「お父さん、聞いた? 二葉あき子さんが亡くなっちゃったんじゃと」
「えーと…、『岸壁の母』を歌われた方とは違うんよの?」
「『岸壁の母』を歌われたのは、二葉百合子(ゆりこ)さん。二葉あき子さんは、出身地の広島市大須賀町二葉(現:東区二葉の里)から「二葉」の、広島=安芸の国から「あき」の芸名を取っとってんよ」
「えらい詳しいのう」
「いや、これはお母ちゃんの受け売りなんじゃけどね…」
「フランチェスカの鐘」「水色のワルツ」などのヒット曲で戦中、戦後の歌謡界をけん引した歌手二葉あき子(ふたば・あきこ=本名加藤芳江=かとう・よしえ)さんが16日午前3時30分、急性心不全のため広島市内の老人保健施設で死去した。
96歳。
広島市東区出身。
自宅は非公開。
通夜、告別式は家族で執り行う。
喪主は孫加藤英紀(かとう・ひでき)氏。
広島県立広島高等女学校(現皆実高)を経て、東京音楽学校(現東京芸術大)卒業。
県立三次高等女学校(現三次高)で1年間、音楽教師を務めた。
出身地にちなんだ「安芸」「二葉」を芸名に取り1936年にデビュー。
「フランチェスカの鐘」「夜のプラットホーム」「水色のワルツ」などが次々にヒット。
淡谷のり子さんや笠置シヅ子さんらと人気を競った。
45年8月6日、広島市に原爆が投下された時、乗っていた列車がトンネルに入り直撃を免れた。
この体験から「『フランチェスカの鐘』などの曲は、戦争で死んだ人たちへの鎮魂歌として歌っている」と語っていた。
歌謡曲だけでなく、ブルースやシャンソン、演歌も歌いこなし、生涯のレコーディング曲は約700曲に上った。
82年に紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章した。
(「歌手二葉あき子さん死去」中国新聞 2011年8月17日)
「広島高等女学校から東京音楽学校に進まれたんじゃのう」
「東京音楽学校で、藤山一郎さんのバリトンに感銘を受けられたそうなんよ」
「へぇ、藤山さんも同じ学校で勉強されとっちゃったんじゃ」
「藤山さんの実家が大変な借金を抱えられたんで、それを返済するためにコロムビアでレコードの吹き込みをされとっちゃったんよ。これが学校の規則に違反するけぇ、本名の増永丈夫(ますなが たけお)じゃのうて、芸名の藤山一郎で活動されとったんじゃと」
「藤山さんにも、そんな時代があったんじゃのう…」
「話を二葉さんに戻して…。1935年(昭和10)に東京音楽学校を卒業したあと、三次高等女学校で教鞭を取られて、1年後の1936年(昭和11)にコロムビア専属の歌手としてデビューされちゃったんよ」
「二葉さんは、原爆に遭うとられるんじゃ」
「8月6日の朝は、芸備線に乗って松江に向かっとられたんよ。汽車がトンネル内を走っている、ちょうどそのときに原爆が落ちたんじゃと」
「偶然とはいえ、運がえかったんじゃのう」
「トンネルを出たあと、汽車からきのこ雲と落下傘を見られたそうなんよ」
「アメリカ軍のB-29が原爆を投下する直前、測定装置を投下したんよ。落下傘はそれに付いとったもんじゃの」
「二葉さんは、原爆の直接の被害を受けんですんだんよね。1948年(昭和23)に発売された『フランチェスカの鐘』は、二葉さんが原爆犠牲者への鎮魂歌として歌い続けてこられた曲なんじゃと」
「生き残ったことで、かえって罪悪感みたいなものを持たれたんかのう」
「戦後は『夜のプラットホーム』(1947年)『水色のワルツ』(1950年)などのヒット曲に恵まれ、NHK紅白歌合戦は第1回(1951年)から第10回(1959年)まで10回連続で出場されとってんよ」
「ん? 第1回が1951年(昭和26)で第10回が1959年(昭和34)というのは、計算が合わんじゃん」
「えぇっとね、第3回までは年始にやりよったんじゃけど、第4回から今のように大みそかにすることになったんよ。ほいじゃけぇ、第3回と第4回は1953年(昭和28)の1月2日と12月31日にあったんよ」
「なるほど。この年は年始と年末の2回、紅白があったことになるんじゃのう」
「ちなみに、第4回からテレビでの放送が始まったんよね」
「ほうか。NHKがテレビの放送を始めたのが1953年の2月1日じゃったけぇの」
「このころ、二葉さんは声帯を壊して高音が出なくなったそうなんよね。1956年(昭和31)の夏、自殺を図ったんじゃけど未遂に終わったんよ」
昭和30年(1955年)前後に高音が出なくなり、意気を喪失して帰郷。
実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わる。
その後、作曲家の服部良一(はっとり りょういち)に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰する。
自ら低音発声法を作った。
(「二葉あき子」ウィキペディア)
「で、二葉さんはいつごろまで活躍されちゃったんかいの?」
「2003年(平成15)に広島に戻られて、それから舞台に立たれることはなかったんじゃと」
「1936年にデビューされとってじゃけぇ、67年か。長い間、活躍されちゃったんじゃのう」
