西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

参議院選挙、良く考えてみよう

2010-06-30 | 時論、雑感
今度、7月11日(日)に参議院選挙がある。鳩山前首相が、政権を投げ出したのは、一つには、沖縄の普天間基地撤去問題での「挫折」、もう一つは、自らも問題となった「政治と金の問題」での説明不能問題である。

その上、菅新首相は、財政再建のため?消費税10パーセントあげる方向(自民党の案を参考と言う)を打ち出した。普天間問題も、辺野古移設の「日米合意」により解決(沖縄の負担を減らすとも言うが・・・)という菅さん自身が野党の時に言っていたこととは正反対の方向(自公政権時の方向)を平然と言っている。鉄面皮の人間といわざるを得ない。

自公旧政権も駄目、民主党・菅政権も駄目とすれば、どうしたら良いのか。答えははきりしていると思う。

病跡学(びょうせきがく)とは?

2010-06-29 | 食物栄養・健康・医療・農業・教育
昨日、ラジオ深夜便で「病跡学(びょうせきがく)」という言葉を初めて聞いた。

〔ないとエッセー〕病いをのりこえ 生きること(1)筑波大学教授・精神科医 高橋正雄さんによる。『広辞苑』によると、病跡学:「個人の生涯を疾病、特に精神病理学的な観点から研究分析し、その活動における疾病の意義を明らかにしようとする学問。芸術家・文学者・学者・政治家など傑出した人物を対象とすることが多い。パトグラフィ。」とある。

高橋さんは、ある時、医者ではなく患者として入院生活をしてみて、病気に対するイメージがガラッと変わったという。暇にまかせて夏目漱石の『門』を読んでみて、以前読んだ『こころ』とほぼ同じ筋立てで、精神的に悩む人間像を描いていることに気づいたという。(まあ『我輩は猫である』とか『坊ちゃん』と違う傾向?!)

そういう病的人間像を主題とした作品は、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫など色々あることがわかった、とのこと。それで、良く考えてみると、人間と言うのは「病気持ち」が普通、普遍的傾向で、それを抱えて、どう生き切るかが常態ではないか、とのことだ。まあ、良く「一病息災」というが、そうなのかなーとも思う。だが、無理に病気になることもなかろう。続きは、明日の「ラジオ深夜便」で、今日はサッカーの実況だ。

(そう言えば、昔、ドイツの文豪ゲーテは、躁うつ的傾向で、うつ状態を克服しようと『イタリア紀行』を敢行した、と聞いたことがある。ドイツに戻って更に名作を生み出したという。)

安藤直人教授(東大)の実践と疑問ー液体ガラスについてー

2010-06-28 | 住まい・建築と庭
昨日、民放の番組で「木材学」の安藤直人教授(東大、59歳)が、シロアリ対策決定版として「液体ガラス」を表面に塗る、という方法を紹介していた。

常温で液体を保つガラスを「開発」、特別の酵素により常温で固まらず、塗った後で(時間が経つと)、酵素の作用が止んで固まるようだ。

つまり木材表面が薄いガラスで覆われることになる。シロアリはそれを食い破れないようで、実験は成功したようだ。一応尤もなのだが、うーん、これだと木材が空気に触れて「呼吸する」ということまで抑えられてしまうのではないか。

そこで、木材が空気や湿気を出し入れできる「呼吸」をしつつ、なおかつシロアリに食われないためには、ガラス膜にシロアリが侵入できない位の小さな無数の「穴」をあける技術が次に必要になるのではなかろうか。もう出来ているのかな。

谷川俊太郎さんの百年インタビュー

2010-06-27 | 言語・字・言語遊戯
昨日の朝、Bshiで「百年インタビュー:詩人・谷川俊太郎」を聞いた。1時間半のロング・インタビューだ。聞き手は、石澤アナウンサーだ。

谷川俊太郎さんは、谷川徹三さん(哲学者、享年94歳)を父として現在78歳(私より10歳年上)、「まあ長命は遺伝では・・・」と言っている。一人息子として、母親の愛情たっぷりで何不自由なくそだったので、詩も石川啄木のように世に対する「うらみ、つらみ」に傾くことなく「面白み」を中心に置いているようだ。

