虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

山中一揆

2007-03-23 | 一揆
津山にはいってみたいと思っている。
でも、車で日帰りはむつかしく1泊しなくてはいけないかもしれない。
あの虎さん映画の最終回も舞台に津山がでてきた。みつおの恋人がここで結婚式を挙げる予定だったけど、みつおが邪魔する話だった。昔がそのまま残っているような土地だ。あとここは「八墓村」のモデルになった事件がおきたところではなかったか?
なんといっても、「山中一揆」がおきた土地だ。一揆の碑や墓があちこちにあるようだ。昭和30年代はじめに「山中一揆顕彰会」が一揆史料を出したそうだけど(見たことない)、新しい解説書はないのだろうか。地元に若い研究者はいないのだろうか。一揆の中でも一番すさまじいものだと思うのに、本が手に入らないのが残念。

以下はこの一揆の存在を知った、というだけの(詳細な内容はわからない)昔の記事。

( 8) 98/05/01 23:15 03553へのコメント コメント数:1

すごい一揆を見つけました。
一揆というと、代表として頭取は逮捕され、処刑されるけど、他の大勢の
人はまあ無事かなあ、と思っていましたが、武士と一揆側が決死の対戦を
したのもあるのですね。
享保11年(1726)に美作(みまさか)国 山中(さんちゅう)一揆(岡山)
です。
取り調べもなく、現地で打ち首になって、首をさらされた者が76人、城に
ひかれていって1か月後にはりつけになった者2人、打ち首20余人。
犠牲者が多い。

この一揆はちょうど津山藩の藩主が急死し、跡継ぎをたてていなかったので、
領地は半分に減らされるという時におこし、お家の一大事という中で、要求
を通すことができたようです。要求が通ったあとも、各地の庄屋たちの家の
うちこわしを続けたので、ついに藩も武力鎮圧に出ます。経過については
略します。

この一揆の記録「美国四民乱放記」は一揆後、数ヵ月して近くに住む人が
講釈本のようにして書いたものですが、これはこの一揆の総大将牧徳右衛門
を中心にして書かれているのです。
もともと先祖は肥前で父親の代に浪人。この牧は江戸に出て、奉公人として
働いたこともあるらしい。とにかく、天草四郎を尊敬し(由比正雪も尊敬)、
一揆の大将になったときは、名を天の四郎左衛門佐藤原時貞となのるのです。

最期、この大将のはりつけになる場面などはすさまじい。
「わが命、終わるとも、一念は死に替わり、生き替わり、鬼とも蛇ともなって
世世影向(?)、恨みをなさでおくべきか」と言い、目を八角にして、「われ
が死んで21日間、色もかわらず、形も損ずまじ、しかれば、死んでもかたきを
とるぞ」と舌をかみきり、口中の血を天にふきあげたとか。
ほんとかどうか知らないが、まるで、映画「魔界転生」。
たしか「八墓村」でも武将の怨念がでてきたようだけど、あれは岡山ではなかっ
たっけ?なんか怨念が強いです。やはり犠牲が大きかったからだろうか。

ともかく、この時代(享保)、天草四郎や由比正雪などの反逆者も庶民において
は、一種の英雄的存在でもあったのだなあ、と思いましたよ。
        (「美国四民乱放記」は岩波書店「民衆運動の思想」にあり)

上田藩宝暦騒動

2007-03-23 | 一揆
カテゴリーで「一揆」の数をふやしたいため、昔のおしゃべりをやたらにアップしています。今、読むと、超スピードで書いたので、書き間違いや、意味不明もたくさん。少々まちがえても訂正なんかしないでどんどん書きなぐっていました。

以下、コピー。
上田藩宝暦騒動
( 8) 98/04/26 14:37 コメント数:2

みなさまぁ、こんにちわぁ、若くて美貌の藤子嬢で-す(^^)。
(お客)あれ、まだ一揆観光は続くのかい?
はい、宝天の一揆、まだまだ見逃せないのがありますの。やはり
信州にも挨拶しておかなければいけませんし。お客さんなしでも
バスは進行するのよ(^^)。はい、バスはまもなく信州に入りました--。
まったくスピ-ド進行ね(超速成アップ)。
(お客)おお!信州!山だ、登山だ、キャンプだ!

