗員乗客37人全員が亡くなっています。
 敗戦後の米国占領下、朝鮮戦争時の惨事で、正副操縦士がいずれも米国人だったというのも時代を反映しています。
 この飛行機は羽田発福岡行きで、館山上空から通過連絡が入ったのに大島上空からの通過連絡が入るべくして入らなかったのだから、館山-大島間で不測の事態に遭遇したに違いありません。ところが、米軍関係から「静岡県舞阪沖に着水、全員救助」などという誤報が流され、三原山噴火口の砂漠地帯で惨状が発見されたのは翌10日朝にずれ込んだのです。

 今から35年前の日本航空123便御巣鷹山墜落事故の際にも、事故当日の夜、かなり早い時刻に墜落場所が判明していたにもかかわらず、救助が始まったのは13時間後でした。「夜間で降下出来なかった」というのですが、「当時の各種装備の状態を勘案しても、訓練された救助班をおろすことは自衛隊、米軍ともに可能だった」とする有力な見解があります。
 これがさまざまな憶測を呼ぶ所以なのですが、時間の経過と共に誰もが納得できる真相というものは、失われていくようです。

 やはり、「闇から闇へ」を望む人びとがいるに違いありません。

   
   昭和27年4月12日付サン写真新聞掲載
     拡大できぬよう加工してあります。
 

 これもおかしい!
 自分が新記事をアップし、その直後に編集ページから「リアルタイム解析ページ」に入ると、アクセス数がただちに14とか16と表示されています。みなさんも、気が付かれていることと思います。
 これって、おかしいですよね!

 新記事がアップされるのを待ち望んで、アップされたらただちにアクセスするなんていうお方がいることはあり得ません!
 よそ人の御記事はともかく、おらの記事の場合は絶対にあり得ない!

 新記事をアップしたことに対する「ごほうび」「おまけ」なんでしょうけど…。

 うざくね! 鰻冊なら歓迎だけど。 

当選しました! ニセGoogleの豪華景品プレゼントという詐欺告知

2018年08月22日 16時48分52秒 | 困ったのう!
 ご注意!
 クレジットカードデータを聞きだす手口
 おらも、うっかりひっかかりそうになりました!


 やっぱりね!
 予報どおり、暑さが戻ってきて、もう大変です!

 そんななかで、うざったい話なんですが、あなたも引っかからないようによく注意しましょうね。

 Gmailをいじくっていると、突然、なんだかわからないけれど、Googleからのお知らせとしか思えない「当選のお知らせ」といった趣旨の窓が画面中央に開きました。

 OKをクリックすると、簡単な三つのクイズが出て、2万円弱から8万円弱の価額だという景品3種のうち、ひとつが当選したというのです。 
 「Googleユーザーのあなた、おめでとうございます!(1)件のGoogleギフトが当選しました!」というわけです。

 しかし、なんとなく怪しい!
 画面の指示に従って、恐る恐る景品ゲットに向けて進んで行くと、
 出ました! 「あなたのクレカのデータ」を入力せよというガイドが!

 ここで、おかしい、と気がつく人は多いと思いますが、気がつかないお方もまた多いことでしょう。

 なぜクレカ情報が必要かについてのもっともらしい説明や「当選者の喜びの声」も顔画像入りで載っていますので、けっこう一線を超えてしまう人もいるはずです。ただし、よく見ると、喜びの声は投稿日時が「8月225日」などとなっていて、じっくり眺めればおかしいことに気がつくハズです。

 以下のサイトのトップ記事がとても役に立ちます。
 情報科学屋さんを目指す人のメモ

 暑くてボーっとした頭になっていますけど、くれぐれもご注意くださいませ!


やっとこさ、雪見障子の張替えを完了

2018年08月22日 03時16分45秒 | ちょっとした“お仕事”
 どういうわけか、敗戦の日15日に素人張替えを始めた2階の雪見障子。
 紙切れで中断しておりましたが、いつまでも放っておけません。きのう高校野球決勝戦を眺めながらやっつけました。

 金足農、序盤の追加得点によっては悲願がかなったのでは、という可能性を感じました。打者、三塁走者ともにサインの見過ごしということで、スクイズ失敗。試合の流れが相手方に行ってしまったのは、残念でした。
 
 さて、高校野球も終わって、の常套句どおり、ことしの夏は終わるのでしょうか?

