虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

溝口敦の大塩平八郎

2007-02-24 | 読書
ジャーナリスト溝口敦は「やくざ」のノンフイクションで知られ、最近も、息子さんが山口組の暴力団に刺されたが、脅迫に負けずに執筆活動を続けている。いまどき珍しい硬派のジャーナリストだと思っていた。でも、今まで1冊も読んだことがなかった。細木数子についての本も出していて、出版社が細木から6億円の損害賠償を訴えられたそうだが、この本も読んでない。読みたい、と今は思う。

この溝口敦が27歳のときに、大塩平八郎を小説にしている。「反乱者の魂 小説大塩平八郎」(三一書房)がそれだ。1970年の出版。古本ネットで手に入れた。

美吉屋に格之助と二人で潜伏している大塩が書く手記(回想記)という形で、大塩の生い立ちや、経歴、乱への経過などを書く。史実を要領よくおさえていて、大塩の心理、思想は別にして、これだけでも大塩平八郎の人や乱の基本的なことはわかるようになっている。ただし、その後、発見された大塩の建議書のことなどは当然ふれられていないので、これで大塩のことがすべてわかるわけではない。

1箇所、著者の独創がなされていて、それは、格之助の嫁みねとの関係。天神祭の夜にみねと1回だけ口づけをする(それだけ)。養子格之助の妻みねとの関係は吉見九郎右衛門の密訴でいわれたことだが、火のないところに煙は立たずで、同僚からは、二人は親密に見えたのかもしれない。あるいは、吉見からはそう勘ぐりたくなるほど、おみねさんは格別の美人だったのかもしれない。

溝口敦は、若いころに大塩平八郎の乱に強い関心をもった人なのだ、ということがはじめてわかった。細木数子や山口組に関する本がどのような内容かは知らないけど、反骨のジャーナリストだと想像した。


宇津木矩之允

2007-02-21 | 歴史
宇津木矩之允(のりのすけ)。号は静区。29歳。
彦根藩家老の次男。
天保2年に大塩塾に入門するが、翌年には塾頭。大塩の著作に訓点をするなど、学問的に優れ、大塩は弟子というよりも、同学の朋友感覚で接したといわれる。大塩の学問を最もよく理解する弟子。

天保6年に長崎に遊学することになるが、そのときに、大塩は餞別として、10両と国光という刀を与えたそうだ。

この愛弟子がよりによって、蜂起の前日か前々日(はっきりとはわからないが、直前であることはたしかだろう)、大塩塾に帰ってくる。なぜ帰ったのだろう。門人かだれかが大塩を説得できるのは、宇津木しかないと、緊急の要件で呼び戻したのではなかろうか。

宇津木は、大塩を諫止したそうだ。武装し、だれもが血相を変えた雰囲気の中で
大塩に意見をすることはだれにもなしがたいことだ。

大塩は「救民のために決起する」と語るが、宇津木は、「先生がそんな言葉を言うとは信じられない。災いを救い民をめぐむ、それは官のすることである。豪家をこらしめて、民を救う。それは民を救うのではなく、民に災いをかけることです。乱民の所業です」
奉行を斬り、豪商の家を焼く行為がなぜ救民なのか。陽明学のどこからそんな結論が出るのか。

もちろん、大塩が実行をとりやめるはずがない。
19日の朝、午前8時ごろ、予定より4時間早めて決起するが、出発の前に宇津木は、大塩の門人大井正一郎という男に槍で殺されることになる。大塩の命令か、あるいは門人大井がすすんで手を下したのかそれはわからない。
この場面は、森鴎外の「大塩平八郎」にも書かれています。

宇津木は殺される直前、下僕に手紙を渡して、自分は義のために死ぬことを家族に知らせている。武士としての心得があるではないか。もし黙って死んだら、大塩の一味として殺されたとも思われる。

勝海舟の「氷川清話」に岡本黄石について書いてある。詩人であり彦根藩の家老であった岡本黄石はこの宇津木矩之丞の兄とある(一方、幸田成友の「大塩平八郎」には宇津木の実弟とあるけど)。
勝は、ここで、岡本黄石を絶賛している。井伊大老が暗殺されたとき、彦根藩ではすぐに水戸屋敷に斬り込もうと大騒ぎしたそうだが、黄石はそれをなだめ、穏便にすませたそうだ。「およそ、あんな場合に、一時の感情に制せられず、冷ややかな頭をもって国家の利害を考え、群議を排して自分の信じるところを行うということは、かならず胸中に余裕がなくてはできないものだ」といっている。