信州は広いですから、今回は上田だけでがまんしてくださいね。
百姓一揆の数では信州はトップクラスでございます。信濃の中にもいろんな
藩がありますが、中でも上田藩(5万3000石)が百姓一揆では、トップなので
す。
(お客)なに?ここは百姓一揆のメッカなのか?
そうです。その上田の中でも青木といわれる地域が一揆の老舗でございます。
上田市から西へ約10キロあたりのところに青木という地名が出ているはずですわ。
むかしより、地元では「夕立ちと騒動は青木からくる」といわれております。

(お客)なになに、うん、「宝暦11年、上田藩全領の農民、城下町に強訴して、
    うちこわす」と年表に書いてあるな。

宝暦11年12月11日夜現在の青木の村から立ち上がった農民の行動に、藩領域全体
の農民がぞくぞくと続き、松明をかがげて1万数千人の人々が上田城下をめざした
のです。
城内に入り込み、年貢増徴の反対、金納米相場の引き下げをはじめ、18か条の要求
を提出しました。

城ではお殿様(松平忠順)は江戸にいるので、家来が「殿様に必ず聞き届けても
らう」と約束してやっとひきあげさせることができたの。
そのあと、町や村のうちこわしよ(特権商人や村役人層の家のうちこわし)。
翌年、ほとんど要求は通ることになり、これは成功した一揆ね。
でも、騒ぎがおさまって、要求を通してから、首謀者の逮捕って始まるのよね。

この首謀者は青木の浅之丞(39才)、半平(59才)という二人で死罪。
河原の刑場で斬られる時のふたりのようすが当時の記録に書かれているの。
意訳してちょっと紹介するわね(上田騒動実録)

(半)、浅之丞、もはや、この世の名残、最期をいさぎよくし、わるびれて人々に
    笑われるなよ」
(浅)なんの、この期におよんで何の思いおくことがあるものかい。
(半)もっともだ。わしはすでにおいぼれ、下世話にいう、行きがけの
   駄賃、しかし、おまえはまだ38才で壮年の身。妻子のことも心残りだろう。
(浅)愚かなことを言う、半平。会者定離、生者必滅の悲しみとは、釈尊も教え
   ていること。老少不定は常の習い。驚くべきことではない。わしは、あっぱ
   れ果報者よ。卑しき百姓の身として5万8000石の大将となったからは、名は後
   世に残るだろう。その妻子にどうして覚悟がなかろうかい。
(半)うん、おまえは、5万8000石の首領となった。今、目の前を見回せば、7、800
   人の見物衆。何の不足があるものか。刑場の役人の行列も美しく見えるし、
   5、6万石の大名もこれにはまさるまい。われわれは、5万8000石の大将なり」

(お客)う-ん、百姓一揆の頭領は、さすが大将の気概を持っているのやな。
    

那谷寺通夜物語(大聖寺藩の一揆)4

2007-03-23 | 一揆
藤五郎 那谷寺通夜物語(8)
( 8) 99/03/22 12:52 06683へのコメント コメント数:1


大勢にとりかこまれている新四郎。
新四郎「皆々の望みはなんなりと言ってくだされ。命の代わりに何なりともお使い
    いたします」
とし蔵「当年は大不作。おまえも見た通りだ。年貢米は1合も出せぬが、御冥加の
    ため、1合は年貢するぞ」
新兵衛「それはあまりにひどい」
AKI兵衛「また、そのようなことを言うか!」と鳶口をふりあげる。
松吉「では、2歩(2割?)年貢すると言うて来い」
新兵衛、小山にかけのぼり、お奉行たちに百姓の要求を伝える。

奉行衆「うーん。年貢減免の話は聞いておった。しかし、これは我々の自由になら
    ん話でな。今年は御役所からの命令もことのほか厳しく、大概の所は免切
    (減免)せずに、そのまま通りすぎよ、というお達しでな。金沢表から 
    も、米不足のないようにと伝達してきている。不作なのは知っているのだ
    が、我々も立場があるでなあ、上からの指示通り、年貢はまけなかったの
    じゃ。わかってくれるか?しかし、これほどの百姓全体の望みとあらば、
    我々からお上に願い出てもよい。まず、われわれを大聖寺に帰すことだ 
    な。それにしてもだ、2歩とは、とんでもない願いだ。
    もうすこし、なんとかならぬか、相談してきてくれ」