   

   
    中断時の様子

悲喜こもごもの朝

2018年08月21日 08時26分32秒 | 生き物
ささやかではあるけれど、一応悲喜こもごも
 生き返ったアラマンダとニャの負傷

 
 ここ数日、涼しい日が続いていますが、関東はまた、あの暑さが戻ってくるというのです。
 伊豆はどちらかというと関東っぽいので、やだなあ、というのが正直なところ。

 で、今朝はまだ涼しいので、ミニ菜園の、シカに荒らされてどうにもならなくなった残滓の跡片付けをしました。
 また、冬を越したはずのアラマンダ6鉢のうち、姫2鉢を残して4鉢は枯れてしまったのですが、それらの土を捨てて整理しておりました。すると!
 
 えっ、新葉が出ている!

   
    まぎれもない…

 よく見ると、ひと鉢の雑草の中に立っていた幹から、まさにアラマンダの新しい葉が出てきていました。
 未練がましく水をやり続けてきた甲斐がありました。さっそく植え替えました。
 生き返ったのがどの種類なのか、まだわかりません。オオバナだといいな、と期待しています。

 そうしているところに、音もなくニャが帰ってきて、足元に擦り寄ってきました。
 見ると、また頭に新しい傷が出来ている! またまた縄張りをめぐって出入りがあったらしい。
 しょうがないやつだ、とぶつくさ言いながら部屋に戻って、悪リノールで消毒し、人間用ドルマイシン軟膏を塗っておきました。

     
   反省してます。    ウ、ウソです!

 というような悲喜こもごもの朝でした。

 【悲喜こもごも】
 同じ人間に起こる悲喜に限る。「宝くじの高額賞金を受け取った帰りに、交通事故で大怪我」とか。
 別の人間に悲喜が起こったときは×。入学試験の合格発表の描写でよく見かける「いつもながらの悲喜こもごもの光景」は×


  


        
  左から、オオバナ(大花)アラマンダ、ビオラアラマンダ、ヒメ(姫)アラマンダ。姫をクリックすると別の拡大画像が出てくる不思議。


  
      
  去年、迷い込んできたころのニャ。ふてぶてしいところがない!

うーん!

2018年08月19日 22時56分28秒 | 日記
  Where Have All the young men & the young girls Gone!
       選曲ミスあり、訂正しました。すんません。

  Where Have All The Flowers Gone + Peter, Paul And Mary + Lyrics / HD
  

  Peter, Paul and Mary - Where Have All the Flowers Gone (25th Anniversary Concert)
  




 
  Peter Paul & Mary In Concert  間違ってこれをupしておりました。 
  

久しぶりにシカにやられた!

2018年08月19日 06時06分43秒 | ミニ菜園、植物いろい...
  春先以来の困った客来訪!
 ネットフェンスでディフェンス!

   
 春先にすべての野菜類をシカと猪野に提供し、その後の追い蒔きで細々とやってきたおらちのミニ菜園。

 今しがた、“寒さ”に震えながら上から見下ろしたら、ミニ菜園の様子が違っていました。おかしい、と見に行ったら、サヤエンドウや葉菜類などがまたまた全滅近くになっていて、シカのクソだけが残っていました。
 プロの野菜農家だったら、大変なことだよなあ、と嘆息しました。

 茎の先を中心に軒並み食べられたものの、なんとか残っていたのは、ピーマン、パプリカ=実のまだ青いやつ、トウガラシ=実の青いやつ、の計6本と別畝のキュウリ2本。まっこと、細々、こまごまじゃなくてほそぼそね、としたものになってしまいました。
 トウガラシの実の青いもの=青唐辛子、辛いだろうにこんなものまで食ってるんですから!

