今年は、専修念仏を切り開き、発展普及した法然800回忌、親鸞750回忌の年である。
テレビ「歴史秘話ヒストリア」を見ていて、法然の専修念仏の「種本」が分かった。
43歳まで、色々と悩み、過去の仏典も探っていて、ある日、はっと目がいったのであろう。それは中国・唐代の僧・善導の『観無量寿経疏』である。その部分の和訳(テレビによる)は以下の如し。
「一心にもっぱら 阿弥陀仏の名号を念ぜよ 歩いていても座っていても 横になっていても構わない 時間や場所に関係なく 念仏をやめないこと これは阿弥陀仏自身が選んだ 必ず極楽浄土にいくことができる行いなのである。」(ビデオの一時停止機能を何回か使って筆写)
うーん、種本があったのか。だが、それでも「ピーン」ときて、それを押し出す戦略が一瞬のうちに分かったことだろう。「こころ そこにあれば 一事より万事へ」であろう。
法然と親鸞は40歳歳が離れていたが、享年が80歳と90歳なので遠忌が800年と750年と50年の差となり今年となる。親鸞は、非僧非俗を追求、肉食妻帯もして「念仏を唱えずとも念ずるだけで良い」とした。これも鎌倉新仏教の一つのありかただった。
テレビ「歴史秘話ヒストリア」を見ていて、法然の専修念仏の「種本」が分かった。
43歳まで、色々と悩み、過去の仏典も探っていて、ある日、はっと目がいったのであろう。それは中国・唐代の僧・善導の『観無量寿経疏』である。その部分の和訳(テレビによる)は以下の如し。
「一心にもっぱら 阿弥陀仏の名号を念ぜよ 歩いていても座っていても 横になっていても構わない 時間や場所に関係なく 念仏をやめないこと これは阿弥陀仏自身が選んだ 必ず極楽浄土にいくことができる行いなのである。」(ビデオの一時停止機能を何回か使って筆写)
うーん、種本があったのか。だが、それでも「ピーン」ときて、それを押し出す戦略が一瞬のうちに分かったことだろう。「こころ そこにあれば 一事より万事へ」であろう。
法然と親鸞は40歳歳が離れていたが、享年が80歳と90歳なので遠忌が800年と750年と50年の差となり今年となる。親鸞は、非僧非俗を追求、肉食妻帯もして「念仏を唱えずとも念ずるだけで良い」とした。これも鎌倉新仏教の一つのありかただった。