逃げる人 大西与五郎、竹上万太郎

2007-02-20 | 歴史
2月19日、吉見の訴状で一味として名前が出ている東組与力瀬田済之助(25)と小泉淵次郎(18)は、泊まりの当番で東組役所にいることがわかる。

自分の足元、奉行所の中に大塩の一味がいることを知って跡部はさぞ驚いたにちがいない。すぐ召し取れ、とばかりに、二人をご用談の場へ呼び寄せる。二人は様子がおかしいのに気がついたのだろう、ここで、小泉淵次郎は、跡部の付き人で剣術師範役の一条一(はじめ)という男に斬られ、瀬田は、塀をのりこえ、大塩邸まで走る。
奉行所の中で一人を取り逃がすとはなんたる失態か。しかも、その後、瀬田を追いかけたようすもない。ちなみに、斬られた小泉には花のようないいなずけがいたそうだ。

テレビの鬼平なら即刻、馬に乗って捕り方を引き連れて大塩屋敷にむかうはずだ。

跡部は何をしたか。使いを大塩の叔父である組与力大西与五郎(50)に出し、「平八郎に切腹をすすめよ。もし、不承知なら彼と刺し違えて死ね」と命じる。
こんな無茶な命令ってあるか?大西に同情。跡部、それを自分でやれえい。

大西は、このとき、病気引きこもり中の身、今なら休職中ということか。大西の養子が先に大塩屋敷の近くまで行くと、もうあたりは火災が起き、往来は槍や刀をもった一団でいっぱい。ひきかえして、与五郎にそのことを伝えると、「近親者に謀反人がでたら、われらもお咎めをうける。ここは逃げよう」と二人で西の宮あたりまで逃げる。途中で後悔して大坂に引き返したときに逮捕されたらしい。
大西与五郎、遠島。養子は中追放。

竹上万太郎(49)、弓奉行同心。大塩門弟で、連判に署名。19日の朝、鉄砲をもって大塩邸にかけつけるが、家族を立ち退かせた上で存分に働きたい、とまた我が家へ引き返す。家族みんなを立ち退かせたあと、上司宛てに前非を後悔している、家名相続だけはよろしく、という願書を人に渡して播州まで逃げる。この人もまさか大塩がこんなだいそれた反逆をするとは思ってもみなかったのだろう。また、連判の署名を強要されると断れない、ふつうの人だったのかもしれない。
引き回しの上、磔の刑。

大塩の乱はさまざまな人がまきこまれ、それぞれのせっぱつまった人間の姿が見えておもしろい。

吉見九郎右衛門の密訴

2007-02-19 | 歴史
2月19日暁(午前4時ころ)、西町奉行堀伊賀守の屋敷に吉見英太郎(16歳)と河合八十次郎(18歳)が大塩の檄文と東組同心で大塩の同志であり、血判にも署名していた吉見九郎右衛門(47歳)の訴状をもって駆け込む。

17日の平山助次郎の密訴は、口頭で、計画や日時、一味の名前をのべただけだが、今回は、檄文という物的証拠があり、大塩の計画はここに明らかになる。堀は、すぐに東組の跡部に知らせ、2月19日の長い1日が始まることになる。

この吉見や平山は、大塩党からは裏切り者ということになるけど、大塩の行動はだれが見ても狂気じみているので、それを阻止せんとするのは、常識人としての健全な行動なのかもしれない。しかし、この吉見の場合は、武士としてどうか。だいいち、本人が出訴すべきなのに、子どもに行かせている。大塩の檄文を盗み、それを西町奉行に持っていくように命じたのも吉見。

訴状の中で、同志の中には大塩の計画にみんなびっくりしたが、だれも大塩に意見することができず、渡辺良左衛門や河合郷左衛門も何度か意見をしたが、聞き入れなかった、と書いている。

河合郷左衛門という東組同心は、1月27日に白子である三男を連れて出奔している。また、河合は、大塩と何か話をしたとき、大塩に杖かなにかで激しく打たれたこともあったらしい。河合の心中はわかる。もし、乱に参加したら、家督はもちろんなくなるし、家族にも刑罰が及ぶ、そのとき、当時、周囲から忌避されている白子の息子はどう生きていけばよいか。子のために黙って出奔したのはわかる。

