虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿28 二宮新吉③

2008-03-31 | 宇和島藩
東京自由新聞の青木となのる人の投書文を続ける。

「たまたま、氏の友3,4輩、来たりて宴いよいよ盛んなり。ことに座中、宇和島藩士素木泰、市村敏麿の二個壮客あり。大茶碗をもって馬食牛飲し、各自、自説の時事談をもってす。なかんずく市村氏の雄弁、痛く時弊を弾劾す。この二氏、ひとしく呉石氏が同郷の士族、維新前後、国事上に弾劾したる有為活発家にして、皆、主義を民権拡張にとりて、かつて戊辰東北の役にありては、この二氏、征討の達書および伊達慶邦および世子宗敦の二氏の官位削チュツの勅書を護り東奥に入り、尽力するところありしと聞く。余もまた同時北越の軍にしたがいたれば、その往時を語り合い、一層の興をそえ、意表、欝を散じ、果ては、豪気ぼつぼつ、小剣を按し、つわものの交わり云々などと発声するまでの大愉快をなしたり。
ここに気の毒なるは、矢野氏にして、最初、呉石氏の憤怒にふれ、席上、己の意に満たざるの人、かたわらにあり、もって多弁変じてかん口(口を閉じる)深沈、いたって面白からざる光景なりしに、突然放言すらく。呉石氏に「兄が結髪は時好に適せざること、まことに厭うにたえたり」と。呉石氏、傲然、叫んでいわく、「汝なんぞ余が束髪に洩意のなすところを知らんや。余は、世間の洋癖に浸潤する汝らがごとき、糞虫輩に神州の故態、封建の遺物を示さんとするものなり」と。矢野氏、またまた赤面大いに失言を恥たるごとし」

以下、省略するが、明治17年11月東京自由新聞第735号所載とある。
この文の中で、筆者は、明治9年のこの快宴で、呉石氏から小冊子ももらったと書いてある。はじめ、これは明治8年のことだと思ったが(9年前と書いてあったので、明治17年から逆算した)明治9年なのかもしれない。

宇和島藩士素木泰とは何者だろう。敏麿と同じく東北に使者としていったように書かれているが、ならば、玉田貞一郎ということになる。まさか、それはないだろう。おそらく、この二人が、こもごも東北の話をしたので、この人も市村と同じ仲間で、使者になったのかと勘違いしたのではなかろうか。

それにしても、当時、全国にいたであろう意気盛んな壮士たちの声が聞こえるようだ。


市村敏麿27 二宮新吉②

2008-03-30 | 宇和島藩
明治17年、東京自由新聞にのった「無役地事件」の記事を読んで、東京の麻布に住む人から、二宮新吉を知っている、と投書があり、その投稿記事を新聞は掲載している。名は青木知友とあるが、編集者は、「青木は姓なるや知らず、知友は、疑いもなく仮託のものたるべし。その意は、旧友を知るというにあるものなからん」と注をしている。

「貴社新聞本月345の三日間雑報内に掲載せる伊予国宇和四郡を読んで、余が旧識たる呉石二宮新吉君の鬼録に上られたることを知悉したり。余は元来、山陽の草莽に出で、氏とは山海遼遠なるがゆえに、深き交わりにあらざるも、維新以前、国事に慷慨し、西の方、有志者に会せんと豊後の国、浜脇温泉(別府温泉)にいたるに」と始まる。

以下、要約して、書く。

「ここで50日ほど滞在していたところ、豊後の志士轟武兵衛、河上彦斎、小河一歳の三氏が計画して、この温泉に四国の志士を招待し会議をしようとすることになった。このとき、二宮新吉氏は、八幡浜から船に乗って、以下の数十人の四国の志士と共にきた。その主な人は、宇和島から、金子魯州、松末杢兵衛、上田一学、阿部権一郎、三島典平、小原喜真太、西村鉄之助、森余山。大洲人は山本真弓、曼沢珍平。松山人では、原田佐之助(後年の新選組隊士)、讃岐人、土肥大作、土肥七亮、柳原燕石。土佐からは、坂本龍馬、西春松、松山深蔵、上岡昌軒、那須俊平。多度津の川口平助。」

それにしても、別府温泉に四国の志士がこもって時事を談じたのはおもしろい。

投書者は、二宮新吉と密会すること3回、特に、後藤純平(豊後の草莽の志士、西南戦争に加担し処刑)方で数日間大いに議論し、二宮氏が本藩がふるわないのを嘆き、ややもすれば過激に出ようとするのでいさめたこともある、と書いている。

この人がなんと明治8年に大阪で二宮新吉と会ったことを書いている。

「回顧すれば九ケ年前、職事をもって難華にあり、ある日、矢野安芸三郎(城辺村旧庄屋、現今、大阪府大属)に邂逅す。矢野は幇間在俗の才子、最も知事県令の気脈を得ることたくみなり」

矢野とは、前回(23)で書いた矢野貞興のことだ。間島冬道が宇和島に入県する前に、庄屋に無役地を返すことをすすめた人物。
以下、長いので、これも、意訳して紹介する(少し省略)。明治8年のことだ。

「矢野氏が言った。わが故郷から頑固爺が出てきて、今、中洲の長屋にいる。今から、かれを説得しにいくつもりだ、という。余は、それが二宮新吉氏だと知り、知り合いだから、共に訪ねることにした。
二宮氏は、垢じみた木綿の着物に、弁慶縞の兵児帯をしめ、紫の紐で大髷をたばね、まるでやせた力士のようだった。
矢野氏は、こういって説いた。
兄が尽力している事件は、余も庄屋の一人だから、直接の関係があり、残念に思っている。県令が来るとき、余は県令の宿を訪ね、庄屋たちのために弁舌をふるい、無役地を庄屋のものにし、余の信用もあがった。しかるに、はからずも、今、村民から訴訟が起こるようになったことは憂慮にたえない。
そこで、ここに奇策があるが聞かれよ。
まず、兄がまず村民にすすめて訴訟の念を断たしめること、兄が刎頚の交わりをなしている市村敏麿その他の輩を排斥すること。されば、わたしは、馬に鞭うって郷土に帰り、旧庄屋、旧組頭どもを集めてこう説きましょう。
そもそも、庄屋役人に属している無役地は、古来、役儀に付帯するもであることはまちがいない(庄屋役が廃止になれば、本来、庄屋のものではなくなる)。今、幸いにも、全部われわれ旧庄屋の所有になったが、遠からず、これは大問題になり、紛糾するだろう。そうならない前、人民が騒ぎ立てない前に、こちら(庄屋)からすすんで、その所得の半分を割き出し、人民の共有地としてさしだそう。そうすれば、人民はきっと庄屋の行為に感謝感激、庄屋は、無役地の半分は天地永久に子孫に続かせることになる。庄屋を説得して半分の地を投げ出させるのは簡単なもの。そうして、その半分の土地(共有地)は、兄とと共に、この土地の進退の大権を握り、その純益を集めて、一個の大銀行を設立し、利益をえよう。いかがか」