 で、おまいらにはすまんが、ネットで囲ってやる!つうことでちょっとばかし汗を流しました。



 このときに新たに導入した腕を覆うものを使いました。ほれ、腕自慢? 腕っぷし? 腕隠し? なんという名前だったか、忘れました。
 むかし、郵便局の窓口のおっさんなんかが使ってたアレね!
 いまふうの日焼け止め用とはちょっと違います。カインズホームで128円税込み。

 作業をしているとき、シャツの袖口のボタンふたつを留めていても、その隙間から入り込む蚊にいつのまにか食われていることがあるんですよ。そのディフェンスです。いろいろ防御せにゃならんので、ミニ菜園もなかなか大変なんだがね!

      

 そのほかの必需品として、これを使わんとな。髪のない頭を食われると、もうかゆくて!かゆくて!
 だが、しかし、ぶよは易々と入ってきてしまうのです。網目がやつらには大きいらしい…とほほ!

   


鬼蜘蛛記事転載・懲戒すべきは林道晴東京高裁長官で、岡口基一裁判官じゃないぜよ!

2018年08月18日 00時01分01秒 | 日記
  2018年08月17日付鬼蜘蛛ブログ掲載記事を転載します。

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 懲戒にすべきは岡口基一裁判官ではなく東京高裁長官

 東京高裁が「白ブリーフ裁判官」こと岡口基一裁判官に対し裁判官分限法にもとづく懲戒を申し立てたというニュースは7月にネットで報じられていた。例えば以下。

 東京高裁が”白ブリーフ裁判官”懲戒申し立て ツイッター凍結もFBで投稿連発 これは引用記事、こちらから

 ネットのニュースによると、懲戒理由は犬の所有権をめぐる民事訴訟に関してツイッターで「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?」などと投稿したことだという。元飼い主が抗議をしたとのこと。元飼い主の感情を傷つけたことが懲戒の理由のようだ。なお、この投稿は削除された。

 その後、モノシリンこと明石順平弁護士がこの件に関する見解をブログに書いている。

 岡口基一裁判官に対する懲戒自由について考察する これは引用記事、
こちらから

 どうやら裁判例を要約してツイッターに投稿したら、当事者が岡口裁判官の主張だと勘違いして抗議したということらしい。たしかに、この投稿は「裁判例の要約」なのか「裁判官の感想」なのかは分かりにくい。しかし、この程度の投稿で、しかも速やかに削除したのに、懲戒とは異様だ。

 ところで、昨日、この件に関して岡口裁判官自身がブログに東京高裁分限事件調査委員会に提出した陳述書をアップしたのだが、これを読んでびっくり仰天した。以下が陳述書。

 陳述書(東京高騰裁判所分限事件調査委員会宛) これは引用記事、
こちらから

 この陳述書によると、林道晴東京高裁長官と吉崎佳弥東京高裁事務局長が岡口氏を長官室に呼び出して、激しい口調で私生活上行っているツイッターを止めるように迫ったとのこと。また、ツイッターを止めなければ分限裁判にかけてクビにすると脅したという。これが事実なら、ご本人も指摘している通り表現の自由の侵害(憲法違反)であり、パワハラであり、脅迫だ。

 このパワハラや脅迫、ブラック企業の経営者の発言ではない。東京高等裁判所長官と事務局長の発言だ。こういう肩書の人たちが法律を無視してパワハラ行為を働いているなら、とんでもないことがこの国で行われるようになってきているということだ。そして、岡口裁判官に大きな圧力がかけられていると感じざるを得ない。司法の場でいったい何が起きているのだろう?

 今日になって岡口裁判官はブログにまた新しい記事をアップした。

 始まりは民進党? 
こちらから 

 まず、岡口裁判官のツイートを監視し、訴追の画策をしたのは民進党のようだ。そして最高裁当局と与党(自民党公明党)が協議をし、最高裁当局が責任を持って岡口裁判官を指導するので訴追にかけないことで話が整っていたらしい。ただし、最高裁当局は岡口裁判官のツイートをやめさせられなければ、訴追に代わって分限裁判の申し立てをせざるを得なかった、ということらしい。

 民進党は、ツイッターを止めさせるために不適切な投稿をしないかと監視していたということではないか。民進党、腐っている!!

 パワハラを働いた東京高裁長官こそ懲戒にすべきではないか!!

