『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

福佐売神社の切株が ‼

2020年02月29日 | 「廿日市地区」ぶらり

 




ウオーキングを兼ねて税務署で確定申告を済ませ可愛町の福佐売神社前を歩いていると、大きな切り株に見たことがない碁盤の目のように切り込みがしてあった。ネットで調べてみると切り込みは切株から新芽が出なくする方法のようであり、切り込みに液体の根枯らし剤を入れて根を枯らすようである。この樹木は境内の道路際にあるため除去されたようである。

※ 本日、当ブログを開設してから5000日を迎えることが出来、先日のトータル訪問者数100万UUと続いて大きな節目を迎えることができました。見たままを記した万人受けするブログではありませんが、多くの方々に御来訪して頂き大いに励みとなっています。7月ごろにはトータル閲覧数500万PVを迎えられそうなので、御来訪のほど宜しくお願い致します。

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任助法親王の位牌

2020年02月28日 | 「廿日市地区」ぶらり

 



極楽寺本堂に安置されている任助法親王の位牌で「天正十一癸未 厳島御室一品任助大王尊儀  十一月廿九日」と陰刻されており、薨去年がなぜか天正十一癸未となっているのである。
当寺の住持祐宗法印が任助法親王葬儀の御引導太師を勤仕して位牌を安置し、法事も当寺において執行したようで、これ以後極楽寺は仁和寺直末寺となったようである。
昨日紹介した円明寺にも「天正十二甲申歳 御室任助宮一品法親王尊位 十一月二十九日」とある位牌が安置されていると古書に記されている。(位牌画像-1983年撮影)

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任助法親王の宝篋印塔

2020年02月27日 | 「廿日市地区」ぶらり

 



佐伯区三宅にある円明寺の境内に任助法親王の墓といわれる宝篋印塔がある。この宝篋印塔は元文2年(1737)に広島の西福院第八世弁雅和尚の発願で建立されたようである。宝篋印塔には仁助法親王之塔とあり任の字がなぜか仁となっているのである。この地が任助法親王の御葬地であるとの説もあるが、薨去から約150年後の建立であり供養塔のように思われるのであるが・・・

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任助法親王墓所

2020年02月26日 | 「大野地区」ぶらり

 

 



宮島口の国道2号線更地別れ交差点からJR山陽本線の踏切を過ぎると線路沿いに任助法親王の墓所がある。任助法親王は伏見宮貞敦親王の第四子で京都御室の仁和寺門跡を継ぎ、晩年厳島大聖院に下り厳島御室と呼ばれていたようである。
天正12年(1584)11月29日に厳島の西方院で薨去して赤崎御室山が御荼毘所とされたので、赤崎の地が御葬地と定められたようである。
昭和16年(1941)4月に赤崎御室を任助法親王の御陵墓とされ宮内庁治定陵墓となっている。

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延命寺の石垣

2020年02月25日 | 「大野地区」ぶらり

 



昨日紹介した延命寺の石垣をよくみると比較的大きさの揃ったような石が積まれているのがわかるのである。
明治30年(1897)に山陽鉄道が開通した頃、宮島駅前には3000余基の宮島島民の墓があったようで、ここの墓地を御室山に移した際に無縁墓を石積みにしたものとみられるのである。墓碑を使用した転用石は城の石垣などにみられるが、このように大量に使用された石積みはみたことがないのである。

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延命寺

2020年02月24日 | 「大野地区」ぶらり

 

 



JR宮島口裏口から山手に向かって少しの所にある延命寺は洞雲寺の末寺で、寺伝で洞雲寺9世の全室宗用が開山であり、洞雲寺25世大透祖関が延命寺5世となっている。

他文書によると天文元年(1532)に寿嶽和尚が延命寺を建立して数世の後に無住となり洞雲寺より番僧祖璉、華蔵の後に洞雲寺25世大透祖関が住持になったとある。当寺の古い時代の歴史は前述のように定かでないが中世から細々と法灯を護ってきて現在があるようである。

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海田鋳物師鋳造作品-三入神社の梵鐘

2020年02月23日 | 鋳物師

 

 

 

 

 

 

可部町の三入地区に祀られている三入神社への長い参道石段は2ケ所ある。息を切らせて登った境内には神社では珍しい鐘楼があり梵鐘が架けられている。この梵鐘は刻銘によると延宝5年(1677)9月に海田鋳物師の植木六郎兵衛直増が鋳造したものである。この梵鐘の特徴は池の間の文様で、中国古典の仙伝文学からの図柄文様では他に2ケ所植木直増の作品がみられる以外稀有のものである。文様は老女仙・童女仙と犬の「曹仙媼像」と鯉に乗る仙人「子英像」の仙人像が抽出されている。また各所に従来の和鐘とは少し違った斬新な手法を用いた梵鐘である。
詳しくは拙稿「植木氏の鋳造作品について-中国仙伝文学からの図柄文様-」参照(広島県文化財ニュース第162号・安芸国鋳物師の鋳造活動所収)