新四郎、また百姓勢のもとに報告に山を降りる。

とし蔵「なに!2歩ではならんだと。なに言いやがる。お上に願い出るとはどう 
   いうことだ!免切(減税)はやつらに決める権限があるはずだ。猿!奉行 
   めらの仲間になったのか!」
AKI兵衛「言うことがわからん!もっと大きな声で言え!」
松吉「米さえあれば、1歩でも2歩でも出しちゃるぞお!」
藤五郎「ばっかやろう、おたんこなす、も1度、話しつけてこい!」
とみんな口々に勝手なことを言ってまとまらない。
使いの新四郎は4度も5度も奉行衆のところにかけあいにいかせられる。

この場にいる大勢の百姓衆の中には胆煎というか村の代表者の立場の人はいなかっ
たので、話がまとまらない。新四郎、百姓衆の中に、以前、胆煎役をしていた五里蔵と
いう者の顔を見つけ、「なんとか、意見をまとめてほしい」とたのむ。
五里蔵「心得た。皆の衆、関係のない話はやめて、実際斎問題としての年貢の割合の話
をつけようぞ」
とし蔵「4歩6歩がよかろう」
新兵衛「4歩6歩とは、どっちが年貢じゃ?」
とし蔵「4歩が年貢、6歩はもらいじゃ」
新兵衛「それもひどい。6歩が年貢で、4歩がもらいではどうじゃ」
とし蔵「また、ぬかすか、猿!4歩6歩で上々、今年の出来にふさわしい」
五里蔵「わしは、新四郎どのの言われる通り、無理な望みを言ってもかなえられ 
    ず、ここは、5歩5歩という線ではどうだ」
AKI衛「それはだめだあ、悪い悪い!」
まとまらない。また、新四郎、小山に幾度も登って奉行衆に状況を伝えにいく。
奉行たちは、早く埒のあくように、五里蔵に一任して話を決めさせろ、と言う。

五里蔵「皆の衆、いくら望みを言っても埒があかぬ。このさい、4歩6歩に決めし
    てまおってはどうじゃ」
新兵衛「ただし、6歩は年貢、4歩はもらい」
とし蔵「猿め、まだ言うか!そうではないぞ!。4歩年貢、6歩もらいだ!」
AKI兵衛、松吉「そうだ、そうだ、そうだああああーーーー」

新四郎、また上に登り、ありのままに伝える。

奉行衆「うーーん、このうえはどうしようもないか。まことにもって是非もなし。
    さらば、百姓の望みのごとく、4歩年貢、6歩もらいにしよう。相違ない
    証として、書状も書いて渡そう」

いよいよ次回で最終回(^^)

                        提供  藤五郎一揆観光



藤五郎 那谷寺通夜物語(9)
( 8) 99/03/22 14:22 06688へのコメント コメント数:2

みなさん、粟津温泉の一揆の旅も最終回でございまーす。

松吉「やったね。勝ったね」
とし蔵「おれたちの力だね」
AKI兵衛「では、村へ帰っていっぱい飲りましょうね」

ちょっとお待ちなさい。あなたたちは、だから、甘いって言われるのよ。
お奉行さんの証文を読んだの?
加賀のお百姓さんたちは、渡された証文を読んで、なお、文章に気にいらぬ言葉が
多い、このように書きなおせ、と何度何度も新四郎を山に使いさせるのよ。
お百姓さんが証文を書いてあげたみたいなものよ。印形がなかったので、書判もさ
せたの。最後の詰めもきちんとしてるわ。

証文がやっとできあがると、みんなのの前で大きな声で読み上げたのね。
これが、証文よ。


今年、もってのほかの不作につき、御郡方の作毛四歩ほどの御収納ならではこれな
しの由につき、残り六歩は御用捨米お願い申し上げ候。組々百姓ども押立御訴訟
申し上げ候だん、承り候。
早速、願いの趣、御算用場へあい達し申すべく候。いずれも大聖寺へ右一統に御訴
訟にまかり出候儀、あい止め申すべき旨、申しにつき、かくのごとく候。以上。

10月7日            
                              前川宇右衛門
                              守岡新右衛門
                              斎藤 四兵衛
                              堀三郎左衛門
                                     
                                    」
そのうえ、新兵衛の口を通して、お奉行衆のこんな口上が百姓たちに伝えられた
の。

「免4歩6歩の儀、証文の通りなり。たびたび言い越す趣、いちいち相心得たり。
大聖寺にて急度、御用所へまかり出申し上げ、6歩もらい、4歩年貢にあい決める
べし。万一、御用所にてこのこと、かなわざる時は、我々5人とも、その場を立ち
去らず、必ず5人いっしょに切腹すべし。もし、一人にてもその場で腹を切らず、
わが宿所へ帰りたりと聞こえなば、百姓中、不日に押しかけて責めほすべし。
このこと、毛頭、相違はない。百姓中、このうえは早く村々へ引取りたまえ」

百姓さんたちの勝利の歓声が聞こえてこない?

