虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

国会中継

2011-01-28 | 映画・テレビ
米軍駐留経費について

菅首相は、「こちらから移転をお願いしているのですから、その経費をこちらが払うのは当然です」といっていたけど、ほんま?
アメリカの都合でグアムに移転するのではないの?

チュニジア、エジプトと、デモから政治を変える動きが広がっている。
デモはよい子のすることではないと教えている日本のメデイアはこれからどんな報道をしていくのかな。

ホスト・ネーション・サポート

2011-01-22 | 新聞・テレビから
今朝の朝刊。
前原外相は、在日米軍駐留経費(思いやり予算)を「これからは、思いやり予算という言葉を使わない」「ホスト・ネーション・サポートをぜひ使っていただきたい」と記者団の前で話した、とある。

アメリカ大使だったか、だれだったかアメリカの役人が「思いやり予算」という言葉はよくない、ちがう言い方をすべきだ、と語った、という記事が出たのはついこの前ではなかったか。勝手なことを言うもんだ、と、その時は思ったものだが、もうさっそく、前原外相は、その意を汲んで、思いやり予算という言い方はやめる、と出た。実に、すばやい、対応。ご主人様がちょっと暗示したり、指示すれば、即、その通り、忠実に従う家臣、従僕、召使いの如しだ。

ホストといえば、ついホストクラブをイメージしてしまう(笑)。お客さま、ご主人様に対しては、いたれりつくせりのサービスをするホスト。しかし、ホストクラブのホストはその代償にお客様からそれ相応の代金、サービス料をがっぽりいただくが、こちらは、サービスのしっぱなしで、体はボロボロ。ご主人様にお金まで差し上げる。なんと訳せばいいのだろう。

さて、これを受けて、新聞もまた「思いやり予算」の言葉をやめるかな?


三田の里 大原邸

2011-01-18 | 日記
高槻、吹田、箕面、池田、川西、宝塚、三田あたりは、私の出没エリアだ。
今日は、久しぶりに三田へ。
三田市の大原という地名に「三田の里 大原邸」という屋敷がある。
周囲は畑で、古い屋敷も何軒か。たしかに、三田の里というのどかな風景だ。

その大原邸。ここで、メシが食える(ちょっとガラが悪くなって失礼)。
あの「がんこ寿司」が料理屋をやっている。

あの食べ放題、飲み放題のがんこ、友人と酒を飲むときには、よく利用したものだが、そうか、最近はこういう経営もしているのか。三田の他にもいくつか、「屋敷」を利用した店をやっているらしい。知らなかったよ。

店内に入ると、お琴の曲が流れていた。注文を受けるのは着物姿の女性。
庭を眺めながら食べるカウンターやテーブル席。
女性客が多いようだ。たしかに、サラリーマンがお昼を食べにここには来ないよな。
「がんこ」だから、そんなに高くない。1000円以下で腹いっぱいになる。
なかなかいい店だと思った。

近頃は、民家をカフェや料理屋さんにするところもふえているが、「屋敷」を料理屋さんにするとは、たしかにアイデアだ。

この屋敷、築100年以上たつお屋敷らしいが、「大原」というのは、鎌倉時代からこの辺を領有していた豪族だったらしい。荒木村重によって滅ぼされたあとは、播州三木氏に属し、小原と名を変える。初代小原信利は、秀吉の九州征伐の時に戦死。2代小原信忠は、朝鮮の役で戦死。三代は初代信利の娘(理応院)の四男が継いで、その後は医者になったそうだ(法眼の位に就く)。

さて、初代信利の娘(理応院)と田原甚兵衛久光という人が結婚したのだが、その息子の一人が伊織。この人が、宮本武蔵の養子になり、豊前小倉で4500石で筆頭家老をつとめた宮本伊織。小原家と宮本家との関係は幕末までずっと続いていたそうです。

この「がんこ 三田の里 大原邸」のすぐ隣が大歳神社、少しはなれるけど、近くには「青原寺」という由緒ある寺もあります。大原一族に関の深い社寺です。

以上、講釈おわります(笑)。

画像が「がんこ 大原邸」です。

よく言うじゃない

2011-01-16 | 新聞・テレビから
今朝、家の周りは真っ白。雪が積もっていた。
寒い、というより、冷たい。

朝刊の社説を見て驚いた。
NHK新会長が決着し、社説子は、新会長にアドバイズしている。

「松本氏に知ってほしいのはジャーナリズムの精神だ。深く調べ、幅広い意見に耳を傾け、自律的に判断して市民のために発信する」

よく言うよね。

池田の慈恩寺 

2011-01-13 | 日記
池田市には長く住んでいたけど、慈恩寺というお寺があることは今日まで知らなかった。
池田の神社仏閣では、機織りに関係する「呉羽神社」「伊居太神社」、花の寺「久安寺」、厄除けの「尊鉢厄神」(釈迦院)はなじみがあったが、「慈恩寺」なんて初めて。