 マスコミ報道だけでは真実は全くわからないどころか、岡口裁判官が一方的に悪者にされている。このパワハラや民進党の暴挙を報じるマスコミはないのだろうか?
鬼蜘蛛ブログのオリジナル記事はこちら

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   道晴ちゃんのご挨拶はこちらへ。もう、こういう世代なんだなあ。クリック!


 今日のクンちゃん所感
 道は決して晴れておらんな。
 日暮れて、道は暗し!

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 しかし、裁判官つうのは厚く処遇されていると思うよ。
 出世しはぐれた裁判官だって、
 ふつうの会社勤めのおらたち人足と比べれば、
 天地の差なんだよ。

 この記事のコメント欄、松田さん投稿コメント内のアドレスをクリックしてみてちょうだい。


インパール作戦関連記事、万人向きではありません! スルー用意!

2018年08月17日 18時18分18秒 | 日記
 他の記事も万人向きとは言い難いかも知れませんがぁ、これは特にそうかも。
 先に、敗戦の日に関連してちょっと書きました「インパール作戦」についての(おらにとっては)興味深い記事です。

  インパール作戦を立案・指示した「陸軍最悪のコンビ」の深層心理
    8/17(金) 11:00配信 現代ビジネス

 不祥事の「責任」は誰にあるのか?
 昨年から今年にかけて、日本では組織内で何らかの不祥事が起きたとき、誰がどのように責任を取るのかという問題が注目を集めた。
 そのひとつが、いわゆる森友学園問題である。これは、学校法人森友学園が小学校新設に際し、不当に安い価格で国有地を手に入れたことに端を発する。政界を巻き込む大スキャンダルとなり、最終的に問題に関わっていた財務省側の局長クラスの幹部らが懲戒処分を受けた。

 もうひとつ、私たちの記憶に新しいのが、日本大学アメフト部悪質タックル問題である。今年5月6日に開かれたアメフトの試合で、日大選手が故意に相手選手にタックルし負傷させた。その後、日大選手にタックルするよう命じた監督とコーチからが責任を取って辞任した。

 しかし、どちらの問題も責任者の処罰だけで終わらせてよいのかという声が今でも根強い。
 組織の誰かが不祥事の責任を取って終幕を図るというやり方は、今に始まった話ではない。過去の事例をひとつあげる。

 筆者は、今年7月に『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)を上梓した。そのなかでは、主人公である陸軍軍人の牟田口廉也中将と、彼の上司にあたる河辺正三(まさかず)大将の関係に着目した。

 このふたりは、アジア太平洋戦争期の日本陸軍のなかでも、「最悪のコンビ」として一部で評されている。


 「最悪のコンビ」の誕生
 牟田口廉也は、1888年佐賀県に生まれた。陸軍大学を卒業すると、陸軍参謀本部に入り、その後、近衛歩兵連隊長、陸軍省軍務局員、参謀本部庶務課長などを務め、陸軍エリート将校として順調に出世の階段を登った。

 しかし、1936年に東京で陸軍若手将校の軍事クーデターである二・二六事件が起きると、牟田口は、クーデターの支持派とみなされ、陸軍中央から中国北京に駐屯していた前線部隊の連隊長に「左遷」された。

 その前線部隊で牟田口の上官となったのが河辺正三だった。
 河辺は、1886年富山県生まれ。牟田口の上官とはいえ、ふたりの年の差はわずか2歳であった。河辺は陸大卒業後、参謀本部や連隊長職を歴任し、牟田口と同じ1936年、支那駐屯軍北京旅団長に任じられた。

 牟田口は強気で勇猛果敢だったのに対し、河辺は大人しく学究肌と、対照的な性格だった。実戦経験のなかった牟田口は、河辺から連隊長としてのイロハを学び、河辺も慕ってくる牟田口に目をかけた。
 ふたりがコンビとなってからほどなくの1937年7月、北京近郊で盧溝橋事件が発生した。
 日中戦争の火蓋を切ったこの戦いで、牟田口は北京を留守にしていた河辺に代わって、事件処理の陣頭指揮をとった。しかし、事件の穏便な解決を望んでいた河辺に対し、牟田口は実力行使で臨み、事態を悪化させた。