「言いまだ終わらざるに、呉石氏、沸然、激怒、口を極めて罵っていわく。小人、贅言をやめよ。余は汝がごとき、表裏反復、破廉恥漢にあらざるなり。壟断私利に汲々たる汝鼠賊輩とわれを同じうするも汚らわしいと劈面一声暴痛ひん斥せられ、さすがの弁舌も案に相違し手持ち無沙汰の姿になりければ、余も矢野氏が無謀に呆れ、呉石氏の清廉に感動せり」とある。

このあと、この場に市村敏麿も現れるのだが、長くなったので、次回に。

市村敏麿26 二宮新吉①

2008-03-29 | 宇和島藩
今回は、市村敏麿を無役地返還運動に引き入れ、その運動の両翼として奔走した二宮新吉について書く。この二宮新吉については、保内町郷土史にも伝記を書いた三好昌文氏に「無役地事件と二宮新吉」という文が詳しいが(三好昌文著作集がある)、この本は、今、手元にないので、「市村敏麿翁の面影」に書いてあることから紹介する。

天保3年、宇和島藩、宮内村の酒造家の子として生まれる。宮内村とは、今の八幡浜市保内町に属する。宮内村に接するのが磯津村で、わたしの祖先の墓は、磯津村にある。磯津村は、海沿いの漁村だが、宮内村は、山側になる。

司馬遼太郎の「花神」にイネや蔵六の世話をした二宮敬作が出てくるが、その二宮敬作の像が、保内町に建っている。宇和島には、二宮という姓は多いので、新吉と敬作が関係あるかどうかは知らない。


なお、「無役地事件」については、「市村敏麿の面影」は東京自由新聞の記事を転写している。この記事からしかその詳しい内容はわからない。

東京自由新聞とは、なんだろう?これもわからない。
朝野新聞は、成島柳北が作った新聞、東洋自由新聞は、中江兆民らの新聞、東京日日新聞は、政府系の新聞だ。他にもいっぱいあったと思う。東京自由新聞について何かご存知の方は教えてほしい。

二宮新吉も幕末維新を生きた草莽の典型としてとても興味をそそられる人物だ。

16さいのとき、九州日田の広瀬淡窓の塾に入門。その後、江戸の昇平校で学び、松林飯山、松本謙三郎(天誅組総裁)、秋月梯次郎、石沢俊平、岡敬輔と莫逆の交際を結ぶ(ひょっとして清河八郎とも会ったかも。笑)。号を呉石。文久元治のころ、讃岐の柳東燕石(高杉晋作と交友あり)および、土佐の西春松らと交わり、尊皇攘夷を唱え、四国九州に奔走、宇和島藩に同志山内玄通と共に数ヶ月牢獄に入れられる。慶応3年8月、岩倉具視に招かれ、玉松操とともに、具視を補佐、維新後、大学の小博士になる。明治4年、丸山作楽の国事犯事件に連座。一時、島田組に月俸250円で招かれるが、故郷に帰る。故郷で酒造業に従事していたところ、同じ宮内村の豪農佐々木恭三から依嘱される。市村敏麿は交渉ごとを、二宮新吉は、会計出納を専門にしたという。

上の国事犯事件というのは、明治4年に一斉に尊皇攘夷の草莽や不平士族を弾圧した事件だ。
明治4年にはさまざまのグループの草莽が弾圧されている。雲井龍雄、河上彦斎、大楽源太郎らも、この年に処刑されている。

二宮新吉は敏麿より7つ年上。尊王攘夷の志士としても先輩格にあたるだろう。無役地事件にも、明治7年から関わっている。純粋一途な人であったらしく、この人の説得には敏麿も抗しがたかったかもしれない。しかし、二宮新吉は、明治14年、無役地事件への政府の弾圧を悲観し、先に銃で自殺してしまう。49歳。

二宮新吉については、まだおもしろい記事があるので、それを次回に書く。


市村敏麿25 無役地事件②

2008-03-29 | 宇和島藩
無役地事件そのものは、ややこしいので後に回すとして(^^)、市村敏麿が無役地事件に関わった経緯からさきに。

「明治5年、1月、新たに宇和島県令として間島冬道入県の際は、宇和島藩より市村敏麿、大洲藩には菅廓随行を申し付けられたり。その後、関東某県令に任命すべき内命あり、急ぎ、上京の途中、宮内村の佐々木恭三、二宮新吉等の慫慂により、遂に無役地事件に関係し、これが総務として尽力するにいたれり」

谷本一郎の「敏麿伝」はこの文を最後に終わっている。

「古市村庄屋芝八代記」には、こうある。

「役地事件一夜説なる新聞筆写に詳細にあり、省略。
この事件を引き受けるや否やについては、家族及び親類全部大反対にて(市村敏麿の実父及び妻子などの反対強く)やむなく断念し、県令の内命あるを幸い、上京の途中、二宮新吉、佐々木恭三等の慫慂により、遂に総裁を引き受くるにいたれり」

東京自由新聞に出た「役地事件一夜説」

「村民等は相議して、これが改正を管轄庁へ嘆願せんとほっし、ごう然としてやまず、なかんずく、愛媛県士族上村信強氏なるものありて、東京朝野新聞に印刷長たり。8年4月郷邸、赤帝の災に罹り、父母、飢えに泣くの報に接し下って、市村敏麿氏方に寄食し、目を該地質に注ぎ出ては有志をつのり、該地をして共有地に復せしめんことを謀り、宮内村佐々木恭三、二宮新吉等を慫慂し、入っては市村氏を説いて、これが牛耳をとらしめ、なお、光満村神官増田満政および吉田中野平八と語らいて、百方奔走いたらざるなし。ちなみに、植村氏は同年11月初旬、市村氏上阪中、八幡浜において暴行に吐血し、全身紫色に変じ、わずかに2日間の煩悶をもって永眠せり。時人、甚だ、この死を怪しみしという」