二葉さんは2002年の大みそかの歌番組で音程を外したまま1曲を歌った。
満面の笑みのまま、舞台袖に引っ込んだ。
ところが、後輩歌手の菅原都々子(すがわら つづこ)さんは「楽屋に入るなり、おえつ交じりで泣いた姿を見た」という。
この頃、既に耳が聞こえにくく、音程が合わせられなかったのではないかと話す。
(「生涯貫いた歌への思い 二葉あき子さんを悼む」中国新聞 2011年8月17日)
「余談じゃが、二葉さんは『めんこい仔馬』(1941年)も歌うとられるんじゃのう」
「お父さん、この曲知っとるん?」
「知っとるもなにも、映画『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』(1992年)で初めて聞いての、涙、涙じゃったんよ。この映画は、わしが今まで観た中で一番泣けた映画じゃないんかの」
「へぇ。どんな話なん?」
学校で「めんこい仔馬」という歌を習ったまる子ことさくらももこは、それを図工の時間の絵のテーマにするがどのように描いたらいいか分からなかった。
ある日、静岡の祖母の家近くで似顔絵描きのお姉さんに出会い、「めんこい仔馬」は、実は戦争で馬と少年が別れなければならない悲しい歌なのだと3番の歌詞まで教えてもらう。
まる子は少年の気持ち、いつまでも忘れないよという心を描く。
(後略)
(「ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌」Movie Walker)
「今度、DVDを借りてきて観たいね」
「それがのう、映画の中で音楽をたくさん使うとるけぇ、その著作権の関係で発売されとらんのじゃ」
「えぇ~」
↓「フランチェスカの鐘」については、こちら↓
「二葉あき子 フランチェスカの鐘 1971」YouTube
↓「夜のプラットホーム」については、こちら↓
「夜のプラットホーム 二葉あき子」YouTube
↓「水色のワルツ」については、こちら↓
「二葉あき子 水色のワルツ 1990」YouTube
↓「めんこい仔馬」については、こちら↓
「めんこい子馬 二葉あき子 高橋祐子 愛唱歌謡」YouTube
↓ちびまる子ちゃんの「めんこい仔馬」については、こちら↓
「映画 "ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌" 「めんこい仔馬」」YouTube
「今日は、8月16日に亡くなられた二葉あき子さんについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「えーと…、『岸壁の母』を歌われた方とは違うんよの?」
「『岸壁の母』を歌われたのは、二葉百合子(ゆりこ)さん。二葉あき子さんは、出身地の広島市大須賀町二葉(現:東区二葉の里)から「二葉」の、広島=安芸の国から「あき」の芸名を取っとってんよ」
「えらい詳しいのう」
「いや、これはお母ちゃんの受け売りなんじゃけどね…」
「フランチェスカの鐘」「水色のワルツ」などのヒット曲で戦中、戦後の歌謡界をけん引した歌手二葉あき子(ふたば・あきこ=本名加藤芳江=かとう・よしえ)さんが16日午前3時30分、急性心不全のため広島市内の老人保健施設で死去した。
96歳。
広島市東区出身。
自宅は非公開。
通夜、告別式は家族で執り行う。
喪主は孫加藤英紀(かとう・ひでき)氏。
広島県立広島高等女学校(現皆実高)を経て、東京音楽学校(現東京芸術大)卒業。
県立三次高等女学校(現三次高)で1年間、音楽教師を務めた。
出身地にちなんだ「安芸」「二葉」を芸名に取り1936年にデビュー。
「フランチェスカの鐘」「夜のプラットホーム」「水色のワルツ」などが次々にヒット。
淡谷のり子さんや笠置シヅ子さんらと人気を競った。
45年8月6日、広島市に原爆が投下された時、乗っていた列車がトンネルに入り直撃を免れた。
この体験から「『フランチェスカの鐘』などの曲は、戦争で死んだ人たちへの鎮魂歌として歌っている」と語っていた。
歌謡曲だけでなく、ブルースやシャンソン、演歌も歌いこなし、生涯のレコーディング曲は約700曲に上った。
82年に紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章した。
(「歌手二葉あき子さん死去」中国新聞 2011年8月17日)
「広島高等女学校から東京音楽学校に進まれたんじゃのう」
「東京音楽学校で、藤山一郎さんのバリトンに感銘を受けられたそうなんよ」
「へぇ、藤山さんも同じ学校で勉強されとっちゃったんじゃ」
「藤山さんの実家が大変な借金を抱えられたんで、それを返済するためにコロムビアでレコードの吹き込みをされとっちゃったんよ。これが学校の規則に違反するけぇ、本名の増永丈夫(ますなが たけお)じゃのうて、芸名の藤山一郎で活動されとったんじゃと」
「藤山さんにも、そんな時代があったんじゃのう…」
「話を二葉さんに戻して…。1935年(昭和10)に東京音楽学校を卒業したあと、三次高等女学校で教鞭を取られて、1年後の1936年(昭和11)にコロムビア専属の歌手としてデビューされちゃったんよ」