 本来、上官であるなら、部下が意に沿わない行動をしたら叱責するなどして命令に従わせればよい。
 しかし、牟田口のもとに現れた河辺は、叱責することなく「一言も発さない、一言も発さないで口を結んで、「余計なことをした」と言わんばかりの表情」をしただけだった。それはなぜか。
 河辺は牟田口がすでに前線に発した命令を撤回することは、「如何に見解の相違とは謂え、高級指揮官として採るべき策ではなかった」と考えたからだった。

 これは、今まさに戦闘が繰り広げられている前線を混乱させたくないとする河辺の高度な判断であったといえる。しかし、結果的に戦火が拡大したことを考えると、日本軍の現地責任者として河辺の判断が正しかったかどうかは疑問符をつけざるを得ない。

 牟田口の「悔恨」が招いた無謀
 強硬姿勢を貫き独走する牟田口と、部下を抑えることなく放任した上官の河辺。このいびつな関係のふたりが、再びコンビとして相まみえた場面が、日本軍の稀代の「愚策」とされるインパール作戦だった。

 インパール作戦とは、アジア太平洋戦争後期の1944年3月、ミャンマー(当時はビルマ)にまで支配を広げていた日本軍が、隣国インドの北東部にある都市インパールを攻略するために始めた戦いをいう。このとき、河辺は現地日本軍トップのビルマ方面軍司令官、牟田口がその直属の第十五軍司令官を務めた。

 ミャンマーとインドの国境は、切り立った山々の連なる密林地帯で、そのなかを進軍することは容易でなかった。それにもかかわらず、なぜ日本軍はインパールを攻めようとしたのか。
 その理由のひとつが、インドから中国へつながる援蔣ルートを遮断することだった。
 援蔣ルートとは、日本と戦いを続ける中国国民政府(蔣介石政権)への米英からの物資支援のことをいう。日本軍は日中戦争が長期化した原因に援蔣ルートの存在が大きいとみなし、複数あったルートを次々と遮断していった。
 しかし、米英はインドから飛行機でヒマラヤ山脈を越えて中国昆明まで空輸するルートを新たに開き、中国への支援を続けた。日本軍はインパールを支配下に入れることで、インドからの援蔣ルートを完全に抑え込もうとした。

 また、インパールを攻略するもうひとつの理由として、いわゆる対印施策(印はインドのこと)の実現があった。対印施策とは、インド独立派のスバス・チャンドラ・ボースらを支援して、インドをイギリスの植民地から「解放」させる方策をいう。これは当時日本政府首相を兼務していた東条英機陸相の肝いりで進められた。
 あるとき、ビルマ方面軍高級参謀の片倉衷(ただし)大佐は、対印施策について河辺から次のように告げられた。
 「自分が着任前、東条首相と会談したが、その節、ビルマ政策は首相として対インド政策の一環として関心があり、また大東亜戦全局の戦局指導上、ビルマ方面に期待すとの話合があり、私、河辺も対印施策に関心がある」
 東条の意を受けた河辺は、ビルマ方面軍司令官として対印施策の実現を目指した。そして、東条と河辺は、インパール作戦は対印施策のきっかけをつかむものとして期待した。

 もともと、インド方面への進攻は、「二十一号作戦」という名で計画された。この作戦について、はじめ意見を問われた牟田口は、作戦の実行が困難であるとして消極的な考えを示した。
 しかし、これまで強気な態度を見せ続けた牟田口は、このとき自分が初めて弱気な一面を表してしまったことを悔やみ、何としてでも作戦を実現させようと心に誓った。そして、意地でもインドに攻め込むという牟田口の執念が、無謀なインパール作戦の計画が立てられる発端となった。
 河辺は唯一、作戦を支持した
 作戦は雨季に入る前の春先一ヶ月間とされた。しかし、上述のとおり、インパールまでの道のりは険しく、正攻法で挑んでも作戦を達成することが難しかった。

 そこで、牟田口は行軍を少しでも早めるため、作戦に参加する将兵に持たせる食料や装備をできるだけ少なくした。そして、作戦中に将兵の食料が足りなくなったら、道端に生える野草を食べるか、作戦部隊が引き連れてきた羊や牛などの家畜を殺して食べるよう命じた。

