虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

「山中一揆」山中一揆義民顕彰会

2007-03-31 | 一揆
岡山県真庭市の蒜山郷土博物館で販売している「山中一揆」(山中一揆義民顕彰会、平成11年刊)を送ってもらった(1200円)。

「山中一揆」は津山藩だけど、現場は津山市ではなくて、真庭市だった。北は大山国立公園がすぐ近くだ。

約80ページの小冊子だけど、地元の碑の写真や、一揆関係地図などものっていて、貴重だ。内容は、一揆の概要、史跡、各村の一揆時のようす(各村の教育委員会が書いている)など。

地図を見ると一揆の史跡(主に墓だが)は真庭市内に14箇所もある。首無し地蔵というのが2箇所もある。
横溝正史の「八墓村」は鳥取の県境にある岡山の「八墓村」が舞台だが、この地図で見ると、鳥取の県境は「八束村」とある。このへんを舞台に想定して書いたのかも(ただし、あのモデルになった事件は隣の津山の事件)。

処刑者51名とある。百姓一揆の中でもこの犠牲者の数は最大だろう。しかも、その全員の名前(もちろん、村名も)がわかっている。江戸時代から、墓や碑は建てられたようだ。とにかく、すさまじい一揆だ。江戸時代からずっとこの地域では一揆のことが語り続けられたにちがいない。

ネットで偶然にこの本が出ていることを知ったのだけど、地域の百姓一揆の発掘研究は、まずは各町や各村の教育委員会の仕事だろう。郷土の偉人や伝統を学んでほしい、と安部首相はいっているそうだが、百姓一揆を忘れてもらってはこまるぞ。

他の地域でも、市や教育委員会発行の一揆についての解説書がきっとあるにちがいない。しかし、どこで、どんな本が出ているのかわからないのが残念だ。書店には出ていないし。この本だって、ネットで「山中一揆」を検索してみたが、出ていなかった。

愛媛県日吉村の教育委員会では武左衛門一揆を藩士が書きとめた「庫外禁止録」を出し、福島の保原町歴史文化資料館からは「金原田八郎伝」を出しているが、こんな情報を得るのはなかなかむすかしい。だれか全国の市町村に問い合わせて、まとめて教えてくれないものかなあ・・・。




万石騒動③

2007-03-30 | 一揆
村人たちは、11月16日に江戸に到着。奉行あてに、「恐れながら書付ご訴訟申し上げ候」という長い訴状を書く。村の実情、前例にない増税、門訴をしたこと、お墨付きをもらったこと、名主が牢屋にいれられたこと、などの今までの経過、また、神社仏閣の木を切ったり、酒屋の税をとったりする「新御役人」川井藤左衛門の執政では誰一人やっていけない、と訴える。漢文です。

11月20日、老中秋元但馬守に駕籠訴。成功したと喜んでいたが、宿に但馬守からの使いがあり、「願いの筋は屋代家の一門に申し述べよ」と訴状を返してくる。しかたなく、屋代家の一門、室岡甚四郎の屋敷にいく。「おのれらはにくいやつばらかな。領主を相手取り、老中方に訴訟に及ぶとは、不届き至極だ!」と罵倒される。
11月22日、老中安部豊後守へ駕籠訴。しかし、老中秋元但馬守と同じ反応で、屋代家一門にいけといわれる。駕籠訴は取り上げられなかった。

江戸での駕籠訴騒ぎを知った川井。まだこりないのか。おれを甘く見ているのか、と思ったかどうか。河合は陣屋の牢屋に入れていた6人を引き出し、そのうち、3人を詮議なしに死刑にしてしまう。3人を頭取と思ったのだろう。頭取と思われる名主に厳罰を与えれば、江戸に出ている百姓たちも恐怖し、ひきあげるだろう。川井はあくまでも強気をくずさない。百姓をあまく見ている。これが武士の見方なのかもしれないが、大失策だ。

11月26日、処刑されたのは、湊村角左衛門、国分村長次郎、薗村五左衛門の3人。刑場は国分村萱野が芝。刑場と3人の石碑は今でも文化施設として現地に保存されている。

3人が処刑されたという悲報を聞いた江戸にいる百姓たち。すぐに追訴状を書き、3人が何の詮議もなく死罪にされたこと、2人は生袈裟、1人は打ち首で、なんともご無体、ご非道なふるまい、と訴える。

老中安藤豊後守に駕籠訴。3人の名主が処刑されたことを聞き、これは捨ててはおけないと、訴状を取り上げ、評定所の吟味にかけることになった。

評定所に取り上げられたあと、屋代家一門はおおあわて、先に「うぬら、にくいやつばらかな」と百姓たちをののしった室岡甚四郎など一門があつまり、すべての要求はのむから、訴えは取り下げてくれないか、とたのんでくる。今ごろ、あわてても遅い。

吟味は12月11日、12月25日、2月6日、3月21日、4月25日、7月22日にあり、川井藤左衛門父子のみ、打ち首。
郡代林武太夫、代官高梁市左衛門は、追放。
領主屋代越中守忠至は、領地、上屋敷召し上げ、しかし、先祖の功をかんがみて、浅草御蔵米3000表となる。


百姓たちには、駕籠訴の罪は問われず、早く国元に帰り耕作大切にせよ、の言葉。百姓側の勝利に終わるが、勝利したのも3人の刑死した名主のおかげとすぐに石塔を村で費用を出し合って作り、以後、毎年11月26日に回向することになったそう(今も三義民命日祭が毎年おこなわれている)。
この一揆は百姓たちはいっさい暴力は使わず、団結した行動で、指導者はだれだかわからないが、見事なものです。

吟味の中で、代官高梁に奉行が問う場面がある。
奉行「その方は藤左衛門の仕方、よろしきと思ったのか」
高梁「わたしは、藤左衛門の下役ですので、諸事、指図を受けただけです」
奉行「悪しきことと思ったら、止めるべきだろう。代官役をつとめながら、すべて藤左衛門まかせとは、不届きしごく」

北陸電力の原発事故の隠蔽。所長が隠蔽するといったら、所員、だれも反対するものなかったとか。まったく不届きしごく。しかし、勤め人にはだれにでも毎日のようにある局面だ。この一揆でも代官側に農民に同情する侍もいた。行貝弥五兵衛という侍。しかし、川井の逆鱗にふれ、3人の名主が処刑されたときに、斬首されたらしい。

以上は、「徳川百姓一揆叢談」にある「万石騒動」を読みながら書きました。







万石騒動②

2007-03-30 | 一揆
9月24日、二人の名主が江戸の上屋敷に出頭すると、川井藤左衛門がこういう。「今度の一件は必ず頭取がいるだろう。その名を正直に言え、さもないと」と刀をぬき、討ち果たすまねをする。二人は、願いは百姓一同のもので、頭取はいない、と答えると、川井は、さらに7人の名主を呼び出し吟味するぞ、という。

川井は、百姓をなめていたのですね。領民など、おどかせば、恐れ入りました、と文句をいわなくなるだろうと思っていたのではないか。平成の今の国民は、たしかにそういう面があるのだけど、300年前の百姓はちがいます。

二人が江戸に留置され、今度はまた7人の呼び出し、これはほっとけない、」おれたちも江戸に出ようと、百姓たちは続々と江戸に出、小伝馬町、博労町の宿に分宿する。

川井は、このようすを聞き、江戸で騒動がおきれば、屋代家の恥、これは百姓たちをすぐに国に帰さなくては、と二人の名主を呼び、「願いの趣旨、聞き届けるから、この書面を百姓たちに見せ、帰国させろ」という。箱に入った封書には宛名もない、何が書いてあるかもわからない。うっかり者なら、へへー、ありがたき幸せ、なんて頭をさげながらこの箱をいただいてすぐに引き帰したかもしれない。
しかし、百姓たちは、こんなわけのわからないものは受け取りがたい。明日は、屋敷の門前で門訴をする、という。二人の名主は川井のもとに引き返し、この封書はかえって百姓たちをかえって激怒させています、たしかなお墨付きを出してください、と注進。川井はしかたなく、「願いの趣旨は聞き届ける。陣屋の林武太夫に申し渡す」という書付を渡す。願いは聞き届ける、といっても、年貢の具体的な回答はない。こんな回答で国許に帰るわけにはいかない、と門訴を決める。

11月7日、約600人の村人が屋代家の門前につめかけ、訴状を渡す。川井は、しかたなく、陣屋の郡代林武太夫あてに、「願いの通り、年貢は過去10年間の年貢で決めることにした。正式の文書(ご免状)はあとで送るので、届いたらそのようにはからえ」というお墨付きを渡す。

百姓たちは国に帰り、林武太夫にそのお墨付きを見せるが、もちろん、郡代の手には渡してしまわない。もし、渡してしまったら、握りつぶすこともできる。百姓たちは、郡代にそのお墨付きの受取書をわたし、箱に入れて大切に保管する。
川井は、郡代林武太夫を「ばかめ、なぜ、そのお墨付きを渡してしまったのだ」と思ったにちがいありません。あのお墨付きはただただ百姓を国に帰すための方便だったのに。

11月12日、川井は村人を追うように江戸をたち、国もとの陣屋にいき、明日は、名主ども陣屋に出頭すべし、の触れを回す。
名主たちが集まると、川井は、「先ごろ、江戸屋敷で渡したお墨付きは返却せよ」
という。名主が「あれは正式のご免状とひきかえにわたすものです。今はおわたしできません」と答えると、川井は怒声を発し、6人の名主を縛り、牢屋にほりこんでしまう。おそれいったか!

