「以前、「神崎(かんざき)八景」をとりあげたじゃろ?」
「江戸時代の広島の名所のひとつで、ここから見た景色が美しいということで「神崎八景」が作られたところじゃね」
「今回は、その神崎を紹介してみよう」
↓神崎八景についての関連記事は、こちら↓
今昔広島名所めぐり~江戸時代まで
碑の後ろに見える橋が中島神崎橋
左奥に見える白い建物はアステールプラザ
「神崎については、本川(ほんかわ。旧太田川)に架かる中島神崎橋(なかじまかんざきばし)の北西側に建てらた「神崎之碑」に詳しく書かれとる」
「神崎」の名が歴史上最初に現れるのは天和三年(一六八三)藤原惺窩(せいか)の門人であった木下順庵が 藩主浅野綱長の求めに応じて作った詩文「神崎八景」であると思われる
更に 享保八年(一七二三)には「神崎開」の名で正式な藩領として記録されている
「神崎」という名の由来は 太田川の本流である本川の「川の崎」が訛(なま)って「神崎」となったという説や 対岸に住吉神社が在ることから「神の崎」と呼ばれるようになったという説 あるいは 当地の開発にかかわった人の名からという説もある
本川に臨む神崎の地は 水上交通の要所であったため浅野藩政時代には家老の上田氏や上級武士による船屋敷 下屋敷などが設けられていたといわれている
また 宝暦八年(一七五八)に始められた「神崎渡船」は 明治の終りまで続けられ市民の利便に供せられてきた
この古くからの名称が後世に伝承されることを願い ここにこの碑を建てる
昭和六十年九月
神崎学区連合町内会
神崎学区社会福祉協議会
(碑文の説明板より)
「「神崎八景」で「神崎」の名前が歴史上に出てきたんじゃね」
「江戸時代の広島は、南に向かって干拓していくことで城下町を広げていった。神崎あたりは舟入新開の一部で、元禄14年(1701)に地詰が行われたんじゃ」
「舟入は江戸時代、文字どおり、藩の船が出入りしとったけぇ「船入(ふないり)」と呼ばれって聞いたことがあるけど?」
「ほうじゃの。神崎は本川の西側にあるんじゃが、対岸の東側、今の住吉神社があるあたりに「御船入」いうて、広島藩の船や藩主の御座船(ござぶね)などを係留する施設があった」
「で、そのあたりにある加古町(かこまち)も、船を動かすための水夫、水主(かこ)が住んでいたことから、もともとは「水主町」って呼ばれとったんよね」
「このあたりには、御船入、広島三大祭のひとつ「住吉祭」が行われる住吉神社、そして今の中島小学校あたりにあった広島藩の庭園・与楽園(よらくえん)があったんじゃの」
「話が中島に移ってしもうとるよ。神崎の話に戻さんと」
「おぉ、そうじゃった。中島神崎橋の南西側には、萬春園(ばんしゅんえん)と呼ばれる広島藩の庭園があったそうじゃ」
「なんで、神崎渡しは明治の終わりころまで続けられたんじゃろ?」
「江戸時代、川に橋を架けることが規制されとったけぇ、本川には西国街道の本川橋(猫屋橋)しかなかった」
「中島神崎橋の川上にある西平和大橋はいつごろ架けられたん?」
「1873年(明治6年)に架けられて、そのころは「新大橋」と呼ばれとった。川下の住吉橋(すみよしばし)は、1910年(明治43年)に架けられたそうじゃ」
「住吉橋ができる明治の終わりころまで、神崎渡しが続いたというわけじゃね」
神崎小学校校門
「時代は下って、1945年(昭和20年)8月6日」
「広島に原子爆弾が投下された日じゃね」
「中島神崎橋の南西側に、当時は神崎国民学校と呼ばれていた、今の神崎小学校があるんじゃ」
「神崎小学校といえば、漫画『はだしのゲン』を描かれた故・中沢啓治(なかざわ けいじ)さんが通っていた小学校」
「漫画の中では「神山國民小学校」と書いてあったがの」
