「2週間前から、人形作家の辻村寿三郎(つじむら じゅさぶろう)さんの特集を中国新聞でやっとるね」
「わしにとって寿三郎さんといえば、NHK人形劇の『新八犬伝』(1973年~)や『真田十勇士』(1975年~)の人形を作った人じゃのう」
「うちは観たことがないんよね」
「寿三郎さんが、人形を作るようになった理由というのが…」
昔の人はね、子どもがハイハイし始めると、部屋の向こうにそろばんや筆、本などを並べて置くの。
どれを選ぶかで、その子の適性を占うわけよ。
僕は人形を取っちゃった。
親は「ああ、この子は駄目」って落胆したらしい。
不思議なご縁だと思うのよね。
人形とは。
「<1> 創作の原点 一人一人顔違う人間を」中国新聞 2011年7月5日
「へえ! そろばんや筆じゃなくて人形を選んだんだ」
「寿三郎さんが生まれた1933年(昭和8)は、男の子は大きくなったら兵隊になるという時代じゃ。男の子が、女の子のような人形を選んだいうて、親が落胆したのもわかるよのう」
「寿三郎さんが人形を作っているところをテレビで見たことがあるんじゃけど、衣装になる着物の切れ端をたくさん持っとっちゃったね」
「小さいころから、着物に興味があったそうじゃ」
小さいときから「布切れを見ると目の色が変わる」って言われてた。
何でか分からないけれどね。
しょっちゅう、芸者さんの着物をはさみで切って「ああ、またやった!」って叱られてました。
欲しかったんでしょうね。
手元にね。
「<2> 幼少時代 着物や布に興味芽生え」中国新聞 2011年7月5日
「うわー、着物を切られたら大変じゃ。ところで、芸者さんというのは?」
「寿三郎さんは、料亭を営(いとな)む養父母に育てられたんよ。実のお母さんは、そこで働く芸者さんだったそうじゃ」
「なるほどね」
「1938年(昭和13)、寿三郎少年が5歳のころ、鉱山関係の仕事をしていた養父が亡くなるんよ。1944年(昭和19)には、養母に連れられて、満州(まんしゅう。今の中国東北部)から広島市楠木町(くすのきちょう。現:広島市西区楠木町)に引き揚げたてきたそうじゃ」
「あれ、寿三郎さんって、三次(みよし)の人じゃなかったっけ?」
「三次は養母のふるさとで、楠木町には義母のお姉さんがおられたそうじゃ。楠木町から三次に移られたんじゃが、その4カ月後に広島に原爆が投下されとるんじゃ」
「運が強いんじゃね。原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子(ささき さだこ)も、楠木町じゃったよね」
「寿三郎少年は、楠木町に住んどるときに、同じ満州から引き揚げてきた、みっちゃんという女の子と仲良くなったそうじゃ。1945年(昭和20)10月の終わりごろ、原爆が投下された後、お米を1升(=約1.5kg)を持って、みっちゃんを捜しに1人で広島に行ったんじゃそうな。寿三郎少年が11歳のころのことじゃ」
何もないですよ。
友達のうちもないし。
トタン屋根で囲ったお家が建ってて。
夕方になるまでうろうろしても分からない。
子どもたちが集まっている場所がある―と聞いて行ってみたら、薄暗い焼け跡からふっと、お兄ちゃんに手を引かれてみっちゃんが出てきた。
お米をあげて、住所を教え合って、三次に帰りました。
翌年、2人とも亡くなりましたけどね。
「<3> 広島の記憶 焼け野原に友を捜して」中国新聞 2011年7月7日
「この兄妹をモデルに作ったのが、『ヒロシマよりこころをこめて』という人形。寿三郎さんの創作の原点ともいえる作品で、1965年(昭和40)、32歳のときの作品じゃ」
ある日学校の先生が、「親のない子、手を上げろ」三百余人のその中で、みっちゃんひとり手を上げた。
11歳、私は大陸から引き上げ広島の小学校におりました。
戦争のまっ只中、しかし広島はまったく空襲を受けませんでした。
その理由は後で分かりましたが。
8月の暑いさかりになりますと、夾竹桃(きょうちくとう)の紅と純白の花が、校庭に咲き乱れた様子と、その校庭のまん中に大きな柳の木と、その下で遊んだ兄とその妹、「みっちゃん」としかおぼえていないけれど、その2人に逢ったときの姿が、原爆の焼け跡のように、私の目のうらに、しっかりと焼き付いているのです。
その時の同級生の女の子を、戦後になってたずねたことがありました。
私達が住んでいたあたりは、すっかり焼けて、その友達の居所も分からず、ひとずてでやっと逢(あ)えた時の様子が、いまだに忘れられません。
みっちゃんの兄貴の名前は、すっかり忘れてしまったけれど、その時彼は高等1年でまだ子供だったけれど、焼け跡の中から出てきた時の彼は、まるでみっちゃんのお父さんのように見えたものです。
