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虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

清河八郎の新史料発見

2010-07-18 | 歴史
コメントで清河八郎の新史料が発見されたことを教えていただいた。
東京新聞。

以下、ウエブの記事をコピー。(いいのだろうか?よくわからんが)

「「町人切り」見直す新資料 清河八郎


 幕末の尊王攘夷(じょうい)派の中心人物で、坂本竜馬や新選組隊士らともかかわりがあった清河八郎(一八三〇~六三年)に関する新資料が、東京都千代田区の区立四番町歴史民俗資料館の収集資料から見つかった。清河は小説や映画などで「酔って町人を切り幕府に追われる身となった」とダーティーなイメージで描かれることが多いが、新資料では人を切る前日に江戸町奉行所の同心らに捕縛命令が出ていたことが分かった。専門家は「切った相手は幕府の密偵だったとする“わな説”の方が真実かもしれない」との見方を示している。 (加賀大介)

 資料は北町奉行所の同心山本啓助の手帳。一八六一年七月、清河探索のため故郷の鶴岡(山形県)や新潟方面へ出張した際の状況が記録されている。各藩の役人と情報交換しながら逃亡先を絞り込んでいく過程や、清河の両親の取り調べの様子、清河の特徴を記した人相書きなどのほか宿泊先や経費なども細かく書かれている。

 通説では、同年五月二十日、清河は酒を飲んだ帰りに日本橋で「町人風の男」にからまれて無礼討ちにし、人を切ったことで手配人となったとされる。

 しかし、捕縛命令は、冒頭部分に「五月十九日に、南北奉行所で打ち合わせの上、召し捕るよう命令が出た」と記述があり、対象者として清河ら八人の名前があった。

 幕末史に詳しい早稲田大講師の西脇康さん(54)は「清河は幕府から危険分子とみられていた。二十日には大捕物があり、その際に役人が切られたのだろう。逃がしてしまった恥を隠すため、通説のような話が広まったのではないか」とみる。同資料館の文化財調査指導員滝口正哉さん(37)は「男は清河たちを挑発する役目だったのかもしれない」と話す。

 清河の研究はあまり進んでおらず、清河八郎記念館(山形県庄内町)の斎藤清館長は「無礼討ちの前に幕府が捕縛を命じていたという資料はこれまでなかった。研究が進むきっかけになれば」と期待する。

 資料館では、今年十月に開催予定の幕末をテーマにした展示の中で、手帳を公開する。

(東京新聞)」

以上コピーおわり。

無礼討ちにした町人風の男は、幕府の密偵であろうとは、これまでもほぼ推察され、小説などでもそのように描かれてきたけど、それに史料的証拠が出てきたわけだ。

当時、大江戸で幕府に最も危険視された人物が清河八郎。町人風の男は故意に八郎につきあたり、避けようとすると、杖でうちかかってきたらしい。八郎は最初は自殺を考えるが、仲間からとめられ、逃亡生活が始まる。

幕府が暗殺した男って、清河八郎と坂本龍馬のほかにだれかいるのだろうか(わたしは知らない)。
龍馬の場合は、一応、幕府暗殺説が定説だが、薩摩藩説など諸説あってはっきりしていないが、清河八郎の場合ははっきりしている。幕府老中の命令だ。しかも、1度ではなく、第一次暗殺隊、第二次暗殺隊とくりかえしている。幕府には、よほど許せない男だったのだろう。
近藤勇や土方歳三が最初に与えられた仕事が清河八郎暗殺だったが、失敗。
清河八郎の暗殺者が坂本龍馬の暗殺者と同じだった、というのも不思議だ(二人とも佐々木只三郎が関与)。



しかし、八郎は幕府に暗殺されず、もう少し長く生きたとしても、薩長維新政権でもきっと邪魔者になり、相楽総三のように殺されたかもしれない。

それにしても、早く史料公開してほしい。千代田区立四番町歴史民俗資料館なんて、その存在すら今まで知らなかった。




芭蕉

2010-05-03 | 歴史
明治以前の日本人に一番人気があった歴史上の人物は「芭蕉」だったようだ。
出世や金、栄達とは無縁な漂泊の人芭蕉に人々があこがれたというのは、実にいいではないか。
武将や、成功者に関心が集まったのは、どうも明治以降のような気がする。
ましてや、江戸時代、権力者や大金持ちが世の尊敬を集めることはなかったにちがいない。

さて、芭蕉とは何者か。これがとんと知らない。
小学校の教科書に出ていた「古池やかわず飛び込む水の音」だけ。小学校の教科書に出ると、もう興味はなくなる。芭蕉の本にしても、俳諧の本か、国文学者の本ばかりが多く、どうしても敬遠してしまう。

かつては、日本人の理想とした人物像だった芭蕉さん。何者だったのだろう。最近、少し興味が出てきた。

画像は義仲寺にある芭蕉の墓。

千葉重太郎

2010-04-22 | 歴史
千葉重太郎といえば、桶町千葉道場の千葉定吉の息子で、坂本龍馬の友人。龍馬のドラマでは必ずといって登場し、どちらかといえば、ノンポリで単純温厚な好男子みたいな役柄。今の大河では、渡辺いっけいが演じている。

さて、この千葉重太郎も山国隊と深く関わっている。
仲村 研の「山国隊」を読むと、山国隊が江戸にいるとき、しばしば千葉重太郎が出てくる。この本は、山国隊の総代だった藤野 斎の日記をもとにして書いているが、藤野とも親しく交際している。交際どころか、山国隊に500両も貸している。返してくれよ、としきりに返済を要求して藤野を困らせてはいるが、しかし、よくぞ500両も出したものだ。

なんと、千葉重太郎も因幡藩士(鳥取藩)なのだ。因幡藩の江戸藩邸での周旋役を務めていたようだ。

ネットで調べると、父定吉も嘉永6年に鳥取藩の剣術師範役になり、重太郎は万延元年に因幡藩に仕官している。江戸藩邸の仕事をしていたのだろう。戊辰戦争にも因幡藩の歩兵頭として出陣している。

因幡藩は尊皇攘夷派が多く、長州人との交際もある。桂小五郎が池田屋を訪ねたとき、因幡藩邸に立ち寄っていたので、新選組の災難にあわなくてすんだ。
千葉重太郎も尊皇攘夷派だったにちがいない。龍馬を連れて勝を斬りにいった、という話は納得できる。