これによると、明治8年、まず敏麿の知人の上村氏が動き出し、佐々木、二宮氏、そして敏麿を運動に参加させたようだ。

新政府から上京せよとの内命があったのは、まあ、明治7年から8年にかけてだろう(史料がない)。敏麿はかつては民部省の一員であったし、必ずしも新政府の方針に反対の人間ではなかったろうと思う(でなければ、内命もこないし、上京しようともしないだろう)。同志となった二宮新吉は(あとで書くが)、新政府の洋化政策に反対するいわゆる不平士族だったかもしれないが。

この当時、県令を配置するのは内務省の管轄だろう。当時の内務省は大久保利通がにぎっている。西郷は征韓論ですでに明治6年から鹿児島に帰っている。

この時代、ちょっと小年表でさぐってみよう。
明治6年、1月、徴兵令布告。7月、地租改正条例布告、10月、征韓論で、西郷、江藤、板垣、政府辞職、11月、内務省設置。

明治7年、1月、民選議院設立建白書、提出。2月、佐賀の乱、5月、政府軍、台湾に上陸(12月、撤兵)

明治8年、2月、大阪会議、地租改正反対の農民一揆、各地で。

まあ、とにかく、維新の最大の功労者である西郷が鹿児島に帰り、新政府もいつ倒れるかわからない不穏な時代だ。このあたりは、司馬遼太郎の「翔ぶが如くに」が詳しい。



BS映画「ニュルンベルク裁判」

2008-03-28 | 映画・テレビ
NHKBSで深夜放送していた「ニュルンベルク裁判」を録画し、今日、さっそく見た。3時間以上の長さで、途中で、プツンと切れて、たぶん最後の5分ほど(?)だろうか、は録画できていなかった。失敗。

監督、スタンリー・クレマー。配役陣がすごい。裁判長にスペンサー・トレーシー(老人としての魅力がある)、ドイツ側の弁護士にマクシミリア・シェル(これでアカデミー賞受賞)、連合軍側の検事にリチャード・ウイドマーク(アラモなど西部劇映画によく出た)、裁かれるドイツの法学者にバート・ランカスター(やはり西部劇のベラクルスが最高)、証人にモンゴメリー・クリフト(陽のあたる場所や終着駅)、ジュディ・ガーランド(ミュージカルの女王)、処刑されたドイツ軍人の未亡人にマレーネ・デートリッヒ(モロッコ、情婦)。白黒。

オールスターだけど、それぞれ、みんな演技がうまく、画面にひきつけられる。
バート・ランカスター扮する法学者が有罪ならば、ドイツ国民は皆、有罪だ、いや、チャーチルも有罪だ、と弁護士は叫ぶ。画面には、実際、ニュルンベルク裁判で流された捕虜収容所のようすや死体の映像フィルムも流される。
ヒトラーは、クーデターで政権を奪取したのではない。ドイツ国民の支持を得て政権についた、ヒトラーを支持したのは、われわれではなかったか、という問いは重い。

今朝の朝日の朝刊の1面。学習指導要領、案を修正して、告示、とある。
例年、改訂案通りだが、今年は、異例の修正をして告示したそうだ。
修正したところは、改訂案になかった「わが国と郷土を愛する」という言葉を加え、「君が代を」指導する、を、「歌えるように」まで指導するように決めた。

小さな改訂に見えるが、大きな改訂だ。新聞は、これについて、いっさい、コメントはしていないが、いずれ、近いうちに批判を書くのだろうか。それとも、みのがしてしまうだろうか。ズルズルと譲歩を続けるのだろうか。見逃すことが、大きな罪の第一歩だとは、この映画でも指摘していたと思うのだが。これは、学校だけの問題だとは思わない。いずれ、われわれの首を絞めてくる掟として使われるだろうに。

ところで、リチャード・ウイドマークもごく最近、亡くなったそうだ。

ムクドリ、巣つくり

2008-03-28 | 日記
また、庭の木にムクドリが巣作りを始めたようだ。今は、どこからもってきたかわからないけど、ナイロンのような白い糸を枝にはっている。一昨年もムドリがここで、巣をつくり、三羽が巣立っていった。あのムクドリだろうか。
また、卵を産んで巣立ってほしいなあ。楽しみだ。

市村敏麿24 無役地事件①

2008-03-26 | 宇和島藩
無役地(むやくち)って、何だろう。それに、正しくは、これを何と読むのだろう。国語辞典にも日本史辞典にもなく、聞いたことのない言葉だ。はじめはさっぱりわからなかった。喧嘩や騒動は大好きだが、むずかしい理屈は苦手だ。しかも、市村敏麿が無役地事件に関わってからは、個人の史料もなくなる(わずかに新聞記事のみ)。

無役地というのは、庄屋の土地だ。庄屋が村役人として、村政を見るための、役給としてあてられた土地。村民のための政治をするための、いわば公務員にあてられた土地だから、村民にとっては、村の共有地である、という考え方も成り立つ。一方、代々世襲であった庄屋にしてみれば、これは自分の私有地だと思っている。

野村騒動は、庄屋の不正、横暴を糾弾した一揆でもあった。藩は、騒動の直後、庄屋の権限をとりあげ、村政は、横目や年行事など村役人たちの協議で運営するようにした。また、庄屋の無役地の調査にとりかかった。明治4年3月、藩は、庄屋の無役地(田畑)をすべてひきあげることにしたが、その直後、すべてをとりあげては庄屋も生活に困るだろうから、という理由で、その40パーセントを庄屋にあたえ、60パーセントをとりあげることにした。しかし、明治5年、間島冬道は、この60パーセントの土地も庄屋に返し、無役地は、すべて庄屋の私有地になる。

くわしくは、また、史料をあげて、逐次、書いていくつもりだが(書けるかわからないけど)、無役地事件は、これが発端だ。その後、農民たちは、無役地は農民の共有地だとして、無役地返還運動を起こす。この運動(裁判闘争)の代表になったのが(代表にさせられる)、市村敏麿であり、明治20年代の終わりまで続く。

