僕はびわ湖のカイツブリ

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“男のためのガーデニング”改め

御朱印蒐集~和歌山那智勝浦 那智山 青岸渡寺~

2017-09-08 20:01:11 | 御朱印蒐集・仏像・磐座・巨樹・古墳・滝・登山
 「那智山青岸渡寺」は西国三十三所札所巡礼の第1番札所ですが、三十三所の位置を地図上で見た場合に青岸渡寺だけが南の離れた場所にあることに気付きます。
これは平安時代中期から熊野三山信仰が「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど盛んとなった頃、第65代花山天皇(968~1008年)が出家後に熊野で3年間参籠され、那智山を1番にして三十三所の観音巡礼をされたことが始りとされています。

花山法皇は各寺院の「御詠歌」と作った方ともされており、花山法皇の三十三所巡礼が盛んになっていくことによって御詠歌も人々に広まっていったそうです。
ただし三十三所巡礼にはそれ以前の話があって、奈良の長谷寺の徳道上人が718年に亡くなった時、“冥土の入口で閻魔大王に会い、巡礼によって人々を救うよう”託宣を受けて現世へ戻された時に三十三所巡礼を始められたのが最初のようです。
その時には三十三所巡礼は根付かなかったようですが、その後の花山法皇によって再興されたと伝わります。



青岸渡寺の縁起としては、仁徳天皇の世(4世紀)に印度天竺の僧・裸形上人が那智の滝で修行を積み、現在地に草庵を営んだのが開基だと伝承されています。
那智では裸形上人の名前がよく出てきますが、自然崇拝の場であった那智勝浦の地に仏教を伝来して神仏習合の場へと変遷していく中で裸形上人は大きな役割を果たされた方のようですね。



推古天皇の頃には大和の生佛上人が来山して、一尺の如意輪観音を彫み勅願寺として本堂を建立されたそうです。
しかし、本堂は織田信長の焼き討ちで焼かれてしまい、その後の1590年に豊臣秀吉によって再建されたと伝わります。
この堂の高さは18mで那智の滝の落口の高さと同じだといわれていますが、これは建築時に計算して建立されたのでしょうね。(重要文化財)



青岸渡寺は熊野那智大社と隣接していますが、最初に熊野那智大社の鳥居から入ってしまったので青岸渡寺の仁王門まで一旦石段を降りて、また登り直してと律儀な参拝をしてしまいました。
石段好きなことなこともありますが、寺院や神社には山門や鳥居から入らないと気がすまない性分なのかもしれません。



仁王門にはガラス張りではありましたが、阿形と吽形の金剛力士像が山門で睨みを効かせています。
山門は1933年の再建とされており、同じ時代に造られた金剛力士像かどうかまでは分かりませんが、迫力十分の仁王様でした。





仁王門の内側面では狛犬が寺院・神社を守護しています。これも神仏習合の寺社らしいところなのでしょう。
石段を登りきると手水舎があり、那智の滝の滝壺の水が汲み上げられていました。
冷たい水が出ていましたので横にあった蛇口の水にタオルを浸して体をクールダウンしてしばしの休憩です。



青岸渡寺は、神仏習合の「那智山熊野権現」の時代には最盛期に7寺36坊を有していたとされる大寺だったようですが、明治の神仏分離令によっていくつもの寺や坊が取り壊されたといいます。
かつて如意輪堂と呼ばれた現在の本堂だけは、西国三十三所霊場の第一番札所であったことから取り壊しを免れたそうですが、一時期は熊野那智大社の一部として空堂になっていた時代があったようです。
神社から独立したのは1874年のこと。天台宗の寺院として再興を果たし、現在に至ることになります。



本尊は「如意輪観音菩薩」ですが、秘仏ということですので、お前立ちの如意輪観音坐像が安置されてありました。
お前立ちとはいっても充分に魅力的な仏像だったと思いますし、御本尊も年に3回開扉されるそうですから実際に目にされた方は多いのではないかと思います。



青岸渡寺の境内にはいくつかの伽藍がありましたが、やはり目を引くのは三重塔ということになります。
三重塔は1581年に戦乱によって焼失してしまったようですが、1972年に無事再建されています。



この三重塔の後方には那智の滝が見えますので、これぞ観光写真の定番のような場所です。
朱色の三重塔と滝、山の緑と空...写真撮影されている方が多かったのですが、多分みんな同じ写真なんでしょうね。



那智の滝の後方には広大な原生林が広がっているそうです。
33.5haの森林とされていますが、熊野那智大社の禁伐林として保護されてきたこともあって、温帯性と暖温暖性の植物が入り混じった豊富な植物相の森林だといわれています。



那智の滝の落口をよく見てみると3本の筋が見えます。
3本で落下する滝がすぐに1本の太い滝になって落下していることから「三筋の滝」の別称もあるようです。

また、滝の上部にはしめ縄が貼られていますが、以前にTVで滝の落下口でしめ縄の張替えをされているのを見たことがあります。
133mの高い場所で、水で足元も滑りやすい所での作業は命懸けということになりますね。



日本人は単一民俗だと現在では思い込んでいますが、古代の日本には多種多様な文化を持った民族がそれぞれの土地にいたとされます。
この熊野の地にもかつては独特の世界観を持った民族が暮らしていたのかもしれません。

また熊野には「黄泉の国」への入口があるとされて、熊野灘の遥か彼方には補陀落浄土(観音浄土)があると伝えられてきた土地です。
熊野詣には死んで再生するという「甦り(黄泉帰り)」の意味もあったといわれており、甦りの思いを込めて旅するのは今も昔も変わりはないということですね。


コメント
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