虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

パソ通時代の南部一揆

2007-03-21 | 一揆
昔、歴史フオーラムといって、パソコン通信で歴史の好きな勝手なことを書いていた時期があった。もう早9年前になる。知らない人とのコミュニケーションが楽しくて熱中していた。読みかじった知識を仕入れると咀嚼もせずに、すぐに流した。話をするのが主だから、今、読むと会話口調で、下手なジョークなども入れながら、実に冗長で、恥ずかしい。このときのログが一部保存してあったので、9年ぶりに読み返した。南部一揆の記事があったので、のせまーす。昔は藤五郎という名前でした。

 03564/04488 MXG01260 藤五郎 南部藩の百姓一揆
( 8) 98/05/03 00:22 コメント数:1

南部藩の百姓一揆(1)
「ペリ-提督の黒船に人の注意が奪われている時期に、東北の一隅で、
 もしかすると黒船以上に大きな事件がおきていた」
大仏次郎の幕末維新史である「天皇の世紀」の中の一文です。

これなん、嘉永6年(1853)南部藩におきた三閉伊(さんへいい)
一揆。

けっこう有名な一揆で、ごぞんじの人も多いでしょうね。小説にも
なっていたはず。大仏次郎もこの一揆をかなり詳しく紹介しています。

一揆を話題にするなら、いつかこれも紹介したいと思っているのですが、
とても要領よくまとめるってことができず、なによりも、まだこっちが
詳しいこと知らず(概説程度しか知らない)、しかし、のめりこむほど
の元気もなく(これ一筋というのができない。途中であきる)、で、
この一揆は少しずつ調べながら、ボツボツ書くことにします。

まず、この南部藩(岩手県でいいかな?城は盛岡)。
19世紀の江戸67年間では、一揆の数はトップです。62件で1年間に1件の
割合。(その点、上杉鷹山以後の米沢藩は19世紀はゼロ。)

19世紀の南部藩の藩主を長くつとめていたのは、利済(としただ)という
殿様で、これがすごい暴君。賢者ぶって、議論を好み、自分の議論に負け
たもの(賛成したもの)は登用し、反論するものは遠ざけたというから、
たちが悪い。古来、自分が一番賢いのだと思うほどの馬鹿はいない、と
いいますからね。たとえ、子供でも批判はゆるさない。自分のことを批判
したというので、わが子(長男)まで暗殺しようとしたらしい。

ある家臣がこの殿様に意見書をだしたらしい。
「参勤交代は金がかかる。国内が困窮しているこの時、国内の人々を救う
ことも大切な公務です。参勤は中止してはいかが」
すると、その返事。
「大名の公務とは何か。それは参勤であり、国土防衛、徳川家霊廟工事である。
 大名の私用とは何か。国内の政治をし、人民を救助し安定させること。これ
 が私用、家事だ。家事のために、公務である参勤をやめることなどできない」

南部藩の殿様の悪口を言うと、岩手県の人の悪口になるかもしれないけど、でも、
この南部の庶民の中には日本一といわれる見事な一揆を指導した人物が出てくる
のですよ。
では、この話のつづきはいつか、また。
 3576/04488 MXG01260 藤五郎 南部藩の百姓一揆(2)
( 8) 98/05/04 20:06 03564へのコメント コメント数:1

みなさまぁ、毎度ありがとうこざいまぁす。
ゴ-ルデンウイ-クにどこにもいけなかったお客さまぁ、藤子嬢が東北の
旅にご案内いたしま--す。格安料金の岩手ツァ-でございま--す。ブッブ-!

