はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

フィッシャー再び、1992

2008年02月20日 | はなし
 チャンピオン戦でボビー・フィッシャーは「賞金の額」にこだわった。彼のおかげでチェスの賞金額ははねあがった。にもかかわらず、彼はチェスの公式戦をあっさり捨てた。もし彼がお金にこだわる人間であるなら、チェスを指し続けるはず…。賞金を吊り上げた彼の価値観が、金銭を中心にしていたわけではないのは明らかである。理由はわからない、とにかく「天才」を有したままボビー・フィッシャーは表舞台から消えた。
 そうしてボビー・フィッシャーの名前は伝説になった。伝説とは、遠い過去の話のはず… ところが、その伝説のボビーが再び現われたから、世界は驚いた。

 1992年、対局の場所はユーゴスラビア。ある富豪が賞金を出し、フィッシャーとスパスキーの対局を企画したのである。フィッシャーはその対局に勝利し、そのニュースは世界に流れた。僕もTVか新聞でそのニュースを聞いた。「フィッシャーってほんとにいたんだ」と思ったものである。なにより、6億円というその賞金の額に驚いた。
 僕はその対局の内容を知らないし、見たとしてもわからない。羽生善治の言葉を借りよう。羽生さんは、その対局について次のように述べている。

 〔私が舌を巻くのは、フィッシャーさんは二十年ぶりの公式戦にもかかわらず、その実力、才能が色褪せていなかったことです。(中略) おそらく沈黙を守った二十年間、チェスの研究を怠らなかったのだと思います。〕

 1992年のユーゴスラビア…そこはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まり、アメリカの経済制裁下にあった。その下での対局での賞金獲得は商業行為に当たるとして、対局前、アメリカ合衆国はフィッシャーに警告書を送った。するとフィッシャーは記者会見でその警告書にツバを吐いてみせた。そして対局に臨み、6億円の賞金をかっさらい、その後アメリカに帰国せず、消えた。
 フィッシャーはアメリカ政府から制裁違反で起訴された。それから10年以上の間、フィッシャーは東欧の国を転々としていたという。


 いま、ユーゴスラビアという国はない。ヴァルカン半島にあるこの、いわゆる「旧ユーゴ」は、次々と民族独立の動きが起り、今もそれは続いている。つい数日前には、セルビアからコソボが独立を宣言し、それを承認するとかしないとかを各国が発表している。だいたい最近までセルビアはセルビア・モンテネグロと言っていたと思うが、いつのまにか分かれているし。(このときはすんなり世界に承認されたようだ。)
 僕が生まれたときには「ユーゴスラビア」があって、1992年まではやっぱりあった。ところがソ連の解体後、いきなり消滅して、次々とこまかく分かれている。マケドニア、クロアチア、スロベニアも元「ユーゴ」だ。
 サッカーのストイコビッチ氏は1994年に日本にやってきた(名古屋グランパス在籍)。ストイコビッチの国はセルビアだ。 オシム前日本代表監督は、ボスニア・ヘルツェゴビナ。
 なんとややこしい地域だろう。


 1992年のその対局でフィッシャーの対戦の相手は、72年と同じスパスキー。だとすれば、その対局に勝ったこと自体は驚きに値しない。スパスキーもまた、フィッシャーと同じだけ年齢を重ねているのだから。ただしスパスキーのほうはチェス・プレイヤーとして現役で腕を研ぎ澄まし続けてきたわけだし、それにその対局の内容が素晴らしいものであるということは上記のようにわれらが羽生善治が保証してくれている。そしてなにより注目すべきは、「ボビー・フィッシャー」という名前のニュース価値である。その名前を聞くだけで、何故、チェスを知らない僕まで、心ときめくのだろう。ふしぎな男である。
 フィッシャーはかつて「ソ連」とたたかい、次は「アメリカ政府」にツバを吐いた。2001年の9・11テロ… フィリピンにいたフィッシャーは「なんていいニュースだ」と発言したという。(ボビー・フィッシャーはシカゴ生まれ、ニューヨーク育ちである。)

 ボビー・フィッシャー、次に現われたのは2004年、日本。

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