老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

空腹は耐えられない

2021-02-16 03:53:53 | 老人と子ども
1744 空腹は耐えられない

小さな小さな会社であっても
決算はしなかればならない

それでいま決算に必要な
書類をまとめるのに
猫や犬の手を借りたいほどだが
我家のbeagle元気は「我知らず」で眠っている

税理士に書類を送るために
昼飯も摂らず15時半過ぎまで時間を要した

お腹が空きすぎ
常に空腹の状態でいる子どもたちのことを思い出した

いま、世界には70億人程の人がいて
そのうち8億4千万人以上の人が満足な食事ができずに困っている
栄養が足りず病気になったり
なかには餓死さえしてしまう。



日本では、一年間で500~800万トンの食べ物が捨てられている
食べられるものがゴミになってしまう。

飽食のなかで、食べられず瀕死の子どもたちがいる。

ネグレクト(育児放棄、介護放棄)のため
満足な食事も与えられず栄養失調、脱水症におかれている
要介護老人に遭遇する

世界のどこかで飢餓にさらされている子どもの「問題」と
満足な食事も与えれない要介護老人の「問題」は
根っこは同じ。

何ができるか・・・・
できることは何か・・・・





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老師と少年 ➒ ~生きる意味より死なない工夫~

2020-08-30 06:45:58 | 老人と子ども

  夕暮れどきから暗闇前の阿武隈川 空はなぜか”明るい”

1651 老師と少年 ➒ ~生きる意味より死なない工夫~

後夜 

老師はまた旅に出て、庵にはいなかった。

「大切なのは答えではなく、答えがわからなくてもやっていけることだと
彼はどこかで感じたのだ」
(112頁)

やっていく方法は自分で見つけるしかない(112頁)

「生きる意味より死なない工夫だ」(112頁)

最後、少年に残したこれらの言葉は、”自分で考えて、自分自身が決めることだ”。
若い頃は世の中の矛盾のせいにし、齢を重ねるにつれ流され生きてきた自分。
結果や答えを求めてしまいがちであり、答えが出ない、とそこで諦めてしまう。
「答えがわからなくてもやっていける」ような自分の器を作っていけるかどうか。

老いに入ると 老親や友人の死に遭遇し 大切な人がいなくなり 「死」を考えざるを得なくなる。 
その自分も死ぬ。
自分は 今本当に生きている、といえるのか。

それでも「人は自ら死ぬべきではない」
「生きることが死ぬことよりはるかに辛いことだとわかっていても、
自ら死ぬべきではなない」
(19頁~20頁)
人は、死ではなく生きていくことを選んでいく。


※ 九話にわたり『老師と少年』の話に
お付き合いいただきありがとうございました。





コメント (2)
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老師と少年 ➑ ~自分という器をつくれ!~

2020-08-29 07:37:09 | 老人と子ども
1649 老師と少年 ➑ ~自分という器をつくれ!~


第七夜 
三日月の夜 庵の前に坐って話をするのも最後となった老師と少年の話

月明りに照らされた老師は少年に話す。
「自分が存在するのではない。存在するのだ。
自分が生きているのではない。生きているのだ。
問いはそこから始まる。『自分』からではない」(96頁)

自分が存在するから、自分が生きているから、
人は自分とは何かを問い、なぜ生きているのかを問い、答えを欲してしまう。

『自分とは自分ではない』として捉え、自分は何者でもない。

「水を飲むには器がいる。生という水を飲むにも」器がいる。(96頁)
注; “水でも器に盛られた瞬間から料理になる” 韓国ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』第4話参照

「『自分は自分ではない』、ならば『自分』を作らねばならない。
水を飲む器を作らねばならない。人が生きるとはそのことだ。
人が水を飲むとはそういうことだ。その重荷を引き受ける。
生きることが尊いのではない。生きることを引き受けることが尊いのだ」(101頁)

水を汲む器、その器を作り、水を器に汲み飲むことに、尊さがある。
老師は少年に熱く語る。
友よ、器を作れ。困難な仕事だ。それを何度も磨く。
一度打ち割って、作り直さねばならぬときもある。
割れた器で飲まねばならぬときもある。それでも、
最後まで生を飲み干せ
(103頁)

人が生きるには水を飲まねばならない。
水を飲む器を作らねばならない。
生きるとはそのことなのだ。
水を汲む器を作る、という重荷を引き受け背負い生きることが尊いのだ。

