東京自由新聞の青木となのる人の投書文を続ける。
「たまたま、氏の友3,4輩、来たりて宴いよいよ盛んなり。ことに座中、宇和島藩士素木泰、市村敏麿の二個壮客あり。大茶碗をもって馬食牛飲し、各自、自説の時事談をもってす。なかんずく市村氏の雄弁、痛く時弊を弾劾す。この二氏、ひとしく呉石氏が同郷の士族、維新前後、国事上に弾劾したる有為活発家にして、皆、主義を民権拡張にとりて、かつて戊辰東北の役にありては、この二氏、征討の達書および伊達慶邦および世子宗敦の二氏の官位削チュツの勅書を護り東奥に入り、尽力するところありしと聞く。余もまた同時北越の軍にしたがいたれば、その往時を語り合い、一層の興をそえ、意表、欝を散じ、果ては、豪気ぼつぼつ、小剣を按し、つわものの交わり云々などと発声するまでの大愉快をなしたり。
ここに気の毒なるは、矢野氏にして、最初、呉石氏の憤怒にふれ、席上、己の意に満たざるの人、かたわらにあり、もって多弁変じてかん口(口を閉じる)深沈、いたって面白からざる光景なりしに、突然放言すらく。呉石氏に「兄が結髪は時好に適せざること、まことに厭うにたえたり」と。呉石氏、傲然、叫んでいわく、「汝なんぞ余が束髪に洩意のなすところを知らんや。余は、世間の洋癖に浸潤する汝らがごとき、糞虫輩に神州の故態、封建の遺物を示さんとするものなり」と。矢野氏、またまた赤面大いに失言を恥たるごとし」
以下、省略するが、明治17年11月東京自由新聞第735号所載とある。
この文の中で、筆者は、明治9年のこの快宴で、呉石氏から小冊子ももらったと書いてある。はじめ、これは明治8年のことだと思ったが(9年前と書いてあったので、明治17年から逆算した)明治9年なのかもしれない。
宇和島藩士素木泰とは何者だろう。敏麿と同じく東北に使者としていったように書かれているが、ならば、玉田貞一郎ということになる。まさか、それはないだろう。おそらく、この二人が、こもごも東北の話をしたので、この人も市村と同じ仲間で、使者になったのかと勘違いしたのではなかろうか。
それにしても、当時、全国にいたであろう意気盛んな壮士たちの声が聞こえるようだ。
「たまたま、氏の友3,4輩、来たりて宴いよいよ盛んなり。ことに座中、宇和島藩士素木泰、市村敏麿の二個壮客あり。大茶碗をもって馬食牛飲し、各自、自説の時事談をもってす。なかんずく市村氏の雄弁、痛く時弊を弾劾す。この二氏、ひとしく呉石氏が同郷の士族、維新前後、国事上に弾劾したる有為活発家にして、皆、主義を民権拡張にとりて、かつて戊辰東北の役にありては、この二氏、征討の達書および伊達慶邦および世子宗敦の二氏の官位削チュツの勅書を護り東奥に入り、尽力するところありしと聞く。余もまた同時北越の軍にしたがいたれば、その往時を語り合い、一層の興をそえ、意表、欝を散じ、果ては、豪気ぼつぼつ、小剣を按し、つわものの交わり云々などと発声するまでの大愉快をなしたり。
ここに気の毒なるは、矢野氏にして、最初、呉石氏の憤怒にふれ、席上、己の意に満たざるの人、かたわらにあり、もって多弁変じてかん口(口を閉じる)深沈、いたって面白からざる光景なりしに、突然放言すらく。呉石氏に「兄が結髪は時好に適せざること、まことに厭うにたえたり」と。呉石氏、傲然、叫んでいわく、「汝なんぞ余が束髪に洩意のなすところを知らんや。余は、世間の洋癖に浸潤する汝らがごとき、糞虫輩に神州の故態、封建の遺物を示さんとするものなり」と。矢野氏、またまた赤面大いに失言を恥たるごとし」
以下、省略するが、明治17年11月東京自由新聞第735号所載とある。
この文の中で、筆者は、明治9年のこの快宴で、呉石氏から小冊子ももらったと書いてある。はじめ、これは明治8年のことだと思ったが(9年前と書いてあったので、明治17年から逆算した)明治9年なのかもしれない。
宇和島藩士素木泰とは何者だろう。敏麿と同じく東北に使者としていったように書かれているが、ならば、玉田貞一郎ということになる。まさか、それはないだろう。おそらく、この二人が、こもごも東北の話をしたので、この人も市村と同じ仲間で、使者になったのかと勘違いしたのではなかろうか。
それにしても、当時、全国にいたであろう意気盛んな壮士たちの声が聞こえるようだ。