虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

90歳

2011-11-30 | 日記
この10月から90歳の伯母 さんといっしょに暮らしている。
四国で独り暮らしをしていたのだが、老化がすすんできたためだ。

わたしも、まだらボケなので、人のことは言えないが、さすが90歳、わからないことが多いようだ。
でも、ただ、じっとして何もしていないと、ますます老化は進むので、仕事を与えている。

食器洗い、洗濯物をたたむこと、布団敷き。

布団敷きはむずかしいようで、敷く順番を指導している。

夜中、便所の場所がわからずに、狭い家の中をさまようこともある。
わたしが、わたしたちが、誰なのかわかってるのかわかってないのか、よくわからない。

テレビは見ないし、何か興味のあることを見つけたらいいのだが。何かないかなあ、と思案中。

ときどき、だれか知らない人が横に寝ていた、とか意味不明のことを言う。
90歳の芹沢光治良も中山ミキと会ったとかいっていたけど、90歳になると、現実と幻の区別がつけにくくなるのだろうか。

そのうち、わたしもみんなも、同じ道を歩むのだ。




孫の初参り

2011-11-29 | 日記
今年も紅葉がおそい。
やっと、そろそろ色づき始めたか、というこの頃。だが、まだ見頃ではない。

10月に生まれた孫の初参りに多田神社へいく。
ここは閑静でいい。紅葉もきれいだった。

強権を選んだ大阪人

2011-11-28 | 日記
大阪都構想をぶちあげた維新の会と橋下氏が圧勝した大阪ダブル選挙。

でも「大阪都構想」てなんなのか、わかっている人はいるのだろうか?
なんにも決まっていない、まさに構想だけではないのか?
「自民党をぶっこわす」と息巻いた小泉元首相と同じく、そのパホーマンスに何かやってくれそうな期待を持ったのだろうか?

大阪都構想はどうなるかわからないが、確実にやってくれそうなのは、職員基本条例とか教育基本条例のような、強権政治。石原の東京都と橋下の大阪。日本の二大都市から国政を強権政治に変える動きが始まる。

政党や官僚、電力会社や大企業のウソをこの1,2年にさんざん見せつけられてきたはずだ。
それでも、なお人々は政治家に強権を求めるのだろうか。なぜ、あんな人物を評価するのか?

同じ大阪人だが、どうも自分は周囲の大阪人とは違うのだろうか?自分がおかしいのだろうか?これじゃあ、人交わりができないのだろうか?あまり下手なことをしゃべらないほうがいいかな、なんて気持ちになる。

もちろん、ぜったいそうなりません。このさい、少数派、変わり者、偏屈者としての覚悟を固めて生きていくしかないですな。


明日 大阪ダブル選挙

2011-11-26 | 新聞・テレビから
明日は、大阪府知事・大阪市市長の選挙。

新聞では争点がぼやけている。このままではいつもの人気投票になりそう。

原発事故以後、知事であろうが、国会議員であろうが、選挙の争点は、原発をどうするか、その一点で決める。あれほどの事故を起こし、あれほどの被害をおこし、電力会社や大企業・政府・関連団体のあれほどのいいかげんさ、ウソを見せつけられたのに、なお、原発については問わない、ということが考えられるだろうか。

大企業や政府、おえらいさんたち、マスコミがなんと言おうと、原発はいらない、と国民は意志表示すべきだろう、と僕は思う。

明日も仕事だが、出勤前に投票する。


色鉛筆

2011-11-22 | 日記
色鉛筆を買ってきた。
お店がひまな時(ひまな時が多いはずだ)、庭の木々をスケッチしてみようと思ったからだ。
この思いつき、われながら風雅ではないか。でも、思いつくだけで、いつものことながら実行できるかどうかはわからない。

だいたい、絵は好きだ。いや、絵というより、マンガを書くことといったらいいか。
小学生のころは、鉄人28号やサスケのマンガをすばやく書いてみせ、友達に自慢していた。
教科書は、いたるところマンガだらけだった(落書き)。