3回結婚し、3回離婚している。離婚の方がエネルギーが要るようだ。そりゃそうだろうな。息子や娘がいる。今や彼らと仕事の上でのコラボレーションもしている。詩は文字で黙って読むだけでなく、声に出して読まれれれば聴覚に訴える。(まあ、ギリシャや西洋の詩は読まれるためにあるのではないか。)何度か朗読された。音楽にもすることが出来る。

谷川さんは、私的体験と詩的表現は峻別すべし、と思っていたが、プレベールの巨大なる私的体験の世界を知るに及んで、思いなおして『私』という詩集を編んでいる。(読んでみよう)

谷川さんは、自分の言語体験は僅かでも「日本語世界」全体を考えると無限の豊かさがある、と言っている。そうだろうな、と思う。擬態語、擬音語の重要性も指摘している。井上ひさしさんと共通の問題意識だな、と思った。

じっくり噛みしめたい。私の『忘れられた風景と暮らし』(仮)にしても、出来るだけ公的に客観的に描くことと私的体験を主観的に描くことは並存させたい、と思っている。

『昭和のくらし博物館』(小泉和子著)を見る

2010-06-24 | 金沢の思い出
最近、私の金沢時代(生まれてから高校卒業まで1941年~1960年3月まで)の「まち、すまい、くらし」を「失われた風景と暮らし」として描いてみたいと思っている。

過去にざっと書いた「草稿」らしきものもある。しかし、読んでみて今一つ面白くない。

で、『昭和のくらし博物館』(小泉和子著)を手に取ってみた。2000年に河出書房新社が刊行した。そういえば、この出版社は昔『昭和○○年生まれ』といった本も出しており私は自分が生まれた『昭和16年生まれ』を持っている。

とにかく小泉和子さんの本は、ビジュアルで分かりやすい。「ああ、そうだったな」と一々頷きながら見ていける。小泉さんのお父さんが建てられた自宅そのものを博物館とし、生活用品を現物で集めて展示しているのは「強い」、一度行ってみたい。

そう言えば、昔、東京の行政が運営する博物館(中央線で大分郊外だった記憶!)で、銭湯を復元している所に行った記憶がある。あれは、何処だったのだろう。

とにかく私は、昭和の戦前3、4年、戦後15年の金沢での暮らしと風景を描くので、少し時期と場所ー地域ーがずれている。

あと参考にすべきなのは、もちろん西山卯三先生の『住み方の記』『大正の中学生』を初め昭和の個人史である。色川大吉さんの『ある昭和史ー自分史の試みー』もある。

住まい、町、学校などを自分の舞台として、子ども心に悩み成長し楽しかったが今や「残念」と思っていることを率直に出来るだけ面白く語っていきたい。

書評:『子どもが育つ生活空間をつくる』(小伊藤亜希子、室崎生子編)(かもがわ出版刊、2009年8月)

2010-06-22 | 生活描写と読書・観劇等の文化
 私の昔からの知り合いで、本書の編者の一人である室崎生子さん(元平安女学院大学・教授)から半年ほど前にこの本を頂いた。で、読んでブログで書評を書くことを約束したのだが、中々読めずに今日に至っている。今日は、その責めの一端を果たしたい。

 こういう共著本の書評は、一般に単著より少し難しい。単著であれば、全体がその著者の構想で首尾一貫しているのが普通であるし、短編の集まったものでも著者の考え方で配列されている。だから仮に全体を読んで、全体の印象を述べると共に、その一部分を強調して批評を試みても特に問題はないだろう。ところが、この本のように12人もの著者の共著となると、しかも編者が二人もいるとなると、何処にターゲットを絞るか極めて難しくなる。全体の意図を読み取って批評し、なおかつ個々の著者に過不足なく批評を加えるのは至難の技である。だから、今回は全体のザクッとした紹介と、特に全体をみて将来に向け気付いたことの一部をここでは述べておきたい。

 この本は、子どもの育つ生活空間として、大きく家(住まい)、学校(主に小学校、保育所等も含む)、地域の三つをあげているが、実際に主に調べ論じているのは、全体を視野に置きつつ「地域」での子どもの育つ生活空間であり、より充実させていく方向性も論じている。全体が三部に分かれている。