―「ヒロシマよりこころをこめて」 1965年度・制作作品コメント
「辻村寿三郎」ウィキペディア
「広島市内には、空襲がなかったんよね」
「アメリカが日本への原爆投下を決めた当初から、広島は原爆の投下予定地に入っとったんじゃ。原爆の正確な被害状況を知るためには、空襲で破壊された都市はだめじゃったけんの」
「夾竹桃といえば、広島市の花じゃね」
「被爆後、75年間は草木も生えないと言われた被爆地・広島で、いち早く花を咲かせのが、夾竹桃じゃったそうじゃ」
「その原爆の中を生き延びた兄妹をモデルにしたのが、『ヒロシマよりこころをこめて』なんじゃね」
「わしがこの作品を初めて観たのは昨年、宮島の大聖院(だいしょういん)で行われた、即身成仏縁起(そくしんじょうぶつえんぎ)でのことじゃ」
「この作品を発表した当時は、「人形に反戦メッセージはいらない」と新聞に書かれたらしいね」
「そんなこともあって、この作品を封印されとったんじゃが、1990年代から、出品されるようになったそうじゃ。この作品と一緒に、「アフガンの少年」という、右手に銃を持っとるんじゃが、左足は失われて杖を突いている、という作品も飾ってあったのう」
「広島でもアフガンでも、どんな困難な環境にあっても子供たちの目は純粋できらきらしている。もっとたくさんの国の子供たちの人形を作りたい」
(辻村寿三郎)
↓ヒロシマよりこころをこめてについては、こちら↓
「ヒロシマよりこころをこめて」ジュサブロー館へようこそ
↓大聖院については、こちら↓
宮島 大本山 大聖院
「今日は、辻村寿三郎さんの『ヒロシマよりこころをこめて』について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「わしにとって寿三郎さんといえば、NHK人形劇の『新八犬伝』(1973年~)や『真田十勇士』(1975年~)の人形を作った人じゃのう」
「うちは観たことがないんよね」
「寿三郎さんが、人形を作るようになった理由というのが…」
昔の人はね、子どもがハイハイし始めると、部屋の向こうにそろばんや筆、本などを並べて置くの。
どれを選ぶかで、その子の適性を占うわけよ。
僕は人形を取っちゃった。
親は「ああ、この子は駄目」って落胆したらしい。
不思議なご縁だと思うのよね。
人形とは。
「<1> 創作の原点 一人一人顔違う人間を」中国新聞 2011年7月5日
「へえ! そろばんや筆じゃなくて人形を選んだんだ」
「寿三郎さんが生まれた1933年(昭和8)は、男の子は大きくなったら兵隊になるという時代じゃ。男の子が、女の子のような人形を選んだいうて、親が落胆したのもわかるよのう」
「寿三郎さんが人形を作っているところをテレビで見たことがあるんじゃけど、衣装になる着物の切れ端をたくさん持っとっちゃったね」
「小さいころから、着物に興味があったそうじゃ」
小さいときから「布切れを見ると目の色が変わる」って言われてた。
何でか分からないけれどね。
しょっちゅう、芸者さんの着物をはさみで切って「ああ、またやった!」って叱られてました。
欲しかったんでしょうね。
手元にね。
「<2> 幼少時代 着物や布に興味芽生え」中国新聞 2011年7月5日
「うわー、着物を切られたら大変じゃ。ところで、芸者さんというのは?」
「寿三郎さんは、料亭を営(いとな)む養父母に育てられたんよ。実のお母さんは、そこで働く芸者さんだったそうじゃ」
「なるほどね」
「1938年(昭和13)、寿三郎少年が5歳のころ、鉱山関係の仕事をしていた養父が亡くなるんよ。1944年(昭和19)には、養母に連れられて、満州(まんしゅう。今の中国東北部)から広島市楠木町(くすのきちょう。現:広島市西区楠木町)に引き揚げたてきたそうじゃ」
「あれ、寿三郎さんって、三次(みよし)の人じゃなかったっけ?」
「三次は養母のふるさとで、楠木町には義母のお姉さんがおられたそうじゃ。楠木町から三次に移られたんじゃが、その4カ月後に広島に原爆が投下されとるんじゃ」
「運が強いんじゃね。原爆の子の像のモデルになった佐々木禎子(ささき さだこ)も、楠木町じゃったよね」
「寿三郎少年は、楠木町に住んどるときに、同じ満州から引き揚げてきた、みっちゃんという女の子と仲良くなったそうじゃ。1945年(昭和20)10月の終わりごろ、原爆が投下された後、お米を1升(=約1.5kg)を持って、みっちゃんを捜しに1人で広島に行ったんじゃそうな。寿三郎少年が11歳のころのことじゃ」
何もないですよ。