前回の龍馬伝では、龍馬は勝海舟という存在を恋人の平井加尾さんから教えられるという設定だったけど、いくらなんでもそれはないだろう。


千葉重太郎さん、その後、鳥取藩、北海道開拓吏、京都府などの役人になったそうだ。
千葉重太郎の語り残しみたいなのはないのだろうか。

薩摩、長州、土佐に比べると、因幡藩というのはほんとに注目度が低い。
前回、書いた山国隊隊長になる河田左久馬、初代の鳥取県県令になっている。

山国隊 ③

2010-04-20 | 歴史
前回の山国隊の墓標の説明、訂正。一番右が原 六郎で、そのとなりが河田左久馬、そのとなりが水口市之進。
水口市之進は山国隊の代表の一人だが、もう一人総代の地位にあった藤野 斎(いっき)の墓標はどこにあるのだろう?
だいたい、この神社で、なぜ地元山国の藤野や水口の説明が一切なかったのだろう。

藤野 斎が京都の芸者との間にできた子供は日本映画界の父といわれた牧野省三。
牧野省三は映画「山国隊」を作ることを夢見ていたそうだ。

また、隊士の中に北小路という名前の人がいるが、この人はかつて60年安保のとき全学連委員長として名を鳴らした北小路敏の先祖だそうだ。

隊員たち83名の名前、出身村 年齢などはわかっているはずだけど、いったいどこで確かめたらいいのだろう。

さて、山国という土地は古来、皇室とは関係が深かったらしい。平安遷都のとき、その造営の材木を提供したのはこの土地。江戸時代までは皇室領だった。江戸時代になってから、皇室領、旗本領、門跡領に分割され、村人にとっては、皇室領に統一されることが願いだったようだ。

戊辰戦争が始まるとき、朝廷は丹波の村々に檄を飛ばした。西園寺公望の出した檄文にはこうある。
「官軍へ加わり候村々は、当年限り年貢半納の御沙汰これあるべく候、もし、狐疑いたし、不参せしむるにおいては、その一村たちどころに御誅罰あい加えられるべき事」

相楽総三たち赤報隊は、一足先に年貢半減を掲げ、東に進んでいた。
山国隊は、その後を進む東山道軍に属した。
摂津の多田御家人たちの多田隊も同じく、このとき、檄に応じて東山道軍に参加している。
「山国隊」という名は岩倉具視がつけたそうだ。

さて、山国隊は、近藤勇たちとの勝沼の戦いや彰義隊との戦い、奥羽戦争まで転戦するが、その費用は自弁で、なんと七千八百両かかったそうだ。

戦いが終わっての章典は、他の草莽への報いと同様、わずかなもので、莫大な借金だけが残ることになる。

武士で他藩の河田左久馬や原 六郎たちは中央に出て出世をしていくが、山国隊員たちは、みな、山国の地で一生を終えた。

古本うしおに堂のブログにも、山国隊の本について少し書いておきました。



山国隊 ②

2010-04-19 | 歴史
山国護国神社の説明板のつづき。

「尚 この間に明治15年7月14日京都府は「自今、招魂社祭祀及び修繕等の諸経費は皆官費を以て被支給候事」の通達を出し、昭和20年の終戦に至るまで官費をもって招魂社の諸費は賄われて来た。また、明治16年8月には社殿を新築し、石棚を造り、招魂場としておなり、の体裁を整えた。招魂社が明治2年に設けられて以来明治16年までに支出した金員は2千余円の多額にのぼる旨が記録されている。
憲法が改められて以来、官営の招魂社は認められなくなり、昭和20年宗教法人山国郷社となり、昭和26年宗教法人山國護国神社となって、町民崇敬の社となっている。明治百年祭より、日清・日露・大東亜戦の戦病死者を昭和42年より合祀されている」

説明板は以上です。

石段をのぼると、まず、明治2年に造られたという招魂碑(石)がある。また、明治16年ころに建てられた3メートルくらいの顕彰碑(京都府知事槙村正直が碑文を書いたのだろうか、なに書いているのかはよく見えない)。そして、隊士の墓標がずらりと立っている。隊士は83名いたというけど、数えてないけど、83あるのだろうか。
墓標は1段目(上)と2段目(下)に分けられていたけど、これは山国隊は東軍と西軍に別れたというから、そのためだろうか?わからない。

何の説明もない。いや、隊士83名の名前くらいははっきりと説明板に書くべきだろう。
墓標に、名前は刻んでいるといっても、読みにくい。

個人の小さな説明板はある。池田慶徳、河田左久馬、原 六郎、槙田正直の4つだ。
池田慶徳は因幡藩藩主(水戸斉昭の子)、招魂碑の石の「大きみの御たてとなりし ますらおの いそしを 世々にたつる石ふみ」という歌はこの人が作ったらしい。

河田左久馬。因幡藩士。因幡藩きっての攘夷志士。山国隊は因幡藩とともに行動することになり、河田は山国隊の隊長になる。

原 六郎 (但馬の出身だが、生野の変に参加したあと、因幡藩に保護を求めた)。山国隊の司令長になる。

槙村正直(長州藩士。行政裁判所長官となり、無役地事件にもかかわる) 京都府知事。

この4人とも山国の人ではない。4人とも明治後もそれぞれ栄光に包まれた生涯を送った人だ。

なぜ、山国出身の人を、山国隊士全員の名を出し、かれらの事蹟を知らしめようとしないのだろう。

画像は墓標。一番、右が隊長河田左久馬、その隣は原 六郎。他の墓標よりも少し土台が高くなっている。差をつけているわけだ。なんだい、これは、おかしいよ。

この墓標が造られた頃は、すでに天皇制軍隊も確立され、草莽の存在よりも、天皇を上にいただく階級意識が濃厚になってきていたのだろうか。

山国出身の山国隊の主人公たちはどこにいるのか。とりあえず1杯飲ってからにしよう。



山国隊探索報告 ①

2010-04-19 | 歴史
山国神社と山国護国神社とは違うようだ。
山国護国神社は、山国隊の隊士たちを祭る場所で、隊士たちの墓標が立っている。画像が山国護国神社の入り口。この横に説明版が立っているが、手書きの文字で、だれが書いたかも記入していない。いや、上にのぼると、いくつか人物を説明した板も立っているが、だれが書いたか、わからない。ふつう、こういう説明版は教育委員会が書くけど、これは村の人が書いたのだろうか。