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可部鋳物師鋳造作品-下ケ浜の鉄燈籠

2020年02月22日 | 鋳物師

 

 

 

 


JR可部駅の近くにある明神公園の一角に覆屋が設けられた大きな鉄燈籠みられる。銘文によると文化5年(1808)に可部の鋳物師三宅惣左衛門延政が鋳造している。平成初年頃にはこの鉄燈籠の木型、土型が二宮産業の資料室に展示されていたということであるが、廃業された現在どこかに保存されているのであろうか。三宅惣左衛門延政は昨日紹介した善徳寺の喚鐘を文化9年(1812)4月に、同年6月に厳島神社反橋の擬宝珠5ケ所を鋳造しており何れも現存している。
江戸期可部町には三軒の鋳物師がいたとされるが史料などによると三宅氏と細田氏が主に鋳造活動をしていたものとみられるのである。詳しくは拙稿「江戸期における安芸国可部鋳物師の鋳造活動」参照(芸備地方史研究第205号・安芸国鋳物師の鋳造活動所収)

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廿日市鋳物師鋳造作品-善徳寺の梵鐘

2020年02月21日 | 鋳物師

 

 

 



安佐北区深川2丁目にある善徳寺の梵鐘は銘文によると、元中区にある白神社の梵鐘で、寛永11年(1634)7月に廿日市鋳物師の山田次右衛門尉が鋳造したものである。

梵鐘の中帯上側には仏坐像が鋳出され中帯下側には唐草文様が鋳出されており、口縁部の駒の爪には蓮弁くずし文が鋳出されている。この梵鐘は山田氏の鋳造作品では初期のものである。

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広島はつかいち大橋橋脚工事の今

2020年02月20日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 

 



現在、広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚の工事が行われている。看板表示によるとこの路線の正式名称は国際拠点港湾広島港臨港道路廿日市草津線というようで、現在行われている工事は広島側の3基の橋脚の海上部下部工工事のようである。両側陸上部分の斜路躯体は出来上がっているが、廿日市側の橋脚工事は着工されておらず橋梁工事もあるので完成はまだまだ先のようである。下画像は極楽寺参道の通称手無さん(26丁碑ケ所)から広島はつかいち大橋昨日遠望。

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宗高尾城跡記念の丘碑

2020年02月19日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 


平良小学校前にある陽光台第一公園の一角に宗高尾城跡記念の丘と刻された石碑が建立されている。かつてこの地には中世の宗高尾城があったところであるが、すべて掘削されて城の遺構は全く残されていない。
平成6年(1994)1月から翌年3月までの期間に発掘調査が行われ、地鎮遺構や多くの曲輪跡、建物跡、土坑、集石遺構などが見つかっている。これらについては「宗高尾城跡・丹渡尾城跡-発掘調査の概要-」に詳述されている。


※  昨日、当ブログを開設してから大きな節目であるトータル訪問者数100万UUを迎えることができました。見たままを記した万人受けするブログではありませんが、多くの方々に御来訪して頂き大いに励みとなります。今後も老化防止のために更新を続けるつもりですので、御来訪のほど宜しくお願い致します。

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懐かしいマツダ車が ‼

2020年02月18日 | 「廿日市地区」ぶらり



所用を兼ねて変わった所をウォーキングしていると懐かしいマツダ車のR360クーペとファミリアがあった。当ブログ主が軽自動車の免許を取った時には、桜尾の県税事務所廿日市分室の沖合にあった自動車教習所にてR360クーペで練習をしていた。試験は同じ自動車教習所において廿日市警察署員が試験官で、R360クーペにて技能試験をしていたのである。

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陸軍省標石

2020年02月17日 | 「宮島地区」ぶらり

 



宮島の新町はずれからうぐいす歩道に向かう三差路脇に陸軍省と刻されている標石が建立されている。ここから杉の浦を経て包ケ浦火薬庫、鷹の巣砲台に至る軍用道路工事が明治30年(1897)に行われており、この標石は軍用道路の起点に建立されたものとみられる。軍用道路の名残りとみられる石畳道がうぐいす歩道脇からと杉の浦にみられる。

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宮島の町屋

2020年02月16日 | 「宮島地区」ぶらり

 

 

 

宮島の裏通りで通称町家通りと称されているが、古い町屋の面影を残している建物は数軒しかみられない。その内の町屋で出格子、2階の肘掛け窓の格子手摺、井桁表示、庇の葺き材が厚板であるなどが特徴的な町屋である。現在、島域では重要伝統的建造物群保存地区選定の申請をするべく準備中のようであるが・・・

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画家吉村南良の絵馬

2020年02月15日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 



近代日本画壇の巨匠川合玉堂の門人であった廿日市の画家吉村南良について知る資料はほとんどみられない。昨日紹介した天満宮に掲額されている「荒比羅」の絵馬と大正8年(1919)3月に奉納された広田神社の「獅子舞」の絵馬、昭和26年(1951)10月に奉納された新宮神社の「八犬伝伏姫入山の図」の絵馬の作品が知られるのみである。

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