フィクション『同族会社を辞め、一から出直しオババが生き延びる方法』

同族会社の情けから脱出し、我が信ずる道を歩む決心をしたオババ。情報の洪水をうまく泳ぎ抜く方法を雑多な人々から教えを乞う。

3月は別れと出会いが混在の滅茶苦茶なつじつま合わせの月

2019-03-31 20:56:48 | 美しく生きるという事

さあて、平成30年度が終わります。

明日からは新年度、平成31年度(一か月の命ですが)ですね。

オババの職場でも、この3月、別れがありました。

職員はみんな泣きました。

なんだかね、泣きを演出しているかのようなプログラムで、

そこまでやらなくたって、ただでさえ泣けてくるというのに、と思いました。

泣かないのは子どもですね。

だって、子どもは何にも分からないもの。

次にどんなところに行くのかよくわからないから、

楽しそうだと思うから元気に大声で「ありがとう!」などと言う。

それで、職員たちは、ここでうまく行ったからこれまでの事は忘れてとにもかくにもよかったね、で締めくくる。

つじつまを合わせてしまいました。

 

さて、卒業のように、目で見えるさよならはとても分かりやすいですね。

今はさよならだけど、来月は、こんにちは、だもんね。

ところが、目に見えないさよならもこの時期はあるんです。

それは、心の中でのさよなら。

口ではさよなら、とか卒業、とかは言いません。

でも、なんとなくそんな気配を察したり、

相手がそういう事を考えているということが分かってしまったり、

分からないまでも、きっとそうじゃないかな?とピンと来たり。

 

そんな時は、わたしも、何も言いません。

いつものように、またね、と言います。

相手が見えなくなるまで手を振ります。

もしかしたら次はないかもしれないから、

ずっと余韻を味わいます。

 

木々が春の到来を知り、花を咲かせるように、

人は、別れの気配を知り、ひっそりと離れて行きます。

無理に終わらせなくても、自然とそうなるものなのだ、

と、人は知るのです。

 

しかしまあ、ここで問題が。

形があり、はじめと終わりがはっきりしている場合は、つじつま合わせが出来るんですけど、

形がなくはじめと終わりがはっきりしていないときは、つじつま合わせが出来ません。

うーん、「こころがわり」と言うのは大昔からの決まり文句ですね。

そればっかりは、誰にも止められませんから。

 

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若いちから

2019-03-22 23:40:24 | 美しく生きるという事

若いちからとは、人でいえば何歳くらいでしょうか?

0~20歳くらい?

年齢じゃないよ!と言われる方もいらっしゃるでしょう。

私は、それを、「芽吹くちから」と言い換えてもいいと、今日感じました。

 

5日間入院して、一週間会社休んで、

その間私の記憶はぽっかり抜けております。

(うそうそ、業務的にどっか抜けているんじゃないかなって思っているだけ)

季節も2月から3月に変わりました。

そしてあれだけ寒くて辛かった日々が、今はほんわかと温かく、

前のようにつらいと感じません。

元気が出来てきたのです。

 

私の家にはシンビジュームの鉢植えがあり、

今ピンクの可愛い花を咲かせています。

こないだ、犬がぶつかって頭のつぼみを折ってしまいました。

私は見つけざま「またかよ、コノヤロー」と少しばかり犬を怨んだのですが。

しかし、このシンビジュームと言う花は生命力が強く、花瓶に挿しても長持ちします。

今回も水に挿しました

すると、つぼみが少しずつ開いて、明日にも咲きそうです。

 

また、アイビーも水栽培しているのですが、

寒い間芽が伸びずにもう枯れてしまったのではないか、と思っていたら、

なんと、小さな緑の芽が出ているではありませんか。

枯れていたわけではなかったのですね。

寒い時期を耐えていたのですね。

 

この時期、春が来るというのはそういうことなんだな、とすがすがしく感じました。

ソメイヨシノも開花しました。

芽吹くちから。

そういう時期になりました。

人の心の中にもそのちからがあると私は信じています。

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モチベーション上げるもの下げるもの

2019-03-19 22:08:03 | 美しく生きるという事

五日間の入院生活を余儀なくされていたオババは、

やっとのことで娑婆生活に戻ることが出来ましたが、

痛んだ身体はなんとか回復しても、

打ちひしがれて錆ついてしまった心は元に戻れずにいました。

どうして、一年前のあの情熱がないのだろう。

あの情熱を再び手にしたくてもとてもそんな気分になれません。

どうしてだ?

 

オババには何となくわかっています。

あの時は、そこに足りない何かがあるとみんな分かっていても、

誰も手を出せずにいた。

だからオババがそれをやってあげた。

喜ばれた。

それが次に続く動力となったのに違いありません。

だけど今は、

足りない何かが見つかると、すぐに複数の手が伸びて、

あと言う間に出来上がってしまう。

しかもプロ並みのすぐれものが。

私にはとうてい手出しできません。

お呼びじゃないってこと。

ああ、そこなんだよね。

仕事を取られてしまったんだ。

仕事を取られて楽だと思っていたけれど、

仕事がないって時間が続くとこんなに気持ちが荒れてくるなんて、

知らなかった。

もちろん、他の仕事、あります。

だけど、気持ちが乗らない。

私がやらなくても誰かがやるじゃん。

って感情がやる気をそぐのかもしれない。

「私がやります!」という、自分自身の中から生まれる躍動感。

それが、ない。

 