ここはたまたま通りがてらに、見つけてちょっとしか見ていないのだけど、いろいろ疑問に感じることがあった。

まずは、神社下の説明板をそのまま書いてみる。

「    山國護国神社由緒

王政復古の政変に際し、勤皇隊の総司令官西園寺公望公の要請に呼応して、山国庄の名主等が農民兵を組織して勤皇隊に加わり、鳥羽・伏見の戦はもとより遠く江戸、奥羽地方まで転戦した事は史実に基づいても明らかな所であります。
其の山国隊が、山国庄に明治2年2月21日凱旋した日に伍長会を開いて戦病死をした戦士の招魂場を設けることを話した後、2月24日全隊員が先ず王社明神に参拝して報告祭を催し、その足で、先日議決した薬師山に戦病死をした七隊士の墓標をたて招魂祭を催した。その隊士の名は次の通りである。

仲西市太郎(江戸) 田中浅太郎(安塚) 田中伍右衛門(上野) 新井兼吉(安塚) 高室重蔵(江戸) 高室治兵衛(安塚) 北小路萬之助(京都)

明治8年12月15日最初の招魂祭を京都府の監督官の臨席のもとに催したが、これが恒例となって、毎年、山國村民が多数参列して現在に至るまで盛大に執行せられている。」

まだ、続くが、ひとまず、ここで1服。

壬生剣客伝 下野の国から

2010-02-12 | 歴史
古本屋をはじめてから、北は北海道から南は沖縄までたくさんのお客さんと接してきた。注文を受け、本を送り、お金をもらう、それだけの関係がほとんどだけど(それでいいのだけど)、中には、商売抜きで、親切に声をかけてくれるお客さんもいるのがうれしい。

今日、本を送っていただいたお礼にと、わたしが幕末好きなのを知って、地元で開かれた壬生剣客伝のしおりと、地元新聞(下野新聞)に連載された記事「壬生剣客伝 高杉晋作が挑む」を切り抜いて送っていただいた。

古本うしおに堂の、どう見てもきれいとはいえない本を買っていただいたのに、そのお礼とは恐縮してしまった。

それを紹介する。

壬生町が栃木県にあるのを知らなかった(壬生といえば、京都だと思っていた)。

高杉晋作は22才のとき、剣術修行の旅に出る。「試撃行日譜」という日記が残されているのだが、高杉は栃木の壬生ではじめて念願の他流試合をする。
それまで、日記には訪れた土地や人のようすなど細かく書かれていたのだが、この日、日記は空白ページになり、その後、ただのメモ程度になってしまうそうだ。
この他流試合で何があったか。そう。負けたんです。日記をつける気力もわかないほど、ショックを受けたのでしょう。気持ちはわかるなあ(笑)。

試合をしたのは野州壬生藩の松本五郎兵衛。神道無念流。高杉(柳生新陰流免許皆伝)は3本勝負の3本とも負けたらしい。

壬生藩には「野原正一郎」という剣客がいたことも紹介している。
野原は、斎藤弥九郎の長男、斎藤新太郎が長州藩の明倫館道場で他流試合をしたときに同行した剣士だ。斎藤や野原に長州藩はだれ一人かなわなかった、ということで、それ以来、長州藩は、江戸の斎藤道場(練兵舘)で修行することになった。桂小五郎もそうだ。

高杉と試合した松本五郎兵衛も、江戸の斎藤道場で修行していた人。柳生新陰流といっても、やはり、剣は江戸なのかもしれない。

神道無念流を創設した人は、この壬生町の人で福井兵衛門嘉平。
杉田幸三の「剣客事典」によると、夢うつつのうちに老翁から剣の極意を教わり、「姓名を教えてほしい」と尋ねると、「なんじ、生まれしとき、姓名ありや」「ありません」「われ、只今、ここに来たりしがそれと同じよ」と答えてパッと消えてしまった。それ以来、無念、神から授かったからと神道無念流と名付けたそうだ。

神道無念流を有名にしたのはご存じ斎藤弥九郎。この人は武家出身ではなく、丁稚奉公などをした苦労人。のち、渡辺崋山、江川太郎左衛門、藤田東湖らとも深い親交を持ち、ただの剣客ではなかった。大塩の乱のときには、大坂に探索にきたこともある。おっと、話がどんどんそれる(笑)。

知らせてくれないと、栃木の壬生町で、今、こんな催しがあることなんて、ぜったいにわからなかっただろう。ほんとに、ありがとうございました。

「壬生剣客伝は」、壬生町立歴史民俗資料館で2月6日から3月14日まで開催しています。お近くの人はぜひどうぞ。


李秀成

2007-10-23 | 歴史
高杉晋作が上海にいたとき、その上海を攻撃していた太平軍の首領が李秀成だった。もうすこしで上海を占領できていたかもしれないのに、洪秀全のいる南京を守るために上海攻撃は中止になる。

もし、高杉晋作と李秀成が会っていたらおもしろいなあ、と思うけど、こんな空想をすでに劇にした人もいるのですね。ネットで李秀成を検索したら、いきなり劇の題名が出た。上海大冒険。もう10数年昔の公演だけど、内容はぶっとぶ。龍馬と晋作が上海にいき、そこで、吉田松陰に生き写しの女性(松陰も女性だった、という設定)に出会う。それが太平天国の李秀成。作者はマキノノゾミ。NHK朝ドラの脚本も書いたこともある人だそうな。

たしかに、李秀成って、そんな空想をかきたてたくなる魅力があるのです。
太平天国、南京に首都を定めるまではみんがよく協力していいのだけど、後半、幹部の権力争いが置きたり、洪秀全は宮殿の奥にはいって無能無策になり、みっともない事態になる。かわって、この李秀成とか、石達開とかの英雄が活躍するのが救い。英雄だけど、しかし、上に頂く王が愚かな洪秀全なので、悲劇の将軍といえる。

李秀成は貧しい農民の子だけど、本が大好きで片時も本を手放さないような人だった、という。最後、洪秀全の子どもを連れて城を脱出するが、捕まり、曽国藩によって、処刑される。太平天国の理想を最後まで信じて行動した人だろう。だが、残念なことに、この人の本がない。

陳舜臣の「太平天国」にも李秀成の活躍はほとんど語っていない。(陳舜臣の太平天国は、がっかりだ。アウトラインを述べるだけで、人物も何もよくわからない。書くのなら、もっと腰をすえて書いてほしかった、と傲慢な読者は思う)。