しかし、川井が怒れば怒るほど、村人の対抗心は高まる。再び、江戸に出て、老中に駕籠訴しようと決定。600人が江戸にいく。

万石騒動(千葉)①

2007-03-29 | 一揆
今まで書いたことない一揆です。
千葉県の館山市周辺、江戸時代は安房国といって、屋代越中守忠至の領地でした。27か村、石高約1万石ですので、この領地で起きた一揆を万石騒動とよびます。
時代は正徳元年(1711年)、赤穂浪士の事件から10年後、江戸時代ど真ん中、今から300年前くらい前になります。

義民は3人、3人の義民碑(墓)はこの騒動の直後から立てられ、江戸時代を通して(今でも)村人に祭られてきたというから珍しい。ふつう、義民の墓や碑は江戸時代はおおやけには立てられなかったと思うのに。

悪役というか、この一揆で断罪された侍はこの藩の御用人上席家老相談役川井藤左衛門。もと、浪人です。紀州の出身とか、代官所に追われた過去があるとの説がります。

殿様の屋代忠至が大坂城番をしていたころに知遇を得、江戸に戻るときいっしょに江戸屋敷にいって出入りを始める。再度、殿様が大坂勤番になるとまた大坂に従い、その有能ぶりを認められ、家臣に。知行150石。

殿様の命令、というか、どこの殿様の願いも、財産をふやせ、金をつくれ、でしょう。浪人から重臣に抜擢された川井に期待されたのは財政改革家としての辣腕でした。

川井は新田開発に取り組みますが、それだけでは急場の役にはたたない。で、領地の木を大量に切り出して江戸で売って金を作ります。神社仏閣の木まで切り出します。作業も農作業で忙しい百姓を動員する。このころ酒屋さんの税は幕府はなくしたのですが、この土地では依然として酒屋から税をとりあげる。

正徳元年。新しい年貢の布告。今までの慣例をまったく無視したもので、最もできのよい上田から家来に刈り取らせ、量の計算も勝手に割り増し、これを標準として命令。例年よりも、6000俵の増税(2倍)。改革には痛みがつきもの。領民よ、痛みをがまんしてくれといったかどうか。しかし、領民はがまんできない。

9月9日から8日まに村民は北条にある陣屋におしかけ、嘆願。しかし、陣屋は面会せず、願い事があれば書面にて出せ。領民は、「過去10年間の年貢のどの年の年貢でもいいですから、その年貢にしてください。どんなに高くても、過去10年以内の年貢ならいやとはいいません」の書面を出す。陣屋は、「もはや決定済みだから是非もない。この決定に違反すると重罪に処すぞ、とおどかす。

9月22日、陣屋の郡代は二人の名主を呼び出し、江戸の上屋敷へ出頭せよ、と命令する。名主を呼び出して大目玉をくらわそうという魂胆。江戸の上屋敷には川井藤左営門が待っている。つづく。

「大殺陣 雄呂血」を見た

2007-03-29 | 映画・テレビ
「大勝負」は録画に失敗。でも、「大殺陣 雄呂血」(市川雷蔵、田中徳三監督、1966年)は成功。見た。白黒作品。

岩代藩(10万石)の侍が、水無月藩(1万石)の道場の悪口をいったので、水無月藩の道場の若侍が岩代藩の侍を後ろから斬ってしまう。岩代藩は下手人を出せと道場にのりこむ。しかし、下手人(水無月藩の家老の息子)は名乗り出ない。相手は10万石、こちらは1万石。下手人を出さないと、解決はむづかしい。で、水無月藩の師範役市川雷蔵は上役(この娘は雷蔵の婚約者)から、下手人ということになり、出奔してくれ、その間、岩代藩とは穏便に解決するように努力する、1年後、藩に復帰させる、とたのまれる。

雷蔵はお家のためと、下手人の代わりに、出奔し、苦労しながら旅をつづけるが、1年後、藩に帰ると、上司は死亡していて、自分はほんとうの下手人にされている。藩にも友にも裏切られたことを知る。
市川雷蔵は、代官所(追われている途中、代官も斬ってしまう)、岩代藩、水無月藩に追われる身に。武士道残酷物語だ。

旅の途中、助けてくれる宿のおかみ(藤村志保)は殺され、婚約者の八千草薫は雷蔵に謝罪をしたいと雷蔵を追って旅に出るが、旅籠の女郎として売られてしまう。なんとも救いようがない話。

やくざの用心棒として旅籠に入ったとき、八千草薫と再会。しかし、そのとき、旅籠のまわりは、すでに代官所の捕り方、岩代藩、水無月藩の追っ手200名以上にかこまれていた。こんなに囲まれていたら武蔵でも観念してしまうぞ。

まず代官所の捕り方との闘い。はしご、さすまた、棒、荷車、戸板などをくりかえし繰り出してくる捕り方道具が見もの。次、水無月藩の追っ手数十人との闘い、次、岩代藩の追っ手たち数十人との斬り合い。血は一滴も出さないが、まさに大殺陣。楽しめる。

とうてい助からない。最後は八千草薫も雷蔵も死んで終わりか、と思っていたら、みんなみんな斬ってしまって、八千草薫と雷蔵が呆然とたちすくんで顔を見つめあうところで「完」の文字。うん、ここで終わってよかった。それにしても、後ろから岩代藩の侍を斬り付け、自分が下手人であることを名乗り出なかった卑怯な若侍はどうなったのか。このまま死ぬところを見せられては救われなかったところだ。

美濃郡上藩一揆(東洋民権百家伝)

2007-03-28 | 一揆
郡上一揆についても「民権百家伝」に書いていたが、著者小室信介の時代には、まだ「その名隠滅して伝わらず」で、義民たちの名も現在のようにはわかっていなかったようだ。で、この本では、越前の杉本左近なるものの名をあげていた。現代の「郡上藩宝暦騒動史」には義民伝ものっているけど、杉本左近なる人物は出てこない。越前の人だからだろうか。杉本左近は、実在の人のようだ。
また、昔、書いたものをコピーします。一揆があったよ、というただの紹介だけの記事ですが。

美濃郡上藩一揆(岐阜)
( 8) 98/04/25 12:03 03494へのコメント コメント数:1

岐阜県の「郡上(ぐじょう)八幡」という地名は知っていました。
郡上踊りというのが有名なんだそうですね。アユもうまそうだが。
山に囲まれ、川のきれいな小さな静かな村里なのだろうか?
この静かな村里に領主を押し倒すエネルギ-があったわけです。

この踊りが生まれたのもこの一揆が原因とする有力説があるそうな。
一揆によってズダズタにされた四民の融和をはかるために、
新領主が保護奨励したとか。また、この盆踊の歌詞の中に「郡
上義民伝」という一揆の歌詞もあるそうです(大石慎三郎「田沼意次の
時代」)。

経過とかを書いていたら、長文になるので、「日本史年表」(岩波書店)
に出ている記事を引用します。

*宝暦元年 美濃郡上藩の庄屋ら、年貢軽減を要求して、江戸藩邸に出訴。
     (これは、直接、一揆とは関係はないのかもしれないけど)
*宝暦4年 美濃郡上藩の農民強訴、祖法の改悪を阻止。(ここから本格的に
     一揆が始まる)
*宝暦5年 美濃郡上藩の農民、庄屋らの祖法改悪承諾を怒り、老中にかご訴。
*宝歴8年 悲政により農民が越訴した責任を問い、美濃郡上城主金森頼錦(よ
     りかね)を改易する。

宝暦4年からでも4年もかかった闘いですね。
城主金森頼錦は、幕府の奏者番につき、出世コ-スを進むために資金が必要で、
年貢(税)のとりかたを改悪して収入をふやそうとしたそうな。この政策には
幕閣の人間も協力していて、ために、老中や若年寄りも処罰されています。
そして、その空いたポストに登場してきたのが、田沼意次さん。この年から評
定所に顔を出せるようになります。
この郡上一揆は田沼時代の幕を開けた一揆なのかもしれません。

さて、「東洋民権百家伝」にはこの郡上一揆の概略は書いてあるものの、残念な
がら頭領たちの史料見つからず、ということで、わずかに白山神社(越前大野
郡)の杉本左近のことをのべているだけです。
白山神社(社領500石)のある大野郡は、美濃郡上藩の領地らしく、領主から理不尽
なことを命ぜられ、江戸に直訴するというものですが、長文になったので、
おしまい。次の話に移らせてもらいます。
                               

涌井荘五郎(明和5年新潟)

2007-03-28 | 一揆
9年前、はじめて一揆について歴史フォーラムで話しだしたのがこの話。このあと、一揆観光とかだんだん悪のりしていった。一揆についても難しいところはかっとばし、自分がかじったところ、わかるところだけ、興味のあるところだけしか話していません。

涌井(わくい)荘五郎(新潟)
( 8) 98/04/24 00:47 コメント数:1


宝天(宝暦-天明)の百姓一揆を$岩波文庫「東洋民権百家伝」の中から
とりだして紹介しま--す。

「東洋民権百家伝」は明治16年に民権家小室信介によって編集された、
日本での最初の、そして、その後は皆無の百姓一揆の頭領列伝です。

講談調で、善は民衆、悪は官といったところがなきにしもあらで、史実的
には確かでないようだけど、しかし、現代でも、この手の本がないのだか
ら、貴重だと思うな。

まずは、涌井藤四郎(藤五郎にはひとつ足りない奴です)。
この本に、初め藤四郎、後に荘五郎と改めた、としています。すると荘太郎
と藤五郎を合体させたような奴ですな。農民ではなく、町人です。百姓一揆とい
うより、これは町人闘争というべきか。