しかし、それがものだけではないことが、今日分かった。

うちの職場は、相方が日によって変わる。

今日の相方は、あたりが柔らかくて、気を使ってくれるから気持ちがいい。

だから本来の自分を出せて元気よく動けたのだと思う。

ほかの相方はね、どんどん先に行っちゃう人だから、

ついて行くのが精いっぱいだし、

もう勝手にやって!と見放したくなることがある。

その日は疲労感が強い。

キャラを作って対応しているからだと思う。

 

モチベーションなんて、

そんなもんなのかもしれない。

自分の中にある、と言うよりは、他人の中にあり、それに自分を照らし合わせて湧きあがるもの。

自分の中にあるんだけど、自分だけでは引き出せなくて、他人が引っ張りだしてくれるもの。

だからね、やっぱ、他人に左右されるよね。

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実家のお片付け

2019-03-17 23:04:34 | 美しく生きるという事

息子夫婦が、カラーボックスを買いたいと言っていたので、

「それならあんたの使っていたのがあるでしょ、どうかしら?」と私が言い、

掃除して拭いてあげたのを見て、

「物置(部屋)に置きます」と言うので、持って行ってもらいました。

ああー、一個荷物が減った!

しかし、そのカラーボックスにはコミックスがぎっしりと詰め込まれており、

全部出して床に並べたら相当な量でした。

「半年に一回マンガを片付けにきまーす」と明るい言葉を残して息子は帰りました。

とりあえず机の上に積んでおくか。

縛るのも紐がもったいない!

段ボールに詰め込んで押し入れに入れるか。

とにかく、その作業を誰がやるかと言うと、持ち主の息子ではなく、私です。

金よこせよ…と心の中で呟いておりました。

いっそ、うっちゃっておくか。

どうせ誰も使っていない部屋だし。

そうしよう、そうしよう。

 

最近の週刊誌の見出しには、

やれ、親の財産の分け方、とか、実家の片づけ方、とか、

これだけはやっておくべき手続き、とか、ほぼ毎週のように同じような見出しが目に付きます。

そんなに今、流行っていることなの?

ほら、うちは今や実家になってしまったので、

子ども達に面倒をかけないよう荷物を減らす努力はしているんです。

しかしね、よくよく考えてみれば、

私の両親は健在なので、実家があるわけです。

そしてそこには、私の持ち物あるいは弟の持ち物だった、

本やら雑貨やらがまだたくさんあるのでした。

そうだ、自分の家を片付けることも大切だが、

両親の家に置きっぱなしのかつて自分が使っていたものを処分することも大切だ、と気付きました。

なぜ、母は、私が読んで置きっぱなしにしたマンガを捨てなかったのでしょうか?

実は母もマンガが好きで、捨てられなかったとか?

うーん、どうなのか分かりませんが、とにかくクローゼットの脚立を使わないと取れないところにひっそりと置いてあります。

古い埃にまみれているので、扱うときはマスクが必要です。

さもないと鼻がかぶれてしまう。

なんで、こんなものがここにある?

タイムマシンで当時に戻ったかの如く、しばし読みふけってしまい、

片付けるどころではなかったのですが。

その時、母が古いマンガを読んでいる私を見つけ、

「汚れているから触らない方がいいよ」と言いました。

お?「あんたのでしょ?捨てなさいよ」とは言わなかった。

と言うことは、納得ずくで置きっぱなしにしてあるのだろうか?

捨てられない女なのか。母は。

 

いつかきっとその日が来ます。

実家を前に呆然と立ち尽くす私と弟。

人生って何なのでしょうね。

どうして、生前手にしたものをあの世に持って行かれないんでしょうね。

みんな持って行ってくれて構わないんですよ。

私は使わないんだから。

あなたのものなんだから。

誰にも使われなくて、かわいそうじゃないですか。

ねえ。

 

 

コメント (1)
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上司の唄

2019-03-13 23:13:27 | 美しく生きるという事

They say ……

自分のやりたいようにやらせたいのよ。

みんなに振っておいていろんな案を出してきても、結局、自分が見て納得できるまで変えさせる。

自己チューだよね。

小さい会社で自分の思うようにやってきたから、

誰かに使われるってことがなかったから、そうなったのね。

自分のイメージ通りに動かないと不満でそれを口にする。

そのイメージを受け取って形にして差し出すことが出来る人は、

もっともっと違うイメージを提示されて形にするよう脅される。

私は、イメージ通りに動いて!と言われても、

両手の隙間からぼろぼろ落っこちてしまい、

何の形にも出来やしない。

差し出せるものがない。

ワンマンワールド。

人はその人の仕事ぶりをそう呼ぶ。

 

今はやりの、”ワンオペ”だぜ?

ワンオペ仕事、非難されないのかよ?

人を使ってワンオペはひどいな。

 

で、私は、けっと笑う。

そのワンマンぶりが、そのうちずっこけて、

もうどーでもいい!というあきらめに代わり、

あきらめというより、人間味に変わったとき、

面白いものが出来るかもしれない。

だけど、自分はこれが出来る!という自信があるんだろうけど、

それって怖いよね。

だって、他人にはどうでもいいものなんだもの。

あなたの自信なんて、私には関係ありません!

あなたと自分が違う人間だということを、まず分かりなさいね。

と、私は優しく微笑みながら囁いてあげよう、と考えるのである。

 

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