振り返ってみると、壁にぶち当たったとき
器を一度打ち割って、作り直す勇気もなく
老いを迎えてしまった「自分」

砂の器にならぬよう
老いた器を作り
器に水を汲み
渇いた咽喉を癒していきたい。



552 “水でも器に盛られた瞬間から料理になること”
《再掲》
韓国ドラマ『宮廷女官 チャングムの誓い』(韓国原題 大長今)(全54話)
第4話「母の教え」の一場面を紹介ます。


「最高尚宮(チェゴサングン)になりたい」というチャングムに
ハン尚宮は「飲み水をもってきて」と・・・。
チャングムは、お湯、冷たい水、木の葉を浮かべたり、といろいろ工夫をしますが
何度もやり直しを命じられます。

ハン尚宮は、チャングムが最近、
泥水を沸かし洗濯をしたのは・・・と問いかけると、
チャングムは母の教きえを想い出した。
母親は水をあげるときに、
「お腹が痛くありませんか?」「今日お通じは?」「のどが痛いことは?」と、細かく聴いてから、
冷たい水や温かいお湯、甘い水を下さいました。


ハン尚宮は、「そうよ、細かく聴くこと」。
そこに気づいて欲しかったの。
料理を出す前に食べる人の体調や好物、体が受けつける物。
それを考えるのが料理の心得だと教えたかった。
でもお母様からもう教わっていたのね。
お母様は立派な方ね。
水でも器に盛られた瞬間から料理になること。
食べる人への配慮が一番だということ。
“料理は人への気持ち”だとご存じだったのね」。

介護においても同じようなことが言えるのではないか、と私自身も教えられました。
食事や排泄、入浴などの介助を行うとき、
老人からどうしていただきたいのか、
「細かく聴くこと」と同時に
配慮(気遣い)していくこと、
それが重要なことであることに気づかされました。
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老師と少年 ❼ ~欲 望~

2020-08-28 16:03:32 | 老人と子ども
1648 老師と少年 ❼ ~欲 望~

第六夜 
神も虚無も受け容れることができず悶々としている少年
第六夜は(道の人)がどこからともなく、いつの間にか人々の中に現れた。

人は、死とは?、自分は誰か?などと
答えを欲している
答えがないことに耐えられない

道の人は話す。
「その答えとは何か? 何に対する答えか?
自分とは何か、なぜ生きるのかという問いかけの答えか?
違う。それはたった一つの欲望に対する答えだ」
(86頁)

「欲望だけが、生きていることの苦しみなのだ」(86頁)

自分であること、生きていることに苦しむ人は多くはない。
人間の欲は財産や地位や名誉であったりするのがほとんどだ。
何故か、人はそれを欲する。
他人に認められたいからだ、欲するものを身に抱えたいからだ。

欲望は持てないから苦しむが、持てたとしても苦しみはやまない。

「財産も地位も名誉も、人が生まれてくるときに一緒についてこない。
それは人が後からつくり出したものにすぎない。
つくり出したものは壊れ、得たものは失われる。
死は平等にすべてを奪う」
(88頁)

認知症老人になると、寝たきりになると
地位や名誉は関係なくなり
呆けて(惚けて)いくと立場(境遇)は同じになる。

棺に入ったときは財産を持っていくことはできない。
「死は平等にすべてを奪う」、その言葉通りである。
人間、死するときに何を遺してゆくのか。



内村鑑三著「後世への最大遺物 」岩波文庫に
興味深い話が書かれてある。


道の人は、
人間の欲望の先にあるものは、壊れ失われない永遠に存在するものを欲する。
答えを求めることも、『断念する』ことだ、と少年に語りかける。

少年は「ぼくにはわからない」、と。









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老師と少年 ❻ ~本当は何もない、幻なのだ(虚無なのだ‼)~