さて、この無役地事件や野村騒動、一般用の「愛媛の歴史」ではどう書かれているのか調べてみた(県史や市史はのぞいたことがない)。

昭和48年刊の県史シリーズの「愛媛県の歴史」(田中歳雄)。

野村騒動について2行あり。
「たとえば、明治3年3月下旬、宇和郡の村から動きはじめて4月から5月には宇和島藩内の宇和・松柏地域にまで拡大した奥野郷一揆(参加人数1万5,6千人)、さらにはその影響をうけて蜂起した吉田藩三間騒動は、大豆銀納制という旧藩時代の貢租を継続していたことに端を発していたが、それだけでなく、庄屋組頭層の不正追及からその罷免要求にまで発展していた。これに対して、両藩とも藩兵を繰り出して鎮圧するのであるが、こうした農民たちの動向は、藩籍奉還という形だけの統一では現実の地方行政が円滑に推進されないことを示していた」

無役地事件については記事はなし。

同じく山川出版社。1988年の「愛媛県の百年」(島津豊幸編)。

野村騒動については、「南予をゆるがせた奥野郷一揆」の見出しのもとに、地図、写真も含め、5ページにわたって、書かれている(ただし、頭取鶴太郎の名はなし)。この本は明治後の100年の歴史を書いたものだが、野村騒動に5ページを使っているものの、無役地事件についてはいっさい記入なし。

同じく山川出版社。一番新しい県史シリーズで2003年刊の「愛媛県の歴史」(内田九州男編)。

野村騒動の記事はいっさいなし。ついでだが、武左衛門一揆についての記事もたったの6行。ただ、この版ではじめて無役地事件が登場している。「南予の無役地事件」という見出しで、3ページにわたって書いてある。ただ、記事は「市村敏麿の面影」に所収の東京自由新聞の記事を要約紹介したもので、新しい研究成果はないようだ。市村敏麿の写真ものせているので、無役地事件という存在を世に知らせた意義はある。松山藩領、東、中予にも、無役地と似たような「庄屋抜け地」というのがあったようで、「庄屋抜け地」を村の共有地にするような裁判闘争があったことをはじめて知った。この項を書いたのは矢野達雄という学者で、松山地方裁判所の裁判記録を調べて、このことを明らかにしたようだ。

それにしても、無役地事件、概要だけでは、とてもとてもよくわからん。わからないまま書いていこう。

市村敏麿23 矢部貞興の弁舌

2008-03-24 | 宇和島藩
この話は「市村敏麿翁の面影」の中の「役地事件一夜説」にある。

「従五位間島冬道氏、宇和島県令となり、明治5年2月初めて入県するにあたりて、その路次、大阪にとどまること5日、このとき、大阪府大属矢野貞興氏(城辺村にして、通称安芸三郎という。天性多弁、自ら蘇張をもって任じ、三寸不爛の能力はおそらく不世出なるものとうぬぼれたり。しこうして、もっぱら、世才に通じ、上にげいごうし、下を凌いで、これ利を図る、幇間在俗の才子。晩年、東京蓬莱社に従事したる行為の正邪は傷く世の知るところなり)、その旅館を訪ねて、間島氏を諄々、説動、切にいたる。その略にいわく。」

以下、現代調に改めて書く。

「それ、宇和郡の民情はややもすれば目上の者をあなどり、その命令を奉ぜず、この幣はおそらく他県に比類がありません。今、この難治の県を容易におさめ、治績をあげるために、妙策がございます。閣下のためにお話します。古来、各村には庄屋という村役人がいます。旧宇和島藩では、大参事徳弘五郎左衛門氏が、あやまって大属市村武の建議を受け入れ、庄屋職を剥奪し、なお過酷にも庄屋の私産(無役地)をも没収し、それを庄屋の跡役の給料にあててしまいました。世間の者は、みなこれを批判し、王安石が宋国を傾けたことに比しています。閣下、もし、閣下が、この政策をやめ、庄屋に庄屋の私産(無役地)を返還し、かつての庄屋を、民政に用いますれば、もとより、才知あり、勢力あり、村民を使役することに慣れたものですから、たちまち、その成績はあがり、閣下の名があがることはわたしが保証します。ねがわくば、閣下、政治の手始めにまず、この改正をなされませ」

間島氏、矢野氏の説に感服する。また、宇和島の人材について問うと、矢野氏は、自分好みの人材の名をあげて間島氏に教えたそうだ。
その後、大阪府大参事藤村紫郎氏(肥後藩士、脱藩して活動、のち、山梨県令、明治20年には愛媛県知事)、権大参事竹内綱(土佐藩士、自由党員、小松製作所創業者。吉田茂の実父、麻生太郎の曽祖父)もきて、矢野氏は宇和島の人傑だと賞賛し、矢野氏の説を支持したので、間島氏は、宇和島に着任すると、庄屋の無役地をすべて旧庄屋に返還したという。

矢野氏が間島氏を訪問したのは、背後に宇和島の庄屋たちの依頼があったにちがいない。矢野氏は庄屋代表として派遣されたことになる。つまり、もうこのころには、宇和島県では、庄屋の無役地問題が大きな問題になっていたことになる。

無役地問題。うーん、とうとう、ここにきてしまった。

市村敏麿22 明治5年

2008-03-22 | 宇和島藩
明治5年

正月27日

「拙者儀、不日、宇和島表へまかり越し候につき、そこもと達に随行いたさるべくこの段申し達し候
               宇和島藩権令     間島冬道  

元宇和島小参事 市村敏麿殿
元大洲藩大属  菅 廓 殿               」

やっと、敏麿の名が出てきた。ということは、明治4年、おそらく廃藩置県のあと、藩役人をやめてから敏麿と名を変えたのではなかろうか。

宇和島県は、はじめ宇和島藩の井関斉右衛門(外国事務局判事、神奈川県知事、外務大丞などを歴任。たしかアーネスト・サトーが宇和島では最も重要な人物といったとか)が参事として赴任する予定だったが、名古屋県令に任命されたため、交代人事で、名古屋から間島冬道が赴任。権参事には江木康直他。

間島は2月に赴任するが、6月に宇和島県は、神山県と名を変更、7月には、間島は免官になり、権参事だった江木康直が参事になる。明治6年、愛媛県誕生。江木康直が参事として県政を見るが、病気のため、明治7年11月、土佐の岩村高俊が県令に任命される。市村敏麿が最初に被告人として裁判に訴えるのは、この岩村高俊だ(長岡であの河井継之助と会見した土佐の男だ)。だが、ちょっと先走りすぎた。

