虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

万石騒動③

2007-03-30 | 一揆
村人たちは、11月16日に江戸に到着。奉行あてに、「恐れながら書付ご訴訟申し上げ候」という長い訴状を書く。村の実情、前例にない増税、門訴をしたこと、お墨付きをもらったこと、名主が牢屋にいれられたこと、などの今までの経過、また、神社仏閣の木を切ったり、酒屋の税をとったりする「新御役人」川井藤左衛門の執政では誰一人やっていけない、と訴える。漢文です。

11月20日、老中秋元但馬守に駕籠訴。成功したと喜んでいたが、宿に但馬守からの使いがあり、「願いの筋は屋代家の一門に申し述べよ」と訴状を返してくる。しかたなく、屋代家の一門、室岡甚四郎の屋敷にいく。「おのれらはにくいやつばらかな。領主を相手取り、老中方に訴訟に及ぶとは、不届き至極だ!」と罵倒される。
11月22日、老中安部豊後守へ駕籠訴。しかし、老中秋元但馬守と同じ反応で、屋代家一門にいけといわれる。駕籠訴は取り上げられなかった。

江戸での駕籠訴騒ぎを知った川井。まだこりないのか。おれを甘く見ているのか、と思ったかどうか。河合は陣屋の牢屋に入れていた6人を引き出し、そのうち、3人を詮議なしに死刑にしてしまう。3人を頭取と思ったのだろう。頭取と思われる名主に厳罰を与えれば、江戸に出ている百姓たちも恐怖し、ひきあげるだろう。川井はあくまでも強気をくずさない。百姓をあまく見ている。これが武士の見方なのかもしれないが、大失策だ。

11月26日、処刑されたのは、湊村角左衛門、国分村長次郎、薗村五左衛門の3人。刑場は国分村萱野が芝。刑場と3人の石碑は今でも文化施設として現地に保存されている。

3人が処刑されたという悲報を聞いた江戸にいる百姓たち。すぐに追訴状を書き、3人が何の詮議もなく死罪にされたこと、2人は生袈裟、1人は打ち首で、なんともご無体、ご非道なふるまい、と訴える。

老中安藤豊後守に駕籠訴。3人の名主が処刑されたことを聞き、これは捨ててはおけないと、訴状を取り上げ、評定所の吟味にかけることになった。

評定所に取り上げられたあと、屋代家一門はおおあわて、先に「うぬら、にくいやつばらかな」と百姓たちをののしった室岡甚四郎など一門があつまり、すべての要求はのむから、訴えは取り下げてくれないか、とたのんでくる。今ごろ、あわてても遅い。

吟味は12月11日、12月25日、2月6日、3月21日、4月25日、7月22日にあり、川井藤左衛門父子のみ、打ち首。
郡代林武太夫、代官高梁市左衛門は、追放。
領主屋代越中守忠至は、領地、上屋敷召し上げ、しかし、先祖の功をかんがみて、浅草御蔵米3000表となる。


百姓たちには、駕籠訴の罪は問われず、早く国元に帰り耕作大切にせよ、の言葉。百姓側の勝利に終わるが、勝利したのも3人の刑死した名主のおかげとすぐに石塔を村で費用を出し合って作り、以後、毎年11月26日に回向することになったそう(今も三義民命日祭が毎年おこなわれている)。
この一揆は百姓たちはいっさい暴力は使わず、団結した行動で、指導者はだれだかわからないが、見事なものです。

吟味の中で、代官高梁に奉行が問う場面がある。
奉行「その方は藤左衛門の仕方、よろしきと思ったのか」
高梁「わたしは、藤左衛門の下役ですので、諸事、指図を受けただけです」
奉行「悪しきことと思ったら、止めるべきだろう。代官役をつとめながら、すべて藤左衛門まかせとは、不届きしごく」

北陸電力の原発事故の隠蔽。所長が隠蔽するといったら、所員、だれも反対するものなかったとか。まったく不届きしごく。しかし、勤め人にはだれにでも毎日のようにある局面だ。この一揆でも代官側に農民に同情する侍もいた。行貝弥五兵衛という侍。しかし、川井の逆鱗にふれ、3人の名主が処刑されたときに、斬首されたらしい。

以上は、「徳川百姓一揆叢談」にある「万石騒動」を読みながら書きました。







万石騒動②

2007-03-30 | 一揆
9月24日、二人の名主が江戸の上屋敷に出頭すると、川井藤左衛門がこういう。「今度の一件は必ず頭取がいるだろう。その名を正直に言え、さもないと」と刀をぬき、討ち果たすまねをする。二人は、願いは百姓一同のもので、頭取はいない、と答えると、川井は、さらに7人の名主を呼び出し吟味するぞ、という。

川井は、百姓をなめていたのですね。領民など、おどかせば、恐れ入りました、と文句をいわなくなるだろうと思っていたのではないか。平成の今の国民は、たしかにそういう面があるのだけど、300年前の百姓はちがいます。

二人が江戸に留置され、今度はまた7人の呼び出し、これはほっとけない、」おれたちも江戸に出ようと、百姓たちは続々と江戸に出、小伝馬町、博労町の宿に分宿する。

川井は、このようすを聞き、江戸で騒動がおきれば、屋代家の恥、これは百姓たちをすぐに国に帰さなくては、と二人の名主を呼び、「願いの趣旨、聞き届けるから、この書面を百姓たちに見せ、帰国させろ」という。箱に入った封書には宛名もない、何が書いてあるかもわからない。うっかり者なら、へへー、ありがたき幸せ、なんて頭をさげながらこの箱をいただいてすぐに引き帰したかもしれない。
しかし、百姓たちは、こんなわけのわからないものは受け取りがたい。明日は、屋敷の門前で門訴をする、という。二人の名主は川井のもとに引き返し、この封書はかえって百姓たちをかえって激怒させています、たしかなお墨付きを出してください、と注進。川井はしかたなく、「願いの趣旨は聞き届ける。陣屋の林武太夫に申し渡す」という書付を渡す。願いは聞き届ける、といっても、年貢の具体的な回答はない。こんな回答で国許に帰るわけにはいかない、と門訴を決める。

11月7日、約600人の村人が屋代家の門前につめかけ、訴状を渡す。川井は、しかたなく、陣屋の郡代林武太夫あてに、「願いの通り、年貢は過去10年間の年貢で決めることにした。正式の文書(ご免状)はあとで送るので、届いたらそのようにはからえ」というお墨付きを渡す。

百姓たちは国に帰り、林武太夫にそのお墨付きを見せるが、もちろん、郡代の手には渡してしまわない。もし、渡してしまったら、握りつぶすこともできる。百姓たちは、郡代にそのお墨付きの受取書をわたし、箱に入れて大切に保管する。
川井は、郡代林武太夫を「ばかめ、なぜ、そのお墨付きを渡してしまったのだ」と思ったにちがいありません。あのお墨付きはただただ百姓を国に帰すための方便だったのに。

11月12日、川井は村人を追うように江戸をたち、国もとの陣屋にいき、明日は、名主ども陣屋に出頭すべし、の触れを回す。
名主たちが集まると、川井は、「先ごろ、江戸屋敷で渡したお墨付きは返却せよ」
という。名主が「あれは正式のご免状とひきかえにわたすものです。今はおわたしできません」と答えると、川井は怒声を発し、6人の名主を縛り、牢屋にほりこんでしまう。おそれいったか!

しかし、川井が怒れば怒るほど、村人の対抗心は高まる。再び、江戸に出て、老中に駕籠訴しようと決定。600人が江戸にいく。