 この計画を、牟田口はかつてモンゴル帝国を築いたチンギス・ハーンが家畜を率いて戦いに出た故事から「ジンギスカン作戦」と名づけて自賛した。
 この荒唐無稽な作戦計画は、当然ながら軍司令部の誰もが反対した。しかし、そのなかで、唯一、牟田口の計画を支持したのが河辺だった。河辺の存在は、インパール作戦の実現に邁進する牟田口の心の支えとなった。

 1944年3月、日本軍は兵力約9万人を擁してインパール作戦を発動した。しかし、多くの軍司令部幕僚の不安は的中し、インパール作戦は日本軍に3万人あまりの戦死者を出して失敗に終わった。食料を失った日本軍将兵は、撤退途中で次々と倒れ、命を落とした。屍が並んだ道は別名「白骨街道」と呼ばれた。

 牟田口は、インパール作戦の責任を取って、第十五軍司令官の職を解かれた後、陸軍を退官し、召集先の陸軍予科士官学校で敗戦を迎えた。

 あなたも「牟田口」にされるかもしれない
 戦後、牟田口はインパール作戦を実行した敗戦の将として、世間から猛烈に批判され、「愚将」という不名誉なレッテルを貼られたままこの世を去った。

 インパール作戦は、牟田口が勝手に始めたのでなく、上官の河辺、さらには東条首相の支持がなければ実現できなかった。よって、本来であれば、インパール作戦の敗北の批判は、牟田口だけでなく、河辺らにも向けられなければならなかったはずだった。

 しかし、河辺はインパール作戦後、ビルマ方面軍司令官の職を退くが、特に作戦の責任を問われることなく、終戦前に陸軍大将にまで進んだ。そして、河辺は世間から「愚将」と罵られた牟田口とは対照的に、戦後静かな余生を送った。

 河辺にとって、牟田口はインパール作戦の批判を一身に受けたスケープゴートだった。

 昨今、様々な不祥事が起き、誰かひとりが批判の矢面に立つと、加熱する報道やSNSでの書き込みも手伝って、国民総出でそのひとりを徹底的に追いつめる風潮がある。みんなが集まりよってたかって敵を叩く習性は、よそ者に厳しい日本人独特の「島国根性」の表れなのかもしれない。

 しかし、敵を批判することに熱中するあまり、私たちはその不祥事がなぜ起きたのかという問題全体を見通す視野を失っていないだろうか。しかし、実はその「敵」はスケープゴートに過ぎず、「敵」の裏に潜んでいるのが、本当の批判の対象かもしれない。

 愚かな判断の裏には、それを黙認し、かつ支持しながら、いざ失敗が明るみになると、「自分は関係ない」と姿を隠す人間が必ずいる。

 いま、あなたは気づかないうちに「牟田口」になっているかもしれない。もしそうなら、あなたの後ろには「河辺」がいる。
                                                          広中 一成
      オリジナル記事はこちら


蛇口パイプに小さな穴が! で、応急に廃棄寸前パイプと交換

2018年08月17日 09時41分28秒 | ちょっとした“お仕事”
 大阪府警は、頭を下げて尾畠(おばた)春夫さん(78歳、大分県日出(ひじ)町)に頼むしかねーんじゃねーか?!
 20分でみっけてくれるかもよ。富田林から逃げ出して、行方をくらませているやつね。


   **************************


 なんでこんなとこに穴が…
 戦力外から抜擢起用したぞ!


 しばらく前に台所の水道栓のパイプに、小さな小さな穴が開き、ミニミニ噴水を生じてしまいました。
 接合部でもないプレーンなところで、なんでこんなところに? という場所です。
 で、クンちゃん人得意の弥縫策で、水道用テープで巻いておきました。

   
    レバーの下あたりのプレーンな場所。テープで巻いておいた。

 ところが、程度は軽いが、どうしても水滴がポタポタと滴り落ちて都合が悪いのです。
 そこで応急に何かないかと縁の下を見に行くと、廃棄物ストックの中に水道管接続の蛇口パイプがありました。
 とりあえず、こいつで代用しとこう、ということを思いついて、さっそく交換作業開始。