太平天国、ひょっとして、清国を倒したかもしれなかった。はじめは、どうなるかわからず、イギリスも中立の立場をとったほどだ。だが、太平天国はアヘンを厳禁しているし、賠償金その他で、清国と手を結んだ方が、利権が得やすいと判断して清国に加勢する。

よその国の内紛に平和をもたらすために軍事介入する?まずそんなことはあるまい。そこに利権がある。利権が得やすい方に味方するものな。

ジョセフ彦と長州

2007-10-02 | 歴史
ジョセフ彦は「新聞の父」として、日本で初めて新聞を発行した業績が第一になっているようだけど、それ以上に幕末の志士たちに与えた影響も大きいと思う。

彦の自伝には、長崎の彦のもとに、桂小五郎と伊藤博文が足しげく通って話を聞きに来たことが書いてある。桂たちは、彦に長崎における長州の貿易の代理人になるように頼んでいる。その文書も渡している。
「下記署名の長州公の役人は、藩公の代理として、本日、アメリカ市民J・ヒコ氏を任用し、日本の長崎港における藩公の特別代理人として勤務させることを約するものである」という木戸と伊藤の署名入りの文書もある。
彦は、「こうした約束のもとで2年間、何の報酬もないままに、長崎における長州の代理人として勤務した」と書いてある。
桂に頼まれて、長州に外国の薬剤師を派遣したり、伊藤を外国軍艦に乗せてやったり、いろんな世話をしている。

しかし、長州の維新史においてジョセフ彦の功績などはおそらく無視されているのではなかろうか。藩士ではなく、ましてやアメリカ人になった漂流したもと船乗り。さすが伊藤はやさしく、兵庫県知事になったときには、彦が故郷に帰るときに世話をしているが。桂は彦のことはすっかり忘れているにちがいない。

桂や伊藤に彦に会えとすすめたのは、竜馬ではなかろうか。竜馬の名は彦の自伝には出ていない。しかし、自伝を書いたのは明治20年代だから、このころは、一般にも竜馬の名は忘れられていたのではなかったか?

竜馬と彦の関係について書いてあるのは、田中彰「開国と倒幕」集英社版日本の歴史15巻だけだ。何の確証もないらしいが、「もし、このジョセフと龍馬との関係が確認できれば、竜馬の国家構想の発想や行動様式にヒコが何らかの影響を与えている可能性も十分考えられる。今後の興味深い課題といえよう」と書くのみ。

彦は英語は達者だったが、少年のころにアメリカに渡ったので、日本語(漢字)で文章を書くことが不得意だったらしい。そのためもあってか、日本政府で働く事は困難だったのかもしれない。

画像は、播磨町の蓮花寺にある彦が建てた両親の墓。裏は、英文で記してあり、横文字の墓として知られる。

音吉とシンガポール

2007-09-22 | 歴史
新約聖書の日本語訳に協力し、モリソン号で日本に向かうも砲撃された漂流民音吉は、いまや、ジョセフ彦よりも有名かもしれない。出身地美浜町では、顕彰会もあり、地元で応援する人も多い。三浦綾子の「海嶺」は音吉が主人公だ。映画にもなった。

この音吉、2年前の2005年2月にその遺灰がシンガポールから天保3年の漂流以来173年ぶりで帰国したそうだ。ネットで検索したら、美浜町のホームページに出ていた。

2004年に音吉の遺骨がシンガポールの国立墓地にあることがわかり、発掘、2005年に、音吉の遺骨は、シンガポール日本人墓地、音吉の子孫である山本家の墓、遭難した乗り組み員のために建てられた良参寺の墓に分骨されたそうだ。

山本家というのは、音吉の妹の嫁ぎ先のようだ。今、「音吉と縁のある」山本屋旅館というのを営業している。

シンガポールといえば、初めてわたしがいった外国だ(と、ここで、いつものごとく、自分の話になる 笑)。

淡路島のような小さな国で、安全な町ではある(小田実は警察国家だ、といっていたが)。センソーサ島とかタイガーバームガーデン、イスラム寺院、オーチャード通りの植物園とか見ると、あとは行くところもなく、わたしは、日本人墓地を訪ねた。そこはイギリス人の墓もあれば、中国人の墓もあるので、わたしは、墓の形で日本人墓地と見当をつけたのだと思う。なぜ日本人墓地を訪ねたか。からゆきさんか、移住者か、あるいは、日本軍の戦死者か、なんに関心があっていったのかはわからない。ただ、異国で死んだ人に興味があったのかもしれない。もちろん、このころは、音吉のことなど知らなかった。

ただ、チャイナタウンの2階建ての古い住居街(ちょっと遊郭街をも思わせる)を歩いていると、まるで日本の演歌のような叙情歌が流れていて、昔、日本からきた人はきっと望郷の念にかられただらうな、という感慨は持った。今は、シンガポールは近代的なビリが林立するモダン都市になっているのかもしれない。シンガポールのコーヒーは独特の臭みがしたのだけよく覚えている。
シンガポールでも、いまや音吉は日本人として有名になっているのかもしれない。


ジョセフ彦の仲間

2007-09-22 | 歴史
吉村昭の「アメリカ彦蔵」を読んだ。
吉村昭の小説は苦手で、今まで、通読したものがない。淡々と事実のみを叙述し、勝手な空想は極力抑えるという手法で、ほとんどノンフイクション小説といえる。もう少し色艶があったらなあ、と思うのだけど、それは読者の仕事なのかもしれない。他の人物だったら読むのをあきらめたかもしれないが、彦なので、最後まで読んだ。帰国してから、明治後のことはさらりと書くのみで詳しくはない。

やはり、彦といっしょに漂流した「栄力丸」の仲間の人生が印象的だ。
彦は炊の見習いとして栄力丸に乗ったのだが、その炊の先輩が仙八。この人は、サムパッチと呼ばれ、ペリーの黒船に乗って日本に帰ることになる。ほんとうは、栄力丸の他の船員も帰るはずだったのだが、仙八だけ残して、他のものは違うルートで帰国する方法をとり、ペリーの船から脱出してしまう。ペリーは日本との交渉に漂流民が必要だったらしい。幕府も仙八に帰国をすすめたのだが、しかし、仙八は上陸を拒否。モリソン号のときには、砲撃されているので、帰国したら罰せられると思ったのかもしれない。その後、宣教師と共に帰国し、宣教師の従者のような仕事をしながら、明治7年に死去している。