この本には、天明期と書いてありますが、実際には、明和5年、山県大弐が
処刑された翌年のことです。岩波書店「日本史年表」には「9月、越後新潟湊
の町人、御用金賦課に反対して、うちこわしを行う」と出ています。

越後長岡藩(牧野家)も財政難だったのでしょうね。
新潟の町役人(町名主?)と奉行は過酷に御用金(特別税みたいなものか?)を
とりたてるので、藤四郎は人々の困窮をだまっていられず、御用金のとりた
てを延期してほしいとか、町役人は公選にせよ、とか、つまり、市民の立場から、
お上に請願行動をしようとしたらしいですね(むろん藤四郎一人ではなく、かれ
は代表者だったのでしょう)。

しかし、藤四郎たちは密告され、投獄される。これを機に町人たちの怒りは爆発し、
「藤四郎を奪いかえせ」と役所に集団抗議行動。
この本(東洋民権家伝)では、鎮圧に出動した奉行所部隊との衝突がおもしろく書
かれています。

奉行所勢は一揆勢に鉄砲をうって脅かし、一時、一揆勢は散乱しかけるのですが、
この時、「一揆の中より、黒色の衣服にしかと身を装いたる一人の猛者あらわれ
出、いかに方々、恐れたまうな、空砲なるぞ、逃げるな、すすめ」と励ます人が
現われるのです。この言葉で一揆勢は勢いを盛り返し、反撃。役人側は敗走。

役人側、今度は実弾をこめて出動。今度は実弾を発射し、一揆勢もあわてる。
しかし、そこで、また「以前の黒装束の者あらわれ出、またも人々に指図して手
早く屋根に上らしめ、薪(瓦?)をとりて雨のごとく」なげつけさせたそうです。
で、このため、役人たちも鉄砲をうつこともできず、再び、退散。

一揆勢はその日は町役人他、恨みある家々をうちこわすのですが、翌日、またまた
奉行所側との対決があります。
石垣という町奉行が馬にまたがり、部下を従えて、一揆勢の前にきた時、またもや、
あの黒装束の男が「しゃ!物々し!」と笑ってあらわれ、石垣とわたりあい、
「ふみ込み、ふみ込み打ち込む武勇に、石垣、これをあしらいかねて、次第に後へ
と逃げ退きほとんど危うき」という状態に。
決局、この奉行は取り逃がしますが、部下が一揆勢につかまり、命をとられそうに
なるのですが、黒装束の男は、人の命をとっても何の手柄にもならぬ、逃がしてや
れ、と一揆勢にさとす。

どうです?まるで鞍馬天句か怪傑黒頭巾ではないですか(当時はテレビや映画はなか
ったはずだが(^^))
この黒装束の男(たぶん浪人?)の名は五賀野右衛門というらしい。

長くなったので、あとはまとめます。
決局、藤四郎は釈放され、御用金も延期になり、奉行が逃亡してしまったため、2か月
間、民衆が町を支配する状態になります(なにせ、この本だけでは詳しいことはよく
わかりませんが)。もちろん、藩権力がこれをほっておくはずはなく、そのうち藤四郎
も死刑になり、黒装束の男も牢死します。

天保期に「江戸繁昌記」を出版した寺門静軒という浪人も、この一揆について書いてい
るそうです。
                                藤五郎

これからのNHKBSの時代劇

2007-03-25 | 映画・テレビ
NHK衛星の映画を調べてきた。うーん、今ひとつ、ウオーッと思うのがない。
見てみたいな、と思うのはこれ。

3月28日「大勝負」片岡千恵蔵、大友柳太郎
やくざが跋扈する関東が舞台。

3月29日「大殺陣 雄呂血」市川雷蔵
阪東妻三郎のリメーク版だが、阪妻のもこれも見たことがない。

4月19日「眠狂四郎無頼剣」市川雷蔵、天地茂
眠狂四郎はシリーズとして何作か放映するそうだ。
中でも、この無頼剣は天地茂の役柄がいい。なんと大塩格之助。水野忠邦をうつべく江戸を火の海にする計画を持つ。

山田洋次の「武士の一分」とうとう見にいけなかった。ビデオを待つとしよう。

甲州郡内騒動3

2007-03-25 | 一揆
天保7年甲斐国大騒動(8)
( 8) 01/07/09 20:20 10537へのコメント コメント数:1

一揆観光、まいどありがとうございまーす。ガイド嬢のおふじでーす。

おふじ「いよいよ甲斐騒動も2日目(22日)です。そろそろ、帰りましょう
    か。」

五郎「え、もう旅は終わりかい。始まったばかりでしょ?」

おふじ「ツアーって、2泊3日かくらいがちょうどいいのよ。それに武七さん
    も、兵助さんも、2日目からひき返すんだから」

五郎「どうして?たった2日で?」

おふじ「やはり、郡内の頭取では、国中の無宿、貧民たちを統制することはで
    きなかったのよ。郡内勢の目的は、国中の米穀を押し借ることだった
    でしょ。米を郡内に融通できればよいのよ。でも、国中の貧民、無宿
    たちにとって、米を郡内に融通することなんかどうでもいい。富家、
    大家をうちこわし、借金証文など諸帳面を焼き捨て、その場でおもい
    きり飲み食いし、大暴れしたかったのかも。国中に入ってから、武七
    や兵助たち郡内の頭取の統制を離れて、勝手に大暴れする無宿者たち
    が、力をもってきたのね」

五郎「自分の土地の人の家をうちこわしするのは、いくら強欲な富家でも  
   ちょっと躊躇するよね。その点、無宿は、村から離れた者だし、流れ者
   でもあるしで、なんの遠慮もなく暴れることができるよね。言うこと、
   やることは勢いがあるし、命や生活を捨ててしまってる強みがあるね」

おふじ「武七、兵助さんもきっと当惑し、これは失敗だ、と思ったでしょう 
    ね。もともと風土も気質もちがう国中に押しかけようとしたのがあま
    っかたかも。国中もんは、国中もんで、やりたいことがあったかも。
    でも、熊野堂の小川奥右衛門の屋敷までは、前に談判しにいって
    馬鹿にされたことだあるから、意地でも、顔をださなくちゃならな 
    い。実は頭取の武七さんは、病気になってしまうの。年老いてること
    もあるけど、やはり、計画が狂ったための心痛よ。もうおれの出る幕
    は終わった、ついていけない、と思ったかも。で、兵助さんが、郡内
    勢をひきつれていくことになるの」

五郎「2日目のこと話して」

おふじ「2日目朝、兵助は、一揆勢を大野河原に集結。村役人に朝飯の支度を
    させ、腹ごしらえをしてから、出発、奥右衛門の屋敷に押し寄せま 
    す。はじめは押し借りの交渉の計画だったけど、もうこの段階では、
    うちこわしに酔った無宿ものたちも大勢いるし、交渉どころではない
    ね。
    兵助もこの時はこう叫んだとか。
    『よくもわれ等を罵りたり。今日、そのお礼に参上せり。快くわれ等
    の好意を受けよ!』
   
    うちこわしのありさま、「郡内騒動」にはこう書いてるわ。
   
    『本家3軒その他5箇所打ちこわし、質物、衣類、諸道具、諸帳面、証
    文類残らず庭へ持ち出し、山のごとくに積み重ね、四方より火をかく
    れば、たちまちぱっと萌えあがり、田だ一時に数多の品々煙となって
    焼け失せぬ。片方にては、穀倉をうちあけ、数千俵引出し、小口を切
    り破り、そばなる泉水に打ち明け、庭中へ撒き散らし、小砂の上を踏
    むがごとし。鍋・釜・瀬戸物の類を出して槌かけやにて打ち潰す」

五郎「奥右衛門の家はこれでつぶれてしまったの」

おふじ「なんの、これしきでびくともするもんかい。明治になって、このへん
    の村6つを合わせて春日居村が誕生したとき、奥右衛門家の一部は村
    役場になってるし、村長にもなってるの。奥右衛門家(敷地2407坪)
    の長屋門は今も残ってるそうよ。打ちこわしになって一家破滅になる
    ような家はうちこわしなんかしないでしょうよ。」

    さて、武七さん、兵助さんは、奥右衛門宅をうちこわしたあと、郡内
    勢をつれて郡内に帰ります。でも、途中で、役人が手下を連れて二人
    を捜索しているという情報を得、二人は天目山に登り、寺に潜みま 
    す。これが22日の夜。兵助さん、武七さんの出番はこれでオシマイ。

    しかし、国中の一揆勢はまだまだ暴れまわります。新しい男たち
    が頭取となって登場します。
    さあ、五郎ちゃん、今日はおうちにお帰り。
五郎「はーい、おねえさま」
天保7年甲斐国大騒動(9)
( 8) 01/07/12 22:03 10553へのコメント コメント数:1

みなさまー、甲州一揆観光もそろそろおしまいに近づきました。

 のどか「所々より寄集人数およそ一万人あまりにて、同廿二日朝五時すぎ甲府
    在々へ押し込み候につき、勤番支配よりも町境まで防之人数差し出し
    候えども、防ぎかね候哉、一同御城内へ引き揚げ候おもむき、」