第一部は、「豊かな生活を保障する保育・子育て支援」で、「保育所に通う子どもたちの家庭生活」「学童保育所に通う子どもたちの家庭生活」と、ここでは、「学校」と「家庭」の二者の共充実を視野に論じられている。共働きの場合は当然として、専業主婦の場合も、核家族でしかも少子化の条件では、家庭だけでの子育ては不安で不安定であるのは当然で、「保育所」や「学童保育所」の役割が子どもだけでなく親にも重要となる、と論じている。また、「地域」での「ファミリーサポート・センター」事業の可能性と課題も取り上げている。ここで、ふと「職場人間」から「地域人間」になった私など「シルバー」の役割はどうなのだろうと、思った。

第二部は、「共同の子育て環境を創造する試み」で、「子育てひろば」「「育ちあい」の場としてのプレイセンター『ピカソ』」「スウェーデンのオープンプレスクール」「デンマークのデイケアマザー」といった「地域」での先進事例の紹介である。こういう場合、日本の各地で適用・応用しようとしたら何処にとっかかりを見出すのかの示唆も得たいと思った。

第三部は、「地域の空間を子どもたちの居場所に」で「千里の団地・ニュータウン」「京都の伝統的小学校区」「沖縄のプレイパーク」「沖縄のコミュニティ・サロン」の事例報告、「子どもにとって恐そうな場所と実際に恐い場所」の調査報告、最後に「子どもが遊びまわれる地域環境」の条件抽出を調査に基づき行っている。

 全体を見て、捉えかたとしていいなーと思ったのは、「子どもの発達は、即大人の発達だ」ということ、大人が子どもを保護するような姿勢ではなく共に相互に影響し発達するパートナーと捉えていること、しかし、これは十分に読者に届いただろうか、と書き方の工夫を思った。又、書き方についての若干の注文は「生活空間をつくる」のが目的なら、もう少し生活空間の写真、図面、図表に工夫しても良いのではないか、それらが大いに理解を助け深めると思う。「生活空間」として今回の「地域」中心から「家庭(住まい)」や「学校(小学校中心)」そのものにも視野を広げ、将来「子どもの地域生活空間論」に成長されんことを期待する。更に、現政府の子育て方針をあちこちで批判しているが、どこかでまとめて批判的に検討する部分もあっても良かったかもしれない。まあ現在「子育て手当」その他も問題になっているのだから。最後に、研究者、院生、学生向き注文かもしれないが、調査手法についての発達にも留意してほしいということを言いたい。特に小さい子ども(小学生でも低学年)に対しては、直接的アンケート調査や聞き取り調査はほぼ無理なのだから、子どもの目線にたった行動体験調査や観察調査の手法の発達が望まれるのだが、その工夫の一端でも紹介するコーナーがあったら良かったと思う。(2010年6月22日)

昭和29年(1954年)版の金沢地図より他

2010-06-21 | 金沢の思い出
昨日、大阪で金大附属高校の同窓会・関西支部会があった。講演は同期(11期1960年卒)の米原 潔君、大阪の川西市で行っている「里山保全運動」のボランティア報告で興味深かった。

彼の入っているサークルではクヌギで茶席で重宝される「菊炭」造りや、染井吉野以外の「日本櫻」の保存活動も興味ある話だった。

その後、飲食懇親会だったが、そこで私は持っていった昭和29年(1954年)発行の金沢地図の復刻版を同期生に見せた。我々が小学校6年生~中学1年生の時代である。金沢以外の出身者もいたが半分ほどは金沢出身で、自分達の住んでいた場所辺りを見て懐かしんでいた。

浅野川沿いにあって高校の時には、定期試験の後、必ずと言ってよいほど行った洋画専門の映画館「北国第一劇場」のことも思い出していた。今は対岸の卯辰山を見上げ手前の浅野川を見下ろすマンション群になっている。

