村人たちは、11月16日に江戸に到着。奉行あてに、「恐れながら書付ご訴訟申し上げ候」という長い訴状を書く。村の実情、前例にない増税、門訴をしたこと、お墨付きをもらったこと、名主が牢屋にいれられたこと、などの今までの経過、また、神社仏閣の木を切ったり、酒屋の税をとったりする「新御役人」川井藤左衛門の執政では誰一人やっていけない、と訴える。漢文です。
11月20日、老中秋元但馬守に駕籠訴。成功したと喜んでいたが、宿に但馬守からの使いがあり、「願いの筋は屋代家の一門に申し述べよ」と訴状を返してくる。しかたなく、屋代家の一門、室岡甚四郎の屋敷にいく。「おのれらはにくいやつばらかな。領主を相手取り、老中方に訴訟に及ぶとは、不届き至極だ!」と罵倒される。
11月22日、老中安部豊後守へ駕籠訴。しかし、老中秋元但馬守と同じ反応で、屋代家一門にいけといわれる。駕籠訴は取り上げられなかった。
江戸での駕籠訴騒ぎを知った川井。まだこりないのか。おれを甘く見ているのか、と思ったかどうか。河合は陣屋の牢屋に入れていた6人を引き出し、そのうち、3人を詮議なしに死刑にしてしまう。3人を頭取と思ったのだろう。頭取と思われる名主に厳罰を与えれば、江戸に出ている百姓たちも恐怖し、ひきあげるだろう。川井はあくまでも強気をくずさない。百姓をあまく見ている。これが武士の見方なのかもしれないが、大失策だ。
11月26日、処刑されたのは、湊村角左衛門、国分村長次郎、薗村五左衛門の3人。刑場は国分村萱野が芝。刑場と3人の石碑は今でも文化施設として現地に保存されている。
3人が処刑されたという悲報を聞いた江戸にいる百姓たち。すぐに追訴状を書き、3人が何の詮議もなく死罪にされたこと、2人は生袈裟、1人は打ち首で、なんともご無体、ご非道なふるまい、と訴える。
老中安藤豊後守に駕籠訴。3人の名主が処刑されたことを聞き、これは捨ててはおけないと、訴状を取り上げ、評定所の吟味にかけることになった。
評定所に取り上げられたあと、屋代家一門はおおあわて、先に「うぬら、にくいやつばらかな」と百姓たちをののしった室岡甚四郎など一門があつまり、すべての要求はのむから、訴えは取り下げてくれないか、とたのんでくる。今ごろ、あわてても遅い。
吟味は12月11日、12月25日、2月6日、3月21日、4月25日、7月22日にあり、川井藤左衛門父子のみ、打ち首。
郡代林武太夫、代官高梁市左衛門は、追放。
領主屋代越中守忠至は、領地、上屋敷召し上げ、しかし、先祖の功をかんがみて、浅草御蔵米3000表となる。
百姓たちには、駕籠訴の罪は問われず、早く国元に帰り耕作大切にせよ、の言葉。百姓側の勝利に終わるが、勝利したのも3人の刑死した名主のおかげとすぐに石塔を村で費用を出し合って作り、以後、毎年11月26日に回向することになったそう(今も三義民命日祭が毎年おこなわれている)。
この一揆は百姓たちはいっさい暴力は使わず、団結した行動で、指導者はだれだかわからないが、見事なものです。
吟味の中で、代官高梁に奉行が問う場面がある。
奉行「その方は藤左衛門の仕方、よろしきと思ったのか」
高梁「わたしは、藤左衛門の下役ですので、諸事、指図を受けただけです」
奉行「悪しきことと思ったら、止めるべきだろう。代官役をつとめながら、すべて藤左衛門まかせとは、不届きしごく」
北陸電力の原発事故の隠蔽。所長が隠蔽するといったら、所員、だれも反対するものなかったとか。まったく不届きしごく。しかし、勤め人にはだれにでも毎日のようにある局面だ。この一揆でも代官側に農民に同情する侍もいた。行貝弥五兵衛という侍。しかし、川井の逆鱗にふれ、3人の名主が処刑されたときに、斬首されたらしい。