まず、はじめの間島冬道の赴任についてからだ。
間島冬道については、ネットで検察してみた。以下のような情報があった。

文政10年~明治23年
尾張藩士、国学者で歌人。尊攘派の志士と交わり、藩主徳川慶勝を助けて国事に奔走。安政の大獄で、慶勝が幽閉されると、自身も蟄居謹慎処分になる。明治元年、徴士となり、湧谷県(宮城県の一部)知事、大宮県知事、名古屋県参事を経て、宇和島権令に。宇和島権令を最後に官を辞し、のち、十五銀行支配人、日本鉄道検査役。明治19年、宮内省御歌所寄人になる。明治六歌仙の一人。

さて、明治5年の2月、この間島冬道が宇和島に入る前、途中、大阪に5日ほど滞在したが、間島の泊まっている旅館を訪ねてきた人物がいる。矢野貞興という宇和島の人物。市村武と宇和郡の農民について、またこれからの施策について入れ知恵を与える。この矢野貞興なる人物については、エピソードの少ない本「敏麿の面影」の中で、2回もエピソードとして登場する。

この人物もネットで検索してみると、出た。
矢野貞興(矢野安芸三郎)が城辺村庄屋になったのは、安政6年。慶応元年、同志8名と集まり、維新の起請文を書き、盟約したが、役人に捕らえられる。この当時、土居通夫とも交流があったようだ。明治初年、大阪府大属となり、各府県知事や阪神間の富豪と親しく交わり、蓄財につとめる。国立第29銀行の創立に協力、国立題5銀行の経営に参加し、実業界に貢献とある。性格、先を見るに敏で、社交に長じ、加えるに雄弁とある。平成の今、勝組志向の若者や、財界人の理想とする人物のようではないか。

矢野は、間島になにを語ったのか。それは次回で。




市村敏麿21 明治4年

2008-03-22 | 宇和島藩
明治3年、この年は、敏麿も、宇和島藩も野村騒動の後始末で追われることになる。野村騒動のあと、吉田藩の三間騒動、宇和島藩にも松柏騒動、津島騒動などがあり、夏までは不穏な動きがあり、藩も厳戒体制をとり、同時に、農民の要求を入れた藩政改革(庄屋職の改革)も必要だった。鶴太郎の刑が確定するのが、この年の12月なのだから。

藩政改革については、無役地事件について書くときにふれるとして、先に、明治4年に入ろう。

明治4年、市村武は、宇和島藩の大属という地位(役職?)にいた。大属はどんな地位なのかよくわからん。「御用これあり、東京出張を申しつける」という文書もある。

「小参事心得をもって、大西小参事と交代申し付ける」とある。


また、7月13日つけで、「その藩、市村武、竹場於菟一、当省御判掛に命ぜられ候ども、差し支えこれなきか迅速に申し立つべきに候。 民部大丞 安場一平」

安場一平というのは、安場保和のことで、小田実の(突然だ!笑)盟友鶴見俊輔の曽祖父にあたる。肥後藩出身だ。

これはなんだろう?民部省は、この月の27日に廃止されるのだが。

7月14日、廃藩置県。いよいよ、藩も廃止、大名もなくなる。革命、いまだ続行中の感を深くしただろう。驚天動地。

10月6日、「元宇和島藩小参事心得、市村武、当分、当省刑法取調べ掛出席命ぜられ候。   刑部省     」

7月9日、刑部省は、弾正台と合体して司法省と改称されている。このころは司法卿は不在で、混乱していたというから、まちがえたのだろうか。翌年、江藤新平が司法卿に着任する。市村と江藤新平、まんざら無縁でもなさそうだ。

廃藩置県で、藩主が東京に去ってから、市村も藩役人を辞めたにちがいない。でも、東京の新政府とはつながりがあったようだ。

廃藩置県のあと、3ヵ月後、岩倉、大久保、木戸、伊藤など政府首脳陣は外国への長い旅に出かけてしまう。あとは西郷さん、よろしく、というわけだ。留守内閣は、江藤新平が積極的にさまざまの改革に手を出す。こんな時代だ。

谷本一郎の「敏麿伝」に史料として掲げてある辞令書は、明治5年の正月の辞令ひとつで、あとはおしまいになっている。これからが、あとを追うのが難しい・・・。

市村敏麿20 

2008-03-22 | 宇和島藩
今回は余談。

>それに弁官とは何だろう。東京の新政府の役なのだろうか?不明。12月26日、弁官から、二人に島流し(沖ノ島)10年に処すべきの指令が来る。

前回、こう書いたけど、「弁官」についてわかりました。今日、たまたま毛利敏彦の「江藤新平」を見てみたら、こう説明してあった。

「弁官の職務内容は、今日の内閣官房に法制局を併せたようなものであって、太政官最高首脳あての書類は弁官の事前審査を経由しなければならない仕組みであり、また、太政官が発する布告・達しや指令類の起案も弁官の任務であった。つまり、弁官は政府事務の中枢部を占め、太政官の意思決定に重要な役割を果たす存在であった」
死罪を伴う騒動については、弁官に伺いを立てる必要があったのかもしれない。
弁官には大弁(公家がなる)、中弁(次官級)、小弁とからなるが、この明治3年明治3年12月の中弁には江藤新平がいる。

江藤新平は、裁判制度の創設者だ。まだ、この時期には、裁判制度はできていなかったが、人民の権利のために裁判に訴える道を示した江藤の司法の精神にこの後の市村は共感をしめしたかもしれない。市村のその後の裁判闘争にかける情熱は、民権にかける理想を感じるからだ。明治5年江藤新平は初代司法郷になる。

市村と江藤新平にもなにかつながりがあるかもしれない(会ったことがなくても)。江藤は佐賀の乱に敗れたあと、宇和島に立ち寄っている。むろん、市村とは関係はないだろうが、なんでも市村と結びつける昨今、こんな空想も楽しい(笑)。

野村騒動のあと、宇和島藩庁は、4月にさっそく民部省に届け出ている。このころは、藩政府と新政府はこんな関係にあったのだろう。

「(なかば、省略。)本月3日頃、漸々承服随い、残らず帰村、自今にてはまず鎮静つかまつり候。始終、暴挙などは一切ござなく候えども、支配地内、静謐ならず、恐れ入り候につき、とりあえず、お届け、仕置き、巨細は追って取調べ申し上げ候」とある。
民部省につながりのある市村が書いたものだろう。