おふじ「史料って読みにくいよね。それに地名が出て来ても場所の感覚がつかめない
    から困るね。でも、なぜか臨場感はあるね。


    甲府市内が大騒動になってるのに、一同、ひきあげとは、なさけないよね。
    でも、3人の若侍が城を抜け出し、徒党の逮捕に向かって抜群の誉れを得た
    という話もあるそうです。ほんまかいな、どこの史料に書いてるの?と、こん
    なとき、史料をこの目で見て納得したくなる時があるんです」

のどか「武七、兵助初人数五六百人ほどは廿二日夕刻には郡内領へ引き取り候由、そ
    れより甲府へ押し入り候人数過半は無宿、盗賊、乞食、などの者の由に
    相聞き申し候」


五郎「そうそう。これ。武七、兵助に代わって新た頭取になって一揆を指導したもの 
   は、だれなの?」

おふじ「「郡内騒動」には、この年の11月、石和(いわさ)の代官所から、江戸表に向
    けて目籠3人、ほだし籠39人が警戒厳重な中、送られた、とあります」

五郎「目籠、ほだし籠って、どんなの?」

おふじ「知らん。でも、目籠は、頭取級の重要人物が入ってるって感じじゃない?
    その3人とは、久保村百姓周吉
          久野村無宿吉五郎
          長浜無宿民五郎      の3人よ」

五郎「どんな人?」

おふじ「まず、周吉さんね。この人の仕置き書は「郡内騒動」にあるわ。
    周吉は大工職だったらしい。積極的にうちこわしに参加し、頭取(これは、武
    七か兵助か)から革羽織をもらいうけ、赤い打紐を襷にし、長脇差をさして八
    面六臂の活躍したそう。大工職ゆえ、たくみに家をうちこわし、自然、頭取に
    なり、徒党の者たちを指揮し、紙幟などを人足に持たせて押し歩き、宿では、
     村々困窮の者へ、米や金を配り、富家と掛け合い、不承知の場合は、うちこ
    わしをしたって。また、村から人足をさしだして駕籠に乗って、移動、
    番所を駕籠に乗ったまま押し通ったり、代官の手代手付と差し向かった時に
    は、脇差を抜いて立ち向かったとか。最後はこうです。公儀を恐れざるしか 
    た、重々不届き至極につき、存命に候えば、石和宿にて磔」

五郎「つぎ、無宿藤五郎は?あ、ちがった、吉五郎は?」

おふじ「無宿吉五郎は、飢饉のため、食べることが困難になっていたの。でも、ちょう
    ど武七たちが騒動をおこしたのをチャンス到来と考え、金銀を盗むべし、と参
    加し、頭取になっちゃうの」

五郎「無宿ものが頭取になるということは、配下に無宿者たちがたくさん参加してい 
   た、ということだね」

おふじ「徒党の者どもを指揮し、家をうちこわし、米穀焼き捨て、衣類引き裂き、
    諸帳面証文まで焼き捨て、酒食を差し出させ、ほしいままに飲み食いする。
    その上、大脇差を帯び、旗印を人足に持たせ、代官手代手附が出張してきたと
    きには、石礫を投げろ、と指揮し、御用と書いた提灯を奪い、持ち歩く。
    公儀を恐れざる仕方、重々不届きにつき、磔と書いてあるわ」

五郎「石を投げさせた、というのがおもしろいなあ。最近、石合戦なんかしたら、先生
  におこられるもんなあ。昔はみんなうまかったんだろうなあ」


おふじ「次の長浜村無宿民五郎なんだけど、この民五郎については、「郡内騒動」には
    仕置き書みたいなのはないの。
    ただ、日本民衆の歴史5世直し(三省堂)に青木美智男さんが、「齢50になる
    民五郎は、無宿渡世の経験から甲州一円の地理や世情に通じていたし、日ごろ
    から豪気で仲間からも一目おかれていた。武七に対して、今、重要なのは甲州
    の農民たちを苦しめている米穀商や酒屋、地主の財産を徹底的にうちこわすこ
    とであり、そのためには、地元とのつながりが薄く、多少乱暴なこともするけ
    れども無宿人らの力が必要であることを強調。また、近隣の農民たちに、ほん
    とうの目的は、金銭、衣類を奪い取るのではなく、豪商や地主たちの証文・諸
    帳面類を焼き払うことにあるのだからぜひとも一揆に加わってほしいと呼びか
    けた」とあります。

五郎「詳しいことわかってるんだね。でも、どんな史料にそんなことが書いてあるのだ
   ろう?」

おふじ「五郎ちゃんもそう思うでしょ。学者さんの書いたものを信じないわけではない
    のだけど、史料が出ていないと、かえってたしかめたくなるわね」

天保7年甲斐国大騒動(10)
( 8) 01/07/14 11:50 10564へのコメント コメント数:1

みなさま、こんにちは。無宿観光でございまーす。

おふじ「のどかさんから紹介された編年百姓一揆集成。わたしもさっそく甲州
    一揆を見ましたよ。この中には「甲斐国騒立て一件御裁許書」という
    判決書がありました」

五郎「そんな史料、漢字ばかりで、クラクラするやろ?老眼鏡持ってる?」

おふじ「なんの、わたしは、ただ無宿の2字を探すだけでいいのよ。いるわ、い
    るわ。ざっと数えただけでも、70名以上の無宿者の名前がありまし
    たよ」

五郎「捕まった者だけで、70名以上だとしたら、実際、参加した無宿はすご
   い数だね。どの村にもどこにも無宿っているのね。

おふじ「そうよ、黒駒の勝蔵さんも、もっと早く生まれていたら、頭取になっ
    ていたかも。甲州は、上州などと同様、やはり博徒、無宿の集まる国
    だったのかなあ」

五郎「で、頭取の民五郎さんは、いたかい?」

おふじ「いた、いた。郡内勢がひきかえしたあとは、頭取になり、長脇差を帯
    び、盗み取った女帯を襷にかけ、徒党の者を指揮した、とあります。
    甲府への入り口にあたる板垣村では、代官手代手附の制止も聞かず、
    真っ先に押し進み、徒党の者を励まして押し進んだそうな。配下の無
    宿者の裁許書を読むと、盗み取った脇差を頭取から与えられ、という
    記事が多いの。富家には何本も刀があったのね。元気のいい無宿者に
    は頭取が持たせたみたいね」

五郎「ところで、22日、奥右衛門宅をうちこわし、郡内勢がひきかえしてか
   らの経過をまだ話してくれていないよ」

おふじ「ごめん、地理に弱いし、ややこしくてね。それに、「疾(はや)きこ
    と風の如く、侵掠すること火の如く」の風林火山のお国柄。ぼんやり
     してたら、どどどど、とすごい勢いで一揆勢は進んでるの。なに 
    せ、頭取は駕籠にも乗るけど、馬にも乗って進んでるのよ。

    えーと、おおまかに話すと、22日、郡内勢が帰ったあと、一揆勢は笛
    吹川を腸って石和(甲府方面)に向かうのね。もちろん、石和周辺で
    もうちこわし。

    23日、甲府進入。甲府城下のあちこち打ちこわし。酒食の接待をした
    らうちこわしされないという情報が流れ、進んで歓待した家もあっ 
    たようよ。「甲府城の御金蔵を拝見したい」なんていう一揆勢の噂も
    流れ、城方はきっとびくびくしてたよ。

のどか「甲府入り口の「板垣口にて四五人も切り倒し候はば、府内へは一人も
    乱入はこれなきやにござ候。あまり御慈悲過ぎ候とみなみな風聞申し
    候」と町の人の意見もあるね。

おふじ「代官井上十左衛門は、この板垣口には、手代手附だけを差し出し、自
    分は御城内米蔵に詰めていたそうですね。代官にやる気がないので、
    手付手代もやる気はないですよね。手代たちも、鉄砲も用意しなが 
    ら、使用せず、逃げてしまっています。で、簡単に甲府進入をゆるし
    ています」

のどか「永見伊勢守などは、町方に大借金があったのだそうですね」

おふじ「甲府勤番支配ですね。すぐに出馬することもせず、甲府への乱入をゆ
    るしたとして、、御役御免、逼塞ですね。

    さて、夕方、一揆勢は2手にわかれ、1手は韮崎方面へ甲州街道をその
    まま北上、1手は市川方面へ南下し、市川陣屋を占拠したあと、再び北
    上し、韮崎宿で合流。
    24日、韮崎を過ぎた一揆勢は小淵沢あたりまできて、教来石(白州 
    町)の甲州と信州の国境の口留め番所を押し通ります。

五郎「小淵沢?聞いたことあるぞ。もう信州って感じだね。清里高原なんかも
   あって、夏の人気避暑地だね。小淵沢から小海線が走ってるよね。日本
   で一番高いところを走る高原列車だね」

おふじ「小僧、よく知ってるな。観光といえば、一揆勢をむかえた村はまる 
    で、まるで観光旅館みたいな丁重なあつかいだよ。まず村役人が出て
    来て、「いらっしゃいませ」とはいわないだろうけど、頭をペコペコ
    さげて、酒食の接待はもちろん、道案内までしてくれる。歓迎一揆勢
    様という幟は立てないだろうけど、一揆勢に賛成するという立て札を
    立てたところはあったようです」

のどか「荊沢辺にては十六七人も打ち殺し候由、台ケ原にては五六人も打ち
    殺し候ゆえ、みなみな百姓の手にて右様きびしく防ぎ候間、早速に
    相しずまり申し候由という史料があったわ」