百姓との約束をまもらなかったら、奉行衆5人は切腹します、とまで言わせられた
わけね。

那谷寺通夜物語の上巻はここまでです。このあと、一揆勢は、町に押しかけ富家の
うちこわしをしたりしますが、わたしたちはここでおわかれね。

藩は、百姓たちの要求をのみます。
翌年15人の農民が捕らえられますが、一揆の首謀者として斬首されたのは1名だ
け。あとは、みんな別の罪名。斬首された1名も首謀者ではないとされています。

藤五嬢「ふーーー。やっとおわったわ。ああ、つかれた。お客さんがた、もう帰っ
てもいいわよ。おつかれさまあ。さようならー」

参考  近世庶民生活史料集成第6巻(三一書房)「那谷寺通夜物語」より
                              藤五郎一揆観光



那谷寺通夜物語(大聖寺藩の一揆)3

2007-03-23 | 一揆
藤五郎 那谷寺通夜物語(6)
( 8) 99/03/22 00:27 06675へのコメント コメント数:3

こんばんわー。
なかなか一揆の大団円にならなくてごめんね。
6日は、武士もお百姓さんもみんな夜通し起きて過ごしたって話ね。だから、通夜
物語か。それぞれの体験もちがうのね。


次は組付十村(支配する村を持つ十村{庄屋」)の4人。
この4人は佐治兵衛家に宿泊することになっていましたが、2人は村に用事ができ
たとかで、暮れに帰り、泊まりは2人。
騒動がおきたときは、家の主佐治兵衛がふたりをやもめが住んでいる草庵に隠しま
す。そして、翌朝、他の村まで送ります。2人は佐治兵衛は命の恩人、この恩は一
生忘れまいぞ、と誓ったそうな。これは簡単におわらせます。

最後に、足軽たち3人はどうしたか。6日の宵は奉行の泊まっている寺や権四郎の
家を見回っていたのですが、もう用事はない、帰って休んでよい、と言われたの
で、次郎助という者の家で寝ていました。

夜の九つ過ぎの一揆勢の時の声。次郎助は3人を小屋に隠します。
3人の足軽のうち2人は若く、雇い足軽。もう一人は水野北太郎(ほんとは、干野
善兵衛と書いてるけど(^^))といって古参のほんとの足軽。

若い足軽は、あああ、こわい、水野さま、北太郎さま、お助けを、はやく逃げたい
よお、と体をふるわせ、水ものどを通らないようす。

水野さん、声をはげまして言う。
「ばっかもん!ふるえる奴がいるか。めしもたんと食っておけ。わしにまかせてお
け。大聖寺に帰る道にはきっと大勢の百姓たちがいるだろう。奴らが熊手、鳶口で
かかってきたら、刀をぬいて打ち払うんだ。」

水野さんは、小屋の中で若い二人に刀はこうやって抜いて、こうやって払うんだと
か、刀の使い方を教習し始めます。すごい余裕だね。足軽に豪傑あり、だ。

夜が明けたので、3人は水野さんを先頭に歩き始めます。
水野さんは、大勢の百姓の中を、「眼をむきだし、顔色をば荒くして押し分け押し
分けして」通ったけど、みんなジロジロ眺めるばかりでだれも手をだすものはいな
かったそうな。
百姓の人数が少なくなったころ、水野さんは若い二人をふりかえってこう言ったそ
うです。
「いいか、これから、堤を通る。堤のふちにて大勢に会ったら、必ず山側によける
のだぞ。堤のふちのほうへ寄って堤に落とされるな。
また、できるだけ強そうな面構えを作って、目をいからし、手を大きくふって歩
け。ぜったい、体をふるわせるなよ。これ、山崎流の奥の手の兵法じゃ」

で、3人ともできるだけこわそうな強そうな顔をして歩いて、無事に大聖寺まで
帰ったそうです。おかしみのある話でしょ?