地図には、北陸鉄道の市街電車路線も書き入れてある。これは昭和40年代に廃止されて今はない。当時は6路線あった。
1系統・・・金沢駅―武蔵が辻―橋場町―兼六園下―小立野
2系統・・・金沢駅―武蔵が辻―香林坊―野町広小路―寺町
3系統・・・小立野―兼六園下―香林坊―野町広小路―野町駅
4系統・・・野町駅―野町広小路―武蔵が辻―橋場町―鳴和
5系統・・・寺町―香林坊―兼六園下―橋場町―鳴和―東金沢駅
6系統・・・兼六園下―香林坊―武蔵が辻―金沢駅

私は寺町台の櫻畠に住んでいたので、主に2系統5系統を使った。「乗り換え」を上手く使うのが一つの「技」だった。例えば、普通は5系統に乗って、橋場町と鳴和の中間の小阪神社前で降りて卯辰山専光寺墓地に行く時、少し時間に余裕があり香林坊の北国書林で本を見たい場合、5系統に乗らずに2系統で香林坊まで行って、小阪神社前までの「乗り換え券」を車掌に貰って降りて、直ぐに乗り換えず北国書林で本を見てから悠々と5系統に乗り換えれば、切符一枚で二箇所の用事が出来たのだ。懐かしい「技」だ。


加賀前田藩足軽組地の所在

2010-06-20 | 金沢の思い出
私が子ども時代住んでいた金沢の犀川左岸・寺町台にあった町・櫻畠(さくらばたけ)は、江戸時代には足軽組地であったと言った。

で、田中喜男著『城下町金沢ー封建制下の都市計画と町人社会ー』(日本書院刊、1966年)を調べてみた。櫻畠(一番丁から十番丁)におかれた足軽組を抜き出してみよう。

櫻畠・・・御先手組(弓)、甲斐守組(筒)、割場弓組(これが金沢内一番広範に分布)、御鉄砲蔵付
櫻畠四番丁・・・監物組
櫻畠山手水組・・・又兵衛組
櫻畠山手玄光院後・・・又兵衛組
櫻畠山手・・・割場、割場弓組
櫻畠山手妙法院後・・・割場弓組
櫻畠山手玉泉院後・・・割場弓組
櫻畠川手八番丁・・・割場弓組
櫻畠川手・・・割場弓組
櫻畠川手玄光院前・・・割場弓組

番丁で分かるのは、四番丁、川手八番丁である。
当時、櫻畠は、川手と山手に分かれていたことが推測できる。恐らく、「裏道」から犀川側の地、それらの敷地から犀川を見下ろせた場所が川手、それ以外が山手であろう。
後は、・・院という寺院の前後の敷地であろう。一度、調べてみたい。

足軽屋敷の大きさについては、『足軽通考録』には、足軽小頭・・・間口七間に奥行十間、平足軽・・・間口五間に奥行十間、小者小頭・・・間口四間弱奥行八間ほど、となっている。私の家は、間口八間奥行十間(借家もいれ二軒分)だった。平足軽の敷地よりかなり広く、足軽小頭の敷地より僅かに広い。

各番丁は、「寺町通り」から大略は東に入るので(山手)、両側の敷地は大略は南入りと北入りとなる。大体は、北入りに、より広い敷地があったと言えよう。

少しずつ故郷の近所の「昔」の様子が分かってくる感じがする。こういうのを調べていくと、「櫻畠」という伝統的町名は復活すべきと思うのである。

科学者会議奈良支部の会に出る

2010-06-19 | 文化論、科学・技術論
自然科学、社会科学、人文科学を国民本位に総合的に発展させようという「日本科学者会議奈良支部」の会に久し振りに出た。

大学を辞めてから少し経つが、最近の機関誌『日本の科学者』を読むと、国立大学法人の様子なども批判的に紹介していて「そうなんだ」と思ったりする。

学長を決める方法は、国立大学の時には「有権者」(これには各大学で広い狭いがある)の何段階かの投票によっていた。

ところが6年前の「法人化」から学長選考会議(外部からの理事等を加える)で決めることになってきたようだ。それも、前段で学内各層の投票を全くやらないところ(東北大学等)、投票の結果をほぼ反映するところ(東大、京大、阪大、名大など)、投票の結果を「参考にする」ところ(多くの大学)の三つの部類に分かれるようだ。