おふじ「おお、25日の台ケ原(大八田の河原)の銃撃ですね。小淵沢の近く
    だわ。
    郡内騒動によると、「かくし持ちたる鉄砲50丁、1度に撃ちしか 
    ば、この鉄砲に当たり死するもの数多なり。一人、駕籠より出でて長
    脇差をぬき、うってかかる。天命なるかな、そばなる石につまずき打
    ちころぶ。倒るるところをすかさず、飛びかかって取り押さえ、半死
    半生になるまで打ちのめし、高手小手にいましめけり。そのほか、即
    死人数数百人、半死半生にて生け捕られるもの、およそ百八、九十 
    人。甲府表にひききたる」

五郎「とうとう、一揆壊滅の時だね。信州諏訪藩が出動したんだね」

おふじ「佐藤健一「真説甲州一揆」によると、この時の死者は500人といわれて
    おり、今でも土木工事の際などに人骨が出るそうな。供養塔が建って
    いるとか」

五郎「ほんまかなあ」

おふじ「図説山梨県の歴史によると、甲府城下7町のほか、111カ村319軒がうち
    こわされ、死罪13人、追放93人、受刑者は562人とありました。

    後半、大急ぎで走ってしまいましたが、甲州一揆観光はこれにて終了
   です。みなさま、ご乗車ありがとうございました。


甲州郡内騒動2

2007-03-25 | 一揆
天保7年甲斐国大騒動(5)
( 8) 01/07/05 21:22 10529へのコメント コメント数:1

みなさま、まいど。

おふじ「さて、甲斐騒動の原因は?なんてことは省略させていただきます。天候不順、
    米の不作を予想すると、すぐ買占めにかかる米穀商の存在は全国共通かもし 
   れません。米はあっても、隣村で売るより、より高く売れる町に持って行って 
   しまう。同じ甲斐でも、国中地方は餓死者は出てなかったそうだけど郡内地方 
   の被害はひどく、餓死者も多かったようです。しかし、為政者は救いの手を差 
   し出さない。まあ、どこも似たような状況です。」

五郎「天明のときには、江戸でも大坂でも大うちこわしがおきたよね。天保の飢饉は天
   明にまさるともおとらないのに、江戸や大坂では起きてないね。ちょっとなさけ
   ないって感じ。甲斐だけでなく、全国でも起きてしかるべきや!」

おふじ「まあまあ、騒動の好きな五郎ちゃんね(^^)
    甲斐騒動の史料で、容易に手にはいるものでは、「甲斐国騒動実録」(日本庶
    民生活史料集)と「郡内騒動」(「徳川時代百姓一揆叢談」)があるの。ここ
    では「郡内騒動」をもとにしてお話するね」

おふじ「さあて、郡内の人々の悲惨な状況を見て、なんとかしなくては、と思った
    男達が下和田村武七、犬目村兵助たちのまわりに集まり始めました。」

武七「このままでは、村村小前の者どもは、皆、飢えに及ぶべし。見捨てるは不仁な 
   り。よって、甲州の米穀屋ども買い置きいたすよしなれば、この者どもより、米
   穀、買い入れ方しかたあるべし」

五郎「あれー、ねえちゃん、声が変わった。いっこくどうのマネしてんの?」

おふじ「うるさいね。みんな賛成して、まず、このことを石和代官所の出張陣屋である
    谷村陣屋(郡内にあった)に願い出るのね。もち、却下よ。で、つぎに、甲府
    の近くの熊野堂村小川奥右衛門にかけあいに行くの。武七と兵助が総代として
    話しに行ったのね。小川奥右衛門は甲州最大の米穀屋さんなの」

兵助「われわれは郡内領の22カ村総代として願いの筋があって参りました。当年は古今
   まれなる飢饉、郡内領の者は餓死するより他ないありさま。しかるに、当家は米
   穀を多数貯え置かれるよし。ぜひ22カ村に米なり麦なり貸しつけていただきた
   い。必ず、返済いたします」

奥右衛門「ふん、郡内領に米がなくなることは覚悟していたことではないのか?畑ばか
     り作って田を作らず、だいたい村役人の指導が悪い。とかく桑畑ばかり作 
     り、女は絹糸をとり、機織ばかりに精を出し、常に絹物を着、紅おしろいを
     絶やさず、化粧ばかりにこって、男も同じく、絹商人、呉服屋みたいなやつ
     ばかり。農業のことはさらに考えず。しかし、国中のもんはちがうぞ。いつ
     も耕作を第一にし、朝は未明に起きて夕は暮れて帰る。手足にはひびあかぎ
     れをきらし、身にはつぎだらけの着物、男は野にばかりころび、夜は藁仕 
     事。だからこの飢饉の年にもびくともしないのだ」

武七「このたびは、米の無心にきた。おまえの講釈を聞きにきたのではない。その口を
   長くきかれよ。今に思い知らさん!」

おふじ「二人は仲間のところに帰り、さっそく、実行にとりかかります。
    まず廻文を廻して村々から男を集めるわけ。

「廻章をもって啓達つかまつり候。米穀買入れ方の儀につき、一昨日熊野堂奥右衛門方
へかけあいつかわし候ところ、同人、もってのほかの雑言いたし、郡内領のものども
馬鹿にいたし候しまつにて、捨て置き難く候間、この廻文御披見しだい急ぎ天神坂林ま
で御出会いこれあるべき候」

おふじ「この廻文は黒野田村の泰順さんという人が書いたらしいわ。名主・問屋を勤 
    め、蘭方を兼ねた医師でもあったそうな。影の知恵者だったのでしょうね。黒
    幕の一人なのに、特赦になって、その後も村に住んでいます。
    あれ、五郎ちゃん、ねたらだめよ、聞いてる?」

五郎「すやすや」

                         つづく

天保7年甲斐国大騒動(6)
( 8) 01/07/06 21:04 10531へのコメント コメント数:2

まいど、一揆観光ツアーでございます。

おふじ「さあて、いよいよ、ですよ。
    8月20日白野宿天神坂(大月市笹子町)の野原で集会。
   「郡内騒動」という記録によると、ここで、一味連判状を、読み上げた
    ようです。
   『このたび、米穀払底につき飢えに及びこのまま相果て候より甲州へ立
    ち越え、一命をそこに捨つべき事』

    そのあと、14か条の取り決めが書いてあります。いくつかを紹介す
    ると、
    こんな内容。

    1、銘々一刀づつ帯申すべき事
    1、人に怪我させまじく事
    1、火の用心大切に相守るべき事
    1、衣類の儀は身用心につき、何なりと着るべき事
    1、鉦太鼓1カ村にて2組ずつ持たせ申すべき事
    1、駆け引きの儀は、頭取の指揮に任すべき事

五郎「銘々一刀づつ帯刀すべきことって、お百姓さん、刀持ってたのだろう 
   か」

おふじ「さあ?関東の村の人はけっこう持ってたのかもしれないわ。村役人な
    んかだと、先祖は武士ってのも多そうだし。長脇差の博徒たちも闊歩
    してたんだし」

五郎「でも、人にけがをさせるな、とか、あまり無茶なことはするな、という
   取り決めが多いね」

おふじ「やっぱり、頭取のいる組織だから、暴徒にはなりたくなかったのかし
    ら。
    もう一つの史料、内閣文庫蔵「応思穀恩編附録」には、「起請文」が
     のっているそうです。

    『このたび、三郡乱入の儀、仁義をもって窮民を救い、米穀の融通専
     一となすところなり。よって、公儀御法度の趣き、きっと相慎み、
     私曲の沙汰、決してこれあるまじき事。』

五郎「仁義をもって窮民を救い、ってとこは、いかにも男伊達といわれた武七
   さんらしい言葉だね」


おふじ「この「応思穀恩編」(なんと読むのだろう?)という史料はときたま
    目にすることがあるの。でも、いったいどこで、読むことができるの
    でしょう?けっこう、面白い内容がつまってるような感じがするの。
    この史料、どこかで簡単に手にする方法、読む方法をごぞんじの方い
    ましたら、一揆観光まで教えてくださいね。
    さあて、明日はいよいよ出発よ。早く起きるのよ。笹子峠を越えるのだ
    から」

五郎「え、また明日?なかなか始まらないんだね、この一揆。わるいけど、 
   ちょっとあきてきたぜ」

                                藤五郎

まいど、一揆観光です。

のどか「ぜひ、藤五郎さんがお出かけになって「編年百姓一揆史料集成」をご
    覧になってください」

おふじ「はい、もちろん。甲州騒動だけでなく、他にも見てみたい記事がある
    のです。
    でも、だれが、なんの目的で書いた文なのでしょうね。まるで見てき
    たようなこと書いてあるみたいですね」

のどか「『万一虜之輩有之節ハ一同救之可為生死供事』
    というのは、だれかが捕まったら命がけで助けてやろう、ということ
    でしょうか?」

おふじ「そうでしょうね。これも、任侠道やろか(^^)」

のどか「猿橋の宿は、甲州道の駅宿で大小名や旅人の往還が引きもきらず、近
    郷近在の溢れ者、ばくち打ち、遊興の若者で昼夜をとわずにぎわって
    いたというところ」

おふじ「甲州街道筋にはこんな人達であふれていたとしたら、頭取による交渉
    とか駆け引きとかは無理で、しぜん、うちこわしに向かってしまうの
    でしょうね。
   『甲斐騒動実録』には、「在々所々の困窮のやからは申すにおよばず、
    バクチ打ちのあぶれもの、似せ浪人、そのほか乞食にいたるまで
    手足達者の者あい加わり」とあります。

のどか「賛成する者は左の肩をぬいてくれ、と武七さんが言うと、みんなはど
    うして反対することがあろうかと、つぎつぎに左の肩をぬぎます。
    こんなところも、おもしろかったです」

五郎「なんで左の肩なんだろう(^^)。これも、それなりの作法だったのやろ 
   か」

おふじ「さて、いくわよ。一同21日の早暁に出発。「民窮み」の大幟を先頭に
    立て、それぞれの村の旗20(郡内の街道筋の村)をおしたて、頭取た
    ちは皆、革羽織を着、頭には革の頭巾、長脇差をぶちこんで、出発。

    7ツ時には(ご前4時)、早くも笹子峠を越えて駒飼野に。笹子峠は
    甲州街道隋一の難所。今は笹子トンネンルが通っています。
    わめきながら、走りながら、鉦太鼓、ほら貝など鳴らしながら進んだ
    のでしょう。元気がいいわ!