学校で、賞と名のつくものをもらったことは1度だけある。
小学校3年生の時の、図工の時間にかかされた「おかあさん」という絵だ。洗濯をしている姿をかいたのだけど、失敗して何回も何回も塗り直してしまった。できがよくないと思った。ところが、これが何かに入賞したそうだ。

給食の時間に、担任の女の先生からそのことを知らされた。「よかったね、すごいね」とかほめてくれたらいいのに、その先生はこういった。「あんたは、絵だけね」。この時の女の先生の顔と言葉は今でも忘れられない(笑)。

たしかに他にほめられるものがなかった。勉強ができない。この頃、1度だけ80点というテスト用紙を返され、大喜びで家に帰り、みんなに自慢した。しかし、そのテスト用紙にはちがう人の名前が。隣の子のテスト用紙だった。翌朝、早めに教室にいって、隣の子の机の中に返した。

さて、色鉛筆で何をかこうかな。


一番小さい一揆本 佐倉義民傳

2011-11-10 | 一揆
ミニミニの一揆本を入手。
文庫本よりも一回り小さい。明治17年印刷発行。この本は大正9年5版とある。
昔はみんな着物だし、ポケットなんていわなかったから、袖珍文庫と称している。
着物の袖にこの本を入れていたのだろう。

「佐倉義民傳」。小さいけども、文字が小さいだけで、228ページあり、堂々たる本だ。
講談調で書かれてある。講談師が話すのを速記者が筆記したものだ。

講談だと馬鹿にしてはいけない。当時、明治、大正の講談は今のテレビよりも人々を感化する力があった。講談の隆盛は、自由民権運動の闘士たちが政府の言論弾圧に対抗して始まったそうで、講談師の中には元革命党(自由党)の闘士も少なくなく、政治講談に人々は喝采した。

今なら、原発やTPP、沖縄問題を講談のタネにして、大いに政治批判をするのだろうけど、そんな政治講談師、出よ、といいたいな。

さて、佐倉宗五郎。このころは、三歳の幼児でもその名前を知っていたが、今は、大人でも知る人は少ない。あの福澤諭吉も「学問のすすめ」の中で、世界に唯一輸出できる日本人は佐倉宗吾のみ、と語っていた。佐倉宗吾は、百姓一揆の代表者として名をあげただけで、むろん、他にもたくさんいたのだが、まだ名前は知られていなかった。

こんな小さな一揆本を袖に入れて歩く昔の日本人って、なかなかのものではないか。




賀川豊彦記念館

2011-11-01 | 日記
私用で徳島にいく用事があったので、ついでに鳴門の賀川豊彦記念館に寄った。
ここは、ドイツ館の隣に立っているが、ドイツ館はまあまあの観光客の出入りがあるようだけど、こちらは、古本うしおに堂よりも訪問者が少ないかもしれない。

建物は、立派。ここはドイツ兵俘虜によって建てられた牧舎を参考にしているそうだ。賀川は、その牧舎の2階で農民福音学校を開いていたからだ。
2階建てで、1階は賀川の生涯と事蹟のパネル展示(ビデオもあり)、2階は賀川の著作や史料集の展示と賀川の農民福音学校を復元している。入館料200円。

賀川は徳島の生まれではない。神戸で生まれた。でも、4歳の時に両親が亡くなり、鳴門の本家にひきとられ、ここで4歳から徳島中学を卒業するまで育ち、香川は常に「ふるさとは阿波の徳島」と言っていたそうだ。父親は徳島の自由民権運動の創始者の一人だった。

賀川の人と業績を紹介するのは大きすぎて難しい(わたしも、実はほとんど知らない)。社会運動家としては、戦後の小田実の先輩みたいなものか、と以前思っていたけど、もっと幅広く、関わった事業は多い。

大宅壮一はいう(かれは若い頃、賀川に心酔していた)。
「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベストテンを選んだ場合、その中に必ず入るのは香川豊彦である。ベスト・スリーに入るかもしれない」

記念館の人に「でも、徳島でも知っている人はあまりいませんね」と言うと、「徳島どころか、この鳴門でも98%の人は知らないです」と話していた。

古本うしおに堂でも賀川のベストセラー「死線を越えて」を販売しています。