大塩の同志は30人くらいだが、半分くらいは、大塩の大胆な計画はまさか実行はしまい、そのうち、考えを変えるだろうと思っていたかもしれない。あと、半分は、実行にむけて大塩をけしかけたかもしれない。しかし、いったん計画し、血判に署名したら、もうあとにはひけない。

平山も吉見も小普請入りで、家督は守られた、密訴した2少年には褒美まで与えられた。

吉見は、この訴状で、大塩の家庭生活まで暴露する。大塩の養子格之助の妻を自分の妾にし、子どもまで作った、という。これを幕府は大きく取り上げ、大塩の判決書に書き、大塩を道徳的に貶めるネタにする。

徳富蘇峰も、「いかに吉見の品性の、武士の風上にもおくべきものでないことがわかる」といっている。こんな事があるはずがないのだから。

しかし、もし、わたしが大塩の門弟であり、大塩から計画をうちあけられたらどうするだろうか。河合のように逃げるか、平山のように密訴するか、渡辺のように、これも運命だと大塩に従うか、きっと、どうしていいかわからないにちがいない。
武士としてまっとうなのは、大塩を諫止することだろう。死を覚悟しなければならない。





2月18日平山助次郎

2007-02-18 | 歴史
昨日、2月17日夜は、大塩の門弟であり、同志である東組同心平山助次郎(32歳)が、東町奉行跡部山城守に19日に予定している大塩の乱を密訴した日だ。

2月19日は、新しく赴任してきた西町奉行堀伊賀守の初入式で、市内を跡部の案内で巡視した後、夕刻(午後4時ころ)、大塩邸の向いにある与力朝岡助乃丞の屋敷で休憩することになっている。そのとき、二人の町奉行を討ち取る、という計画だ。

話を聞いた跡部は、平山を翌朝、江戸に立たせ、勘定奉行で、前任の東町奉行であった矢部駿河守に出訴させる。なんだ、自分で判断できなかったのか。

18日は、このことは堀伊賀守にも知らせ、とりあえず19日の巡視は中止にしようと決めるが、さて、これからどうしたらいいのか決断を下せない。

跡部は、東組与力の荻野父子、磯矢の3人をよんで大塩の陰謀のことを話すが、3人は、平山の話はとても信じられない。大塩はふだんからむら気で、特に近年は増長して、親しくしている者には思いのほかの不法な話をするのが癖。平山は馬鹿正直に大塩の話を受け取り、事実と思ったのではないか。もし捕り方をさしむけ、そんな事実がなかったら、それを口実に何をしでかすかわからない、という。
跡部は、それを聞き、堀伊賀守に逮捕にむかうのは中止と申し送った。まさか、おれの在任中にこんなだいそれたことが起きるはずがない、と思いたかったのだろう。

せっかく、17日に平山からの訴えがあったのに、これで18日は無駄に送る。本来ならこの日、跡部は馬に乗って大塩屋敷にむかうべきだった。

平山助次郎は、2月29日に江戸に到着、その後、大名家にお預けになり、6月27日自殺している。




宮脇志摩 泉殿宮

2007-02-18 | 歴史
吹田市役所の近く。
泉殿宮(いづどのぐう)。
どこに駐車場がるのだろうと、車で境内の中を進み、広くてだれあもいないので、そこに車を止め、表の鳥居を写真にとろうと外に出ようとすると、「どこに行くのですかー」と社務所から呼び止められた。
駐車場代わりにここに無断で車を止める人もいるらしい。見学です、と言うと、
OKが出た。不審者に間違えられたのかもしれぬ。

社務所でもらった御由緒にこう書いてある。
「天保8年(1837年)大塩平八郎義兵の挙あり、当宮第32代宮司・宮脇志摩は大塩平八郎の叔父に当たり、乱の首謀者として寺社方捕手役人の囲みに、この地にて切腹。課刑峻烈にして、男児悉く遠島、家門闕所となり、社運も傾くかに見えたが、明治維新と共にその義挙を認められ、流刑地に生存の遺児総て赦免・出島仰せつけられ、家門再興、宮脇志津摩・泉殿宮第33代を継ぎ、社運再び赫赫として今に到る」

大塩平八郎の父親の弟で、ここに養子にきたらしい。
大塩の門人で、決起の同志。
大塩の決起は2月19日と決められていた。その19日、昼、天満に火事の知らせに接すると、びっくりして(時刻が早すぎる。志摩は密訴者が出たため、決起の時刻が4時間ほど早くなったのを知らなかった)、槍や具足などを運ばせて渡し場までかけつけたそうだが、途中で引き返す。翌20日、玉造与力2名が22名の同心をひきつれて、この神社を取り囲む。志摩は玄関で切腹。それを見た役人たちはなにをなすこともなく立ち去る。傷は案外軽く、捕吏が立ち去ったあと、志摩は表に飛び出し、行方不明に。翌21日庄本村のため池で水死体となって発見されている。判決は磔。