もう一人、岩吉。紀州の人。その後、伝吉と改名し、この人は、イギリス領事館の通訳としてオールコックと共に帰国する。安政七年イギリス公使館前で暗殺される。犯人は編み笠をかぶった攘夷派浪人のようだが、清河八郎か長州過激派かではないよね(笑)。桂小五郎などは、岩吉が暗殺されて、「「まことに、きみのよきこと」などと書いているらしい。

あと、「栄力丸」の乗り組み員ではなくて、彦が生まれたころに漂流した音吉がわすれがたい。上海で、彦たちの世話をするのだが、この人は、天保時代、「モリソン号」に乗って帰国するのだが、幕府から砲撃され追い返されてしまう。それ以来、自分は帰国をあきらめ、他の漂流民のための世話に情熱を燃やす。ついに日本に帰国することなく、シンガポールで死ぬ。

彦は、アメリカ公使館の通訳として帰国。彦も攘夷派浪人につけねらわれたらしく、胸にはいつもピストルを持っていたそうな。清河一派が暗殺したあのヒュースケンとも親しかったはずだ。

吉村昭の「アメリカ彦蔵」では、故郷の播磨町に帰ったときの彦のさびしい心境を描いている。故郷には、両親家族はなく、寺の過去張には、自分の戒名まで書かれてある。村の人もだれも自分に近づこうとはせず、故郷は自分とは無縁の土地になっていた。

彦は、アメリカではみんなから好かれ、親切にされた。人柄に愛すべきものがあったのだろう。日本に帰国できる船があっても、自分はあとまわしにして、他の漂流民を先に乗せてあげるなど、他人にも暖かい。いい奴だ。こんな人は、幕末みたいな物騒がしい世界では生き難かったかもしれない。

渡辺崋山の旅

2007-09-17 | 歴史
書店に久しぶりで入ったら、ドナルド・キーンの「渡辺崋山」が出ていた。今年の3月には出版されていたらしい。定価がちょっと高いので、これは図書館で見つけたら読むことにしようと思った。
昔、江戸時代がわからなくて、天保時代なら、崋山がキーパーソン(幕末なら清河八郎だが)だろうと思い、崋山の交友関係に関心をもったことがある。旅のついでに、田原の崋山記念館や崋山のお墓にもいったことがあるけど、もう、すっかり記憶はゼロだ。記憶をとりもどすために、その中のいくつかを採録しておきます(パソ会議室から)。最近、こればっかりだ。画像は、能勢長谷付近。
以下、例によって、9年前のコピー。長いです。

崋山とつながる人「お銀さま」
98/11/20 22:47 05473へのコメント コメント数:1

少年のころに親しく接し、憧れた美貌の年上の女性。しかし、ある日、突然いな
くなる。25年、年月がたったあと、さて、あの人はどうしているのか、と
訪ねてみたくなったことはないですか?(^^)
崋山がそんな旅をしているのです。

それは、崋山がつかえている三宅友信という隠居の生母お銀さんなのです。
田原藩の11代藩主三宅備前守の側女お銀さまは、この三宅友信を生んだ翌年、
お屋敷を去り、そのまま田舎の実家に帰ってしまいます。
崋山は子供のころ、このお銀さんにかわいがられたことがあるのです。
また、少年のころ、このお銀さんが生んだ子供のお相手をつとめたり、青年期には、
この友信を藩主にしようと運動したり、友信とは切っても切れない関係にあります。
(でも、詳しい説明はこのさいカット)。

とにかく、あの25年前、殿様の側女になり、今、つかえている主君(藩主では
ない。若い)の生母であり、崋山自身も忘れられない人となっているお銀さんを
訪ねてみようということになったのです(もし、苦しい生活をしていたら、ひきとろ
うとまで考えていたようです)。実家のある土地で村人と結婚したという噂は得てい
るのです。

旅は天保2年の9月。崋山は39才。
主君友信は26才。殿様は顔も知らないので、崋山が弟子一人を連れて旅に出発。
場所は神奈川県厚木の付近。当時は相模国。そんなに遠くはないので、9月20日に
江戸を出、9月22日には着いています。近郊の小旅行です。なんと、この旅行記(ス
ケッチつき、雑記帖)が残っているのです。「遊相日記」といって短い(今なら15ペ
-ジ程度の)紀行文です。短いけど、こんな旅、実にドラマチックではありませんか。
まるで山田洋次の映画にも出てきそうな牧歌的な情景です。

崋山につながる人「お銀さま」2
( 8) 98/11/21 14:29 05485へのコメント コメント数:1

>実家のある土地で村人と結婚したという噂は得ているのです。
と書いたけど、どうも、 崋山はそんなことも知らなかったようです。
ただお銀さんは、相模国高座郡早川村の幾右衛門の長女という手がかり
だけです。

さて、早川村に近づいた崋山、人に早川村の幾右衛門を知らないか、と
問う。
「その人は酒に酔って川に落ちて死んだ」
「では、その家族は今でもいますか」
「知らん。小園というところに娘が行ったということを聞いた」
「なぜ?」
「小園の清蔵という百姓の妻になってる。そこは朝夕の煙細う立つ
だけの貧しい家だから、お殿様みたいな人のいくとこではないわ。
わしもよく知らないので、先へ行って聞いてみなせえ」

しばらく行くと、戸数わずか4つか5つくらいの鄙びたを歩く。
日陰にむしろをひいて、背中だけ日にあててうずくまっている爺さん
がいた。崋山がこの爺さんに聞くと、突然、声をかけられてびっくりした
のか、しばらく黙っていたのち、話しだす。

「早川村は、この細道をずっといけばいい。川がある。それが早川じゃ。
そのあたりで幾右衛門と聞けば、知られた酒好きの翁だから、みんな知っている。
もう80才にはなるだろうか。娘は4人いて、2人は江戸にいた。長女ははやくから
江戸に出て、宮仕えをし、花を飾り、錦を着て帰ったことがあったが、じきに
母親が亡くなったので、家に帰った。女ばかりの家だからということで、小園村
の清蔵の嫁になり、その清蔵の弟を父親の養子にし、次女と結婚させ、家を継がせ
た。幾右衛門も清蔵もたいそう貧しく暮らしているが、ふたりとも働き者だ。清蔵
は他村までかけて、人の世話をしているほどじゃから、自分の家計もままならぬそ
うじゃ」