「あの日の朝、1年生じゃった中沢さんが学校に入ろうとしたとき、顔見知りのおばさんから話しかけれて話をしてるところで、被爆。中沢さんの背中側にあった門柱や壁が原子爆弾の熱線を遮ったことで、奇跡的に助かったんじゃったね」
「そして、目の前におったおばさんは、熱線の直撃を受けて即死された。このあたりのことは、『はだしのゲン』に描いてあるとおりじゃ」
↓はだしのゲン、原子爆弾投下については、こちら↓
「こどもたちの見た戦争 はだしのゲンとともに/原子爆弾投下1」広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム
「神崎小学校の北側にある河原町公園には、神崎学区原爆慰霊碑がある」
昭和二十年八月六日、人類史上はじめて投下された原子爆弾により、神崎学区も未曾有の被害を受けた。
本年被爆五十周年を迎えるに当たり、原爆で亡くなられた多くの方々を慰霊するとともに世界の恒久平和を祈念して、地域住民の総意によりここに慰霊碑建立するものである。
平成七年八月三日
神崎学区原爆慰霊碑建立委員会
「このあたりは、爆心地から約1.2キロメートル」
「多くの犠牲者が出て、神崎小学校の校庭では連日、被爆されて亡くなった方々の遺体を焼いたといわれとる。で、この碑の台座の一部には、神崎小学校に残っていた被爆石4個が使われとるそうじゃ」
↓神崎学区原爆慰霊碑については、こちら↓
「神崎学区原爆慰霊碑 被爆建造物・慰霊碑」広島広域観光情報サイト ひろたび
訪問日:2018年1月7日
「今日は、「神山國民小学校って、知ってる?」ということで、広島市中区にある神崎地区について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
神崎之碑
神崎国民学校(現:神崎小学校)
神崎学区原爆慰霊碑
神崎八景
「江戸時代の広島の名所のひとつで、ここから見た景色が美しいということで「神崎八景」が作られたところじゃね」
「今回は、その神崎を紹介してみよう」
↓神崎八景についての関連記事は、こちら↓
今昔広島名所めぐり~江戸時代まで
碑の後ろに見える橋が中島神崎橋
左奥に見える白い建物はアステールプラザ
「神崎については、本川(ほんかわ。旧太田川)に架かる中島神崎橋(なかじまかんざきばし)の北西側に建てらた「神崎之碑」に詳しく書かれとる」
「神崎」の名が歴史上最初に現れるのは天和三年(一六八三)藤原惺窩(せいか)の門人であった木下順庵が 藩主浅野綱長の求めに応じて作った詩文「神崎八景」であると思われる
更に 享保八年(一七二三)には「神崎開」の名で正式な藩領として記録されている
「神崎」という名の由来は 太田川の本流である本川の「川の崎」が訛(なま)って「神崎」となったという説や 対岸に住吉神社が在ることから「神の崎」と呼ばれるようになったという説 あるいは 当地の開発にかかわった人の名からという説もある
本川に臨む神崎の地は 水上交通の要所であったため浅野藩政時代には家老の上田氏や上級武士による船屋敷 下屋敷などが設けられていたといわれている
また 宝暦八年(一七五八)に始められた「神崎渡船」は 明治の終りまで続けられ市民の利便に供せられてきた
この古くからの名称が後世に伝承されることを願い ここにこの碑を建てる
昭和六十年九月
神崎学区連合町内会
神崎学区社会福祉協議会
(碑文の説明板より)
「「神崎八景」で「神崎」の名前が歴史上に出てきたんじゃね」
「江戸時代の広島は、南に向かって干拓していくことで城下町を広げていった。神崎あたりは舟入新開の一部で、元禄14年(1701)に地詰が行われたんじゃ」