   

   
    水道用レンチ(画像左)を使って、傷んだ現在使用のパイプ(右)をはずし、中央の廃棄予定のパイプもはずしたのであります。

 そうして、なんせそのまま飲むこともあるものなんで、交換パイプに苦心して布切れを通してよく洗い、最後は熱湯をかけて消毒?しました。

   

 交換パイプを取り付けると、これがぴったしかんかん。やや短いが、その場しのぎには十分です。
 で、口の形状が違っていて使えず、これまたお蔵入りになっていたフィルターを取り付け、作業は完了したのであります。

   

   


    
    これは記事とは関係がありません。蛇口がどうのこうの、という類似点で!

埼玉の鳩の雛、巣立つ! 伊豆の猫も巣立て!

2018年08月16日 00時01分31秒 | 生き物
 鳩の雛、巣立つ!

 先だって報告いたしました埼玉の自宅マンションベランダの鳩の巣。
 2度の台風直撃に耐え、一昨14日夕刻までに、いずこへともなく母子で巣立っていったとの知らせが参りました。

 遅ればせながら、「2度と来るんじゃないぞ!」と遥かな北の空へ呼びかけました。
   鳩の雛の記事はこちら

 一方、うちのニャは、毎度毎度、とんでもない夜更けにムクッと起き出しては、「外へ出せ、出せ」とうるさくせっついてくるので、出します。
 その際、「貴様! いま出て行くなら、2度と帰ってくるなよ」と、よくよく言い聞かせるのですが、その場しのぎに「うん、うん」頷いているだけで、やっぱり帰ってきてしまうのです。そうして、今度は「入れろ、入れろ」です。

 羽が生えて、どこかへ飛び去ってくれないかと念じております。

    



山口の2歳の雛の無事! スーパー親父の快挙に拍手!
   この78歳の親父さん、すごかった! 敬服!

しかし…。
 160人態勢の捜索って…、ナニやってんだ、とどうしても言われちゃうよな。

 それと、沢の水場にいたというのですが…。
 この夏場に2歳の子が3日もひとりでいた状態とは思えない子どもの様子なんですが、これも追い追いわかるのでしょうか。

今頃、旧悪が…。てめえのタマでやると良かったにぃ!

2018年08月15日 11時44分45秒 | 日記
 きょう73回目の敗戦の日

 また、ことしも敗戦の日が巡って来ました。
 完膚なきまでの敗戦なのに、終戦と言い繕ったわが祖国・日本の指導者たち。
 昔も今も変わらんにぃ。

 毎年、今頃になると新聞、雑誌、映像関係、いろんなメディアに、先の戦争に関連する事柄があらわれます。
 いっときは、「なんでえ、この時期だけ」という反感が無きにしもあらずだったのですが、今はせめてこの時期だけでも平和を考える材料として有用、と考えています。

 きのうの昼間の2時、NHK①テレビを消して立ちあがろうとしたら、「インパール」のタイトルがすっと出てきたので、座り直して50分間のリポートを見ました。ここは、是非行ってみたい場所です。
 敗色濃厚になった太平洋戦争末期、旧日本軍の作戦でも最も愚かな作戦と評される「インパール作戦」が敢行され、すさまじい負け戦となりました。敗退する道筋は“白骨街道”と称されるほど、日本兵の遺体や遺骨が散乱していたと歴史書に書かれています。
 いまはミャンマーと言いますが、当時のビルマからチンドウィン川という日本兵が見たこともない大きな河を渡り、インドの北東部辺境の要衝インパールに攻め込もうというのです。食料はおおむね現地調達という無謀な作戦内容で、最終的にはニューデリーに至る、とされていましたが、インパールにさえ一兵も到達することは出来なかったのです。
 
 攻勢であったころの日本軍に降伏し捕虜となった英軍内のインド兵を中心として結成された「印度国民軍」も、このときは日本軍側で作戦に従いましたが、結局さんざんな目に遭ったのは言うまでもありません。