明治初期となると、すぐに征韓論、西南戦争から始まることが多い。征韓論前の、明治2年、3年、4年、5年のころの時代を調べた本がほしいのだが、あまりないようだ。この頃こそ、維新の最も革新的な改革は次々になされたのに、と思う。人事も官制もクルクル変わり、大事件も続出で、いわくいいがたしの時代だったのかもしれない。




市村敏麿19 野村騒動③

2008-03-21 | 宇和島藩
市村武の名は、野村騒動の一揆の史料中には出てこない。

「敏麿伝」では(16回に書いたが)裏面で、古市村の良三郎、三橋陣斉、喜平治に説得にあたらせたことになっている。これは事実のようだ。10月、藩庁から、この3人に褒美を出した文書がある。

古市村の医師三橋陣斉、古市村村民良左衛門には、一揆のさい、「格別の尽力周旋」により、褒美として米毎年、7俵を差し出すとの達しが出ている。同じく喜平治にも「奥野郷屯集の村民へ説諭いたし尽力、古市三か村いったん田穂村まで引き取り候趣あい聞こえ奇特のことに候、これによって褒美」と酒代が出ている。


知事の出馬を止めた人物がいるようだが、これがだれだかわからない。市村敏麿その人ではなかろうか。宗徳の出馬は、当然、止めるだろう。もし、村民の説得に失敗し、流血発砲騒ぎにでもなれば、新政府から失政の責任をおしつけられる。ましてや、伊達のお殿様と領民との数百年にわたる関係に大きな汚点を残し、伊達家のためにならない。家臣としたら止めるだろう。

敏麿が、馬に鞭うって古市村にかけつけたのは、藩庁で、藩の回答案ができあがり、上甲貞一が藩兵をひきいて出張したころだろう。嘆願書が出ているのに、藩の方針(回答)もなしに、知事、あるいは大参事が出て行くわけがないからだ。敏麿にしてもそうだ。説得するといっても、具体的な回答をもっていなければ説得しようもない。「嘆願の趣はほぼ、認められた。このへんで解散してほしい。そうでないと、必ず、死傷者が出る。あとは、藩の改革を見守ってほしい」というところか。

敏麿は藩兵の武力を知っている。新式銃でよく訓練された部隊で、かつての徳川時代の藩の武力ではない。百姓の鉄砲や竹槍でかなう相手ではない。軍隊だ。もし、これ以上、対陣が長引けば、一斉射撃で多くの村民の命が奪われる。これは避けたかったにちがいない。

もう少し空想をしてみる。敏麿は、頭取の鶴太郎とひそかに会見しなかったのだろうか。かつての親友だ。しかも、古市村は、一揆出発時からいっしょに動き始めた中核部隊だ。敏麿に鶴太郎をひそかに会わせるのはむつかしくはないのではないか。もし、会ったのなら、敏麿はなによりも村民の命を守るように頼んだだろう。そして、藩の、庄屋の改革については、死力をつくすことを誓っただろう。

5月1日、鶴太郎、和太治ら指導者、逮捕。おそらく、自ら出頭したのだろう。いったい、この騒動で何人が逮捕され、何人が刑にあったのかよくわからない。藩庁では、鶴太郎を梟首、和太治を刎首に処すことに決め、その原案を11月21日に弁官に提出。けっこう刑が決まるまで長引いている。それに弁官とは何だろう。東京の新政府の役なのだろうか?不明。12月26日、弁官から、二人に島流し(沖ノ島)10年に処すべきの指令が来る。死刑が、10年の島流しに減刑されたことになる。むろん、敏麿の奔走があったためだろう。

野村騒動のすぐあとで、吉田藩で三間騒動という野村騒動に影響を受けた一揆がおきるが、吉田藩では、頭取二人(高野子村で、古市村と近い)を町中引き回しのうえ、絞首刑にしている。

鶴太郎は、明治13年10月24日死亡、47歳。このとき、ちょうど流刑10年が終わる頃だが、故郷に帰ったのかどうかわからない。
和太治は、大正6年、1月3日死亡、79歳。
島流しにあったのは、他にもいるけど、ここでは省略。

鶴太郎も和太治も村民にとっては、義民といっていいだろう。だが、宇和島はこれほど百姓一揆が多かった土地なのに、義民を祭る習俗はなかったのではなかろうか。家老を祭る和霊神社や安藤神社はあっても、義民は祭られない。武左衛門が義民になったのも明治以後で(大正か?)、それまでは、悪党ではなかったか。鶴太郎の墓も倒壊墓地に捨てられたままになっていたという。これも、武士、庄屋層など秩序維持派を尊重する風土?おいおい、これでいいのか、宇和島衆、といいたいところ(笑)。

鶴太郎、和太治がはじめて「義農」として顕彰されたのは、平成7年城川町史談会が碑を立てたときからだ。



市村敏麿18 野村騒動②

2008-03-21 | 宇和島藩
経過は、3月19日から4月3日までのざっと12日間くらいの騒動だ。その間、野村に1万以上の農民が終結するが、うちこわしなどの暴力行為は一切なく、死傷者もなかった。野村に、藩の大参事、もと家老などを呼び出し、要求をほぼ認めさせて解散。見事な一揆といってよい。頭取は、中津川村の塩崎鶴太郎(敏麿の親友だったといわれる)と、川津南村の大石和太治。

3月19日、中津川村の塩崎鶴太郎、川津南村の大石和太治が頭取となって、近隣の窪野、土居、古市村にもよびかけ、窪野村の「山姥」というところに集合。ここで隊伍を整え、民政支局のある野村に押し出し、藩に強訴しようと宣言。大縄、村の旗、鉄砲、竹槍、ほら貝なども準備してある。

大縄を用意していた、ということは、これは吉田藩の武左衛門一揆の影響が大だ。
「農民のめいめい持つところの縄を継ぎ合わせ、これを幾重にも合わせ、緒方氏の邸内の老松をひきたおさんとせしも、ついにあたわざりしという」という史料もある。

沿道の村落によびかけながら、22日には、山奥郷11か村の農民が集まる。野村でも、櫨の実でちょうどもめていて、野村郷からも農民が集結。宇和郷、城下組、川原渕組の者も集合し23日には、宇和島藩領273か村のうち、73か村が参加し、宇和島以北のほとんどは参加したことになる。藩庁に届けだされた人数は7452人、とあるが、届けのない他の村々を入れると1万5,6千人になる、という報告もある。これだけの人数があっという間に集結するということは、前もって連絡しあい、周到な準備をしていたのだろう。

