はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

ロスチャイルドの娘

2008年02月10日 | はなし
 この娘の名は、アルミナという。これは少女時代の姿だが、21歳で結婚する。その結婚相手というのが10歳年上のカーナヴォン伯爵であった。今日ここで語りたいのはこのカーナヴォン卿なのだが、彼の姿を描くよりも、アルミナを描いたほうが読者受けしそうなのでそうしてみた。カーナヴォン卿のことに触れるまえに、まず、このカーナヴォン伯爵夫人アルミナについて書いておこう。
 結婚前の名はアルミナ・ウォンベルという。父はジョージ・ウォンベル、そして母はマリー(ミナ)・ウォンベル。このマリーは結婚前、アルフレッド・ロスチャイルドと長い恋愛関係にあった。どうやら娘アルミナはマリーとアルフレッドの間に出来た子どもであるらしいのだ。アルミナの「アル」はアルフレッドの「アル」であり、「ミナ」は「マリー」である。つまりこのアルミナという女性は、ロスチャイルドの血をひく娘なのだ。
 このブログの1月30日記事「絵のない絵本」でロスチャイルド家についてふれた。マイアー・ロスチャイルドの5人の息子の三男ネイサン・ロスチャイルドがイギリスで大富豪となったことはそこで述べた。その巨大金融会社を受け継いだのが息子ライオネル・マイアー・ロスチャイルド。このライオネルには三人の息子がいて、それがナサニエル、レオポルド、アルフレッドである。この三男アルフレッドがアルミナの父親である。
 なぜアルフレッド・ロスチャイルドがマリーと結婚しなかったのか、不明である。アルフレッドは一生、独身であった。魅力的でダンディーな男だったようだ。ロスチャイルドの共同経営者であり、十分すぎるほどの財産を持っている。
 ところで、アルフレッドの兄ナサニエル・ロスチャイルドの長男ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドについて触れておくと、1917年に書かれた世界史上たいへんに重要な「バルフォア宣言」という書簡があるが、これはライオネル・ウォルター・ロスチャイルド宛に書かれたものである。英国が、エルサレムへのユダヤ国家の建設を承認するという内容がそこに記されている。
 このことをここに述べたのは、ロスチャイルドの財産の力がいかに大きいものだったかを表したいからである。それほどの冨をロスチャイルド家はもっていた。

 そんなロスチャイルドの血をひく娘アルミナが、カーナヴォン伯爵と結婚した。第5代カーナヴォン伯爵である彼は、若いときから、競馬、ヨット、自動車に情熱を燃やしていた。と書けばカーナヴォン伯爵もお金持ちとわかるが、ところが、アルミナと結婚するときには、彼は破産状態だった。アルミナと結婚することとなり、カーナヴォン伯爵はアルミナの実父アルフレッド・ロスチャイルドのところに行き、借金の返済に当てる金を要求し、さらにアルミナとの結婚生活が続く限りは財産的保証を約束するという契約を結んだという。