こわそうな顔をするのが奥の手の兵法というのも楽しいね。
素朴だけど、たしかに、かなり通用する手ではある。

強いものには弱く、弱いものには強い人間って少なくないもんなあ。

                              藤五郎


藤五郎 那谷寺通夜物語(7)
( 8) 99/03/22 11:04 06679へのコメント コメント数:2


奉行衆は全部で4人。大目付けの堀三郎左衛門、郡奉行の守岡新右儀衛門と前川宇
右衛門、郡目付の斎藤四兵衛。もうひとりの郡目付は大聖寺に注進するため、観音
山から必死の覚悟で脱出したため、いない。

夜が明けると大勢の百姓たちが観音山をめざして続々と集まり、周囲を取り囲む。
奉行衆4人は追い詰められて、観音山の後ろの大切谷という小高い山にかけのぼ
る。ここは、回りは低い谷になっていて、真中がちょこんと盛り上げたような小山
になっている。
さあ、5000人ともいわれる百姓たち、その小山をぐるっと取り囲む。
武士たちは、もう袋の鼠。
下から百姓たちは、口々に「世にまたとない悪口雑言」を叫ぶ。

「免切らずめの(年貢をまけない)大盗人ども、世界にない取り倒しめ!今から、
我々らが心次第に、したいままにするぞ!仕置きが悪しくば、年貢は公領とても望
みなし。仕置き次第につく我々ぞ。京の王さまの御百姓になろうとままじゃもの。
やれ、早く打ち殺せ、打ちたたけ!」

市井三郎の「近世革新思想の系譜」(NHKブックス)では、上の言葉を引用して
当時、庶民用語に自由という言葉はなかったが、したいままにする、とか、まま
じゃもの、という言葉がそれにあたるのではないか?また、だれの政治支配を受け
入れるかを自由に選択する権利をも主張しているように見える、とびっくりしてい
ます。しかし、庶民をなめたらあかんよな。百姓にこいう意識があったのは、あっ
たりまえの気がする。わかんないのは武士だけよ。

さて、そうこうするうちに、あの、たばこ新四郎が交渉役として連れて来られる。
百姓たちは新四郎(目付け十村)に言う。
「やい、猿め、しっかり使いをしろ。もし、へんなこと言ったら、打ち殺すぞ」
とみんなで数十本の鳶口、棹、鎌などをひらめかす。

みなさん、このどさくさにまぎれて、あなたたちも一揆勢の中にお入りよ。
3人「はーい」

さて、奉行と一揆勢との交渉はうまくいくかな?

那谷寺通夜物語(大聖寺藩の一揆)2

2007-03-23 | 一揆
那谷寺通夜物語(3)
( 8) 99/03/20 17:24 06658へのコメント コメント数:2

さて,10月6日のお奉行さま一行は那谷付近の5カ所に分宿。

郡奉行の守岡、大目付の堀岡、そして郡目付の二2人の計4人は那谷の肝煎の権四
郎という者の家に。権四郎は那谷の村の代表者なんだ。
郡奉行の前川は那谷寺の不動院に。
目付十村(大庄屋)2人は太郎兵衛という者の家に。
組付十村の4人は佐治兵衛の家に。
足軽3人は次郎兵衛の家に。

まず、郡奉行の守岡新右衛門ら4人の泊まった権四郎の屋敷から。

夜の九つ過ぎ八つ頃というから、午前1時ごろかなあ、とにかく真夜中だ。
突然、大勢の人声を耳にした守岡、ガバッと飛び起きて、「今の声はなんじゃ、
火事か?だれか、見て参れ!」と下知。「いえ、火事ではありません、わけがわ
かりません、すごい人数で」とだれかが答えるうちに、もう大戸口や窓を押し
破ってどっと大百姓が入り込む。家の中、庭も大声あげて騒ぎまくる人でいっぱ
い。
「何者ぞ、狼藉者!」と一喝するが、力自慢のとし蔵が後ろから抱きしめ、はが
いじめ。

「免切(年貢を下げる)はおまえたちの役目だろう。免切らずめ、逃がさん」
と、とし蔵。かっこいい!
顔をしられた村役人などは、家には入らず、顔をかくし、庭に待機していたらし
い。庭からは、家に向かって、石礫を投げたり、木をなげこむ者もいた。

守岡、「年貢のことならば、考えてやろう。とにかく、ここは、引け」という
が、ここには、一揆のリーダー格の者はなくえあけもなくわめくばかり。
守岡をつかまえたとし蔵、しかし、外から飛んできた石礫に当たってひっくりか
える。