 (客)岩手?なんか印象の薄い土地なんやけどな。だれか有名な人いた?
まあ、失礼な、なにをおっしゃいます、お客さまぁ。
石川啄木、宮沢賢治さまですよぉ。
 (客)ふ--ん、で、岩手のどこにいくのかい?渋民村かい、それとも
   小岩井農場かい?
三閉伊(さんへい)一揆でございま--す。
 (客)なんだい、どこだい、その三閉伊って。
お客さまぁ、陸中海岸ってごぞんじありませんかぁ?東北の岩手の太平洋側の海岸
のこと。
 (客)おお、中学の時、習ったな。リアス式海岸っていったけ?これだけは知っ
    ているぞ。
あたりぃ!中学生用の地図にものっていますわ。そのリアス式海岸の北(上)から、
野田、宮古、大鎚という地名がありますね。この3つの通りが三閉伊通りというのね。
このへん、閉伊郡といったそうよ。南部藩(盛岡藩というべきなの?)の領地です。

 (客)南部藩の殿様(利済 としただ)が暴君だったという話は藤五郎がいってい
    たな。
お客さまぁ、し---!地元にきたら、あまりその土地のお殿様の悪口は言わないほう
がいいかもよ。吉良さまがいくら評判悪くても地元では支持されているのと同じよ。
なんたってご子孫の方もおられるかもしれないし、殿様よりも重臣が悪かったかもし
れないしね。地方って、都会では考えられないほど、昔(伝統)が残っているかもよ。
気をつけてね。
 (客)わかった。殿様の政治が悪かったかどうかは、あとで自分で調べるよ。一揆
    の話を始めてくんな。

かしこまりましたぁ!三閉伊一揆って幕末に2回起きているの。1回目は弘化4年(1847)

2回目はその5年後の嘉永6年(1853)。このふたつは一連の動きなのよ。
 (客)なんだか、ややこしそうだな。ややこしいとわしは寝てまうぞ。

おほほほ、わかりましたわ。まず1回目の一揆からね。
弘化4年、野田から村人が騒ぎだしたのね。そして、野田、宮古、大鎚通りの三閉伊
郡の領民約1万二千人ほどが、大挙して遠野にむけて行進したの。強訴ね。

(客)ちょっと待てぃ。その遠野というのは、柳田国男の「遠野物語」の遠野か?
お客さまぁ、よくごぞんじで!遠野は南部藩の支藩なのでございま-す。
 (客)なんで本藩の盛岡に強訴しないで、支藩に訴えるんだ?
聞くも涙、語るも涙、シクシクですわ。もちろん、これまで何回も盛岡に強訴しました
わ。
でもね。すぐ要求を入れて一揆は解散させるのだけど、すぐに裏切るのよ。誠意なし。
まったく平気で嘘をつく人々、いや、藩だったわけ。だから、今度は、遠野藩に訴えた
の。
 (客)で、何を訴えたのだい?何が不満なのだい?
お客さまぁ、そんなこと関心ないくせにぃ(笑)。そんなめんどうなこと、ここでお話し
すると、きっと眠ってしまいますわ。三閉伊郡に課せられた御用金、あるいは重税って
ことで、いいでしょう?それよりも、一揆勢のようすに興味はありません?
 (客)おうさ。そこからやってくれ。
さてさて、一揆勢は、遠野の早瀬川河原に集合。そのありさまはというと・・・
あれ!お客さま、もうねてしまったわ。これからがおもしろいのに。
これじゃ、話はまた今度ね。おやすみなさいませませ。
                                         藤五郎 03587/04488 MXG01260 藤五郎 南部藩の百姓一揆(3)
( 8) 98/05/05 11:25 03576へのコメント コメント数:2

お客さまぁ、最後の連休ですよぉ。もう、お起きになってぇ。
朝食はわんこそばですぅ。めしあがれ。
 (客)うぬ、もう連休も今日で終わりか。つらい!食欲がない!君子も窮す!
なにをおっしゃってますか、おとうさん。続きですわよ。

弘化4年(1847)11月陸中海岸の北部の野田から村人はたちあがったの。
途中の村からも参加し、大集団となって、陸中海岸を南下、遠野まで
行進しますのよ。野田から遠野まで直線距離にしても90キロあるわね。
季節はすでに冬。東北ですからね。雪もふってたかもしれません。
だから、みんな、かます(袋)を背負い、中に食料や鍋、釜、薪など
も入れているのよ。前もって十分準備してあったのね。