久安寺近くの喫茶店で、細河地域の観光パンフレットを手に入れ、それで知った。近くだから、行ってみることにした。細河地区とは、植木の生産で全国的にも有名な地域だ。

あまり車の通らない静かな道を走る。陽松庵という禅道場の隣にある。けっこう広い敷地で、大黒天堂やハス池がある。駐車場、トイレもあります。春か秋にきたらいいところかもしれない。

慈恩寺本殿は毘沙門天を祭っています。歴史は古いそうで、聖武天皇が行基に勅を発して創建したとか。
少し上がった奥の院には眼力不動尊という眼の神様も祭ってました。

また、広場には「寒山寺の鐘」が設置されています。

この池田市と寒山寺のある中国蘇州市とは友好都市になっているらしく、寒山寺の鐘(模造品だが)と慈恩寺の鐘(300年も使用してきたもの)を交換したようだ。
除夜にはこの鐘をつきにたくさん人が来るようだが、今日はだれもいません。
ついてみた。ゴーン。これが、寒山寺の鐘の音?

掲示板には、唐詩の長継の有名な詩が書いてありました。

  楓橋夜泊(ふうきょうやはく) 長継(ちょうけい)


月落ち烏啼いて霜天に満つ
江楓(こうふう) 漁火(ぎょか) 愁眠(しゅうみん)に対す
姑蘇城外(こそじょうがい) 寒山寺
夜半の鐘声(しょうせい) 客船(かくせん)に到る

長継が、蘇州の橋の近くで、船の中で一夜をすごした時の詩。
「月落ち、烏啼いて、霜、天に満つ」はよく耳にする言葉です。夜の情景。
蘇州に楓橋というのが今も名所としてあるらしい。
船の中で寒山寺の鐘の音にじっと耳を傾ける旅人。

天下に名を知られ、大勢の観光客がおしかけ、高い拝観料をとる神社仏閣もいいかもしれないけど、だれにも知られず(地元の人は知っているのだろうけど)、めったに訪問もうけず、ひっそりと何百年も前から存在するお寺や神社もまた格別ですなあ。
池田にこんな場所があったとは知らなかったよ。


明治の人

2011-01-12 | 日記
「トイレの神様」はおばあさんとの生活を歌ったものだけど、わたしは、祖父、祖母とは共に生活したことがない。

昨年末に祖母が102才で亡くなったが、祖母とは30年ぶりくらいで対面した。

祖母は9人の子供を生んだ。息子は3人がすでになくなっている(娘はみんな元気)。

宇和島吉田町では苦労ばかりしてきたようだ。吉田町にたった一人で暮らしていたので、たしか80才ころから四国を出て、娘のもとで過ごすようになった。

明治の女性がそうだったように、苦労の始まりは結婚からだったかも。
女学校を出ているのだが、祖父の遊びをやめさせようということか、かなり早く結婚させられたらしい。祖父は10才くらい年上ではなかったか。

祖父は、網元の末っ子にうまれたぼんぼん。派手好きで、景気よく、大きな家を構え、事業もしていたが、遊び人。芸事はなんでもこなし、都々逸など即興で歌い、芸者さんによくもてた。
お妾さんも囲っていた。
わたしは、この祖父の名を一字もらっているけど、祖父の遺伝子があるかもしれぬ)


戦争中、船舶を戦争に徴収されたりして、戦後は事業は倒産。祖父は、子供たちを祖母にあずけて九州のお妾さんのもとに。

たいへんなのは祖母だ。昭和30年代、上の子たちは何人かは独立して巣立ってはいたが、まだ4人の子供は小学生から高校生までいた。

辺境のど田舎、吉田町に、中年の女性の働く場所などあるはずがない。
貧乏のどん底だったろう。このころ、わたしは、吉田町に預けられていたので、わずかな期間だけど、吉田町の祖母と接したことがある。
朝早くから夜遅くまでリヤカーをひっぱって行商をしていた。家は暗い倉庫のような狭い一室。寝る場所がないので、子供たちは押し入れで寝ていた。

10年くらいたって、祖父が帰ってきた。まさに父帰る、だ。子供たちは、父と母、二人に別々に仕送りをして支援していたが、これで仕送り先はひとつになったと安心していた。(子供は親に仕送りするものなのだ、と知った。おれも早く仕送りで生活したい、とずっと思っていたが、なんのなんの、今は親が子供に仕送りする時代になっている)