このすきに、守岡、納戸の中に逃げ込む。他の3人も納戸の中に隠れたらしい。
(納戸ってなんだ?)
納戸で「権四郎、早く、百姓を納得させて、引き上げさせろ」と言うが、村人
は、
一向に引き上げる様子はなし。で、権四郎は、「ここは、ひとまず、お逃げなさ
れ」
とすすめる。

納戸の後ろに小さな抜け道があって、ここから、侍方はそっと外に脱出。
山の中。外は漆黒の闇。権四郎は、みなに1本の縄を持たせて、那谷の観音山の
草庵まで、道案内。ここから権四郎はあとのことが心配と屋敷にひきかえす。
屋敷の回りには百姓たちが奉行を探している。
「お奉行はここにはいない。すでに逃げた。みなみな、引け」と権四郎。
「大悪徒の奉行どもを隠しおいたらただではおかん。丸焼きにするぞ」
「では、納戸味噌小屋まで探してみよ」

屋敷の中にはだれもいない。
「うーん、さては、寺にいる前川と合流する気だな、逃がさん」と一揆勢。
さあて、お奉行さんたちの運命やいかに。
ほんとに、こんな山の中で迷子になったら、こわいぞー。
                                 藤五郎


藤五郎 那谷寺通夜物語(4)
( 8) 99/03/21 11:52 06661へのコメント コメント数:2

みなさま、おはようございまーす。
さて、寺に泊まった郡奉行前川右衛門はどうなったか。

深夜、権四郎の家の方から聞こえてくる騒ぎ声。おそらく、減免の願いで
押しかけてきたのだろう、とは思ったが、まさか、この寺までも押しかけて
は来ないとだろう、と、「ご安心なされ」と寺の坊主には言ったらしい。
ところが、来るは来るは、「百千の雷鳴、一度に落ちたかのような」大騒ぎ。

「前川、守岡以下横目賢目も一人あますまじ。見切らずの大盗人、大奸盗!」
と口々に叫ぶ。
前川、(これは、この辺の村だけではない、一郡の百姓ども共謀して集まってきた
のにちがいない。こんな土民ばらと勝負しても無駄だ。免切りのいいわけしても
詮なし、逃げるにしかず)と、不動院の露地口より、そっと逃げ、この人もまた、
守岡と同じく観音山めざして落ちる。

この時の逸話として、この夜、寺には町(大聖寺)の若旦那も泊まっていたそう
な。名は越前屋AKI平(正確には、越前屋喜平)。年のころ、20ばかりの
やさ男、色白き美男子と書いている。AKI平、おどりは上手、歌、今様、三味線
もうまく、遊び人、粋人だったのだね。親父といっしょに、この寺の松茸ふるまい
によばれていて、ほんとだったら、昨日、親父といっしょに帰るはずだったのだ
が、寺の人たちに、もう1曲聞きたい、とか引き止められて泊まってしまったの
だ。

騒ぎにあってびっくりぎょうてん。素足で飛び出し、岩屈にひそんでいたそうだ。
「これは天狗のしわざ?夢?戦争?夜討?あらおそろしや、なんという浮世ぞや。
観音様、白山様、どうか助けたまえーー」と泣いていたそうな。
翌日、一揆勢に見つけられますが、別に悪さもされることなく無事でしたが。

藤五郎 那谷寺通夜物語(5)
( 8) 99/03/21 22:49 06671へのコメント コメント数:
次は手振り目付け十村の2人のようすね。

(松吉)その手振り目付け十村とはどんなお役目なんだい?

藩から扶持を貰っているけど、支配する村はなく、他の10村の監査役をかねてい
るとか。百姓だけど、武士みたいなのかなあ。たしか、銭屋さんもたくさん献金し
て十村という身分を得た、とか聞いた記憶もあるなあ。


さて、この目付け十村の新四郎と文四郎の二人は奉行守岡さんが泊まった家のむか
いの太郎兵衛家に寝ていました。騒動が終わると、ふたりとも素足で逃げ出し、大
あわて。

文四郎は無事、遠くまで逃げ延びたのですが、新四郎は、どぶの中に落ちるやら、
崖から飛び降りるやら悲惨。なんせ、ちゃんとした山道は百姓たちがたくさんいる
ので、道ならぬところを通るしかない。しかも、真っ暗なんだよ。顔も手足も土だ
らけ。ついに柴を積んでいるのを見つけ、その柴の中に身をかくします。