この真ん中の大学は、まずまず民主的と言えるだろう。最も民主的なのは名大のようで、教員だけでなく職員、学生等にまで投票権があるようだ。

この中で「参考にする」中で、結果として「全く考慮しない」のと同じことになった大学も幾つか出てきたようだ。参考投票で60パーセント獲得した候補者が落選し、20パーセントで学長に選ばれた大学もあったようで、訴訟も起こっているようだ。


で、昨日の「奈良支部」の会は総会で、前段で講演があった。3月に奈良女子大学を定年退職された磯田則夫先生(同名誉教授)の「温熱環境の話」だった。長年の研究のエッセンスだった。私の家のOMソーラーハウスも調査対象の一つになっている。

結局、暑くなる時は、我慢できるところまで我慢し、自然風、扇風機で過ごし、どうしても35℃を越えるくらいで「ピークカット」のためクーラーを少し入れる。寒くなるときも同じ、少しの寒さは被服でしのぐ。暖房は床暖房が良いとのことだ。夏は暑く冬は寒いのが自然で、「年中一定の温度・湿度が良い」等というのはおかしいとのことだ。当然だろうな、と思う。

終わって、近くのレストランで飲食しつつ懇親会、磯田先生を含め8人の参加、専攻も色々違うので「学際的お喋り」が楽しい。今度、定年で民間企業(家電メーカー)の研究部門を辞められた方も「さあ、やりたいことが出来るぞ」と張り切っておられた。私は最近の「世界史」のお勉強の話をした。アンコールワットの保存に関与しておられる上野邦一さんがアンコールワットに行き来しておられる期間に、皆で行こうじゃないか、という楽しげな話もあった。

室生犀星の「小説」などより

2010-06-18 | 金沢の思い出
郷土の文学者・室生犀星は、明治22年(1889年)の生まれなので、私の祖父・西村由森(よしもり)の生年・明治24年(1891年)より2年早いがほぼ同年代だ。

私が生まれ育ったのは、その祖父の家で寺町台の旧櫻畠で、江戸時代には足軽屋敷街だった、と前に書いたこともある。

で、室生犀星は、同じ犀川・左岸で、犀川大橋より少し下流の裏千日町で生まれ育った。実父は、江戸時代、加賀前田藩の足軽組頭で剣術指南だった。明治以降、剣術教室を開いて生活していた。ところが妻に先立たれ、子どもも「独立」したり「嫁入り」したりで、家政が上手く維持できず、雇った女中(30歳代,農民出)とねんごろとなり、生まれたのが照道(犀星)で、実父は「士族」として、そのまま育てるのは都合悪く、近くの「雨宝院」(寺院、現在も犀川大橋・左岸・下るにある)に養子に出されたのであった。

これらの様子を犀星は、最初の小説『幼年時代』や後の「自伝的小説」に書いている。

これらによると、裏千日町の1番地が犀星の生地であり、裏が犀川に面していた。その番地は、北陸本線の鉄橋辺りまで150番地くらいまで続いており、向かい側に続いて折り返し、犀星の生地の向かいの敷地番地が300番地だった、と言っている。

とすると、裏千日町も櫻畠と同じく足軽屋敷地だったのだろうか。1番地に「足軽組頭」(犀星の実父家族)が住んでいて、300人位を従えていたのであろうか。

まあ、犀川左岸には、寺(真宗以外)が集められ、足軽屋敷も近くに配して、いざという時に犀川を背に「背水の陣」の防衛線を形成したのであろう。

足軽は、江戸時代武士の最下層の位置づけで、家計も「きちきちだった」と思われる。『幼年時代』には、次のような叙述がある。

「私どもの市街(まち)の裏町のどんな小さな家家の庭にも、果実のならない木とてはなかった。青梅の頃になると卵色した円いやつが、梢一杯に撓(たわ)み零(こぼ)れるほど実ったり、美しい真赤なぐみの玉が塀のそとに枝垂れ出したのや、青いけれど甘みのある林檎、杏、雪国特有のすもも、毛桃などが実った。
 私どもは殆んど公然とそれらの果実を石をもって叩き落したり、塀に上って採ったりした。ちょうど七つ位の子供であった私どもは、そうした優しい果実を略奪してあるくためには、七、八人ずつ隊を組んで裏町に出かけるのであった。それを「ガリマ」と言っていた。」