大塩平八郎の乱は明日、19日だ。(旧暦だから、実際は3月8日くらいか)


崇禅寺

2007-02-18 | 歴史
午前中にいってきた。崇禅寺。新大阪駅の近く。
ここは、崇禅寺馬場の仇討ちで有名で、遠いところではないので、1度はのぞいてみたかった。
ここは仇討ちばかりではなく、暗殺された足利義教の首塚と細川ガラシャ夫人の墓もある。

さて、崇禅寺馬場の仇討ちは、正徳5年(1715年)、大和郡山藩の遠城兄弟が、弟の仇とねらう生田伝八郎を討つべくここにやってきたが、反対に返り討ちにあう話だ。仇討ちは、尊属に対してなされるので、弟の仇討ちは認められないので、二人の兄弟は脱藩し、探索。大坂の町で剣術指南をしていた生田と生玉神社境内でばったり会い、崇禅寺の果し合いを決める。当日、崇禅寺には、生田伝八郎の門弟たちが生田に加勢し、遠城兄弟は殺される。検死の記録によると、槍や矢の傷もあり、多人数にかこまれたことがわかる。


画像が、遠城兄弟の墓。
生田伝八郎は、この事件の20日後、大和郡山の遠城家の菩提寺で切腹している。

「雨月物語」の上田秋成はこの生田伝八郎の遺児ではないか、という説もあるようだ。

この仇討ちの話は、昔は芝居でもよくやっていたらしい。東映では、大友柳太郎が生田伝八郎になって映画にもなったそうな(名作の評判。もちろん、見たことない)。この映画では、門弟たちがたくさん生田に味方をしたのは、生田の本意ではなく、生田を愛する女性が勝手に助勢を頼んだ話にしているようだ。
生田の辞世
いさぎよく死出の雪見る今宵かな

帰り、近くなので、吹田の泉殿宮(いづどのぐう)ものぞいてみた。








宇野宗佑「庄屋平兵衛獄門記」

2007-02-15 | 一揆
古本ネットで注文していた宇野宗佑の「庄屋平兵衛獄門記」(青蛙房)がきた。
もとの定価は2960円だが、古本定価は800円。汚れもまったくなく新品同様、得した買い物だ。
庄屋平兵衛とは、もちろん、近江天保一揆の首謀者、土川平兵衛さんのこと。

宇野宗佑とは、1989年(平成元年)に総理大臣になるが、女性スキャンダルで2ヶ月で総理を辞めた人。

この本は、昭和46年の出版で、まだ政府の閣僚になる前、議員時代に書いた本だ。
宇野さんの家は代々近江の守山の人。お父さんは、近江の天保義民を戯曲「義民」として出版している。天保義民は、自分の故郷のことであり、親子2代にわたって、追求していることになる。

大塩平八郎、鳥居耀蔵のことまで筆はのび、地元でしか書けないような事柄を随筆風に書いている。今日、届いたばかりで、まだじっくり読んではないけど、なかなかいい本だ。

宇野さんは、どうも文人趣味の人で、子分もたくさんいるような政治家ではなかったようだ。政治家としては向いてなかったのかもしれない。

愛人は芸者だったというが、あの行為は、芸者の倫理に反する(?)、芸者らしからぬ、と思った人もいたにちがいない。

総理を辞職したあとの心境として、「明鏡止水」と述べたそうだが、これは土川平兵衛が親しんだ陽明学の言葉ではなかったか。

1998年(平成10年)、肺がんで亡くなっている。75歳。

甲賀の人 滝川一益

2007-02-14 | 歴史
甲賀は「こうか」と読むらしい。甲賀流忍術の場合は「こうが」でもいいようだが、甲賀町は「こうかちょう」と読むとか。知らなかった。

さて、甲賀の人といえば、滝川一益がいた。信長の武将で、秀吉、光秀と同格の位置にいたらしい。光秀は、最近は、秀吉に劣らぬほど人気がでてきたが、滝川一益は、ずっとマイナーなまま。しかし、この人、秀吉に捨扶持を与えられて、一応、天寿を全うする。マイナーな人、大好き。何者だろう?興味が出てきた。
画像は、甲賀忍術屋敷の手裏剣の展示。
やっぱり、忍者っていいなあ。