朝になり、柴から顔をだすと、百姓たちが探しにきているようす。こりゃ、
もう助からぬ。あのものたちに見つけられるよりも、こっちから名乗ってしまえ、
と覚悟を決めたのね。

「新四郎はここだ。いかようにも皆々の存分にしてくれ」と姿を見せてしまうの。
「まず、しばりあげよ」「打ち殺せ」の声。手には棒、熊手、棹、鎌などを持って
いるのよ。

「皆の衆、聞いてくれ。命は惜しくはない。じゃが、わしを殺したら、後で皆の衆
も困るぞ。御上に願うことがあれば、命をかけて、わしが取り次ぐ」と刀を投げ出
し、両手を自ら、後ろに回す。「さあ、どうなとしてくれ」

一揆勢、これを聞き、
「よし、命は助ける。奉行どもを探し出したら、おまえは、我々の願い事を、免切
その他のこといちいち取り次げ、そして、うまくこちらの望み通りに運べ。それま
で、おまえは預かっておく」ということになる。新四郎に逃げられたらまずいので
30人ほどがいつも回りを囲むことにしたそうな。

さて、一揆勢の人質になった新四郎、しばらくして、一揆の衆にあることを頼みま
す。なんだと思います?
AKI兵衛「はーい、おにぎりを求めた」
とし蔵「はーい、トイレいかせて、といった」
ブーーーーー、ちがいまーす。こう言ったのよ。

「殺すとも、タバコ1ぷくのませてくれ。夜の九つ時より、身は振い、腹はすげな
きなり、今、皆の衆、煙草のみたまうを見れば、煙草より外に今、世界に望みな
し」
         よくわかるなあ、愛煙家のわたしとしては(藤五嬢)。
そばの百姓が火打ちを打って飲ませようとすると、大勢の者は
「たばこ新兵衛に飲ますな!打ちすえよ」といったそうな。
でも、その時、さっと30ばかりの若い男が出て、
「いやいや、たたくな。煙草も飲ませよ。わしが預かるぞ」といって、権四郎の所
へつれていきます。この那谷寺通夜物語を書いているのは藩士であり、一揆を暴挙
ととらえる立場の人ですが、敵ながら、人情をわきまえた者もいる、と、新兵衛に
やさしくした男をほめています。
新兵衛は、那谷の胆煎権四郎のところに預けられ、一揆の交渉の時には約束通り働
かされます。
                             たばこ藤五郎
                             

那谷寺通夜物語(大聖寺藩の一揆)1

2007-03-23 | 一揆
こりずに過去の一揆ログをのせます。
一揆観光の形で、通信フォーラムの仲間をお客さんにして会話しながら話をすすめていますが、今、読むとしょうもない無用な会話は省略しましたので、不自然なところがあると思いますが、あしからず。

藤五郎 那谷寺通夜物語
( 8) 99/03/16 00:33 コメント数:3

みなさま、こんにちはー。
このたびは、加賀温泉郷観光に参加していただきましてありがとうござい
まーす。
加賀温泉郷は山中温泉、山代温泉、片山津温泉、粟津温泉の四つの温泉がご
ざいます。江戸時代は、芭蕉さんも、北前船の船頭さんたちも、お侍さんも
お百姓さんもみんなここの温泉につかりにきたのですよ。

バスはこれから加賀温泉郷の中でも最も古い歴史を持つ粟津温泉にまいり
まーす。粟津温泉は美人湯がキャッチフレーズで、女性客も多いのですよ。


粟津温泉は養老2年(718)、泰澄大師が発見されたとされます。
この泰澄大師の創建と伝えられるのが、那谷寺。
はあい、もう那谷(なたに)寺に着きましたわ。7万坪の敷地には、奇岩、
古木がひしめいて、まさに古刹といった面影。

(客)ここは加賀藩の領地なのかい?

加賀藩の支藩大聖寺藩の領地です。加賀藩は当初は加賀、越中、能登の三州
を合わせて120万石だったようですが、3代藩主利常の時、長男に加賀100万石
を、次男に越中富山10万石を、三男に加賀の南7万石を大聖寺藩として、与
えたのです。

(客)あとのの3万石は、どうなったの?