2020-08-25 04:39:26 | 老人と子ども
黒い雲からこぼれる陽光は幻なのか

1644 老師と少年 ❻ ~本当は何もない、幻なのだ(虚無なのだ‼)~

第五夜 / 第九夜 
第四夜同様,第五夜の話も、自分にとり「わかる」ような、「わからない」ような感じにある。
第五夜で『老師と少年』の話は、前半部分を終える。

少年は神殿に行き、聖者の教えを
信じることができなかった。
人はなぜ死ぬのか、自分は何者か
そのことを理解したかった。

理解できないことは信じればいいのか。
信じることと理解することは違うのか。

少年と同じ悩みを抱えた別の少年が
少年に言葉をかけた。

別の少年は森の奥、川上の上流にある岩山の陰にあ洞窟に住む隠者の処へ
少年を連れて行った。

灰色の髪が背中まで流れる老人が座っていた。
老人は浅黒く痩せこけ、幾重にも皴に囲まれた眼は
何かを照らすがごとく強く見開かれていた。

隠者は少年に語りかけた。

「お前は神殿の聖者にたずねただろう。人はなぜ死ぬのか。私とは何か」
「その答えはない! 人は理由も意味なく生まれ、死ぬ。私とは何か・・・・・、
何ものでもない! その問いの答えは、すべて錯覚だ。・・・・・(中略)・・・・・。本当は何もない。
・・・・・(中略)・・・・・。何もかもが虚無」なのだ
(72頁)

しかし、少年は隠者から「虚無だ!」、と話されても、その虚無が苦しかった。
少年は更に苦しみ隠者にたずねた。

「隠者よ。すでに私は生き、世界はここにあります。すべて虚無ならば、
私はこの世界で、どうしたらよいのですか。すべて無意味なら、死んでしまえば
よいのですか」
(73頁)

隠者は「自ら死ぬ意味もない」と憐れむように少年に話す。

老師は涙ぐむ少年の肩に手を触れた。

「虚無とは(神)の別の名で、虚無を悟りすべてを捨てるとは、
神を信じて従うことと変わらぬのではないか」
(73頁)

老師は少年にやさしい眼差しで語りかける。
「問うべきことは問うのだ」
「理解できないことが許せないとき、人は信じる。
信じていることを忘れたとき、人は理解する」
(75頁)

パスカルの有名な言葉を思い出した。
「人間は考える葦である」
人間はそこらに生えている葦のように弱い存在であるけれども
人間には「考える」ことが出来る分だけ葦よりも強い。

少年は、パスカルのように問いつづけ悩み、考え、苦しむ。
「人は理由も意味なく生まれ、死ぬ。私は何ものでもない。」、と
言われたら、生きる意味を失い、自分という存在が否定されることほど、苦しいものはない。

「生死」と「存在」は、無関係ではなく、深いかかわりあいを持っている。
それは第六夜、第七夜の話にツナガッテいく。
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老師と少年 ❺ ~神を信じるのだ?~

2020-08-23 06:27:45 | 老人と子ども


1641老師と少年 ❺ ~神を信じるのだ?~

【第四夜】
老師は、殺されるネズミを見て以来
不安がとりつき、不安の意味や正体がわからなかった。

大人にネズミの話をすれば忘れろと言われ、
死ぬとはどういうことかと聞けば、あの世や空の星の話になる。

少年の父は、こう言った。

「お前のように(死ぬこと、自分誰か等と)考え悩むのは苦労がないからだ。
楽をして暮らしているからだ。飢えや病に苦しむ人たちにくらべれば、実に
くだらない、贅沢な悩みだ」と。
(54頁)

確かに飢えや病は苦しいだろう。
しかし、ぼくも苦しいのです。
二つの苦しみは比べられないし、比べても意味がない。
二つの苦しみはそれぞれ「違い」、人により苦しみは個別的なものである。

老師は、「生きていくことの苦しさと、生きていることの苦しみは違うのだ」(55頁)
生は、困難な生であり、苦しい生だと思うが故に、生きていくことを選ぶ。


少年は見知らぬ人から手紙が届き、苦しみを救う神殿の聖者を紹介された。
少年は神殿に行った。
少年『聖者よ。人はなぜ死ぬのか。私とは何か』
聖者『お前は生まれる以前にすべてを知っていた。教えられたからだ』
少年『誰が⁉ 誰が教えたのです?』
聖者『(神)だ』
少年『生まれる前の私とは誰です?』
聖者『(神)の子だ。それが本当のお前だ』
少年『しかし・・・・・』
聖者『理解できまい』
少年『はい』
聖者『そうだ、これは理解することではない。信じるのだ。
   理解できないから受け容れられない。(神)はそれを罰する。
   ・・・・・(中略)・・・・(神)を受け容れず、その傲慢ゆえに
   (神)に罰せられたのだ。今お前が死の意味を知らず、真の自己
   を知らないのは、その罰ゆえなのだ』(59~60頁)

少年と聖者の問答を読むと、自分も少年と同様に
死の意味や私は誰であるか、を理解したかったが、それはできず、いまも苦しみが続いている。
神を信じることができない自分は寂しかった。