私の子ども時代は犀星とは二世代ほど離れていて、もう「ガリマ」という言葉はなかった。
上記の『幼年時代』から分かることは、(1)旧足軽屋敷には、家計の足しにとどんな家にも実のなる木々が植えられていた。(2)「塀の外に出た実」は、こどもが採っても良いものだったことが分かる。

(櫻畠の場合、10番丁まであり、1番丁が20軒ほどで、10番丁が一寸多かったので、全部で200軒以上、裏千日町の「300軒」と思い合わせると、足軽一組は200~300人編成か。)

金沢市寺町台・櫻畠のこと、祖父母、父母のこと

2010-06-15 | 金沢の思い出
自分史の第一段階として生まれ且つ高校卒までの18年間を描きたいと思っているが、その生活、生活舞台の中心は金沢市寺町台の旧櫻畠である。その地を振り返り、直近の先祖のことも少し考えてみたい。

この地は、江戸末期の様子が分かる地図では、加賀・前田藩(外様大名最大藩)の足軽屋敷地となっている。犀川を西に渡った高台である。金沢には大略「北」と「南」に二つの川があり(浅野川と犀川)、大略「南東」から「北西」に流れ下っている。この犀川も、金沢城の「外堀」の意味があり、仮に南の親藩・越前・松平藩から前田支藩の大聖寺藩を越えて、金沢まで攻め込まれた場合、先ずここが食い止める地である。

その時、足軽達が寺町群構内に集結し、犀川を背に「背水の陣」をしくのである。

武家社会では、足軽は最も「下」の身分であり、先ず戦陣の最前線に赴く身分である。だから、金沢城の南側で足軽屋敷のあった寺町台・旧櫻畠の地は、城下町の縁辺部であったと言えよう。

その近くに町人の住む「商店」も少しはあったが、その外縁は広い農村地帯であったのである。

そこで、明治維新で武家社会が崩れたので、足軽屋敷地域も「崩れた」のである。どういうプロセスでどうなったか、旧足軽達は何処に行ったのか、町人や農民(次三男)がどういう理由で旧足軽地域に入り込んで来たのか、金沢の明治、大正、昭和の私が生まれる以前の状況を明らかにしたいものだ。

私の祖父母、父母は全員鬼籍に入り、もう彼らの生の声は聞けない。ただ色々断片的に聞いたり関連の親戚の家に行ったこともあり、祖父母、父母の「生まれ」や「育ち」も出来れば明らかにしたいと思う。祖父母は明治の生まれであり、父も明治末期の生まれ、母のみ大正の生まれである。

で、少し興味のあるのは、父方の祖父母は旧大聖寺藩士の武家の家に生まれ、母方の祖父は金沢周辺の農民の出、祖母は金沢市内の町人の出であるということだ。

江戸時代の昔であれば、全く身分の違う父母が結婚するのは難しいが、「昭和」では結婚し、私が生まれたのだが、明治以降に、急速に身分間の「壁」が取り除かれたのであろうか。私の事例が、そのことを考える事例に当たると思われるが、どうなのだろう。近い事例の友人に聞いてみたい、関連研究者にも聞いてみたいと思っている。


定番の朝食の工夫

2010-06-14 | 生活描写と読書・観劇等の文化
最近、1年ほど前から夫婦二人の朝食準備は私の担当となっている。昼食が蕎麦やうどんの時にも麺類茹で、汁準備などは私、夕食は妻の担当、但し皿洗い等は私である。明日の米を炊く準備も私である。

まあ、こういうことをするのは、「基礎的生活力」(炊事、洗濯、掃除、育児・介護、お洒落、買い物、近所付き合い)をつけるためでもある。

小学生の食べ物をただす試みとして昼食の給食が大切なように、私は大人の朝食は大事では、と思っている。ただ、「人間は、特に日本人はアフリカから歩いてやってきた過程、あるいはそれ以前から飢餓に耐える遺伝子が出来てきた」ということを前提に、朝食抜きの少食が良い、との説もあり、一理あると思っている。(但し育ち盛りの子どもや肉体労働では無理かな、とも思う。)

