虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

2月18日平山助次郎

2007-02-18 | 歴史
昨日、2月17日夜は、大塩の門弟であり、同志である東組同心平山助次郎(32歳)が、東町奉行跡部山城守に19日に予定している大塩の乱を密訴した日だ。

2月19日は、新しく赴任してきた西町奉行堀伊賀守の初入式で、市内を跡部の案内で巡視した後、夕刻(午後4時ころ)、大塩邸の向いにある与力朝岡助乃丞の屋敷で休憩することになっている。そのとき、二人の町奉行を討ち取る、という計画だ。

話を聞いた跡部は、平山を翌朝、江戸に立たせ、勘定奉行で、前任の東町奉行であった矢部駿河守に出訴させる。なんだ、自分で判断できなかったのか。

18日は、このことは堀伊賀守にも知らせ、とりあえず19日の巡視は中止にしようと決めるが、さて、これからどうしたらいいのか決断を下せない。

跡部は、東組与力の荻野父子、磯矢の3人をよんで大塩の陰謀のことを話すが、3人は、平山の話はとても信じられない。大塩はふだんからむら気で、特に近年は増長して、親しくしている者には思いのほかの不法な話をするのが癖。平山は馬鹿正直に大塩の話を受け取り、事実と思ったのではないか。もし捕り方をさしむけ、そんな事実がなかったら、それを口実に何をしでかすかわからない、という。
跡部は、それを聞き、堀伊賀守に逮捕にむかうのは中止と申し送った。まさか、おれの在任中にこんなだいそれたことが起きるはずがない、と思いたかったのだろう。

せっかく、17日に平山からの訴えがあったのに、これで18日は無駄に送る。本来ならこの日、跡部は馬に乗って大塩屋敷にむかうべきだった。

平山助次郎は、2月29日に江戸に到着、その後、大名家にお預けになり、6月27日自殺している。




宮脇志摩 泉殿宮

2007-02-18 | 歴史
吹田市役所の近く。
泉殿宮(いづどのぐう)。
どこに駐車場がるのだろうと、車で境内の中を進み、広くてだれあもいないので、そこに車を止め、表の鳥居を写真にとろうと外に出ようとすると、「どこに行くのですかー」と社務所から呼び止められた。
駐車場代わりにここに無断で車を止める人もいるらしい。見学です、と言うと、
OKが出た。不審者に間違えられたのかもしれぬ。

社務所でもらった御由緒にこう書いてある。
「天保8年(1837年)大塩平八郎義兵の挙あり、当宮第32代宮司・宮脇志摩は大塩平八郎の叔父に当たり、乱の首謀者として寺社方捕手役人の囲みに、この地にて切腹。課刑峻烈にして、男児悉く遠島、家門闕所となり、社運も傾くかに見えたが、明治維新と共にその義挙を認められ、流刑地に生存の遺児総て赦免・出島仰せつけられ、家門再興、宮脇志津摩・泉殿宮第33代を継ぎ、社運再び赫赫として今に到る」

大塩平八郎の父親の弟で、ここに養子にきたらしい。
大塩の門人で、決起の同志。
大塩の決起は2月19日と決められていた。その19日、昼、天満に火事の知らせに接すると、びっくりして(時刻が早すぎる。志摩は密訴者が出たため、決起の時刻が4時間ほど早くなったのを知らなかった)、槍や具足などを運ばせて渡し場までかけつけたそうだが、途中で引き返す。翌20日、玉造与力2名が22名の同心をひきつれて、この神社を取り囲む。志摩は玄関で切腹。それを見た役人たちはなにをなすこともなく立ち去る。傷は案外軽く、捕吏が立ち去ったあと、志摩は表に飛び出し、行方不明に。翌21日庄本村のため池で水死体となって発見されている。判決は磔。

大塩平八郎の乱は明日、19日だ。(旧暦だから、実際は3月8日くらいか)


崇禅寺

2007-02-18 | 歴史
午前中にいってきた。崇禅寺。新大阪駅の近く。
ここは、崇禅寺馬場の仇討ちで有名で、遠いところではないので、1度はのぞいてみたかった。
ここは仇討ちばかりではなく、暗殺された足利義教の首塚と細川ガラシャ夫人の墓もある。

さて、崇禅寺馬場の仇討ちは、正徳5年(1715年)、大和郡山藩の遠城兄弟が、弟の仇とねらう生田伝八郎を討つべくここにやってきたが、反対に返り討ちにあう話だ。仇討ちは、尊属に対してなされるので、弟の仇討ちは認められないので、二人の兄弟は脱藩し、探索。大坂の町で剣術指南をしていた生田と生玉神社境内でばったり会い、崇禅寺の果し合いを決める。当日、崇禅寺には、生田伝八郎の門弟たちが生田に加勢し、遠城兄弟は殺される。検死の記録によると、槍や矢の傷もあり、多人数にかこまれたことがわかる。


画像が、遠城兄弟の墓。
生田伝八郎は、この事件の20日後、大和郡山の遠城家の菩提寺で切腹している。

「雨月物語」の上田秋成はこの生田伝八郎の遺児ではないか、という説もあるようだ。

この仇討ちの話は、昔は芝居でもよくやっていたらしい。東映では、大友柳太郎が生田伝八郎になって映画にもなったそうな(名作の評判。もちろん、見たことない)。この映画では、門弟たちがたくさん生田に味方をしたのは、生田の本意ではなく、生田を愛する女性が勝手に助勢を頼んだ話にしているようだ。
生田の辞世
いさぎよく死出の雪見る今宵かな

帰り、近くなので、吹田の泉殿宮(いづどのぐう)ものぞいてみた。