早川村に行くと、子供たちが遊んでいる。
「幾右衛門の家はどこ?清蔵の家はどこ?」と村の童に聞く。
子供は、幾右衛門の家より清蔵の家のが近いよ、と言う。
じゃあ、教えてほしい、と崋山は子供に小銭をあげて、連れていってもらう。
途中、地蔵堂を過ぎたあたりで、いが栗頭の小さな子供が立っている。
崋山を案内した子供が「おじさん、この子が清蔵の子供だよ」と言う。
よく顔を見ると、たしかにお銀さまのおもかげがある。
「家はどこにある?」と崋山が聞くと、返事もしないで、その子は走り去って
しまう。
その子の後を追っていって、ついに目的の家に着く。大きな母屋で、両側に下屋や
木小屋もある。庭に粟がいっぱい干してあり、犬が鶏の守りをしていた。
崋山、縁側から声をかける。もうし!
すいません、長くなったので、今回はここまで(^^)
                             



崋山につながる人「お銀さま」3
( 8) 98/11/22 12:53 05495へのコメント コメント数:1

ごめんやして!
さて、崋山が(「ごめんやして!」とは言わないか(^^))、声をかけると、
「かしらに手拭をいただきて、老いさらほいたる女」が出てきて、
「いづれよりにや?とおそるおそる問う」

崋山、見て思う。「子供はお銀さまに似ていたけど、この人はそうではない。
しかし、20年以上も前のことだから、昔の顔のままのはずがない」となお、
じっくり顔を見つめていると、耳の下に大きないぼがあるのを発見。あ!
やっぱりあのお銀さまにまちがいない!

「わたしは、童のとき、あなたにとても憐れみをかけていただいた者です。
いささかなりとご恩報じにと訪ねてまいました。わたしは、だれだと思いますか?
お考えください」と崋山。

お銀さま「そんなことはわたしには身に覚えがありません。お殿様はどこからこられ
ましたか?もしや人まちがいではありませんか?」

崋山「まちがいではありません。あなたの名は何といいますか」
お銀「まち(町)」
崋山「昔の名は?」
お銀「まち」

崋山、あれ?やはりまちがいであったかと自信がなくなるが、耳の下のいぼがなに
よりの証拠だと思い、「昔、お銀と名のったことはありませんか?」と聞く。

お銀さん、急に驚いた顔をし、
「昔、江戸にいた時にはそう呼ばれていたこともあります。では、あなたさまは、
麹町(田原藩の江戸屋敷があった)から、おいでなされましたか?」と、言い、
「まずは奥へお入りなさい」と家に招じ入れてくれる。

部屋は畳はなく、板敷。そこで、改めて対面。頭の手拭をとった女性は、まぎれも
なくお銀さまその人でした。
「ただ涙にむせびて、互いに問い答えることもなく、時、移り」と崋山は書いてい
ます。

しばらくして、「わたしの名は何というか、おぼえておられますか」と崋山。
お銀「されば、上田ますみ様でらっしゃいますか?」(上田ますみは、25年前に今の
崋山と同じ年齢の侍だったらしい。お銀さまも25年という時間の経過を忘れて、当時
の同年配の武士の名をあげたのでしょう)

崋山がその者は15、6年前に亡くなりました、というと、
「では、あなたは渡辺登さまでいらっしゃいますね!どうしてまたお訪ねくだされた
のでしょう!なんと夢ではないのかしら!今日は夫は用事があってまだ帰ってないの
です。家の子を紹介します」とさっきから陰からようすを見ていた子供たちを呼んで
ひとりひとり紹介する。なんだかあわててとまどってるお銀さんの姿が目に浮かびます
ねぇ。
その場にいたのは、次男(19)、長女(11)、三男(8才、道で会ったいが栗頭の子
供)、末ッ子(3)。しばらくして、長男(22)も馬をひいて帰ってくる。「いと太く、
たくましい男にて、素朴いうばかりなし」と崋山は書いています。いい息子たちを持っ
てるとお銀さんの境遇に安堵したかもしれません。

お銀さんは、そばがき、酒、吸い物、とうふ、たまご、梅干し、栗餅などを出して、
馳走してくれるが、江戸の味になれた弟子などは、あまり食がすすまなかったらしい。
でも、崋山は、「その人喜びのあまり、何かと工夫してかくはもてなしなりける」
と、書いています。梅干しが一番うまかったそうだ。この場のようすもスケッチし
ています。

父親幾右衛門もやってきて、お銀さんとの昔語りに時を過ごす。
お銀さん「わが身の上を語りては泣き、都の空を思いては泣く。ただ今日という今日、
仏とやいわん、神とやいわん、かかる御人の草の庵におたずねくださって・・・」

しかし、はや、日が暮れかかる。
農業のさまたげになってはならぬと、崋山は辞去します。実にいい再会だった、と
崋山は幸福な時を過ごしたかもしれません。この日は、厚木に泊まるのですが、
いっぱい飲みたい気分だったのでしょう。「人を呼んでくれ、今日はおれがおごる」
と宴会をします。
なんと、その場に、あの時、会えなかったお銀さんの夫清蔵が訪ねてくるのです。
他村での仕事で遅く帰ってきた清蔵、妻から話を聞いて、大急ぎで走ってきたそう
です。走り通しだったので、あえぎあえぎ、崋山と対面します。角ばった赤黒い顔。
口は鰐のようで、厳然たる村丈夫。おみやげまでもってきている。いい夫だなぁ。
「清蔵と対話する。わが心様を話し、清蔵が心のほどを聞く。わが心、安し」
と崋山はこの紀行文をしめくくっています。

この紀行文の全原文は「日本庶民生活史料集成第3巻」(三一書房)に出ています。
また、この紀行文をわかりやすく解説したものに芳賀徹「渡辺崋山優しき旅人」(朝日
選書)があります。詳しく知りたい人はそれを見てね。清蔵、お銀さん夫婦の墓もある
そうだ。
(この芳賀徹という人は、新しい歴史教科書を作る会の人だけど)

崋山と松崎慊堂

2007-09-17 | 歴史
崋山につながる人「松崎慊堂(こうどう)」
( 8) 98/11/23 21:45 05510へのコメント コメント数:2

天保の大儒と称される老学者です。また、偉い人だ。しかも漢学者!固そう!
でも、崋山の学問の師であるだけでなく、命の恩人でもありますから、はずす
わけにはいきません。
で、そんなに固い人でもないんです。いい人です(^^)