神を信じ受け容れることができない自分が在る。
他方では、困ったときに「神頼み」をする自分がいて、
頼みごと(お願いごと)は叶えられることは余りない。










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老師と少年 ❹ ~人間とは何か~

2020-08-22 05:01:24 | 老人と子ども

阿武隈川


1639 老師と少年❹ ~人間とは何か~

九夜に渡る『老師と少年』の会話は、第三夜に入った。
❹回目は「人間とは何か」について考えたが、自分にとり難解であった感がする。

老師はベッドに横たわっていた。
老師は話す。「君はある人間がどのように苦しむのかを見るのだ」(41頁)
相手の心をわかろうとするのではなく、苦しみを共感することなのだ。

老師は、幼い頃の出来事を少年に語る(引用が長くなります 42頁)
「私は小川に沿った道を歩いていた。すると、先の方で、ある老人が道ばたに
腰をおろし、片手を小川の中に入れていた。何をしているのかと近づいてみる
と、竹籠に捕らえたネズミを、水に浸けて殺していたのだ。たぶん、家の貯え
でも荒されたのだろう。」

「キーッ、キーッと何かを刺すようにネズミは鳴き、小さく鋭い爪で籠を掻き
むしっていた。私は老人の大きな背中の後ろにたちすくんだまま、ただその音
を聞いていた。
すると、気配を察したのか、突然老人は肩越しに振り返った。そして私の目を
見上げて、顔中の皴を撓(たわ)めて、にやっと笑った」



「そのとき、私のどこかが裂けた。それまで、どういうこともなかった世界の
何かが、突然欠けた
註:青字は筆者が記した

上記の出来事は、幼い頃の老師にとり衝撃的な事であった。
老師は、「私ではない『私』に出会い、そして新しい『世界』が現れた。
その『世界』には、大人という『他人』がいた。

その『他人』は何者か。残虐にネズミを殺せる人であり、その人は『人間』であった。

その出来事から、老師は「人間とは何ですか」(45頁)と問い
「人間とは、裂けたもの、欠けたものだ」とし、「人はそれを探して、苦し」んでいく。

第三夜の最後の行に、老師の言葉がある。
「色々な病み方がある。治りはしないが、生きてはいける。それでいいのだ」(48頁)
自分は多疾患の持ち主であるだけに、この老師の言葉に元気づけられ、胸底に深く滲みた(沁みた)。
人それぞれ色々な病み方があり、治らないけれども、病と仲良く生きていく。
そのことが「欠けた」ことであり、ときには苦しみながら生きていく私なのだ、と。


第三夜は、自分以外の存在である「他人」の世界を知り
残虐にネズミを殺せる「大人」がいて、それは(自分ではない)他人であり、
その人も人間であったことに、「人間とは何か」を考えさせられた。


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老師と少年 ❸ ~自分は誰ですか(自分は何者か)~

2020-08-21 07:56:02 | 老人と子ども

縁石の淵という悪い環境であっても、無言に咲く秋桜

1637 老師と少年 ❸ ~自分は誰ですか(自分は何者か)~

【 第 二 夜 】

少年は老師に尋ねる
「ぼくは誰ですか」
「ぼくはぼくなのに、ぼくではないのです!」
(『老師と少年』28頁)

この問いはくだらないが、「だが、人は身を切るようにせつなくそれを思う」と老師は話しかける。(前掲書28頁)

画家ポール・ゴーギャンも同じようなことを問うている。
「我々はどこから来たのか,我々は何者か,我々はどこへ行くのか」

夜中、認知症老人は、洗面所の鏡に映った自分の顔をみて
大きな声で叫ぶ「お前は誰だ!」

認知症老人から「お前は誰だ~」と聞かれたとき、ハッとし返答(言葉)に詰まるときがある。

自分は誰か? 自分は何者か?
この世でわからないのは、意外と自分のことかもしれない
「本当」の自分と「嘘」の自分があり
どれが『本当の自分』であるのか

老師が語る、はっきりしていることは
こうしていま私(老師)と君(少年)と話をしている、その事実であり、
いま、こうして「君」が存在していることだけで十分なのだ

更に老師は続けて話す。
「今ここにあるものが、どのようにあるのか、どのようにあるべきなのかを問え」(前掲書35頁)