「二葉さんは、原爆に遭うとられるんじゃ」
「8月6日の朝は、芸備線に乗って松江に向かっとられたんよ。汽車がトンネル内を走っている、ちょうどそのときに原爆が落ちたんじゃと」
「偶然とはいえ、運がえかったんじゃのう」
「トンネルを出たあと、汽車からきのこ雲と落下傘を見られたそうなんよ」
「アメリカ軍のB-29が原爆を投下する直前、測定装置を投下したんよ。落下傘はそれに付いとったもんじゃの」
「二葉さんは、原爆の直接の被害を受けんですんだんよね。1948年(昭和23)に発売された『フランチェスカの鐘』は、二葉さんが原爆犠牲者への鎮魂歌として歌い続けてこられた曲なんじゃと」
「生き残ったことで、かえって罪悪感みたいなものを持たれたんかのう」
「戦後は『夜のプラットホーム』(1947年)『水色のワルツ』(1950年)などのヒット曲に恵まれ、NHK紅白歌合戦は第1回(1951年)から第10回(1959年)まで10回連続で出場されとってんよ」
「ん? 第1回が1951年(昭和26)で第10回が1959年(昭和34)というのは、計算が合わんじゃん」
「えぇっとね、第3回までは年始にやりよったんじゃけど、第4回から今のように大みそかにすることになったんよ。ほいじゃけぇ、第3回と第4回は1953年(昭和28)の1月2日と12月31日にあったんよ」
「なるほど。この年は年始と年末の2回、紅白があったことになるんじゃのう」
「ちなみに、第4回からテレビでの放送が始まったんよね」
「ほうか。NHKがテレビの放送を始めたのが1953年の2月1日じゃったけぇの」
「このころ、二葉さんは声帯を壊して高音が出なくなったそうなんよね。1956年(昭和31)の夏、自殺を図ったんじゃけど未遂に終わったんよ」
昭和30年(1955年)前後に高音が出なくなり、意気を喪失して帰郷。
実家から刃物を持ち出し自殺を図るが未遂に終わる。
その後、作曲家の服部良一(はっとり りょういち)に「高音だけが歌じゃない」と励まされ復帰する。
自ら低音発声法を作った。
(「二葉あき子」ウィキペディア)
「で、二葉さんはいつごろまで活躍されちゃったんかいの?」
「2003年(平成15)に広島に戻られて、それから舞台に立たれることはなかったんじゃと」
「1936年にデビューされとってじゃけぇ、67年か。長い間、活躍されちゃったんじゃのう」
二葉さんは2002年の大みそかの歌番組で音程を外したまま1曲を歌った。
満面の笑みのまま、舞台袖に引っ込んだ。
ところが、後輩歌手の菅原都々子(すがわら つづこ)さんは「楽屋に入るなり、おえつ交じりで泣いた姿を見た」という。
この頃、既に耳が聞こえにくく、音程が合わせられなかったのではないかと話す。
(「生涯貫いた歌への思い 二葉あき子さんを悼む」中国新聞 2011年8月17日)
「余談じゃが、二葉さんは『めんこい仔馬』(1941年)も歌うとられるんじゃのう」
「お父さん、この曲知っとるん?」
「知っとるもなにも、映画『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』(1992年)で初めて聞いての、涙、涙じゃったんよ。この映画は、わしが今まで観た中で一番泣けた映画じゃないんかの」
「へぇ。どんな話なん?」
学校で「めんこい仔馬」という歌を習ったまる子ことさくらももこは、それを図工の時間の絵のテーマにするがどのように描いたらいいか分からなかった。
ある日、静岡の祖母の家近くで似顔絵描きのお姉さんに出会い、「めんこい仔馬」は、実は戦争で馬と少年が別れなければならない悲しい歌なのだと3番の歌詞まで教えてもらう。
まる子は少年の気持ち、いつまでも忘れないよという心を描く。
(後略)
(「ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌」Movie Walker)
「今度、DVDを借りてきて観たいね」
「それがのう、映画の中で音楽をたくさん使うとるけぇ、その著作権の関係で発売されとらんのじゃ」
「えぇ~」
↓「フランチェスカの鐘」については、こちら↓
「二葉あき子 フランチェスカの鐘 1971」YouTube
↓「夜のプラットホーム」については、こちら↓
「夜のプラットホーム 二葉あき子」YouTube
↓「水色のワルツ」については、こちら↓
「二葉あき子 水色のワルツ 1990」YouTube
↓「めんこい仔馬」については、こちら↓
「めんこい子馬 二葉あき子 高橋祐子 愛唱歌謡」YouTube
↓ちびまる子ちゃんの「めんこい仔馬」については、こちら↓
「映画 "ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌" 「めんこい仔馬」」YouTube
「今日は、8月16日に亡くなられた二葉あき子さんについて話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
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