「舟入は江戸時代、文字どおり、藩の船が出入りしとったけぇ「船入(ふないり)」と呼ばれって聞いたことがあるけど?」
「ほうじゃの。神崎は本川の西側にあるんじゃが、対岸の東側、今の住吉神社があるあたりに「御船入」いうて、広島藩の船や藩主の御座船(ござぶね)などを係留する施設があった」
「で、そのあたりにある加古町(かこまち)も、船を動かすための水夫、水主(かこ)が住んでいたことから、もともとは「水主町」って呼ばれとったんよね」
「このあたりには、御船入、広島三大祭のひとつ「住吉祭」が行われる住吉神社、そして今の中島小学校あたりにあった広島藩の庭園・与楽園(よらくえん)があったんじゃの」
「話が中島に移ってしもうとるよ。神崎の話に戻さんと」
「おぉ、そうじゃった。中島神崎橋の南西側には、萬春園(ばんしゅんえん)と呼ばれる広島藩の庭園があったそうじゃ」
「なんで、神崎渡しは明治の終わりころまで続けられたんじゃろ?」
「江戸時代、川に橋を架けることが規制されとったけぇ、本川には西国街道の本川橋(猫屋橋)しかなかった」
「中島神崎橋の川上にある西平和大橋はいつごろ架けられたん?」
「1873年(明治6年)に架けられて、そのころは「新大橋」と呼ばれとった。川下の住吉橋(すみよしばし)は、1910年(明治43年)に架けられたそうじゃ」
「住吉橋ができる明治の終わりころまで、神崎渡しが続いたというわけじゃね」
神崎小学校校門
「時代は下って、1945年(昭和20年)8月6日」
「広島に原子爆弾が投下された日じゃね」
「中島神崎橋の南西側に、当時は神崎国民学校と呼ばれていた、今の神崎小学校があるんじゃ」
「神崎小学校といえば、漫画『はだしのゲン』を描かれた故・中沢啓治(なかざわ けいじ)さんが通っていた小学校」
「漫画の中では「神山國民小学校」と書いてあったがの」
「あの日の朝、1年生じゃった中沢さんが学校に入ろうとしたとき、顔見知りのおばさんから話しかけれて話をしてるところで、被爆。中沢さんの背中側にあった門柱や壁が原子爆弾の熱線を遮ったことで、奇跡的に助かったんじゃったね」
「そして、目の前におったおばさんは、熱線の直撃を受けて即死された。このあたりのことは、『はだしのゲン』に描いてあるとおりじゃ」
↓はだしのゲン、原子爆弾投下については、こちら↓
「こどもたちの見た戦争 はだしのゲンとともに/原子爆弾投下1」広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム
「神崎小学校の北側にある河原町公園には、神崎学区原爆慰霊碑がある」
昭和二十年八月六日、人類史上はじめて投下された原子爆弾により、神崎学区も未曾有の被害を受けた。
本年被爆五十周年を迎えるに当たり、原爆で亡くなられた多くの方々を慰霊するとともに世界の恒久平和を祈念して、地域住民の総意によりここに慰霊碑建立するものである。
平成七年八月三日
神崎学区原爆慰霊碑建立委員会
「このあたりは、爆心地から約1.2キロメートル」
「多くの犠牲者が出て、神崎小学校の校庭では連日、被爆されて亡くなった方々の遺体を焼いたといわれとる。で、この碑の台座の一部には、神崎小学校に残っていた被爆石4個が使われとるそうじゃ」
↓神崎学区原爆慰霊碑については、こちら↓
「神崎学区原爆慰霊碑 被爆建造物・慰霊碑」広島広域観光情報サイト ひろたび
訪問日:2018年1月7日
「今日は、「神山國民小学校って、知ってる?」ということで、広島市中区にある神崎地区について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
神崎之碑
神崎国民学校(現:神崎小学校)
神崎学区原爆慰霊碑
神崎八景