    石和代官所から元締手代松岡啓次が駒飼野にきていました。
    一揆勢がやってくる、ここにとどまっていてくれ、と宿の者から言わ
    れていました。松岡は武七、兵助を宿へよびよせ、説得にかかる。
    しかし、話している最中、米屋3軒ほどすでにうちこわされたという急
    進がはいります。「ゲ、もう、乱暴が始まったか。始まってしまって
    は、なまじいに逮捕したら、どんなことが起きるかしれない。ここは
    逃げるしかない、と石和代官所までこそこそ逃げてしまいます。松 
    岡、これで懲戒免職。


    駒飼野を過ぎると、鶴瀬番所があります。小さな関所みたいなとこ 
    ろ。番人が厳重に門を閉ざしていました。
    頭取がいいます。「われわれは郡内領の者である。騒動にきた。駒飼
    野の騒ぎはもう知っているだろう。命が惜しくば、早く門を開けよ。
    さもなくば、即座にふみつぶす!」
    すみやかに中から門が開き、一揆勢は通過。ここではうちこわしはあ
    りませんでした。でも、あとで、番人やここの本陣役人は罰せられま
    す。一揆勢のいううことを聞かないと、うちこわしをされるし、一揆
    勢のいうことを聞くと、あとからお上から罰せられるしで、どうした
    らええんや!

    夕7ツ時(午後4時)、勝沼宿めざす。途中、近藤勇(甲陽鎮撫隊)
    が陣をひいた柏尾の村を通りすぎます。

    勝沼の鍵屋という大きな旅篭屋で夜食の用意をさせます。亭主が留守
    なので、番頭が采配をふるって、用意。突然の大人数の食事の用意っ
    てたいへんだよね。ちゃんと準備したので、鍵屋はうちこわしにあい
    ませんでした。そのかわり、やっぱりあとからお上から罰金を払わせ
    られています。

    この勝沼に一揆勢が滞留している間に人数はどんどんふくらみ
    ます。勝沼をはじめ、国中領のあちこちから困窮者、あぶれ者などが
    集まり、1万人ほどにもなったとか。ここまでくると、郡内で申し合わ
    せた約束など知らない者も多く、統制もとれなくなります。夜、3カ 
    村、数十軒がうちこわされます。

五郎「行動した1日目で、すでに頭取の予想を越えた現実に直面したわけだね」

                              つづく







甲州郡内騒動

2007-03-25 | 一揆
天保7年甲斐国大騒動(1)
( 8) 01/07/01 16:49 コメント数:2

みなさん、こんにちは。

無宿大活躍(~~)の一揆の話です。無宿者が頭取になります。
無宿ツリーに続けてもよかったのですが、長くなったので、新規にします。
なにせ、この天保7年8月に起こった甲斐の大騒動は、大塩平八郎にも水戸斉昭
にも衝撃を与えた大騒動で、天保7年の最大の事件でしょう。
久しぶりに一揆観光でやります(^^)。

おふじ「みなさま、本日は一揆観光バスにようこそ。今回は、甲斐の国の大騒
   動にご案内いたしまーす」

五郎「おばさん、甲斐の国って、どこだい?」

おふじ「甲斐といえば、山梨県。山はあっても山梨県よ。山に囲まれた土地 
   ね。でも、お客はあんた子ども一人?小僧を相手に一揆のガイドもさび
   しいわね」

五郎「元気出してよ。ちゃんと聞いてあげるからさ。甲州ワインでもいっぱい
   やりながら、話してよ。甲斐といえば、武田信玄だろ?」

おふじ「そうそう、信玄は甲斐のまんなか辺甲府盆地を根拠地にしていたの 
    ね。ところで、甲斐の国はこの甲府盆地を中心にした国中(くにな 
    か)地方と、今でいえば、大月市、都留市あたりの東部にあたる郡内
   (ぐんない)地方の二つに分けられるの。この二つは、風土も気質もち
    がっていたみたい。」

五郎「信玄の根拠地であった国中の方がプライドが高かったのかな」

おふじ「さあ、わからないけど、郡内地方は、田が少なく、ほとんど、絹の生
    産をしていて、お米は国中からもっぱら買っていたそうよ。郡内の郡
    内絹は全国的にも有名だったそうよ」

五郎「なるほど。郡内の人は、お米を作ってなかった。ということは、飢饉に
   なると、郡内の人は困る。わかった!一揆は郡内の人がはじめたんだ 
   ね」

おふじ「するどい!おまえ、なん年生だい?大きくなったら、この一揆観光会
    社で働かないかい。わたしももう歳だからね」

五郎「おばさん、たぶん、こんな筋書きだろう。まず、郡内の人が、国中(甲
   府盆地)の富裕な米商人に米を貸してくれと要求するために一揆をおこ
   すのでしょう?」

おふじ「その時の頭取が、下和田村の武七、犬目村の兵助なわけ。もちろん、
   この二人は無宿ではないわよ。でも、郡内勢が、笹子峠を越えて、国中
   に入ってから、国中の貧農、無宿たちが大勢参加し、一揆の当初の目的
   が変わり、無宿者が頭取になって、甲斐国中、大暴れするのよ」

五郎「ねえさん、待った。話は急ぐ必要はねえよ。つづきは、ワインでもいっ
   ぱいやってから、ゆっくりしなせえ」



                              つづく

おふじ「はーい。まず、下和田村の武七さんね。当時、70歳だったとか。
    記録にはこうあります。『下和田村のいずこに和田武七とて近郷に知
    られし、男伊達ありしが・・・・」(珍説見聞集)『下和田村の武七
    という者、平生公事訴訟を好み、あるいは、無宿風来の長脇差などを
    手訓付、仲間の中にては親方と称し、何の家職もつとめず、その日暮
    らしの曲者なり』(応思穀恩編附録)」

五郎「男伊達だって?」

おふじ「そう、庶民のまあ、理想の男像よ。強きを挫き、弱きを守る男よ。
    よくいえば、侠客、博徒。悪く言えば、遊び人、やくざもん。
    武士道がすたれて、任侠道が盛んになったのかしら」

五郎「樋口一葉さんのじっちゃんも、こんなのじゃなかった?」

おふじ「博打をしたかどうかしらないけど、農業を嫌って、学問を好んで、公
    事訴訟が得意だってことで、一風変わったところは似ているね。
    ふつう、町や村の揉め事なんは、武士、町役人や村役人、庄屋さん、
    寺の坊さんなどがあたるけど、だんだんと、そういう立場でない人 
    で、上や地域に対して口をきいてくれる頼りになる口利き屋さんが出
    てきたんですね。国定の忠治親分だって、地元の人の頼りにはなった
    かもしれないよ。あ、思い出した。こんなタイプの人は、明治までは
    各地の村にいたようで、北村透谷も若い頃、多摩でこんな老侠客と 
    会って、影響を受けた、なんて言っています。」

五郎「ぼくらは、こんな人、映画かマンガでしか会えないよなあ。ところで、
   ガイドさん、もう一人の頭取、兵助さんはどんな人なの?」

おふじ「ちょうど時間となりました。また、明日ね」

つづく
天保7年甲斐国大騒動(2)
( 8) 01/07/02 21:18 10520へのコメント

みなさん、こんにちは。

今回は、最初の頭取について

下和田村の武七、治左衛門
「下和田村のいずこに和田武七とて近郷に知られし男伊達ありしが」(「珍説
見聞集」)


「ここに、下和田村の百姓武七という者、平生、公事訴訟を好み、あるいは無
宿風来の長脇差などを手なれつけ、仲間の中では親方と称し、何の家職も務め
ず、その日暮らしの曲者なり」(「応思穀思編付録」)

天保7年甲斐国大騒動(3)
( 8) 01/07/03 21:58 10524へのコメント コメント数:1

おふじ「みなさまー、たたいまバスは甲州街道を走っておりまーす。甲州街道
    といえば、いろんな人が歩いていますね」

五郎「えーと、椿三十郎、机龍之助、近藤勇、黒駒勝蔵!」

おふじ「そうですね。江戸から甲府勤番になる人も歩いたわ。なんでも、甲府
    勤番になるのは、山流しといわれて、武士にとっては、左遷だったみ
    たいですね。ろくな武士がこなかったとか(例外はもちろんあるで 
    しょう)。甲斐は天領で、代官所は甲府、石和、市川の3カ所にあっ
    たそうだけど、ろくな侍はいなかったみたいよ。甲斐騒動のあと、代
    官所の人はほとんどお役御免、逼塞などの処分を受けています。博徒
    にとっては、稼ぎやすいところだったかも。
    はーい、ここが、犬目村。頭取の兵助さんの村よ」

