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柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺 の句で知られる俳人は?

2010年12月12日 | 広島の話題
【問題】
「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺(ほうりゅうじ)」の句で知られる、明治時代に俳句・短歌・評論などで活躍した人は、次のうち誰でしょうか?

1.河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)
2.高浜虚子(たかはま きょし)
3.夏目漱石(なつめ そうせき)
4.正岡子規(まさおか しき)









【正解】
4.正岡子規



【解説】

NHKで、3年かけて放送されるスペシャルドラマ「坂の上の雲」。
今日(12月12日)放送の第7回のタイトルは、「子規、逝く」。
香川照之(かがわ てるゆき)が、5カ月かけて15キロの減量を行い、死期が迫った正岡子規役を演じとられますのう。

その子規の句碑が、広島と呉にいくつかあるんじゃ。



今日は、「正岡子規と広島」「正岡子規と呉」「新聞「日本」」について調べてみようかの。



1.正岡子規と広島

正岡子規は、幕末の1867(慶応3)年9月17日、広島とは瀬戸内海を隔てて南側に位置する、伊予・松山藩(現在の愛媛県)で生まれた。

子規が広島に来たのは、1895(明治28)年の4月。
日清戦争に記者として従軍するためで、宇品(うじな)港(現在の広島港)から出かけられたんよ。

ほいで、中国からの帰りの船中で血を吐いて、神戸病院に入院されたんじゃ。





行かば我れ 筆の花散る 処まで
千田廟公園(南区宇品御幸1丁目)




広島で詠んだ句に、「出陣や 桜見ながら 宇品まで」「春風や 城あらわるる 松の上」という句もあるそうじゃ。




鶯(うぐいす)の 口のさきなり 三萬戸
比治山展望台(広島市南区比治山公園内)




↓比治山(ひじやま)公園については、こちら↓

「比治山公園」ひろしま観光ナビ
http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/hiroshima/spot/0541.html



2.正岡子規と呉

1895(明治28)年3月には、友人の古島一雄(こじま かずお)が海軍従軍記者として出かけるのを見送るために、呉(くれ)を訪れたそうじゃ。





呉かあらぬ 春の裾(すそ)山 灯をともす
歴史の見える丘(呉市宮原5丁目)




裾山とは、呉にある休山(やすみやま)のこと。





大船や 波あたたかに 鴎浮く
呉市立美術館 入口横(呉市幸町入船山公園内)






大船や 波あたたかに 鴎浮く
金比羅山公園(呉市三条1丁目)




広島から呉まで鉄道が開通したのは、1903(明治36)年12月のこと。
じゃけぇ、子規は宇品から呉まで船で行かれたそうじゃ。



その他にも、尾道市にある千光寺公園文学のこみちにも句碑があるそうじゃ。


のどかさや 小山(こやま)つづきに 塔二つ


広島に来る途中の尾道で作られたもので、西国寺(さいごくじ)の三重塔と天寧寺(てんねいじ)の海重塔を詠ったものじゃそうな。



当時の広島について、少し説明しとこうかの。

明治から太平洋戦争末まで、広島は「軍都」と呼ばれとった。

日清戦争が起こった1894(明治27)年7月時点では、山陽鉄道(現在のJR山陽本線)は広島までしか開通しとらんかった。
その5年前の1889(明治22)年には、広島県知事の千田貞暁(せんだ さだあき)が、宇品港(現在の広島港)を築港しとった。
そこで広島駅と宇品港を結ぶ宇品線を、1894(明治27)年8月に開業させたんじゃ。

つまり、各地から宇品港まで列車で、宇品港から大陸まで船で兵隊を送る態勢がつくられたというわけじゃ。

そして、同年9月15日には大本営(だいほんえい)が広島に移ったことで、一時的ではあれ、広島は臨時の首都となったんじゃ。


呉には、旧日本海軍の鎮守府(ちんじゅふ)と、海軍工廠(こうしょう)があった。
呉海軍工廠は、戦艦大和を建造したことでも有名じゃの。
現在は、IHI(アイ・エイチ・アイ)マリンユナイテッド株式会社の呉工場になっとるんじゃ。






そして、広島湾に浮かぶ江田島(現在の江田島市)には、1888(明治21)年8月に海軍兵学校(現在は海上自衛隊第1術科学校)が、東京・築地から江田島に移転してきたんじゃ。
戦前、江田島といえば、海軍兵学校のことじゃった。
正岡子規と幼なじみじゃった秋山真之(あきやま さねゆき)は、第17期生として入学されとりますの。



↓歴史の見える丘については、こちら↓

「歴史の見える丘」くれナビ
http://www.kurenavi.jp/html/m000050.html




↓海上自衛隊第1術科学校については、こちら↓

海上自衛隊第1術科学校
http://www.mod.go.jp/msdf/onemss/




3.新聞「日本」

子規は明治25(1892)年12月、日本新聞社に入社されとります。
同社は、陸羯南(くが かつなん)が社長を務め、新聞「日本」を発行しとった。
そこで子規は、俳論や「歌よみに与ふる書」などを連載されとったんじゃ。

日本新聞社には、「最後の大名」と呼ばれ、広島藩第12代にして、最後の藩主となった浅野長勲(あさの ながこと)も出資しとられたんじゃ。



長勲は、翌年開設される帝国議会に向けて「ちゃんとした言論活動を行える議員を育てたい」という意欲を持っていた。それには、言論を堂々と述べることができる新聞の存在は大事になる。

(略)

その長勲の要望に、陸羯南が答えた。
「政府の命令による発行停止などを怖れずにやれる新聞作りを、目指したいものですな」
「そのとおりだ。立憲主義に基づいた主張をもって臨んで欲しい」
「承知しました。ところで、新聞の名前はどういたしますか」
「そのものズバリ。「日本」でいいではないか。日本の新聞である。日本をよくするための活動をする新聞である。どうかな」
長勲の一言で、新聞「日本」が誕生することとなった。

(江宮隆之(えみや たかゆき)「昭和まで生きた最後の大名 浅野長勲」グラフ社)




最後になったんじゃが、「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」については、このページの説明が気に入ったので紹介しときます。


「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」TOSSランド
http://www1.kcn.ne.jp/~zubat/houryuuji/kakikueba




今日は、「正岡子規と広島」「正岡子規と呉」「新聞「日本」」について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。

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