子どものとき、くぎを市電の線路においてぺっちゃんこにし、そのくぎを組み合わせて十字手裏剣を作り、壁に向かって投げる練習をしたことがなつかしい。

近江天保義民の本

2007-02-12 | 一揆
この一揆をはじめて本として出版し、世に広く知らしめたのは河村吉三という人の書いた「天保義民録」。

明治26年の出版。100年以上も前だ。
著書の河村氏は、近江の野洲の人で、嘉永5年生まれ。代々庄屋職をつとめてきた素封家の出だそうな。維新前後のころは文武修行のため、藩の城下や京都に遊び、維新後は自由民権運動に飛び込んだそうな。出版はちょうど一揆後50年がたったときで、顕彰運動も盛り上がり始めたとき。河村氏は自ら馬にまたがり、甲賀、野洲、粟太、蒲生4郡の旧家を歴訪して資料を集め、古老に話を聞き、と寝食を忘れて研究に没頭した。そのとき、河村氏が集めた資料は、空襲で焼けてしまったそうで、今では、この本が一揆の基本文献となっている。刀江書房の「百姓一揆叢談」(上)で読むことができる。

もう1冊が、松好貞夫「天保の義民」。岩波新書です。1962年の出版。これも45年前の本。岩波新書1冊がすべてこの近江甲賀の一揆について書かれ、背景から発端、経過、終結まで詳しい。前記の「天保義民録」を参考にした、と書いてある。学者が書いた本だけど、行間から著者の思いがあふれ、名著だと思う。なぜ他の一揆でもこのような本を書いてくれないのか。歴史学者は今、何をしてんの?といいたいくらいだ。ほんらいななら、こんな昔の本はとっくに絶版だが、なぜか今でもときどき本屋で目にする。なんでも滋賀県の一女性実業家がこの本の復刊に力を出したとか。

画像は、甲賀の矢川神社の参道。ここに約2000人の人が終結。

甲賀の人(天保義民)

2007-02-12 | 一揆
画像は矢川神社前の橋詰にある一揆のメモリアルタワー。タワーの周囲には銅版製のレリーフに一揆の人たちの姿を描いている。レジスタンス発祥の地とかも書いてあったような気がする。
矢川神社にこれがあると思って探したが、何もなく、社務所にも入ってみたがだれもいなく、トイレだけ黙って借用、神社を立ち去ろうとしたとき、人に会って聞いてやっとわかった。なんだ、これだったのか。これが一揆の記念物だとはなかなか気づかないよ。

さて、一揆で江戸送りになった11人(みんな、判決前に獄中や護送中に死亡)を天保の義民というが、調べてみると、発頭人の土川平兵衛一人だけ野洲の三上村の人で、あとはすべて甲賀の人。一揆の行動を最初に起こしたのも甲賀からだし、戦いを積極的にすすめたのも甲賀の人で、これは甲賀の一揆といってもいいくらいだ。

土川平兵衛は甲賀に同志がいて、甲賀の人たちとの連携プレーがうまくいったわけだ。ちなみに、土川平兵衛は、陽明学を学び、近江聖人中江藤樹を常々尊敬していたそうだ。なお、11人のうち、7人が庄屋身分。

甲賀流忍術屋敷

2007-02-12 | 歴史
甲賀流忍術屋敷、望月出雲守旧宅と門に書いてある。建物は元禄年間に建設されたもので、外見は一般住宅の装いだが、内部は外敵に備えた工夫がなされている。

望月出雲守とは、甲賀武士(忍者)53家中の筆頭格。
昨年の大河「巧妙が辻」に出てきた香川照之ふんする望月六平太は祖先にあたるそうだ(わたしは、大河を見ていなかったけど)。

家の中には手裏剣など忍者道具を展示してあり、部屋のぬけあなやからくりなどを当主のおじいさんがお客に説明してくれる。

忍者はふだんは映画のような黒装束では活動しない。僧侶や虚無僧、山伏の姿をとった。大河「巧妙が辻」のときにテレビ局がきたが、望月をどんな姿で描くか注目している、とテレビ局の人に語り、忍者姿ではない望月六平太の姿には満足したような印象。

手裏剣はどのくらい離れたところから投げると思いますか、と質問された。実際は、2メートルくらいの距離、自分が殺されそうになったとき、逃げるために投げる。手裏剣にそんなに殺傷力はない。忍者は人を攻撃しない。自分を守るために武器を使う。なるほど。