明和8年(1771)肥後の農家に生まれる。貧しいので寺の小僧にやられる。
16の歳に江戸に出奔。江戸の寺の和尚にひろわれ、林家の昌平校に入る。
苦学して、後、佐藤一斎とともに林述斎門下の双壁といわれる。

苦学していたころ、こんな話があります。品川の娼家に泊まるのですが、
この書生は夜中に起き出して本を読んでいる。相方の女性が「なぜ、本を
読んでいるの?」と聞く。慊堂は「自分は苦学生で、昼間は本を読む暇が
ない。だから、夜を読書の時間にあてている」と答える。
「あなたが1カ月学問するにはどのくらいお金がかかるの」
「2分あれば、十分なんだが」
「2分くらいなら、わたしが倹約したらできるお金だから、わたしが学資を
送ってあげるわ」
それから毎月、この遊女は2分送ってくれ、おかげで、慊堂の学問も進み、
塾を開いて独立できるようになり、慊堂は、この遊女を落籍して妻にします。

慊堂が「蛮社の獄」で牢屋にいれられた時は、慊堂はすでに70才以上の高齢で、
しかも病気で苦しんでいました。しかし、崋山を助けるために憤然と行動を
おこします。対照的なのが、佐藤一斎。この人は崋山を助けるよう人に求められ
ても、「何もしないほうがいい」と断わるのです。(崋山は佐藤一斎も松崎慊堂
とも肖像画をかいています)

慊堂は林述斎に会い、鳥居耀蔵にも会い、水野忠邦にも崋山は無実であるという
建白書を出すのです。崋山は死刑にきまっていたようですが、この建白書が水野
を動かし、崋山の罪は軽減されます。

前、AKIさんが近藤重蔵の息子の世話を羽倉簡堂がした、と書いておられまし
たが、羽倉さんにたのんだのが、なんと、この松崎慊堂のようです。
この人も、めんどう見がいいねぇ。この時代、親分がいっぱいいるね(^^)

崋山が自殺したことを知った時、慊堂は「崋山は杞憂のために罰せられ、杞憂の
ために死んだ」と悲しんでいます。

慊堂は50才ころから70すぎで死ぬまで日記をつけていたようで、それは「慊堂日録」
として平凡社東洋文庫全6巻(文政6年から天保15年まで)として出版されています。
この中には、崋山の記事はもちろん、大塩の乱の記事なども出ているそうです。



蕃談(漂流民次郎吉)1

2007-09-16 | 歴史
漂流民話、もう一つありましたので、書いておきます。
これも、9年前、この時期、なんか集中的に漂流談を読んだのでしょう。その後は、すっかり忘れていますから、熱しやすく冷めやすい自分の性向がよくわかります。この漂流談は、あまり印象に残っていないので、たぶんおもしろくないのかもしれません。パソ通時代の漂流談は、これでおしまいです。
以下コピー。

漂流民次郎吉の話(蕃談)
( 8) 98/06/22 00:46 コメント数:2

天保9年に遭難して漂流した越中富山の長者丸(10人乗り)の漂流記をやってみます。
この漂流記は日本庶民生活史料集成にある「時規(とけい)物語」と「蕃談」が
ありますが、「時規物語」は長すぎるし(しかし、挿絵は素晴しい)、「蕃談」
は東洋文庫に現代語訳があるので、「蕃談」を読んでみることにします。

まだぜんぜん読んでいないので、おもしろいのかつまらないのかは、まったくわから
ない。つまらなかったら(あまりわたしの興味をひかなかったら)、連載もすぐ終わ
るつもりです。でも、井伏鱒二の「漂民宇三郎」はこの事件が史料になっているそう
やし、ちょっとは何かあるかもしれません。

「蕃談」。漂流民次郎吉に取材してこの本を書いた人は、古賀謹一郎。
幕末期には、蕃書調所という幕府の洋学研究所の頭取を勤めた人です。
話を取材した時は29才のころかな。
その序文には概略こんなことを書いています。

中国の晋の代に、ある漁師が桃源境を旅して帰って人々に語り、人々はその
話に驚いたという。この漂流民の話も、わたしたちにとっては桃源境を旅した
人の話のようだ。
しかし、わたし(古賀)はこうも思う。
晋に住んでいたという桃源境の人々は洞窟の中にこもり、500年間、外の世界を
知らなかった。桃源境の人々こそ、漁師から世間の話を聞き、びっくりしたので
はなかろうか。
いや、われわれも、この桃源境の人々と同じではないのか。
鎖国して、海外の事情は何も知らない。

蘭学や長崎だけの情報では満足できない、という鎖国時代の学者の焦り、海外への
探究心を感じます。
                              
RE:漂流民次郎吉の話(蕃談)
( 8) 98/06/22 21:26 03989へのコメント

としまるさん、まいど!海の男 ホ-ンブロワ-じゃなかった藤五郎です(^^)
>>「蕃談」を読んでみることにします。
>これって何て読むんだっけ?未だ学校で習っていないよ(笑)
「ばんだん」と思うけど、ちがうかなぁ。「ばん」とキ-ボ-ドを押すと、
その中に蕃という漢字もあったんだ。
「蕃」というのは、外国人、未開の異国人という意味があるのでしょうね。
当時の日本にとって、中国を除けば、蕃なのだろうか?

この漂流談を語った次郎吉は当時、26才のただの水夫(雑用係)。
でも、体格堂々として、力持ち。大男のロシア人と相撲をとってもだれもかなわず、
日本人、強し、と尊敬されたようだよ。
対面したインタビュア-古賀謹一郎は、「顔色浅黒く、堂々たる偉丈夫で、
すぐれた記憶力を持ち、弁舌もまたさわやかである」と書いています。
ただ水夫の常として文字はなかったそうですが(ほんとかなぁ?)。

文字はなくても、その知性はすごいよ。(文字を知って本を読めば読むほど、
知性教養人格はかえって曇る場合もありうるな)

たとえば、こんなこと言っている。
「そもそもわが国は、外国といえばすべて仇敵視し、異国の船を見れば善悪を
問わずただちに砲撃する。したがって諸外国はわが国をあたかも狂犬に対する
ごとく深く警戒し、本土に少しでも近づく際は厳重に武装を整える。-略-
諸外国の船がみな日本の近海で武備を厳にするというのは、これまったくわが国
がみずからまねいた結果ではないであろうか」(東洋文庫「蕃談-漂流の記録1」
平凡社)