お客さん、こまかいことは、まあいいじゃありませんか。
というわけで、この那谷寺が一揆の舞台になるわけです。
那谷寺通夜物語というのは、一揆を見聞した大聖寺藩の藩士が書いたものだ
そうです。
おもしろいかおもしろくないか、わたしもまだ読んでいません(読めるかし
ら?不安)。
次回のご案内は、これを読み終わってからね。


RE:那谷寺通夜物語(2)
( 8) 99/03/20 08:13 06612へのコメント コメント数:2

バスを降りてくださーい。那谷(なた)寺に着きましたよ。

(AKI兵衛)わあ、ほんとに山の中の寺だなあ。けっこう、広いなあ。
(松吉)はーいな、境内には本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院など
    が、ありますのよ。歴史は8世紀から始まるのですが、その後、朽ちてし
    まった時もあるのですが、加賀の名君利常公の時に再興したのだよ。おら
    の殿様はすごいだろ。
(AKI兵衛)小僧さん、よく知っているね。
(松吉)おら、加賀の地元民だい。
(とし蔵)あちこちに岩があるね。おいら山登り得意だから、うれしいなあ。

そうなのです。あたりにある岩窟も見ものですわ。なんでも、8世紀に、ある大師
さんが、このあたりに来たところ、山にかかう雲に観音さまが現れたの。そのう
ち、1羽の烏が飛んできて、ある岩をつつきだしたそうな。なんだろう、と思っ
て、石を掘り返して見ると、中から観音像が出てきたの。うーん、これは何かのお
告げだということで、ここにお寺をつくったのね。

(とし蔵)で、ここでおきた一揆っていつの話なんだ、藤の姉さん?
一揆は、正徳2年(1712年)におこりました。

(とし蔵)正徳2年というと、赤穂事件から10年後だね。家宣、白石さんの
     時代だよ。
(松吉)おら、知ってるぜ。赤穂義人録を書いた室鳩巣も長く加賀にいたのだよ。
    一揆のおきる前年に白石さんに呼ばれて江戸に出たんだ。

当時、大聖寺藩の当主は4代前田利章さまです。藩邸は今の加賀市大聖寺にあった
の。那谷寺とは直線距離にして10キロは離れているし、途中、山道だし、なにか
がおきてもすぐに鎮圧に書けつけるのはむずかしいわね。

(とし蔵)ガイドのねえちゃん。早いとこ、一揆の話をしてくんな。どうも、前口
     上が多すぎるぜ。
はーい、おにいさま。
正徳2年、この年は6月ころから北風が毎日のように吹き続け、夏には大きな台風
が襲い、田畑の損害がひどかったそうです。それで、村々の肝煎(庄屋)たちが藩
庁に出て、それぞれの十村(村を2、30も束ねている大庄屋、とうむら)に年貢減
免のお願いをしたそうな。藩庁の上でも評議され、立て毛見立てすることに決まっ
た。

(松吉)おら、知ってる。見立てって実際の稲の出来具合を調べることだね。
    おらのときは、武装して、100人くらいの役人が回ってきたよ。

このときは、とてもすくないわ。大目付け一人、郡奉行2人、郡目付け2人、目付
け十村2人、組付十村6人。計13人だ。でも、荷物もちとかの家来は少しはいたか
もね。とにかく、この役人の投票で村々に減免を決定するそうな。もちろん、藩内
のすべての村を回るわけではなく、村を選んで回るの。ところが、困窮の村にきて
も、「うん、なかなか良いできではないか。平年通りの課税じゃ」とつれなく通り
すぎることが多く、村人の不満は高まってきたようよ。

9月の末から役人一行は泊まりを重ねながら、見立ての旅をしていました。10月4
日は島という土地。このころ、100人くらいの村人が集まって不穏な動きがあった
そうな。しかし、ここは村の数も少なく、石礫などもない、どうせ、やるなら、2
つや3つの村ではなく、1郡の百姓を参加させ、誰が棟梁かわからないようにし、
訴訟の要求事項も統一しょう、って相談が決まったのね。

10月6日は一行は那谷寺泊まり。やるのは、その日の夜だ、と決まったのね。
6日朝、郡中の四方八方に以下のような触れをまわします。

「今夜、見立ての廻り、那谷寺宿りの所へ、免乞に村々よりも一人も残らず百姓分
は出申べく、第一にまず田を刈ることを止むべし。見立てにあいぬる村もあわざる
村も、残らず那谷へ寄るべし。もし、寄らざる村これあらば、後日、焼き込みにす
るぞかし。後に恨むることなかれ」

さあ、ここで一休みね。お客さん、また温泉につかっておいでえー。
                               藤五嬢