 おらは、インドの英国からの独立運動の大立者のひとり、ラス・ビハリ・ボース(この人は新宿中村屋の相馬夫妻に匿われ、やがてその娘と一緒になって日本に帰化し、「中村屋のボース」と呼ばれました。日本敗戦前に病死。中村屋の“印度カリー”の発祥)の日本における“手足”として働いた人と知り合ったことから、インパールには強い関心を持っていましたので、このNHKリポートで現地の様子を知ることが出来たのはうれしかったです。ラス・ビハリは、もうひとりの著名なボース=チャンドラ・ボースとは別人です。

 それはそうと、テレビを見終わってパソコンを立ち上げると、戦時中の北海道大学で、生きていた中国人捕虜の臓器を切り取って医学的な実験をやっていたという報道がなされていて、戦時下の狂気の一端を見せつけられる思いがしました。
 結局、勝ったほうも負けたほうも相当の悪どいことを平気でやっていたということです!
 米国の原爆投下も、日本軍の中国人殺戮も、日本敗戦間際の旧ソ連の暴虐も、その部分だけ取り出して云々することは容易ですが、それはたくさんの目の見えない方々がみんなで巨象の或る部分だけを撫で回して、象とはこういうものと言っているに過ぎない、という感じが致します。

 先だって、古い時代には差別するという意識がなくとも、今で言う差別的言辞を用いていたきらいがある、という記事を書きました。ローラ・インガルスの記事はこちら

 誰しも“時代の子”たるを免れるのはなかなか困難ですが、、今度の北大・医学実験は、いずれの時代においても、いずれの国においても許されてはならないことだと思います。
 記事の中で、おらが震撼したのは、この北大教授は自らの行為を恥ずかしくもなんとも感じずに発表し、「どのみち匪賊は殺してしまふのだから」と自己合理化していたということです。
 立派な医学者として人生を終わったという認識でいたはずの遺族関係者は、どのようにきょう敗戦の日を過ごされることでしょうか。
       
北大教授、戦時下に人体実験 中国人から摘出の睾丸で 8/14(火) 6:03配信  オリジナル記事はこちら
「どの時代であれ許されない」
 北海道帝国大(現北大)理学部の男性教授(故人)が1930年代、旧満州(現中国東北地方)で旧日本軍が捕らえた中国人から摘出した睾丸(こうがん)を使い、染色体を観察する実験を行ったことが、北大図書館の保管資料などで分かった。男性教授は日中戦争開戦直前の37年6月、実験結果を基に論文を米国の科学誌に寄稿しており、専門家は「被験者の承諾がなく、どの時代であれ許されない人体実験だった」と指摘する。

 戦時下の大学の研究者による人体実験を巡っては、九州帝国大医学部で45年、米軍捕虜を生きたまま解剖し、殺害したことが分かっている。道内の大学研究者による人体実験は、ほとんど知られていなかった。

自宅は「旧小熊邸」として知られる 男性教授は小熊捍(おぐま・まもる)氏(1885~1971年)。生物学や遺伝学が専門で、30年に北大理学部教授に就任。37年から6年間は理学部長を務めた。

 資料は小熊氏が39年に行った講演の速記録「人類の染色体」。旧厚生省発行の「民族衛生資料」に収録された。当時、染色体は遺伝を担う存在として注目されていたが、まだ人間の染色体の本数も分かっておらず、盛んに研究された。

 小熊氏は講演で、遺体や病人から摘出した睾丸は染色体の観察に向かず、若く健康で生存している男性の睾丸が適していると指摘。「匪賊(ひぞく)(抗日武装勢力)を材料にしたらどうだろうか、どのみち匪賊は殺してしまふのだから」と述べた。

 満州・奉天(現瀋陽)に渡り、軍に協力を依頼したところ「非常に良い材料を手に入れる事が出来たのであります。捕へた匪賊の一人です」と説明。得た試料によって染色体を明瞭に観察できたとして「匪賊を一人犠牲に供しました事は決して無意義ではありません」と語った。

 北大は北海道新聞の取材に対し「研究を承知しておらず、回答を差し控える」とした。

 小熊氏の札幌時代の自宅は旧小熊邸として知られる。北大退官後は国立遺伝学研究所(静岡)の初代所長を務め、国内の遺伝学の第一人者だった。
 旧小熊邸の画像はこちら


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