漂流の記録1、と書いていて全3巻とあるけど、どうも、2、3は出ていないようです。
でも「蕃談」はこの1巻だけで全部です。もうひとつの史料「時規物語」も合わせて
使って補っているので、これで漂流の経過は十分知ることができそうです。
                          

蕃談(漂流民次郎吉)2

2007-09-16 | 歴史
漂流民次郎吉の話「蕃談」(2)
( 8) 98/06/22 23:09 03987へのコメント コメント数:1

船は富山の能登屋の持ち船 長者丸(650石積み)。
乗組員は船頭兵四郎以下合計10名。

  どんな構成かというと、
船頭1名、平四郎(50才くらい) 総取締役。
親司(おやじ)1名 舵取取り役。操縦士。
表(おもて)1名、船首にいて方角を指示する水先案内人。
岡使い1名 会計係 荷物の記帳をしたりする。

片表 1名 片表以下からは若衆ともいうそうな。錨のあげおろしなど
     船内作業。
追い廻し 3名 雑用一切。次郎吉はこの役。
炊(かしき)2名 炊事係。
もちろん男ばっかです。

海の男たち、漂流する前までどんな仕事をしていたのかも見ておきましょう。
当時の船はただの交通産業ではなく、海を股にかけた商売をしておった
ような。

天保9年(1838)4月、大坂への廻米500石を積み、出航。
5月下旬、大坂着。ここで、米を富山藩の蔵屋敷に届ける。
大坂で、綿、砂糖その他を買い込み、空船になった船に積み込み、
6月中頃、大坂出航、7月6日新潟着。新潟の問屋に荷物を届ける。つまり、
大坂で積み込んだ綿や砂糖を売ったということかな?
8月下旬、松前城下に入港。
当然、新潟でお米を買い込み、米の少ない松前で売ったのでは?空船のまま
航行するはずはない・・。
9月末か10月初め箱館に入港。ここでこんぶ5、600石積み込む(これはどこへ
届けるつもりだったのだろう?)

10月10日ころ、南部藩領田ノ浜に向けて出発。出航の時、多くの船が
混雑していたため、接触事故をおこし、船に載せてあった伝馬船が
こわれる。修理のために、10月14日ころから田の浜に2週間ほど滞在。

南部藩は米の値段が高いので、船に残っていた30俵の米のうち20俵を売って、
塩びきの鮪(しび)100本に換える。船頭は商才がないとつとまらないなぁ。

田の浜に停泊中、巫女がきて「来月の23、4日ころ、この船は気をつけたほうが
いいぞ」といったり、悪魔払いと称して獅子舞いのようなことをするものがいた
り、不吉を予感させるようなこともあったらしい。

11月はじめ、仙台領唐丹(とうに)の港に着き、22日まで滞在。
23日出航の明け方、宿のものから、2日前に港の弁天島でひとりでに火が燃え出したり、
この明け方、いつもは聞こえない鐘の音が聞こえた、縁起はよくないので、気をつけ
るように」といわれる。いやなこと言われたね。
23日の朝8時ごろ、出航。
晴れて順風だったが、10時ごろから、西風が強く吹きはじめ、だんだん沖へ・・・。
漂流談は次回に。
                 参考史料  東洋文庫「蕃談」(平凡社)
漂流民次郎吉の話「蕃談」(3)
( 8) 98/06/23 20:47 03991へのコメント コメント数:1

残念ながら、「蕃談」それ自体には漂流のさまを伝える記事はありません。救助
された時点からの記事で始まるんです。船乗りたちの船内での苦労よりも、やは
り異国情報が大切やったんやなぁ。
で、この東洋文庫版の「蕃談」では漂流中のことは、「時規(とけい)物語」か
ら引用しています。

「時規物語」は加賀藩主前田斉泰(なりやす)の命によって家臣が漂流民から
聞き取って記録したもので、「蕃談」の半年後、嘉永3年に完成しています。
すごく大部な本で(漂流記としては最大ではないのか?)、挿絵も多く、すば
らしい本なのですが、長く秘されてきたようで、一般の目にふれることができ
るようになったのは、日本庶民生活史料集成(三一書房)に載ってからでしょう。

なんで「時規(とけい)物語」だって?実は、漂流民は異国の人に「時計」を贈
られ、帰国後、加賀の殿様に献上したからなんです。

では、では、東洋文庫「蕃談」によって漂流のようすをちくっと見てみましょう。

天保9年11月23日、朝8時ごろ仙台領唐丹港を出航した「長者丸」、10時ごろから
吹きだした大風(西風)のため、沖へ流され、昼すぎには、つめこんでいた塩しび
と、こんぶ100石の荷物を海中に捨てます。
24日、さらにこんぶ200石も海に捨てる。船の安定を保つためかなぁ。
25日、帆柱を切り倒し、船首に錨をふたつ降ろす。帆柱を切り倒すのは、風にあたっ
て、船が沈没しないようにするため、錨を降ろすのは船が風に流されないようにする
ためかな?

この大風、23日から27日まで5日間も続き、波は高く、船は揺れに揺れ、沈没の危険
にさらされたようで、この間、船員たちは食事らしい食事をとる間もなかったよう
だ。この間は暴風によるパニック、そして暴風との必死の闘いの時で、まだゆっくり
事態を考える暇もなかっただろうな。

28日。やっと晴れ、波も静まる。助かった、と喜ぶが、しかし、どこを見ても陸は見
えず、方角もわからない。食料の米はわすが2俵しかない。で、粥にして食べることに
する。方角がわからないので、やはり神くじ(占い)をひいている。忍び寄る不安。

12月17日夜、またも大嵐。船内は水びたし、伝馬船も流失。和船には甲板がないので、
高波がくると、それがドバッ-と船の中にたまるんですね。いっぱいになると、水船に
なって沈んでしまう。で、せっせと水(アカというらしい)をくみださなくてはいけ
ない。積み込んでいたこんぶが水を吸い込み、かさがふくれ、船が重くなったので、
こんぶもすぐに捨てなくてはならなくる。でも、みんなもうクタクタ。身体が動かん。
この時、船長の平四郎がみんなに梅干を一人に二粒ずつ配って口にいれさせると、
少し元気が出て、動き始めたそうな。
しかし、この嵐の時から、とうとうみんな覚悟を決め、髪を切ったそうだ。
遭難すると、船乗りたちは髪を切り、神さんの助けを祈るという習わしがあるようで
すね。
さて、これからは飢えと渇きと絶望と闘う日々が続くのです。