五郎「静かな所だなあ。あ、犬目村兵助の碑が建っている!」

おふじ「今は、静かだけど、昔は甲州街道の宿駅だったから、もっとにぎやか
    だったでしょうね。兵助さんは、ここで、水田屋という宿屋も営業 
    し、犬目村の百姓代をしていたそうよ。」

五郎「村では、お金持ちのほうだね。」


おふじ「そうね。それに、天保7年は結婚して4年、はじめての赤ちゃんが生
    まれたばかしなのよ」

五郎「家庭を捨ててまでして、なぜ頭取になったの?」

おふじ「ほほほ、そこが男の生きる道さ。兵助さんは、近くに住む下和田の武
    七さんに私淑していたのかもしれない。一揆を起こす前に、家の後始
    末の閣書き置きを残し、離縁状もわたしているの。生活力のある実務
    的な感じの人だわ。読み書きはもちろん、そろばん、算術、顔相など
    も得意で、逃亡中、それで生活しているのよ。」

五郎「え、逃げちゃうの?」

おふじ「こらっ。知ってるくせに(^^)。とぼけないで。兵助さんが逃亡中、日
    記をつけていて、それが現存してることは有名よね。
   下和田の武七さんに、わしは年だから自首する、おまえは、逃    
    げのびろ、と勧められたようよ。1年間逃亡し、天保8年には下総に
    定着し、天保10年には妻子を呼び、幕末(嘉永ごろ)には、再び、
    故郷に帰ったらしいわ。」

五郎「妻子と再会できたんだね。でも、よく逃亡生活ができたね。」

おふじ「兵助さんの愛読書はなんだと思う?西行四季物語だって。どんな話か
    知らないけど、旅を苦には思わない人だったかもしれないわね」

五郎「ところで、のどかさんから教えてもらって、ぼくも中央公論の日本の歴
   史「幕藩制の苦悶」で、郡内騒動のところを読んだのだけど、なんと、
   磔562人と書いてあるね。これ、ちょっと多すぎると思う。562人も磔す
   るだろうか」

おふじ「佐藤健一「真説甲州一揆」時事通信社も磔526人と書いてあったわ。で
   も、図説百姓一揆では磔4人となっているの。よくわからないわ。で 
   も、いくらなんでも562人の磔はないでしょうね。みなさま、どう思われ
   ます?」

                           つづく

                           



東洋民権百家伝

2007-03-24 | 一揆
「東洋民権百家伝」
( 8) 98/04/30 17:21 03541へのコメント コメント数:1

岩波文庫「東洋民権百家伝」670円は最近も本屋さんで見たことあります。
わたしのは1991年第8刷となっている。岩波文庫の復刻本かもしれない。
ちょっと読みずらく、見ただけでしんどそうなのですが、講談調なので、
わかりにくくはないのですが。

興味のある方もおられるかもしれませんから、登場する一揆(人)を登場順に
書いてみます。わたしもまだ半分しか読んでない(一揆観光を書く気になった
ので、やっと読む気になりました(^^))

1、戸谷新右衛門(和歌山)
 享保4年 高野山興山寺の政治の不正を幕府に訴える。

2、涌井荘五郎その他2人(新潟)
 天明2年 新潟市民蜂起。うちこわし。

3、文珠九助(京都)
 天明6年 伏見義民。京都小堀の政治を幕府に訴える。

4、井戸平左衛門(島根県)
 石見の国の代官。幕府の役人だけど、
 享保17年、飢饉の時、人々の苦境を見て、幕府に無断で年貢を免除し、年貢米を
 人々に参じて救う。責任をとって切腹。

5、平八(愛知県)
  東海道白須賀駅(愛知?静岡?)の駅長の奉公人。主人のために、代官の不正を
  江戸に訴える。正徳年間とかで、しかし、これは農民一揆ではない。

6、宝暦の美濃郡上藩一揆(岐阜県)

7、上州絹一揆(群馬県)

8、松木荘左衛門(若狭、福井)
  承応1年、年貢引き上げ反対の強訴(江戸前期か?)

9、宝暦阿波騒動(徳島県)
  宝暦6年強訴未遂

10、西口興左衛門その他(膳所領 近江 滋賀県)
  天明1年、財政改革反対、うちこわし。

11、岡村十兵衛(土佐、高知)
  貞享1年土佐藩の役人だが、勝手に藩の米蔵を開き、窮民を救う。切腹。
  農民一揆ではない。

12、但馬生野銀山一揆(兵庫)
  元文3年、暴動。

13、高梨利右衛門(上杉米沢藩屋代郷 山形県)
  寛文6年 江戸に直訴(山形県)

14、天明2年淡路、縄騒動(淡路島)

15、下野国壬生藩 悪政の直訴未遂(栃木県)
  年代わからず。

16、陸奥国磐城平藩(福島県?)
  元文3年  城下に強訴、うちこわし

17、常陸牛久助郷一件(茨城)
  文化1年助郷重課にたいし強訴。

18、佐渡一国騒動(新潟)
  天保9年 奉行の悪政に1万人蜂起。うちこわし。 

淡路 縄騒動(天明2年)

2007-03-24 | 一揆
淡路 縄騒動(天明2年)
( 8) 98/04/29 16:24 03511へのコメント コメント数:2

みなさまぁ、一揆観光バスの藤子でございま-す。まいどでございま--す。
本日は淡路島でございま--す。
 (お客)淡路はええなあ。海水浴、つり、日帰りキャンプ、大橋ができて
  から、大阪からもますます近くなったなぁ。

お客さまぁ、淡路島って何県かご存じ?
 (お客)そりゃ、大阪だろ?じゃなかったら香川県か?
ほんとに地理が弱いのね(^^)。今は、兵庫県ですよ。でも、江戸時代は
阿波鉢須賀家が支配していましたのよ。阿波徳島藩の家老が洲本のお城に
住んでいたそうな。
 (お客)淡路島といえば、高田屋嘉兵衛が今は有名だなあ。司馬遼太郎は
    江戸時代で一番好きな男だといっていたような。
お客さま、ごめんなさいね。わたし、まだ「菜の花の沖」は読んでませんの。
今は、一揆に夢中ですからね。
 (お客)そうかい、じゃあ、早く始めてくんな。

「百家伝」によりますと、吉見平六という官と結託して武士身分も得た特権商
人が出てきます。これに、役人の坂東米蔵、高田富次郎。この3人が悪役になってま
すね。ほんとにこの3人だけかどうかはわかりませんが。
 (お客)そいつら、なにをしたのだい?
どんどん新法をたてたのよ。年貢運上をふやす新法とか、庶民は難渋するけど、
官にとっては都合のよい新法ね。
 (お客)うん、いつの世も官の方から一方的に作られた新法にろくなものはな
     いよな。
木綿会所なんかも作ってね。木綿の販売を独占したり、税金をとりたてることも
したの。
 (お客)う--ん、会所というのは、よく聞くなぁ。会所を作って専売を強行する
     って話は上州絹一揆でもそうだったな。この時代の藩のやり口だった
     のかなぁ。

ところが、ここのやりかたはすごいのよ。村人を馬鹿にしているわ。
縄会所というのまで作ったの。各村々に縄をわりあて、上納させるの。
 (お客)縄をなんに使うんだい?

縄は必要なかったみたいなの。村人がつくった縄に文句をつけて、納入を許可せず、村人が困って、縄代として金銭を代わりに納めることを期待していたのね。
だから、縄の太さ短さ長さなどめっちゃこまかい規則をつくったの。でも、
村人は、なんとかがまんして規則通り納めたのよ。で、あてがはずれた悪役人は
今度は、会所に集まって、みんなここで作れって言い出したの。みんな忙しいの
に、会所に集まって作らされるなんて、迷惑なことよ。でも、これも、がまんし
たのよ。
 (お客)おれだったら、もうすでにぷっつんきれているね。よう、がまんするな。その悪役人の上司は何しているんだい。部下がそんなことしているのを知らなかったのかい。

この時の執政は仁尾氏といって清廉な人だったらしいの。でも、才足らず、実務にうとい人って評判なの。
(お客)う--ん、ただ、人がいい、というだけの上司か。下にだまされていたのかな。

でね、今度は、役人は、縄の灰が必要だといいだし、縄の灰を差し出せと言い出したの。しかも、その灰は、縄の形を保っていなくてはならず、少しでもくずれていたら、だめってゆうの。
 
(お客)ばかやろう!風がふいただけで、灰なんて飛んでしまうやろ。漫画みたい
     な話だけど、ほんとかよ?