で、ご飯は少なめにしている。ご飯は玄米中心(6分4分、5分5分)、梅干1個、納豆(40gほど、生姜すり、刻み葱、大根おろし、花鰹、醤油)がメイン、味噌汁が基礎メニューで毎日変わらない。

ただ味噌汁の具が毎日変わるのである。大きく分けて「緑もの」と「白もの」がある。
「緑もの」・・・小松菜、ちんげん菜、水菜等々の緑野菜
「白もの」・・・(野菜)玉葱、大根、(豆類)豆腐
「海藻類」・・・若布、とろろ昆布
「貝類」・・・シジミ、アサリ
これらを組み合わせる。但し、緑ものには若布は入れない。
どうでしょうか。

地域居住懇話会の再開

2010-06-13 | 地域居住学
昨日、5年ぶりに「地域居住懇話会」が再開された。私が奈良女子大に勤務していた頃、1997年3月にその会は立ち上がり、当時、「地域居住学講座」の西村ゼミと中山ゼミに所属する教員と院生、学生(4回生)及び卒業生を会員とした。

毎年1回、春に卒論(卒計含む)、修士論文、博士論文を発表し、要旨を冊子(『地域居住研究』)に載せることにした。その創刊号に私が書いた「創刊の辞」を再掲する。

「ここに『地域居住研究』を創刊するに当たり一言申し述べたいと思います。
これは、名前の通り地域居住懇話会の会報、機関誌の性格を持ちます。ただ、名称の件ですが、最初、もう少し気楽に『地域居住散歩』位の名前の雑誌の方が良いかな、とも思いました。しかし、長い目で見て少しアカデミックな『地域居住研究』が良いと思った次第です。何故ならば、社会片隅に産声を上げた我が同人誌ですが、いつかは地域居住のあり方に大きなインパクトを与えたいと願っているからです。その時は『散歩』より『研究』の方が「格好良い」のではないでしょうか。しかし、内容としては、もちろん研究的論文は大いに歓迎し、投稿して貰って掲載していきます。可能ならば、既存学会に投稿する前に習作として投稿しても構いません。同時に「評論・エッセイ」、「紀行文」、「手紙」、「日記風文」、身辺雑記」、「思いつき」等、むしろ『散歩』らしいものを含めて何でも良いのでは、と思います。どんな偉大な思想、理論でも先ずは「思いつき」から始まると言わざるをえないのです。それらを一笑して忘れるのではなく、一つの芽として、しっかり記録していこうではありませんか。時あたかも今年の直木賞に奈良女子大学住居学科卒業生の坂東真砂子さんが選ばれましたが、場合によっては小説や詩歌でも良いと思います。
 つまり、この雑誌の大まかな目的として言えるのは、様々な側面から、また草の根地域から「地域居住」を、より豊かにしていくために論陣を厚く、多様にはっていくということですので、それに合致する書き物なら何でも大いに歓迎ということでしょう。当面は、年に1回発行の予定ですが原稿がたまれば臨時に発行することもありえます。
 どういう書き物でも良いということで今回、私自身、色々と性格の異なった数編の小文を投稿しています。在学の院生、学生も修士論文、卒業研究を中心に色々と投稿しています。修了、卒業生にも今後大いに投稿して欲しいものです。期待しています。1997年3月 ・・・」

この「会」『会報』は、私が定年退職する2005年3月まで満8年間続いて、一旦コンマを打って「休眠」に入ったが、今回5年ぶりに「覚醒再開」された。これは、中山 徹先生がこの4月に准教授から教授に昇任されたこと、「生活上」少し時間的余裕が出来てきたとのことなどもあり、また修了、卒業生からも一定の「同窓会」的要望もあったためと思われる。

『地域居住研究』のVol.10も発刊・配布された。私も求めに応じて一文投稿し、昨日もそれを基に短い「講演」をやらせていただいた。中山 徹さんも「民主党政権下における都市計画・地域政策の動向」を講演された。まとまって、又アップツウデイトな「菅総理の考え方」まで及んで抽出、分析されたのは流石で、参考になった。

