ホープメール

永遠の書であるバイブルをじっくり味わいます

食物

2018-06-28 | Weblog

 先日、家族で川遊びに行ってきました。良い思い出作りができました。

 「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」エゼキエル2:8

 聖書が語ることと現実の世界がかけ離れているように感じることがあります。一つの理由は社会情勢がめまぐるしく動いており、目に見える現象に踊らされてしまうからです。神はエゼキエルを預言者として召した時、心得を語っておられます。神の言葉を知識として知るのではなく、食べ物として心の中に入れ、栄養にしてゆくことです。 真嗣


励まし合う

2018-06-27 | Weblog

学校のプール授業が始まっています。子供達の歓声が聞こえます。

「パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。」 使徒13:14

パウロたちは伝道旅行中でした。行った先に、聖書を中心とした集いがあり、そこには彼らの席がありました。主にある交わりを、神様はあなたに用意していてくださいます。信仰を励まし合うため、集いに参加しましょう。 友子


我らの王

2018-06-20 | Weblog

今日は祈り会です。心を合わせて祈れる仲間がいることに感謝しています。

「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」使徒12:5

ペトロが捕まったのは、ヘロデ王の人気集めの為です。権力者の前に、何の力もない人々の姿があります。しかし、教会はこのことを神様に祈りました。王の王であられる神様に直接祈れることを感謝します。今日、行き詰っていることがあるでしょうか。熱心な祈りを天の神様にささげ、助けて頂きましょう。 友子


天が開け

2018-06-19 | Weblog

 大阪北部で起きた大地震の被害に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。

 「第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。」エゼキエル1:1

 祭司エゼキエルは故郷から遠く離れたバビロンのケバル川のほとりにいました。彼は神に捨てられた民として、将来の望みもなく、空しい気持ちで佇んでいたのかと思います。その時、天が開け神の顕在が現れました。エルサレムの神殿ではなく、どんな時、どんな場所においても神は私たちに希望と平安のメッセージを語ってくださいます。 真嗣


覚えていてくださる方

2018-06-13 | Weblog

梅雨の間の晴れ間です。洗濯を沢山干してきました。

「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」 使徒10:4

信仰心熱く歩んだところで、何も変わらないように思えることもあるかもしれません。けれども、神様は一つ残らず祈りに耳を傾け、神様のゆえにした行為を覚えていてくださいます。上記の言葉をかけ、私たちの求めに応えてくださる神様を信じて、今日も歩み続けましょう。 友子


立ち帰る

2018-06-12 | Weblog

 梅雨の晴れ間が見えて、洗濯日和です。

 「主よ、御もとに立ち帰らせてください/わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々を新しくして/昔のようにしてください。」哀歌5:21

 ある牧師は「キリスト教は敗者復活の宗教です」と語っています。自分が失敗者であるという自覚から神への信仰が始まります。詩人は「わたしたちは立ち帰ります」と神に向かって語っています。自分の方法で生きてきたことに行き詰り、状況がどんどん悪化してゆくなら、次のステージが用意されています。神は私たちを招いておられます。 真嗣


消えない喜び

2018-06-06 | Weblog

息子が修学旅行に行っています。成長を感じます。

「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。」 使徒8:39

フィリポは宦官にイエス様のことをお伝えしました。だから、宦官にとっては頼れる存在でしょう。けれども、フィリポがいなくなっても、宦官の心は喜び続けました。イエス様が宦官と共におられたからです。今日もあなたに喜びがあふれますように。 友子


待つべき方

2018-06-05 | Weblog

 明日から関東地方も梅雨入りするそうです。

 「今なお、わたしたちの目は/援軍を求めていたずらに疲れ/救ってはくれない他国をなお見張って待つ。」哀歌4:17

 哀歌の詩人は、ユダが滅亡する現実を見て嘆きました。滑稽で嘆かわしいことは、民が来るはずのないエジプトの援軍を無駄に待ち、本当の助け手を見誤り、ただ疲労感だけ抱いている姿です。私たちもまた現実の世界の中で、過ぎ去ってゆく空しいものに目を向け、疲労を感じます。主は私たちの近くにおられる真の助け主です。 真嗣