 その第5代カーナヴォン伯爵は1901年にひどい交通事故を起こしほとんど瀕死の状態となった。彼は常軌を逸しているといわれるほどのスピード狂で、その事故は、ドイツ南部の森の中の一直線の道路を走っていて、妻アルミナと待ち合わせの途中だった。この事故が、彼の運命をエジプトに導くことになる。イギリスで、カーナヴォン卿は治療を受け、めざましく回復した。しかし肺の機能が弱まりイギリスの冬の寒く湿った空気の中では呼吸困難になるのだった。そこで、かかりつけの医師にすすめられ、彼は、毎年冬になると暖かく乾燥したエジプトで療養することになったのである。
 そうするうちに、カーナヴォン卿は古代エジプト遺跡のコレクションを充実させることに興味をもち始めた。発掘許可を得て、自分で遺跡発掘を始めた。ところがシロウトではどうにもならない。6週間の発掘の成果は、猫のミイラ一体だけだった! 自分の力だけでは限界があると感じたカーナヴォン卿は、知識と経験のある人物が必要だと感じるようになる。そうして出会ったのがハワード・カーターというイギリス生まれの男だった。
 カーターの父は動物画を描く水彩画家だった。カーター自身もその父の才能を受け継ぎすぐれた画を描いていた。17歳のとき、カーターのその画力を必要とされ、エジプトの遺跡発掘を手伝うようになった。1891年のことである。その後もエジプトに留まり発掘の手伝いを続けた。1904年、経験を十分に積んだカーターは見込まれてエジプト北部を担当する主任検査官に任命される。ところがある酔っぱらいのフランス観光客と乱闘さわぎをおこし、解任されてしまう。職を失った彼は、エジプトを題材にした水彩画を描き、それを観光客などに売ることで生計をたててくらしていた。そんな時期にカーターはカーナヴォン卿と出会ったのである。
 発掘の仕事を失ってしまったカーターと、事故によってエジプトに縁をもったカーナヴォン卿。その偶然が二人にタッグを組ませることになった。カーナヴォン卿が発掘許可をとり資金を出す。カーターは発掘する。カーターは、「王家の谷」をねらっていた。彼はすでにいくつかの墓を見つけた実績があり、「王家の谷」の詳細な地図を作っていた。ツタンカーメンの墓がこの「王家の谷」にあるのではないかとカーターは考えていた。
 そして、たしかにそれはあったのである!
 しかし簡単に出てきたわけではない。3シーズンかけての発掘の結果、「王家の谷」からはなにも見つからなかったのである。焦れてきたカーナヴォン卿はあきらめようと思った。しかしカーターは、せめてあと1年やりたい、カーナヴォン卿が手を引いても自己資金で続けると言った。カーターがそこまで言うのならとカーナヴォン卿はあと1シーズン資金援助を続けることに同意して、二人は握手した。
 そして…!!
 1922年11月5日日曜日、その入り口は発見されたのだった。
 ツタンカーメンの墓、エジプト考古学最大の発見であった。狂喜したカーターはカーナヴォンに電報を打ち、カーナヴォン卿のエジプト到着を待って、11月26日、ついに二人はそこへ入ったのである。

 「室内の細部がゆっくりと霧の中から浮かびあがってきた。かずかずの奇妙な動物、彫像、黄金。いたるところに黄金のきらめきがあった」(ハワード・カーター『ツタンカーメン発掘記』)


 ツタンカーメンは、正しくは「トゥトゥアクアメン」だそうだ。そのように表記してある本もある。この「アメン」というのが重要なところで、アメン神という古い神の名前である。この発見の驚くべき点は、それが発見されたことよりも、3200年以上の長い間、だれにも発見されることなく保存されていたいう点である。

 ところで、僕はあまりツタンカーメンには興味がなかった。ミイラにそれほど興味がわかないからであるが、このツタンカーメンの墓の発見に関して、大いに僕の気を惹いたのは、その日付である。1922年11月5日。
 僕がこのブログでエジプトを調べはじめたのは、ただ単に、アインシュタインが大正時代に日本にやってくるそのときに、スエズ運河を通ったはずだ、というのが理由である。すでに書いたが、アインシュタインは1922年10月8日にフランス・マルセイユを出発している。するとスエズ運河を通るのは10月15日頃だろうか。
 ということは、ア博士がエジプトを通過し、その約3週間後に、この世紀の大発見がうまれるのである。ア博士とツタンカーメンはなんの関わりもない。ただ、アインシュタインとロスチャイルド家とがユダヤ人であることが、妙なつながりをしていて、おもしろい。そんなわけで、この記事を書いた。
 スエズ運河を英国が手に入れるための資金がロスチャイルドから提供されていることはすでに書いたが、ツタンカーメンの発掘資金もロスチャイルドから…。ついでに書くと、これより前、日本がロシアと戦争することになったとき(日露戦争1904年)、その戦争資金も(表向きには断っているが実際は)ロスチャイルドから出ているのだという。
 …言葉もない。どんだけ金持ちなのよ~!!

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