結局、村人は困り、ここでやっと縄代として、金銭で納めることを許してほしい、とたのんだわけ。悪役人の思うつぼね。最初からそれをねらっていたのだから。

 (お客)う-----、ゆるせん。
でしょ。淡路島にも男がいたのよ。淡路国三原郡宮村(現在、三原郡緑町広田)
の才蔵。
この悪政はゆるせぬと、檄文を各村々に回し、天明2年5月、村の八幡宮で
早鐘を鳴らして村人を集めたのよ。めざすは洲本のお城。はじめは数百人だった
らしいけど、途中、参加者がふえて、数千人。洲本からも役人が急を聞いてかけつけ、
桑間川で相対したそう。そこで役人は才蔵から事情を聞き、要望は聞き届けてもらうようにする、と約束したので、そこでひきかえしたのね。阿波徳島藩からも事情調査があり、結局、前の3人の悪役人は処罰され、新法や会木綿会所、縄会所は廃止になったのよ。
 
(お客)住民側に正当な理由があるとわかっても、訴えたものは処罰されるんだよ
     なあ、当時は。

そうなの。強訴はどんな理由があれ、犯罪なんですもん。
才蔵さんが逮捕される時の話があるのよ。自分の家でヨメさんとむつまじく談笑していた時、急に「上意!」ととりかこまれたのね。才蔵さん、覚悟はしていたけど、まさか今日とは思っていなかったので、なにやら言い争いをしようとしたの。
その時、ヨメさんが静かにおしとどめ、いさぎよく縄をうけさせるようにはげましたらしいわ。いっしょに最後の食事をとり、送りだしたそう。よめさんは、その後、さらされた夫の首を奪いとって埋葬したって。
淡路島の緑町広田にある「天明志士記念碑」という大きな石碑はこの一揆を記念したものなのよ。
 
 (お客)そうか、今度、行ってみようかな。
お話が長くなってごめんなさいね。1回のアップでまとめようとすると、どう
しても、このくらいかかってしまうの。
  

宝暦6年阿波の一揆

2007-03-24 | 一揆
パソ通時代の過去ログの掲載。

宝暦6年阿波藩百姓一揆
( 8) 98/04/25 23:23 03502へのコメント

みなさまぁ、まいど藤五郎観光をご利用くださいましてありがとう
ございます。まもなく、阿波徳島でございまぁす。阿波の名産は・・
(客)阿波女!やさしくて働きもので、阿波女をヨメさんにすると、
   男は遊んでられるということやで。阿波踊りもうまいし。

・・・わたくし、阿波の名産のお話しをしていま-す。
(客)名産といったら、スダチやがな!
スダチ、当たりですね。でも、それは明治になってからで、江戸時代は、
藍(アイ)ですのよ。阿波の藍といえば全国に知られていたのですよ。
(客)ねえちゃん、アイってなんや?
藍って草なんです。藍から藍玉にして、藍玉から、青色の染料ができる
のですよ。
(客)なんや、食えんのかいな。あほくさ。
お客さま、すこしおだまりになってくださいね。わたし、これから阿波の一揆の
お話をしますからね。
(客)はいはい。
はい、は1回でいいのよ。では、まず、日本史年表からね。

「宝暦6年、阿波徳島藩の農民、藍方産物会所の専売に反対し、一揆をおこす」
とあります。
徳島藩としては領内でとれる藍を保護奨励し、その収入を重要な財源にしていまし
た。
保護奨励といえば、聞こえはいいのですが、特定の業者以外の取り引きを禁止、売り
手買い手から税金をとったり、まあ、藩と藩に結び付いた特定の商人が利益が受ける
ようになったのね。以前は比較的自由に売買できる余地もあったのやけど、株組織
なんかもできて、藍を作る農民は藩の専売制が強まるにつれて、生活が苦しくなる
のよ。そこで・・・。
(お客)うん、そこで?会所のうちこわしかい。がんばれ--!

う--ん、そうじゃないのよ。わたし、さっき、「百家伝」を読んで、ちょっとがっか
りしたのだけど、うちこわしも集団の闘いもないのよ。
(お客)なんやそれ。なにもせんかったの?
いや、あちこちの村の神社に村人が大勢集まったのよ。神社では鐘をじゃんじゃん鳴
らし、そして、当然ガヤガヤ騒いではいて不穏な情勢ではあったのよ。でも、村役人
さんなんかが説得に来るとおさまって何事もなく、帰ったみたい。
(お客)なんや、それだけかいな。
あと、檄文も回したのよ。みなみな、藍の問題につき、何日にどこの河原に集まろう。
この回文を村々に回せって。でも、実際には集合することなく、終わったの。
役人がすぐ手を回したせいかもしれないけど、この檄文を書いた思われる5人の人が
死刑になったわ。

(お客)なんだ、じゃあ、不発かよ。
う--ん、どうでしょう。阿波の男の人って優しいから、あちこちの神社に男どもが集ま
る、檄文を出す、それだけで、行動しなくても、十分デモ行為になったとも考えられなくて?実際、5人が死刑になったあと、藍玉の株も廃止になったみたい。
実際に暴力を見せて、領主に反省させることもあれば、おこるぞ!という意思だけ見せて反省させることもできるし。でも、わかんないわ。阿波は百姓一揆が多かったそうだから、この例だけで、阿波男のやり方は判断できないわね。
この死んだ5人は明治になって五社神社ができて祭られているらしいわ。

お客さん、がつかりした?もう少しおもしろい話あるのよ。
このあと、徳島藩は藩政改革を始めるのよ。この一揆も影響しているわ。
それがね、蜂須賀重喜といってね、奥州佐竹の2万石の4男から迎えた新殿様なのよ。
まだ若いのよ。上杉鷹山に立場が似ているわ。上杉はんのちょっと先輩ね。
でも、海音寺潮五郎は「失敗した鷹山」だといってたわ。やる気はあり、かしこかったのだけど、保守派の旧臣の反対にあって、改革はつぶされたの。むずかしいのね。

「百家伝」にはあとはもうおもしろいネタはないみたいだから、これで、おしまいね。


上州絹一揆

2007-03-24 | 一揆
こりずに過去の一揆話を続けている。中身はないのだけど、とにかく一揆の数だけでもふやしておこう。観光ガイドを思いついたのは、どうもこの上州一揆からのようだ。悪のりしすぎて、まったく感じがよくありませんね。
上州絹一揆(群馬)
( 8) 98/04/25 15:10 03498へのコメント コメント数:2

今回は観光案内口調で。
みなさまぁ、観光バスガイド藤五嬢でございま-す。
本日は上州に来ていただきましてありがとうございまぁす。

(客)ねえちゃん、ペ-ス速いぞ。あっちこっちひき回されてついていけへんわい。
   もっと、ゆっくりさせたれや。

おっさん!上州は木枯紋次郎、国定忠治の国やで。かかあ天下の土地よ。
この一揆観光に文句あるのかい?。

(客)・・・異義ありまへん。

よし。さてと、「東洋民権百家伝」(以後、百家伝といいますね)には、宝天の一揆
として、上野国利根郡沼田での絹一揆が書いてございます。

ほんとに沼田でおこったかどうかはわからない、高崎でのことかもしれ
ないとも書いてありますが、お客さん、あまり詮索はなしに願います。

「日本史年表」には、天明元年の6月、「武蔵、上野両国の糸綿貫目改所設置。
8月、貫目改所反対の一揆がおき、問屋などをうちこわす。幕府、改所を停止
する」ってありますので、
とにかく、上野の国でおきたこととお聞きしてくださいね。

(客)なんや、その、いとわたかんめかいしょって??むずかしそうや。

?お客さま、むずかしい質問は、お互いになしよ。無料サ-ビスといったでしょ。
上州は生糸の生産がさかんで、多くの人々は京都の西陣などに送っていました
の。売り買いは自由でしたわ。でも、その利益に目をつけ、糸会所を設立し、
この糸会所を通じて売り買いをし、売り買いには税をとるように勝手に決めた
ようですわ。たくさんの人がこまり、そしてわずかの人が莫大な利益を得る
という制度よね。わたし、このくらいしかわからないわ。

(客)ねえちゃん、まあ、ええわ。、話つづけてや。

上州の村人さん、こんな会所ができては、生活がやっていけない、会所をつぶ
すべし、また、会所の設立に賛成した強欲な商人や勘定奉行をこらしむべし、と
決意したのよ。そこは気の荒い上州者よ、家から刀槍薙弓鉄砲など古道具を
ひっぱりだしてきて、集合。城から武士たちが鎮圧にくるけど、こっぱ役人
なんのその。役人の乗った馬の前足を手でつかみ、馬を倒したりする豪の者
もいるの。すごいわ。
一揆勢にねらわれる(つまり糸会所に賛成した豪農の)者もちょっとすごい
わ。普通なら一揆勢に家を囲まれたら、逃げちゃいますよね。
ある家では、召使が荒波九助という名の元角力とりで、一人、門前にたちはだ
かり、百姓たちを投げ飛ばしたり暴れたそうよ。さすがここの主人も強く、
手槍をふるって一揆勢戦ったそうな。大坂者とちがうでしょ。
(お客)・・・・・・・・

さて、1万人ほどにふくれあがった一揆勢、むしろ旗をなびかせ城下(この本で
は沼田城)におしよせたそうな。城下に突入し、糸会所をうちこわしたあと、
一揆勢は二手にわかれたとあります。糸会所をつぶしたので、これで目的は達した、
引っ返すべしという者と、今こそ城に攻め入り、にっくき役人の首を討ちとるべし、
という者と。後者はなお、城に押し寄せ、城からは鉄砲の乱射。一揆勢は退散。
でも、どこまで真実かは知らないわ。「百家伝」に書いてあったのよ。
お客さん、ね、聞いている?おもしろかった?
(お客)・・・ああああ、よう眠っとった!ねえちゃん、次はどこの国だい?

わたしも、今、「百家伝」を読んでる最中。そこから、宝天の
一揆を見つけながら、しゃべってるの。え---と、あっ、次は阿波だわ