夢千夜 1000dreams

漱石「夢十夜」へ挑戦する

1304夜

2018-01-05 16:59:01 | Weblog
東浩紀(あずまひろき)という評論家が書いた『動物化するポストモダン』という本の中に、1990年以降に生まれた世代には「欲求」だけあって「欲望」がないという注目すべき発言がある。つまり動物には「欲求」だけがあるということだ。「欲望」とは当面の「欲求」が満たされたとしても、なお未来に向かってどんどん「欲求」の範囲が拡大していき、究極的に充たされることがないものである。それに対して「欲求」とは当面の「欲求」が充たされてしまえば、そこで終局し、自分が持つ「欲求」が未来に向かって拡大することもなく、現在そこにある「欲求」だけが満たされれば満足し、それをくり返すことのみを生きることとするものである。デジタル世界に生きる人たちは「欲求」を充たしてくれるツールを備えた世界に生き、それだけで満足している。また古市憲寿(ふるいちのりとし)という評論家は『絶望の国の幸福な若者たち』という本の中で、日本を「絶望」ととらえるのは「欲望」を持った古い世代であり、若い世代は「欲求」が充たされた現在に満足していると言っている。この二著は2001年以後に書かれているのに、1927年の生まれの評論家である藤田省三が1985年に書いた『安楽への全体主義』の中にある日本人の分析に酷似している。というか、ほとんど同じだ。藤田は「安楽」というものは「苦痛」の果てに得られるものであり、その「苦痛」を排除したところにある「安楽」は偽物のはずなのに、現代人はそんな「安楽」に従属して生きていると説く。2000年以後に発展に発展を遂げたデジタルツールは、若者たちに「苦痛」を排除した「安楽」を、ほとんど無限に供給している。「生きる」ということが「安楽」「欲求」の追求ならば、「苦痛」はほとんどゼロに近いところまで消滅させることが可能な社会である。そこに生きているのが「おたく」たちである。東、古市の本は「おたく」論でありながら、藤田が指摘した1965年以後の高度経済成長の時代に生きる人たちとほとんど同じ精神構造を論じている。しかし、私が思うに、藤田の指摘する精神構造は、思想の上のモデルにしかすぎず、藤田は「そうなったら恐いぞ」と論じているように見える。1980年代には「安楽」を追求しようとしても、「安楽」を簡単に供給してくれるツールは存在しなかった。藤田は左翼知識人の立場から、現代人の精神的堕落を糾弾しているだけのように見える。藤田から見たら「堕落」した人たちも、生活の必要上、社会に出て人に交わって働かざるをえなかった。そこに2000年以後的な意味での「安楽の追求」があったとは思えない。私は80年代を生きた実感として、そう思い、藤田の言は「年寄りの説教」にしか聞こえなかった。ところが、2000年以後のデジタル時代においては、若者は「おたく」という意味で、社会に出る必要性をなくしてしまった。自分を「おたく」であると定義したとたん、ほとんどの「苦痛」は逃げ去る。あとは「安楽」にどっぷり浸かるだけである。「未来」を必要としないのだから、そこに「不安」や「恐れ」もなく、「無念」や「後悔」もない。秋葉原にはそんな「おたく」の人たちが住む部屋が無数にあるという。「部屋」といっても、普通のビジネスビルをベニヤ板で仕切っただけのものだ。まんが喫茶の個室をさらに簡易化したものだと思えばいい。一部屋というか一区切り一畳半、トイレも水道も共有であり、風呂はない。音を立てれば隣に筒抜けである。そこには従来の意味での「プライバシー」はない。が、「おたく」たちにはほとんど完全な「プライバシー」がある。「おたく」はケータイ一つあれば生きていける。ケータイがほとんど「無限」の「欲求」を充たしてくれる。「おたく」たちは自分の区切りに寝転がり、イヤホンでケータイとたわむれている。周囲は静寂である。保険証もないから医者にも歯医者にも行けない。食べるものはコンビニで買ったカップラーメンだけだ。それでも「幸福」に充たされている。週に三日も働けばそこで十分暮らしていけるだけのお金を稼ぐことができる。「おたく」の聖地秋葉原にいられる「幸せ」、ネット世界に生きていられる「幸せ」。彼らを「不幸」だと蔑むのは勝手だが、はたしてそうだろうか。彼らは結婚もできない、子供も持てない、定職にもつけない。系類からも見放されている。彼らにあるのは「欲求の充足」だけだ。「安楽」とは「責任」の放棄である。妻に対する責任も、子に対する責任も、親に対する責任も、社会に対する責任も放棄し、そして自分に対する責任も放棄し、「安楽」に生きる「おたく」たち。私は彼らがうらやましくて仕方がない。彼らはホームレスと同じだという見方もできる。80年代には路上の段ボールハウスに住むホームレスが東京には無数に存在していた。「おたく」たちは少し高級なホームレスにしかすぎない。そして彼らが健康を失い、お金を稼げなくなったら本物のホームレスに転落するしか道はない。しかし、「未来」を持たない「おたく」たちは「未来」を思って暗欝に陥るなどということもない。「そんときは、そんとき。そうなったら生活保護でも受けるさ」と楽観している。二十世紀最大の哲学者だといわれるハイデガーは「死とは未来の断絶であり、未来の喪失である」と説いた。だとすると、「未来」を持たない彼らには「死」というものが存在しない。それは動物にとって「死」というものが存在しないのと同じだ。死が訪れたとしたら、それは「現在」がぷっつり切れるだけだ。若くして死んだ人たちに対する評言に「生きていられたら、もっといろんなことができただろうに、こんな若さで死ぬのは、さぞ無念だろう」というものがある。「未来」を持たない「おたく」たちには、そんな「無念」はない。アメリカの作家ヴォネガットは『スローターハウス5(ふぁいぶ)』の中で「究極的な現在の中で生きることが幸福であり、未来に起こることが起こらないことに対する無念は意味がない」という哲学を展開した。これは中国古代の哲学者老子が言ったことと共通している。近代人は未来に起こるであろうことが起こらないことへの恐怖に追いかけられて「不幸」な生を生きてきた。「おたく」たちは、そんな近代人のあり方を超越しているのだ。藤田は2003年に死んだ。藤田が1980年代に予想もしなかったデジタル時代がやってきた。藤田が生きた時代には「安楽に追従する」とは言っても、「安楽」を得るためには、ある程度の努力を必要とした。が、デジタル時代には「安楽」を得るための努力は極小になった。ケータイ環境を維持するためなら月に一万五千円もあれば足りる。それくらいの金なら「おたく」たちでも二日もあれば都合できるだろう。秋葉原の自分の区切りに一月いる権利が五万円、あとの経費を入れても、確かに週に三日働けば足りる。藤田の予言は、デジタル革命によって藤田自身にさえ想像できなかった規模で実現された。藤田は、「安楽への従属」は「安楽が失われることへの不安」を含んでいると言ったが、もはや「安楽が失われることへの不安を含まない安楽」が、現代の若者たちを支配しつつある。このまま日本は、どこに向かうのか、それは誰にもわからない。