友達のうちもないし。
トタン屋根で囲ったお家が建ってて。
夕方になるまでうろうろしても分からない。
子どもたちが集まっている場所がある―と聞いて行ってみたら、薄暗い焼け跡からふっと、お兄ちゃんに手を引かれてみっちゃんが出てきた。
お米をあげて、住所を教え合って、三次に帰りました。
翌年、2人とも亡くなりましたけどね。
「<3> 広島の記憶 焼け野原に友を捜して」中国新聞 2011年7月7日
「この兄妹をモデルに作ったのが、『ヒロシマよりこころをこめて』という人形。寿三郎さんの創作の原点ともいえる作品で、1965年(昭和40)、32歳のときの作品じゃ」
ある日学校の先生が、「親のない子、手を上げろ」三百余人のその中で、みっちゃんひとり手を上げた。
11歳、私は大陸から引き上げ広島の小学校におりました。
戦争のまっ只中、しかし広島はまったく空襲を受けませんでした。
その理由は後で分かりましたが。
8月の暑いさかりになりますと、夾竹桃(きょうちくとう)の紅と純白の花が、校庭に咲き乱れた様子と、その校庭のまん中に大きな柳の木と、その下で遊んだ兄とその妹、「みっちゃん」としかおぼえていないけれど、その2人に逢ったときの姿が、原爆の焼け跡のように、私の目のうらに、しっかりと焼き付いているのです。
その時の同級生の女の子を、戦後になってたずねたことがありました。
私達が住んでいたあたりは、すっかり焼けて、その友達の居所も分からず、ひとずてでやっと逢(あ)えた時の様子が、いまだに忘れられません。
みっちゃんの兄貴の名前は、すっかり忘れてしまったけれど、その時彼は高等1年でまだ子供だったけれど、焼け跡の中から出てきた時の彼は、まるでみっちゃんのお父さんのように見えたものです。
―「ヒロシマよりこころをこめて」 1965年度・制作作品コメント
「辻村寿三郎」ウィキペディア
「広島市内には、空襲がなかったんよね」
「アメリカが日本への原爆投下を決めた当初から、広島は原爆の投下予定地に入っとったんじゃ。原爆の正確な被害状況を知るためには、空襲で破壊された都市はだめじゃったけんの」
「夾竹桃といえば、広島市の花じゃね」
「被爆後、75年間は草木も生えないと言われた被爆地・広島で、いち早く花を咲かせのが、夾竹桃じゃったそうじゃ」
「その原爆の中を生き延びた兄妹をモデルにしたのが、『ヒロシマよりこころをこめて』なんじゃね」
「わしがこの作品を初めて観たのは昨年、宮島の大聖院(だいしょういん)で行われた、即身成仏縁起(そくしんじょうぶつえんぎ)でのことじゃ」
「この作品を発表した当時は、「人形に反戦メッセージはいらない」と新聞に書かれたらしいね」
「そんなこともあって、この作品を封印されとったんじゃが、1990年代から、出品されるようになったそうじゃ。この作品と一緒に、「アフガンの少年」という、右手に銃を持っとるんじゃが、左足は失われて杖を突いている、という作品も飾ってあったのう」
「広島でもアフガンでも、どんな困難な環境にあっても子供たちの目は純粋できらきらしている。もっとたくさんの国の子供たちの人形を作りたい」
(辻村寿三郎)
↓ヒロシマよりこころをこめてについては、こちら↓
「ヒロシマよりこころをこめて」ジュサブロー館へようこそ
↓大聖院については、こちら↓
宮島 大本山 大聖院
「今日は、辻村寿三郎さんの『ヒロシマよりこころをこめて』について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
宮島・厳島神社 大好きっ子です。
厳島神社の近くにに住みたいと本気で思っています。(苦 笑)
寿三郎さんのお人形には、
何故か惹かれていました。
数十年前、姫路での展覧会に行き
図録と絵葉書を求めました。
その中に、「ヒロシマよりこころをこめて」の
ハガキも 含まれておりました。
会場で、私の目を惹いたお人形ですが
業界では 不評だったとの事。
いまでも 涙が出ます。
あの ハガキは、
広島平和記念館 ピースボランテイアの
辻さんにお送りしました。
(碑巡りでお世話に成りましたので・・・。)
又、遊びに来ます。
お元気で。
草 々
お返事がおそくなって申し訳ありません。
実はわしも宮島に住んでみたいと思うとります。
「宮島に嫁に行ったら正月から働かにゃいけんけぇ」という理由で、お袋は宮島に住みたくないようですが…。(苦笑)
「ヒロシマよりこころをこめて」の人形が、業界では不評だったとの事。
初めて知りました。
人の評価でなく、自分で「良い、悪い」「気に入った、気に入らない」が判断できるようになりたいですね。