「過去」は過ぎ去り、「未来」は未だ無い、在るのは「今」だけであり
「今」に生きている自分
それをわかりやすく教えてくれたのは認知症老人
たとえ数分後には忘れても、今(瞬間の連続)に生きている認知症老人の後ろ姿に
教えられることが多い。



自分はいったい何者か
ときどきムンクのように叫びたくなるときがある

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老師と少年 ❷ ~「ただ生き、ただ死んでいく」のではなく、「生きていく」ことを選ぶ ~

2020-08-19 05:02:43 | 老人と子ども
1635 老師と少年 ❷ ~「ただ生き、ただ死んでいく」のではなく、「生きていく」ことを選ぶ ~

【第一夜】

「おおよその人々は、ただ生き、ただ死んでいく。」のではなく、(前掲書22頁)
「自ら生を選び、生きることを決断する者は多くない」(前掲書22頁)

ただ生き、ただ死んでいくのも、生きていくこと
そのどちらを選ぶかは、その人自身が決めることだ。

人間は死を選ぶ(自殺を選ぶ)ことができるけれども
「生きることが死ぬことよりもはるかに辛いことだとわかっていても、自ら死ぬべきではない」(前掲書19頁~20頁)
死ぬことよりも生きることのほうが苦痛も多く難しい
しかし、生きていく苦痛のなかに喜びや悲しみ、楽しさや苦しさ、愛と憎しみ
さまざまな感情を経験しながら幸せを感じていく。

ただ生き、ただ死んでいくとしても
そこにも”今、生きている”人がいる

自ら寝返りもできず、起き上がりもできず
床に伏している老人の容態は
ただ生き、ただ死んでいく人として映るのであろうか

22頁にこう記されてあった
「生きるとは、共に生きることだからだ」
介護は、共に 今を生きていくことを意味している。

70歳を超えた妻は昼間は働き
訪問介護 訪問入浴介護 訪問看護の介護サービスを利用しながらも
夕方からは床に伏した夫の介護

夫は元気だったときは
仕事もしたがギャンブル、酒、煙草三昧だった
少ない国民年金受給者であっても
愚痴ひとつこぼさず
「昼間は外で働けることが気分転換できる」

床に伏した夫がいるから
生きねばならない、と話す老妻
仕事を終え、市営住宅の階段を3階まで上がり
夫のいる部屋に帰る

私の脚より生きる力がある老妻。
私の脚は杖を頼りに階段を上り
老夫婦の住む部屋を訪問する。

老夫婦の姿から
「生きるとは、共に生きること」の意味を教えられた。
コメント (2)
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老師と少年 ❶ ~死ぬとは何か、ぼくがいなくなる~

2020-08-18 04:08:04 | 老人と子ども
1633 老師と少年 ❶  
~死ぬとは何か、ぼくがいなくなる~

興味深く、面白い文庫本に出合った。
南 直哉さんの『老師と少年』新潮文庫 である。

九夜にわたる問答を通して、命の苦しみ、尊さが語られる。

前夜

当たり前のだと考えていることが、実はわからないこと・・・。

少年はひとりで路を歩き、突然、ぼくはいつか死ぬんだと、わかったのです。
「ぼくは死ぬ。でも、ぼくが死ぬとはどういうことか? 
このぼくがいなくなる。今いなくなると考えている。このぼくがいなくなる。
死ぬぼくもいなくなる。なのに死ぬ。死ぬ」
(前掲書9頁)

「死ぬことを考えているぼくが死ぬ。
ああ、ぼくは本当に今生きているといえるのか。
ぼくはどこにいるのだろう。ぼくは今本当にぼくなのか。・・・・
死ぬことも、ぼくがぼくであることも、わからなくなってしまったのです」
(前掲書9頁)

老師:「大人であることに疲れるときもある。
偶然が身の周りのすべてを壊していくこともある。
日々、我々は病み、老いていく。そして誰もが、
人はただひとりで死んでゆくことに気づくのだ」
(前掲書13頁)

大人は「人間は死ぬ」ことをわかっていながら、
子どもには「死ぬとは何か」を答えずに、死んだ後のことを話す。
人間は死んだら「天国に行くの」「遠い世界に行くの」「星になるの」、と大人は答えるが、
少年が本当に聞きたいことは違う!