一揆勢は、野村の大庄屋緒方(惟貞)の周りに集結。なぜ、野村の民政局にいかずに緒方宅におしかけたのだろうか。民政局が野村のどこにあったのかわからないけど、民政局の小役人を相手にしても始まらないと思ったのだろうか。緒方庄屋は庄屋の中でも最大級の庄屋で、村の政治には大きな権限を持っている。実際、緒方は、農民と藩庁との橋わたし役をやらされる。緒方惟貞はこの時の様子を文書にして残している。

緒方邸の庭につめかけた百姓たちに、緒方はむしろ数百枚、白米4俵を大釜でかゆを作っって食べさせたり、酒を出したりして、鎮撫に努める。一揆勢は、鉄砲の合図で、鯨波をあげたり、旗をふったりし、また、嘆願書を差し出すときには、緒方邸をグルグル輪になって回り、だれが投げたかわからないように玄関に嘆願書を投げ込んだというから、頭取の指揮があったのだろう。

宇和島藩庁から役人が緒方邸にかけつける。このときの、藩庁の中枢メンバーを書いておこう。藩知事、伊達宗徳。大参事、上甲貞一、須藤但馬。権大参事に告森周蔵、中臣次郎、成田忠順、小参事に大西登、笠原恕道、鈴木為男、三浦静馬。

まず、告森周蔵たち、小参事たちがかけつけるが、農民は、まったく無視。何千人という一揆勢の前では、声も届かず、命令も聞かない。「嘆願したいことがれば、紙に書いて出せ」というプラカードを書き、それを持って一揆勢の間をかけまわらせる始末だ。役人たちは、百姓たちに囲まれ、緒方邸でふるえていたかもしれない。おそらく、農民たちはおまえたちではだめだ。知事様でなくては話をしない、といったのだろう。当然、まず、大参事の上甲貞一が出るべきだが、どうも上甲さんは出たくなかったらしい。こんな史料がある(手紙)。

「大参事上甲は大念仏にて、ふるえながら出張せぬ工面をして、私、病身ことに、不行き届きの者ゆえお断り申しだされ候よしにて、知事様ご出馬のご沙汰にあいなり、すでの御馬のご用意までもし候ところ、存慮申し出され候、御役人これあり。御出馬、御見合わせにあいあなり、余儀なく大参事、駕籠にて参り候」

上甲は病気をいいたてているので、知事自ら出馬しようとしたところ、それを止める士がいて中止になり、しかたなく上甲は出ることになったのだろう。このとき、大砲2門、小銃隊2中隊も出兵している。ちなみに、小銃隊の隊長は、敏麿といっしょに仙台に使いにいった玉田貞一郎だ。

3月27日、さて、野村に到着した上甲さんはどうなったか。「大参事様がまいられた。皆のもの、かぶりものをとれ」と一揆勢はいわれる。
百姓「大参寺という寺はこれまで城下に聞こえぬ寺。坊主が何しにきたのだ。見れば、古代官の青ぶくれ、また、百姓の油を絞りにきたか、打ち殺せ」といいかえす。とにかく、役人は、大音声で悪口ばかり言われ、さんざんだったらしい。上甲はこれではいかぬと、ひきかえし、今度は、元家老の桜田亀六(役にはついていず、家に引きこもり中の身)をひっぱりだす。

4月2日、桜田亀六と農民代表が緒方邸の玄関で会見。
4月3日、村民、ことごとく村に帰る。
4月4日、藩役人、藩兵、宇和島にひきあげる。

27日に段階で、藩としては、農民の嘆願の基本的な回答ができていたようだ(櫨の実の値上げ、大豆銀納4割免除、庄屋役の再調査など)。ただ、農民は、新藩庁の役人は信じられず、知事か、それでなければ、もとの家老様の確約を求めたのだろう。

大参事の上甲貞一、権大参事告森周蔵は、このあと、大参事を解任されている。
上甲は、市村の京都外交掛だった時代の上司、告森は、松山政討軍の軍監で、市村とともに、松山にいった人物だ。
このときの落書があるが、上甲は、「論語読みの論語知らず」弟、上甲振洋は、知られた漢学者だ。上甲も学者だったかもしれない。
告森は、「長雨の麦作」
桜田は、「くさっても鯛」

さて、市村武は、このとき、何をしていたのだろう。




市村敏麿17 野村騒動①

2008-03-19 | 宇和島藩
景浦勉「伊予農民騒動史話」(愛媛文化双書)には、伊予の百姓一揆12件がおさめられている(そのうち、4件が宇和島藩)が、野村騒動は、そのうちの1篇でわずか12ページほどで,概略だけしか書かれていない。昭和34年に書かれたもので、主に藩庁の記録「奥野郷頑民騒擾始末」をもとにしたようです。残された記録は、藩庁か庄屋側の記録しかないようだ。それにしても「頑民」とはおそれいった。しかし、「頑民」、いい言葉ではないか。「頑民」になろう!(笑)

まず、かいつまんで書く。

山間部の農民は、紙の原料になる楮(こうぞ)、蝋の原料になる櫨(はぜ)の実を売って生計を支えている。紙も蝋も藩の専売事業だ。紙も蝋も製造販売は、藩と結託した庄屋たち(商業資本家化している)。儲かるのは藩と庄屋のみ。

ところが、慶応3年以来、櫨の実の価格が値下がりを続けている。櫨の実を売った銀で年貢(大豆銀納)をおさめるつもりが、それができない。

昨年は、凶作で、しかも、この物価高騰の時勢、とても年貢をおさめられる状況ではなかった。百姓たちは、櫨の実の値上げを求め、年貢の減免を申し込むが、庄屋の答えはこうだ。「おまえたちの田畑、牛馬、農具を売って納税の義務を果たせ」。

当面の要求は、藩に、櫨の実の価格を上げてもらうこと、税金を下げてもらうことだが、根底には、庄屋階級への怒り、不正を憎む心があるようだ。

景浦勉の本から、百姓たちの嘆願の内容を見てみよう。

①村役人が、田畑、牛馬、農具を売って納税せよと強要したのはまちがっている。大豆銀納は、免除されたい。もしできなければ、「年延」で納付できるようにしてほしい。
②庄屋が農民に課す夫役は重い負担になるので、廃止せよ。
③納税について村に相談もなく割り当て徴収するのは納得できない。
④まだ、年貢が「皆済」されないうちに、庄屋は米を酒造家に売って儲けをえている。
⑤村役人は、「役前」でありながら、商売に手を出しているのは不当である。
⑥藩の年貢らの会計ノート(帳面)は庄屋だけが見るのは不安だから、村の年行事にも見せてほしい。