私が在職中に修了、卒業した人や在学し、その後、中山ゼミで修了した人たちも10人近く来ており、それぞれ現況(仕事や生活の様子)をパワーポイントを使って説明、懐かしく皆元気にやっているな、と思った。更にSteadyに前進して下さいね。まあ、今回は色々な都合で参加できなかった人も今後また気楽に参加して様子を聞かせて下さい。卒業、修了生、M1以上の院生を入れて60人を越える参加だったと思う。

今回、参加して5年前と大きく様変わりした雰囲気は、(1)ドクターコースを含め院生が大幅に増えた。(2)中でも中国からの留学生が大変多くなったこと。院生の半分ほどだ。その象徴は5年前に修士に入学した内モンゴル出身のヤルさんが博士学位を得て、この4月に特任助教についていることだろう。(3)50歳台以上で既に色んな領域で活躍する社会人の院生が複数人いて、目を見張った。(4)大学院に入りたい中国人の研究生も多くいたこと・・・である。

夕方から奈良町「あしびの郷」で懇親会があった。50人位の「大パーティ」、中山教授の昇任祝賀会も兼ねていた。私は、昼の部の「講演」では、ジョークを封印していたので、夕方から「開封」した。乾杯の音頭で「一発」、最後の締めで、日中交流の略史と意義を強調、「一本締め」とした。

二次会は、中国人学生はいなかったが「東向き」の中華料理店で、10数人で駄弁った。私は、一次会、二次会で久し振りにしこたま飲んで、帰宅してから「大変」だったらしい。

今後、1、2年に一度の「地域居住懇話会」が長く継続・発展することを期待している。



『奈良女子大学百年史』受け取る

2010-06-11 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
今日、『奈良女子大学百年史』を受け取った。本来なら昨年2009年が奈良女子高等師範学校創立から数えて百年だったので去年に発行すべきものだったのに色々な事情があったようで今になった。

千ページを越えるものである。20年(正確には21年)前に発行された『奈良女子大学八十年史』に続くものである。

私は1974年(昭和49年)に奈良女子大学・家政学部・住居学科に赴任し、2005年(平成17年)に同・生活環境学部・住環境学講座を63歳の定年で退職したので31年間勤めたことになる。人生の半分近く、百年史の三分の一近く勤めた勘定だ。

自分史が、その時代に及ぶときには『百年史』を『八十年史』とともに「下敷き」の一つにする積もりだ。私は、「八十年」から「百年」に向けては、管理職の一翼として(学生部長、副学長、生活環境学部長として)大学の四つの理念をまとめる委員会を主宰し、生活環境学部に管理栄養士養成課程をつくり、学部自己評価、外部評価を実施、学科再改組に「道」をつけたことが「仕事」の主なものである。

こう書くと、運の良い時期に当たりましたね、となるかもしれないが、当時は、毎日がストレスで「ウツ」状態の連続だった。それまで、大学って「ゆったりモノが考えられる」いい所と思っていたのに、1990年ころより「自転車操業」になってきたのではないか。

百年後、確認しようもないが、どうなっているだろうか。

(この本に関心のある人は、大学事務局にお問い合わせ下さい。)

口蹄疫問題の戦略的考察

2010-06-10 | 地域居住学
宮崎で起こった牛の口蹄疫問題で多数の牛が、「種牛」を含め「処分」された。農林水産大臣も替わったようだが、今後どのように収束するのか、まだみえていない。

で、この問題って近視眼的に見るのではなく長期的、戦略的にみるべきではないか、とふと思う。それは何かと言うと、日本列島で、日本人にとって、畜産はそんなに大事なのかどうか、という問題の検討が必要だ、ということだ。

過去に読書で『肉食の思想』を書いたことがある。
http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/8f23eac1f1a7286562c2504cd3618151

日本人は、元々牛や豚やをそんなに食べていたわけではなく、まあ西洋文明の流入とともに庶民も食べだしたのではないか。そういう畜産をこういう狭い国土でつめてやることは、家畜の健康にも良くないし(つまり口蹄疫など発生・伝播しやすいし)、第一蛋白質生産の土地効率が大豆などの植物性に遥かに劣る。

それに、肉食は、長年にわたって形成された日本人の体質に本当に合っているかどうかの検討も必要だ。まあ、少しは残すとして、大々的に「復元、復興」はどうなのだろうか。