死ぬとは何か?
自分がいなくなる。消えてしまう。
それはどういうことなのか。

吉野源三郎さんの『 君たちはどう生きるか』(岩波文庫)に登場する聡明な少年 コペル君(本田潤一君)を想い出した。

自分の中学生のとき、「死ぬとは何か」等と考え悩んだことはなかった。
いま老いた身になり、「誰もが、人はただひとりで死んでゆくこと」に気づいた。

残りの八夜、老師と少年の会話(問答)のどうなるのか、楽しみである。

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黒澤明 映画監督 『八月の狂詩曲』

2020-08-10 04:18:23 | 老人と子ども
1623 黒澤明 映画監督 『八月の狂詩曲』


黒澤明映画監督が、村田喜代子原作『鍋の中』を映画化した反核映画。
長崎はとある片田舎。かつて原爆を体験した老婆・鉦のもとに、夏休みを過ごすために都会から4人の孫がやってきた。

都会の生活に慣れた孫たちは田舎の生活に退屈を覚えながらも、
長崎の街にある戦争の傷跡や鉦が話す昔話を聞いて、戦争に対する考えを深めていく……。

孫たち四人は自分たちで原爆を知ろうとし、おじいちゃんが亡くなった場所を訪れます。
小学校の校庭では原爆で歪んだ形になったジャングルジムがあり、
原爆で亡くなった子どもたちの思いが伝わってきます。

「人間は何でも忘れてしまう」、という孫の言葉に、はっとさせられました。
忘れてはならないヒロシマ、ナガサキの原爆。
戦争と原爆の悲惨、平和の大切さを忘れてはならないのです。

ラストのシーンには誰もが胸を打たれることだろう。
長崎に原爆が投下されたシーンで、
「空を覆ったキノコ雲が、人を睨みつける巨大な目のように見えた」ことを示すため、
空に目が合成された。

長崎原爆忌75周年 BSテレ東京でこの夏放映された



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1143 ; 昨日と今日

2019-06-05 21:26:04 | 老人と子ども
夏が来ても枯れずに咲いているハルジョン
昨日と今日

昨日「できなかった」ことが
今日「できた」ことに得意満面の幼子

昨日「できた」ことが
今日「できなかった」ことに気落ちの老人


昨日「立てなかった」幼子
今日「立てた」ことに大はしゃぎする幼子の親

昨日「立てた」のに
今日「立てなかった」ことに失望感を抱いた老人


昨日「歩けなかった」幼子
今日 地上の第一歩を「歩いた」幼子に親は大歓喜

昨日 どうにか「歩けた」のに
今日 杖を頼りにしても「歩けなかった」老人

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993 老人と子ども(9) “子どもは生きている、老人も生きている”

2019-03-11 04:50:50 | 老人と子ども
老人と子ども(9) “子どもは生きている、老人も生きている”

赤ん坊は産まれるときは
独りではない
産声をあげたとき
傍らに人が居る

暗い不安な産道を通り抜け
この世に出たときの“まぶしさ”
光を感じた
人生最初の偉業を終え
いま母親の隣りで眠る赤ん坊。

寝返りもできず「寝たきり」の状態にあった赤ん坊
(個人差はあるが)1歳前後で立ち歩きだす
保育園(または幼稚園)に通う頃は、元気に走り回る。

自分で「できる」ことがひとつ一つ増えてくる。
紙おむつに「さよなら」したときは
小さな大人になった気分
得意げになり「ひとりでトイレに行けるよ」


齢(よわい)をひとつ重ねるたびごとに
老人は
昨日「できた」ことが
今日は「できなくなり」戸惑う。

洗濯を干そうと
縁側にある石段を降りたときに
大腿骨を骨折
それがもとで
ひとりでトイレにも行けなくなり
「紙おむつよ こんにちは」の身となる

寝たきりになり10年
寝たきり老人はしぶとさがあり
そう簡単には死なない

でも
にんげんはいつか死ぬ
老いの最期は
独り死ぬこともある
にんげんの手を握り
死にたいものだ

それでも
子どもは生きている
老人も生きている

3.11の辛さがあっても
にんげん 生きている





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892;老人と子ども(8) 巣立と旅立

2018-08-15 16:45:24 | 老人と子ども
舗装がない路を探して歩くのは難しくなってきた 畦路を行く チョッとピンボケかな

巣立と旅立 

子どもは
社会への巣立
老人は
死への旅立ち

再掲blog235 
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876;老人と子ども(7) 終わりがある

2018-08-09 16:00:00 | 老人と子ども
フェンスの向こう側


“終わりがある”

老人 、後がない。
子ども、先がある。

先後(さきあと)の違いはあれど、
終わりがあるのは同じ。
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