すべて庄屋階級への厳しい注文だ。

こんな要求もある。
「庶政一新して、藩吏は「減石」となったにもかかわらず、庄屋のみは無役地を所有して富裕な生活を営み、徴税についても「村方」と相談もなく、独断専行のありさまで農民の怨嗟の的となっている。現今の庄屋職を全部罷免して、農民たちの入札で選出されるようにされたい」

宇和島藩の庄屋階級は、他藩に比して権力と権威をもっていた。世襲制だったこともあり、村の生活の中で庄屋の権威は慣習としても絶対的な存在として根付いていたのかもしれない。百姓は、たとえ、肥えたご(最近の若い人は知らないか。糞尿を運ぶ桶)を運んでいるときでも、途中、庄屋に会ったら、土下座しなければならなかった、という言い伝えもある。庄屋のやりたい放題だ。土佐の庄屋などは、藩・武士権力とは独立した意識をもった庄屋もいたが、まあ、大違いだ。武士と同じ穴のむじな。

ついでだが、宇和島藩は、武士の町農民への差別意識も強いように思うがどうだろう。他藩でもあまりしない無礼討ちもある(なんと明治4年にも無礼討ちがある)。一番えらいのは殿様、武士、そして庄屋。上に従うという習俗だろうか。幕末、宇和島藩は殿様のもとに統制がとれていた藩といわれるが、こうした藩の空気もあるかもしれない。苦しんだのは百姓だろう。

しかし、江戸後期、文政あたりから百姓の政治意識も高まり、しだいに庄屋の不正をだまって見なくなり、庄屋騒動が頻発するようになる。明治3年の野村騒動は、その爆発だった。

騒動の経過はまた書くとして、先走って、この一揆に対する藩の回答を書くことにする。

・大豆銀納の4分免除(4割免除)。
・櫨の実の買い入れ価格の値上げを認める。
・現今の庄屋を免職して村務を組頭、横目、年行事などの協議による運営とする。
・庄屋の無役地についての調査を開始する。

長くなったので、経過については次回に。




市村敏麿16 明治3年

2008-03-14 | 宇和島藩
明治3年。

2月、長州の奇兵隊など諸隊解散に不満をもつ脱退兵士の騒動(木戸孝允が鎮圧にむかう)。西郷は、昨年より薩摩に帰り、政府にはいない。8月、薩摩藩士横山正太郎は、遺書を集議員に投じ、自刃するが、そのの遺書にはこうある。
「方今一新の期、司法著目のとき、府藩県とも朝廷の大綱に依遵し、各新に徳政をしくべきに、あにはからんや、旧幕の悪弊、暗に新政にうつり、昨日、非としせしもの、今日、かえって、これをを是となす」
横山は、庶民の困窮を察せずに、自分の利益だけを求める政府官員たちの堕落した生活に怒りをぶつける。
時勢への不満は、全国の百姓一揆にも見ることができる。ご一新といいながら、百姓統治の方法は変わらず、かえって物価はあがり、生活は困窮をきわめる。昨年にひきつづき、この年も、高松藩、浜田藩、仙台藩、大田原藩、松代藩、新潟藩、若松藩、伊那県、彦根藩、小諸藩で百姓一揆。百姓たちの世直しの叫びだ。そして、わが宇和島藩も。

今回の部分は、谷本二郎「市村敏麿伝」を全文引用する。

「明治3年春、野村屯集百姓一揆のさいには、たまたま病父の病を看んとて、東京より帰郷せしところ、同一揆の首魁が古市村の鶴之助とて、市村の最も親しき友人なりしかば、これが鎮静方を藩知事伊達宗徳より命ぜられる。
しかるに、当時、市村は民部兼大蔵省に職を奉じもっぱら、府藩県三治の是非を審査する任にあれば、この命に服しがたく、大いに論争するところありしも、藩議の許すところとならず、やむなく、内面より鎮静することとなり、藩馬に鞭ち、夜をおかして道を迂路にとり、下相村の酒造家塩崎太七方にいたりて、その民情を偵察し、それより古市村にいたりて、庄屋高田三浦方につき、村民良三郎の探索によりて、徒党の情勢を知り、古市村医師三橋陣斉を説きて、表面、暴徒に当たらせ、尚古市村横目役喜平治にすすめて古市村民をして、各村民に先立って全部引き上げ帰村せしめしかば、各村民も漸次、野村より引き上げ帰村するにいたり、無事鎮静せり。
しかれども、なお蔭に煽動するものあり、再び騒擾の起こらんことを恐れ、藩においては、市村武をして民部大蔵監督権正の職を辞せしめ、土居逸夫と共に郡衛に長たらしめ、都築温、三島典平を副たらしめたり」

この「野村騒動」については、宇和島の歴史家では第一人者と目される三好昌文氏の研究(愛媛資本主義社会史第1巻)が詳しい。三好昌文氏は、谷本一郎、徳田三十四氏に続いて、市村敏麿の事跡を世に紹介した人だろう。司馬遼太郎の「街道をゆく」(南伊予、西土佐の道)にも、名前だけちらと出てくる。司馬遼太郎とちがい、イデオロギー史観(階級闘争という言葉が頻出する)の持ち主で(今はちがうかもしれないが)、そこんとこは、世代的に違和感があるものの、史料の発掘収集、綿密な研究の情熱には敬服せざるをえない。

それにしても、思うのは、宇和島市だ。宇和島で、この野村騒動を知っている人が何人、いるのだろう。100人に一人も知らないのではないか。いったい、市の郷土史で伝えているのだろうか(もし、伝えているのだったら、ごめんなさいね)。
宇和島藩の北部の山奥に約1万5千人が立ち上がった一揆、他藩の一揆まで誘発し、宇和島藩の一揆(全国的にも一揆多発藩だ)としては最大のものではないのだろうか。これを調べずして何が郷土史だろう(いいすぎ!)。旧宇和島藩の住人は立ち上がれ(笑)。

三好昌文氏の本は今、手元にないので、次回は、景浦勉「伊予農民騒動史話」から、かんたんに紹介する。