飛来飛去 ~風の吹くまま~

中国・遼寧省瀋陽在住歴十数年。
最近ネタぎれ気味ですが、何気ない、でも誰かに話したい日々の発見を綴ります。

就職活動

2014年03月08日 | 社会派コラム

最近、日本では入社試験の有料化が話題になっている。

その是非はともかく、仕事とはいえ、大量に送られてくるエントリーシートを仕分ける人事の人の気持ちも分からんでもないし...

一方、何社も受験してもハジかれる学生の切なさも痛々しいし...

 

日本も「学歴社会」と言われるが、一昔前よりは、その意識が薄れてきているように思う。

ある程度みんなが大学に行けるようになると、職種によっては、「“一流大学”出た人より、“三流大学”卒でも骨のあるヤツはいる」なんて目で見てくれる人もいる。

それに、“おべんきょう”の苦手な人が、手に職付けて別の道を選んでも、その道を極めれば、それはそれで評価もされるだろう。

 

しかし、中国はまだまだ「学歴」意識が強いし、就職においても、その差は歴然としている。

国のトップクラスの大手企業になると、わざわざ企業が一流大学に出向いて、就職説明会を行い、学生を採用するそうだ。

いわゆる“青田買い”ってやつ。

だから、そもそもその一流大学に入らなければ、どんなにその会社に就職したくても、そのチャンスさえも得られない。

親も子ども必死に「勉強、勉強!」という意味がよく分かる。

そのレールに乗らなければ、置いてきぼりになるだけだ。

もちろん、単純に日本の10倍も人口がいるのだから、日本のように「公平、公平」と皆のエントリーを受け付けていたら、一生採用者が決まらないという理由も理解できるし、“青田買い”は、ある意味“合理的”なのかもしれない。

 

それに、就職が決まったからと言っても安心できない。

すぐに辞めたり、内定を蹴ったりしないように保証金を取ることもある。

しかも、この程度ならまだいい方で、「就職したいなら、○○元払え」なんて言うのも、あからさまにある。

その金額は、日本人でも結構厳しい額で、「この人の給料で元が取れるのだろうか?」と心配になるほど高額な場合もある。

でも、その“ポジション”は限られているから、とにかくそのポジションに就かなければ、どうしようもないということで、みんな了解して、お金を払う。

そして、就職した後も、例えば、自分の希望の支社で働きたいとか、何か待遇を良くしてもらうためには、上司への“心づけ”も欠かせない。

中国のトップは、「腐敗」や「汚職」を徹底的に排除しようとしていて、それなりの見せしめもあるのだが、中国を支える“習慣”は、末端の末端の所にまで染み込んでいる。

就職だけではなく、進学の際にもこのようなお金の流れは見られるし(金額もハンパ無い)、コネ+お金の両方が無いと、真正面からぶつかっていっても、跳ね返される。

(逆を言えば、その両方があれば、少々の無理も通る。)

 

この10年の間に、中国で大卒の人はものすごく増えた。

でも、その人たちが全て希望の仕事が見つかるわけではなく、今まで中国の発展を支えてきた労働者の方は不足している。

一見すると、給料も上がり、生活も豊かになり、自由な雰囲気が感じられるが、競争はますます厳しくなり、何となく人間関係がギスギスするようになった部分もある。

この前テレビ番組で、「本当の幸せとは何か?」というテーマで、収入と幸せの関係を評論家が話していたが、中国でもそろそろ物質以外の価値観を求める時代になってきているのかもしれない。

 

実を言うと、私は一度も就職活動をしたことがない。

バブルの後の不景気感が漂い始めていた時代で、「男女雇用機会均等」と言っても、実際は真面目な女子学生が門前払いされ、その学生のノートを借りてやっと卒業できたようなアホな男子学生が採用されるという現実を目の当たりにし、特に入りたい会社もなかったので、「やってられるか!」と、はなから活動しなかった。

でも、おかげさまで、安月給ながら、今まで何とか生きてきたし、仕事が無くなると、苦労もせず、次の仕事先が見つかるという運の良さだけで生き延びている。

面接試験も既に採用が決まった後に「形だけ」というものが殆どで、そんなに緊張せず、気楽にこなしてきた。

そんな私が、学生たちに偉そうに面接指導をしたりしてもいいのだろうか?と自問自答しつつ、日々学生と接している。

なかなか仕事が見つからない人や、そこからドロップアウトしてニートや引きこもりになった人を見ると、自分も紙一重だなと思う。

でも、周りの環境を恨んでも、成功した人を妬んでも何も始まらないし、その時代の中で、何とか自分の居場所を見つけていくしかないのかな、なんて思っている。