以上は、「徳川百姓一揆叢談」にある「万石騒動」を読みながら書きました。
11月20日、老中秋元但馬守に駕籠訴。成功したと喜んでいたが、宿に但馬守からの使いがあり、「願いの筋は屋代家の一門に申し述べよ」と訴状を返してくる。しかたなく、屋代家の一門、室岡甚四郎の屋敷にいく。「おのれらはにくいやつばらかな。領主を相手取り、老中方に訴訟に及ぶとは、不届き至極だ!」と罵倒される。
11月22日、老中安部豊後守へ駕籠訴。しかし、老中秋元但馬守と同じ反応で、屋代家一門にいけといわれる。駕籠訴は取り上げられなかった。
江戸での駕籠訴騒ぎを知った川井。まだこりないのか。おれを甘く見ているのか、と思ったかどうか。河合は陣屋の牢屋に入れていた6人を引き出し、そのうち、3人を詮議なしに死刑にしてしまう。3人を頭取と思ったのだろう。頭取と思われる名主に厳罰を与えれば、江戸に出ている百姓たちも恐怖し、ひきあげるだろう。川井はあくまでも強気をくずさない。百姓をあまく見ている。これが武士の見方なのかもしれないが、大失策だ。
11月26日、処刑されたのは、湊村角左衛門、国分村長次郎、薗村五左衛門の3人。刑場は国分村萱野が芝。刑場と3人の石碑は今でも文化施設として現地に保存されている。
3人が処刑されたという悲報を聞いた江戸にいる百姓たち。すぐに追訴状を書き、3人が何の詮議もなく死罪にされたこと、2人は生袈裟、1人は打ち首で、なんともご無体、ご非道なふるまい、と訴える。
老中安藤豊後守に駕籠訴。3人の名主が処刑されたことを聞き、これは捨ててはおけないと、訴状を取り上げ、評定所の吟味にかけることになった。
評定所に取り上げられたあと、屋代家一門はおおあわて、先に「うぬら、にくいやつばらかな」と百姓たちをののしった室岡甚四郎など一門があつまり、すべての要求はのむから、訴えは取り下げてくれないか、とたのんでくる。今ごろ、あわてても遅い。
吟味は12月11日、12月25日、2月6日、3月21日、4月25日、7月22日にあり、川井藤左衛門父子のみ、打ち首。
郡代林武太夫、代官高梁市左衛門は、追放。
領主屋代越中守忠至は、領地、上屋敷召し上げ、しかし、先祖の功をかんがみて、浅草御蔵米3000表となる。
百姓たちには、駕籠訴の罪は問われず、早く国元に帰り耕作大切にせよ、の言葉。百姓側の勝利に終わるが、勝利したのも3人の刑死した名主のおかげとすぐに石塔を村で費用を出し合って作り、以後、毎年11月26日に回向することになったそう(今も三義民命日祭が毎年おこなわれている)。
この一揆は百姓たちはいっさい暴力は使わず、団結した行動で、指導者はだれだかわからないが、見事なものです。
吟味の中で、代官高梁に奉行が問う場面がある。
奉行「その方は藤左衛門の仕方、よろしきと思ったのか」
高梁「わたしは、藤左衛門の下役ですので、諸事、指図を受けただけです」
奉行「悪しきことと思ったら、止めるべきだろう。代官役をつとめながら、すべて藤左衛門まかせとは、不届きしごく」
北陸電力の原発事故の隠蔽。所長が隠蔽するといったら、所員、だれも反対するものなかったとか。まったく不届きしごく。しかし、勤め人にはだれにでも毎日のようにある局面だ。この一揆でも代官側に農民に同情する侍もいた。行貝弥五兵衛という侍。しかし、川井の逆鱗にふれ、3人の名主が処刑されたときに、斬首されたらしい。
以上は、「徳川百姓一揆叢談」にある「万石騒動」を読みながら書きました。