 (客)冬の集団大行進といえば、ちょっと水戸藩の天狗党を思い出すなあ。
    で、途中で代官所の役人たちにおしとどめられなかったのか?
おほほほ、だれがおしとどめられますかいな。とても、よく統制がとれてたのよ。
役人が何か言っても、みんな一斉に「だまされるなあ」の怒号。そして、指揮者の
合図で、全員一緒の足踏み。大地が割れるようなひびきよ。役人真っ青になって逃
げていくわよ。

12月1日には遠野の早瀬川の河原に集結したそう。
「四方八方に松明をもやし、いたってもの静かに無言で、ともに物語もせず、それ
 ぞれの旗のもとに集まり、たき火をし、静かにしている」というありさま。ガヤガ
ヤしてそうなものなのだけど、役人にとっては不気味だったでしょうね。
「野田より来る道すがら、いろんなところから誘ってきたはずなのに、いかなる者
 の指揮によって、このように統制がとれているのか、下郎どもには珍しく、怪しむ
 べし」なんて記録では感心しているわ。
頭領の者がいてね。この人が小旗をふると、ほら貝をならしたり、一斉に声を出した
り、足踏みをしたり、また、沈黙したりするの。
 (客)ふ--ん、そやつ、孫子の兵法をおさめておるな。
河原では、この頭領は、小さなお堂で休息をとってて、その時は数百人のものが
その小堂のまわりを警護していたって。
 (客)で、その河原で何をするつもりだい。
もちろん、ここで要求を言うわけ。
でも、本藩(南部藩)の役人がきても一切無視するの。今まで、だまされてきたから
ね。
盛岡から重役がきてね、なんでもいいから言ってくれ、と大声だしても、1万2000人、
全員、シ---ンの沈黙で返答よ。なおもしつこく、盛岡の役人が何かを言おうとすると、
今度は、頭領の旗の合図で1万2000人がぱっと後ろを向き、「わ-----」のときの声。
 (客)そりゃ、かなわんなぁ。学校の生徒がこんな戦術にでられたら先生もたまらん
    だろうな。

で、今度は遠野藩の役人が、願いを聞こうと声をかけると、代表が進み出て、願書を出
したわけ。願書は実にみごとな文で書かれていた、とあるわ。御用金やいろいろな税金
の撤回は受け入れてもらえることになったので、12月5日には引きあげることになった
の。みんな帰りの米やこづかいももらってね。
藩政をとりしきっていた家老はやめさせられ、利済(としただ)も一応、隠居。
 (客)じゃあ、これで一件落着だね。勝利ということ?
そうじゃないのよ。なんたって信用できない南部藩だからね。藩主も引退したっても名
ばかりで、きらっていた新藩主(長男)は押し込め、気に入っている次男(?)を藩主
にたて、政治はあまり変わらなかったの。懲りない面々ょ。
で、村人たち、特にこの一揆の頭領たちは、それがすぐわかったのね。
で、すぐに次の計画と準備にとりかかったのよ。

 (客)おお、その総大将の名前を聞きたいね。どんな御仁だ?
小本あたりに住んでいる「小本の弥五兵衛」またの名を「切牛の万六」とも
言ったそう。もう60才過ぎの老人よ。地元では、「小本の祖父」といわれていた
らしいわ。この人が一件一件、村を回り、遊説し、軍資金なども集めていたのね。
でも、この人、弘化4年の一揆のあと、1年半くらいして、つかまって、牢内で死んで
しまうの。
 (客)ええ、指導者が死んでしまったら、あかんやん。
でも、この人の思想、戦術は村人に引き継がれ、後継者が次々に出てくるのよ。そし
て、嘉永6年に黒船と登場とともに、またたちあがるのよ。これは、いつか、またね。
総大将だった小本の弥五兵衛は陸中海岸の田野畑村に、銅像がたてられているわ。
木株にすわり、杖をもって遠くを見ている像ね。像の題は「一揆の像」だって。
でも、だれが、この像を見にいくのかしらね。他に何もない辺鄙なところみたい
だから(失礼、地図で見ただけなんです)。
では、明日からのおつとめ、がんばってねえ。しっかり働いてこい!

以上、パソ通よりのコピー終わり。やっぱり、長すぎますね。このブログ1度でのせられるのだろうか?