甲賀は甲賀武士団が存在し、戦国期、活躍する。江戸に入ってからは、甲賀武士は、農に従事し、多くは庄屋になる。結束の固い甲賀忍者の意識があの近江大一揆のときにもよみがえったかもしれない。

近江といっても琵琶湖のほとり、三上山周辺と、琵琶湖を南下し、山に囲まれ、その南は伊賀に接する甲賀とは、気質もちがうようだ。
車で走っても、三上山周辺はほんとに広々とした解放されたような雰囲気だが、甲賀にむかうと、山、そして、田んぼしかなく、ほんとに人を呼び集めるようなものは何もない。信楽へいく人はいても、甲賀はきっと通り過ぎるだろう。

甲賀忍者といえば、猿飛佐助、かつての子どもたちのスーパーヒーローだ(フィクションだけど)。信長を狙撃した杉谷善住坊(竹の鋸で処刑される)も甲賀忍者、これは史実のようだ。


天保義民乃碑

2007-02-11 | 一揆
天保義民の碑は、この一揆の発頭人土川平兵衛が野州の三上村の庄屋であったことから、早くから三上村に天保義民碑が立っている(明治28年)。しかし、一揆は野州郡だけでなく、甲賀郡からも多く参加し、義民は甲賀にもいるということか、明治31年には、甲賀(現湖南市)にも建てられた。
JR三雲駅のそばの伝芳山の「天保義民乃碑」がそれ(画像)。

高さ10メートル。費用は2900円とある。文字の揮毫は、巌谷修(児童文学者の巌谷小波の父親)。なかなか立派だ。こんな立派な義民碑は見たことがない。

場所がわからず、なにせ義民碑には電話番号も住所も書いてないので、車のナビゲーターも周辺までしかいけない。通りがかった高校生に聞くと、すぐに教えてくれた。ふつう、義民碑なんて地元の人でも知らないことが多いが、さすが、天保義民はよく知られている。

一揆には勝利したが、その後11人の人が幕府に捕らえられ犠牲になったことがこの碑の掲示板にも書かれてある。


甲賀 矢川神社

2007-02-11 | 一揆
甲賀を走ってきた。
矢川神社(甲南町)。
ここは天保13年近江大一揆の出立の場所。

天保13年10月14日夜、この神社の境内の鐘が乱打され、数千人の農民が集まる。翌日には群集は2万人にもふくれあがり、10月16日には約4万人が三上山の麓(野州市三上村)に押し出す。三上村には、幕府(水野忠邦)からの検地役人が本陣をかまえていたからだ。16日、一揆勢は本陣を襲い、検地中止(10万日の延期)の証文を勝ち取り、増税によって幕府財政の回復をはかろうとした水野忠邦の企図をうちやぶる。

矢川神社の境内には、この一揆についての掲示板はないけど、神社に入る前の矢川橋詰に天保義民150年祭を記念して平成3年に作った10メートルほどの石柱(メモリアルタワー」が建てられていた。

近くには甲賀流忍術屋敷もあり寄ってみたが、その話はまたあとで。

東京都の教職員173人、地裁に提訴

2007-02-10 | 新聞・テレビから
昨日、NHKのニュースで数十秒だけだったが、「日の丸」「君が代」拒否で処分を受けた東京都の教職員173人が処分取り消しを求める訴訟を東京地裁に起こした、という報道を流していた。

「教育再生」を掲げながら、学校の式で、教師も子どもも起立して君が代を歌え、歌わなければ処分する、というまったく非教育的な無法がまかり通っている。これは単に学校だけのことではない。学校をステップにして、会社、地域社会にも当然、広げたい魂胆があるはずだ。「日の丸」は好きだ。「君が代」も子どものころはよく歌った(意味はわからなかったが)。しかし、歌え、などと強制されるもんではない。東京都の学校の先生が200人近くも処分されるなんて異常だ。黙っている都民もおかしい。

さて、朝日にはどういう記事が出るか、と探した。やっぱり、というべきか、記事はなし。大阪だからだろうか。しかし、これは、一地方のニュースではないだろう。いくらなんでも東京版には出ていると思うのだが、あやしいぞ?

詳報はネットで探した。そこで、「レイバーネット」というサイトがあるのは見つけた。6年前にできたそうだが、世界の労働運動のネットだそうだ。知らなかった。ここでは動画ニュースまであった。さっそくお気に入りに追加した。