1303夜

2018-01-05 16:57:14 | Weblog
私が好きなフィギュアなどを売っている店から出ると、昨日まで丸井だった場所が更地になっていて、そこから今まで見えなかった高速道路が見えるが、高架を支える柱以外の道路部分はすべてなくなっていて煙が上がっている。私は気になって空へと上昇し、高速を見下ろすと高速の下をずっと流れていた川が濁流にかわり熱せられて水蒸気を上げている。さらに上昇して二百メートルはあるビルの屋上に下り立ち下を眺めると海岸に沿って高速はどこまでも消滅している。一度屋上に降りるともう一度そこから飛び降りるのが恐くなる。が、時間をおくともっと恐くなって下に降りられなくなるので思い切って飛び降りる。しばらくの間下降するが、腕をばたばたしいているとホバリング状態になり安定する。高速が気になって仕方がなくずっと高速を見ている。

1302夜

2018-01-05 16:56:07 | Weblog
センター試験の会場。数十人の受験生が必死で問題を解いている。一人の男が外の音がうるさいといって窓を閉めに行く。男は窓の外に身を乗り出すと一瞬にして消える。落下したらしい。が、ここは三階だから命に別条はないだろうと思う。私も含めてそこにいた数十人が窓の下を見ると、男は救急隊員が運ぶ、やけに大きい担架に乗せられている。男は上を向いているが、脳漿は破裂していて、脳液が流れ出ている。脳液は折り紙をちぎった小片をばらまいたように無数の色をして男の頭の周囲に広がっている。その光景は美しいとさえいえる。「美しい」と誰かがささやいたように感じる。

1301夜

2018-01-05 16:54:48 | Weblog
東京。アイドルのイベント会場。ビルが林立する。見上げると空が小さく囲まれている。そこに葉巻型の飛行船が浮かぶ。オレンジ色で数えられないほどある。飛行船がビルの先端に接触したと思った瞬間、飛行船は爆発炎上する。空に浮かぶ無数の飛行船に連鎖する。火のついた破片が私の上に降りかかる。私は隣にいるアイドルをかばい、逃げる。そこで記憶が飛んだということは私はアイドルとともに死んだのだろうか。