今回は二日前の記事にも繋がるお話です。
元暦2年(1185)6月23日、平重衡が不破の関(写真)で南都の僧兵に斬首され首が般若寺門前に釘付けにされます。
平清盛の五男・重衡はユーモアセンス溢れる美青年で平家全盛期は多くの浮名を欲しいままにしていました。
しかし、源氏の勢力拡大によって起こった一ノ谷の合戦で馬を射られた上に乳母子の後藤盛長に裏切られて戦場に置き去りにされて源氏に生け捕りとなるのです。
その後、鎌倉に送られた重衡は手越で幽閉されて、その時に長者の娘・千手(ちひら)と出会うのでした。千手は心の苦しみをもらす重衡に耳を傾け返事をする替わりに重衡の心の訴えを和歌や音楽で的確に慰めたそうです。
このやり取りはたった一夜のものでしたが、重衡は都人では感じ得なかった本当の安らぎを見つけていたのでした。
やがて平家が壇ノ浦で滅びた後、重衡の身は南都(奈良の寺社勢力)に引き渡されるのです、平家全盛期に東大寺を焼いた事で南都勢力に重衡は恨まれていて、源頼朝はこの要請を拒みきれなかったのです。
≪東大寺の大仏≫
≪大仏≫
頼朝は重衡の武人としての潔さを愛し、ギリギリまで助命の道を探したと言われています。
その努力は空しく終わり、重衡は僧兵に首を切られて刑死したので、首は般若寺の門前に釘打ちのされて晒されました。享年29歳
千手は善光寺で出家したとも、後を追って自害したとも言われています(『吾妻鏡』では恋心が募って四年後に亡くなったと書かれています)。
なお、重衡が鎌倉から奈良に向けて出発する前日の様子が『千手』という謡曲として語られ、二人のはかなさを現在にまで伝えているのです。
元暦2年(1185)6月23日、平重衡が不破の関(写真)で南都の僧兵に斬首され首が般若寺門前に釘付けにされます。
平清盛の五男・重衡はユーモアセンス溢れる美青年で平家全盛期は多くの浮名を欲しいままにしていました。
しかし、源氏の勢力拡大によって起こった一ノ谷の合戦で馬を射られた上に乳母子の後藤盛長に裏切られて戦場に置き去りにされて源氏に生け捕りとなるのです。
その後、鎌倉に送られた重衡は手越で幽閉されて、その時に長者の娘・千手(ちひら)と出会うのでした。千手は心の苦しみをもらす重衡に耳を傾け返事をする替わりに重衡の心の訴えを和歌や音楽で的確に慰めたそうです。
このやり取りはたった一夜のものでしたが、重衡は都人では感じ得なかった本当の安らぎを見つけていたのでした。
やがて平家が壇ノ浦で滅びた後、重衡の身は南都(奈良の寺社勢力)に引き渡されるのです、平家全盛期に東大寺を焼いた事で南都勢力に重衡は恨まれていて、源頼朝はこの要請を拒みきれなかったのです。
≪東大寺の大仏≫
≪大仏≫
頼朝は重衡の武人としての潔さを愛し、ギリギリまで助命の道を探したと言われています。
その努力は空しく終わり、重衡は僧兵に首を切られて刑死したので、首は般若寺の門前に釘打ちのされて晒されました。享年29歳
千手は善光寺で出家したとも、後を追って自害したとも言われています(『吾妻鏡』では恋心が募って四年後に亡くなったと書かれています)。
なお、重衡が鎌倉から奈良に向けて出発する前日の様子が『千手』という謡曲として語られ、二人のはかなさを現在にまで伝えているのです。