祖父は70才過ぎて亡くなる。好きなことをして過ごした人生だったかもしれない。祖父が陽なら、祖母は陰、無口でおとなしく、感情を激した姿を見せたことがない。子供たちの絶大な尊敬を集めていたのが、むろん、祖父ではなく、祖母だった。

葬式のとき、納棺された祖母の顔と対面した。100才を過ぎているというのに、しわが少なく、きれいな顔をしていた。思わず、ポケットからカメラを出してパチリと写してしまった。そのあと、すぐ気がついた。なんて、死者に対して無礼なことをするのだ。こんな振る舞いはふつう考えられない。カメラは画像を見ずにすぐ削除したが、ほんとにおれはどこまで常識がない、最低男なのか、とつくづく自分にあきれた。ごめんなさい、おばあさま。



初詣 能勢妙見山

2011-01-10 | 日記
正月は過ぎてまったけど、初詣にいった。
わたしの住んでる土地では、初詣といえば、源氏の祖廟、多田神社か、能勢妙見山になる。

妙見山までの山道は雪道で、ノロノロ運転をしないと危険です。
正月も過ぎたので、さすが人も少なかった。山門にある温度計を見ると、零下4度。
雪が舞っていました。
やはり本殿の回りをグルグル回りながらお祈りしている人がいた。
能勢妙見山に初詣するのが毎年の恒例になってきた。
他にもいろいろいくけど、ここが一番、御利益がありそう(笑)。

早起きの老人的生活習慣

2011-01-06 | 新聞・テレビから
最近は、夜は早く床につき、朝は午前4時すぎに起き出すという生活習慣になった。朝、トイレで目を覚ますのだけど、変われば変わるものだ。昔は、夜型人間で、深夜までおきていたのだけど、今は、だれよりも早く寝る。

で、昨日、書こうと思っていたネタ、早く寝てしまったので、書けなかったので書いておく。

朝日の社説「首相年頭会見 本気なら応援しよう」だ。

菅首相は年頭会見で、TPPへの参加、消費税の引き上げ、政治とカネの問題へのけじめ、この3点を重点課題にあげた。

「首相の問題意識を私たちは共有する」と書く。

それにしても、この見出し。新聞社が「応援しよう」とあからさまに書くとは。
まあ、たてまえだとはしても、「公平中立」の立場をとる新聞社のはずではないの?
「応援しよう」って、新聞は公器でもあると宣言していたのではないのか。

あ、早く目を覚ましたので、なんだかまた眠たくなってきてしまったぞ。やっぱり寝ます。おやすみ。失礼。

正月の社説

2011-01-01 | 新聞・テレビから
昨年の正月の社説は最低と1年前に書いたけど、今年は恥も品位も捨ててしまった無惨な社説。

いや、社説だけではない、例年、正月は正月特集の力のこもったルポ記事があったのだが、今年はそのような新聞社の志を示すような特集もない。いつもの新聞と変わらない。1面トップは一応、教育ルポを掲げているが、対話の授業という教え方の記事を正月一面トップにもってくる必要があるか?今はそんなルポは求められていないだろう。やはり特集記事は組めなかったと考えざるをえない。

社説にもどる。見出しは「今年こそ改革を 与野党の妥協しかない」。

どんな改革が必要か。

「税制と社会保障の一体改革、それと自由貿易を進める環太平洋パートナーシップ協定(TPP)への参加」

この2点だ。要するに、消費税をあげること、TPPへ参加すること。

TPPなんて、1年前の今頃は新聞社はどこも何も議論していなかったが、あっという間に緊急の課題になってしまった。米国や財界からの強い要請があるのだろう。

この改革をするためには、自民党と民主党の「政権交代の可能性のある両党が協調する以外には、とるべき道がない」。菅首相は「公約を白紙に戻し、予算案も大幅に組み替える。そうした大胆な妥協へ踏み出すことが、与野党共に必要だ」と語る。公約を白紙にしろ。選挙民のことをなんと思っているのか?

ついでに他の新聞の社説ものぞいた。

「とりわけ急がれるのは、環太平洋経済連携協力(TPP)への参加を中心とする貿易の自由化である」(日本経済新聞社)


「日米同盟の強化が必要」「経済連携(TPP)参加を急げ」「消費税率上げは不可避}(読売新聞)

「安全保障と通商の基盤の確立」「消費税増税を含めた財政再建」(他の項目は略)
(毎日新聞)


大新聞社はどこも「日米同盟の強化」「TPPの参加」「消費税増税」で一致して、協同して大合唱している。

日米同盟、TPP、消費税増税などへの疑問の記事がないばかりか、年金問題、失業問題、貧困、暮らしへの庶民の小さな声も黙殺。ただただ、財界、米国の宣伝・御用を勤める。

こんな新聞、だれが買うのだ?