日々のあれこれ

現在は仕事に関わること以外の日々の「あれこれ」を綴っております♪
ここ数年は 主に楽器演奏🎹🎻🎸と読書📚

ちびまる子ちゃん

2018-08-29 22:48:49 | Electone & Piano

 西城秀樹さんがこの世を去ってから、数か月しか経過していないのに。さくらももこさんの突然の悲報…

ちびまる子ちゃんは、自分と ほぼ同世代。ほんの数年、まるちゃんたちが年上なだけなので、親近感を持ってアニメスタート時、観ていました。

うちも二人姉妹。

自分が長女なので、まるちゃんのお姉ちゃんに 「そうそう、そうなのよ!6年生が迷子の呼び出しだなんてねぇ」

まるちゃんたちのエピソードは、うん、こんなこと、似たようなことが我が家でも あった、あった!

自分たちの子供時代と重ね合わせながら懐かしく見たものです。

山口百恵の「ひと夏の経験」を歌っていたら、母親に

「そんな歌を歌ってはいけませんっ!」

と注意され…

「えー? なんで?」

と聞いても理由は教えてもらえず。

 

そうそう、迷子の呼び出しね。

名古屋から九州へ遊びに来ていた従妹と妹と3人で、ファンシーショップを見て回っていた時、

「〇〇からお越しの 鈴木すずこちゃん、お母様がお待ちです…」

という迷子のお呼び出しがっ!

当時の自分は小学校6年生。従妹は3学年下で、妹は1年生。

親たちは、自分たちの子供が何処の売り場にいるか分かった上で、

「あの子たちを呼びに行くのは面倒だから。呼び出して来てもらおう」という根端。

それならそれで、他県から来た従妹を呼び出せばよいものを…

「6年生が迷子のお呼び出しだなんて、同級生が聞いていたら、どーすんのよっ!」

と、抗議した記憶あり。

まるこが自分が迷子になりながら、お姉ちゃんの名前を使い、何も知らずに翌日、学校へ登校したお姉ちゃんが、クラスメイト達に

「6年生が迷子なんて!」

と笑われるシーン。

思い出が蘇り、大いに家族で盛り上がった??

 

 2001年、グアムで結婚式を挙げた妹。

その時、参加したジャングルツアーの現地ガイドさんには、

「ちびまる子のおねえちゃん」

と、呼ばれましたっけ。

 

 エッセイも何冊か読みましたし、おどるポンポコリン 耳に残っています。

 

V

 

今夜は あの名曲を弾きながら、テレビ放映が始まった当時を懐かしんでいました。勿論、楽譜は手元にありませんが、秀樹さんの時と同様、自己流の即興演奏の為、お聞き苦しい箇所がいくつもあります…。 I'm SORRY.

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胡蝶蘭

2018-08-29 01:58:50 | Weblog

今年も蕾が! 咲いてくれるんだなぁ~と思っていたら、

あっという間に咲き始めました。

毎日、暑い日が続き、植木鉢もいくつか干乾びてしまいましたが…

胡蝶蘭は室内に入れておきました。

確か、台風19号より前だったと思いますが、今年は台風が毎日のように発生

いったい、どの台風の時だったか忘れてしまいました

 

何はともあれ、胡蝶蘭

咲いてくれて嬉しいです

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2夜連続の花火

2018-08-27 01:30:00 | ホークス

博多大花火!ソフトバンク本塁打だけで12得点 2〜4番そろって4打点

日付けが変わったので、昨日のことになりますがー

ホークスvsライオンズ 首位攻防戦! (今季のホークスはBクラスに居た時期もあることを思えば、首位攻防と言えること自体、嬉しい

んまぁ~

すんごい試合でしたわー

2回までにギータ、イマミー満塁本塁打で6点でしょう?

すでに勝負あり!と思ったら…

 

やはり甘くなかった。

脅威の追い上げ

同点に追いつかれ、、、、

2点リードされ、、、

 

ダメかも…

と思った、正直ね…

でも、また追いついたーっ!

 

丁度、チャンスで柳田選手が打席に立っている時、

テレビ放送は、「さよなら 斉藤和巳さんの解説でお送りしました…The end」

ここから先は、KBCラジオ。西村龍次さんの解説で聴いておりました。

 

延長戦を制したのは、ホークス

しかも満塁サヨナラ~

 

前日はギラヴァンツ北九州が1点を守り、勝利の花火(私は観てないけど)

 

その翌日はホークスのホームラン花火にドームの花火ね、勿論(放送時間終了だから、こちらも観てない)

福岡は二夜連続の花火に酔いしれたという訳どす。

 

母が貰ってきたサッカーのユニフォーム。

洗って干したものを記念に撮影しておきました(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

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Hawksのマーくん☆

2018-08-25 22:36:57 | ホークス

 元ホークスの馬原投手は現在、北九州にある専門学校にてリハビリテーションetcを学んでいるそうです。( まりりんちゃんへ 新聞の切り抜きを我が家まで届けてくれてありがとうーっ! )

 マーくんが通う専門学校では、10代から70代までの学生さんが学ばれているそうでして…ちょっと想像してみました。あのマーくんとクラスメイトとして学ぶって、テンション上がりそう 私の場合、柴原選手に握手して頂いただけで、卒倒しそうでしたから…

 

 本日、地上派では阪神vs巨人戦を放送。小野投手はきたきゅう出身なので、まりりんちゃんの応援熱もというものです。今日の結果は残念でしたが…

 

 ホークスは、新外国人投手が もしやノーヒットノーラン達成!? 9回までハラハラドキドキな試合展開に。5回以降は 殆どこちらを 父がリモコンを離さず観ていました。マッチもホームランが2本! まさしく熱男

 

 母は近所の浦島さんと共にサッカーの応援へお出かけでした。

https://www.giravanz.jp/

ギラヴァンツ北九州の応援です。今夜は花火も上がったそうです。

 

 

 野球→サッカーから急に話題が変わりますが…

フィリピン出身で静岡在住の〇〇さんと、同じくフィリピン出身で北九州(ここ)の〇〇さんと3人でランチ。

     

チキンのカレー風味でエキゾチックな味付けにやられましたっ!

ちょっとスパイシーで、酷暑の夏にピッタリです。

焼きたてパンも新鮮なサラダも美味しかった~

 

その後、ホテルへチェックインする〇〇さんと共にホテルへ。

10階にあるホテルのお部屋も見せて貰いました。

海も見えて、ナイスビューです。

そういえば、次回へ続く…と書いたまま、長崎旅日記が途中になっていたんだった…今、思い出した!

 

Anyway,

イオンの中の100均で、ハロウィンイベントの話や、オーストラリアでの初チャーチ体験など、時折、ダンスしながら話が盛り上がり…

(場所が日本で、しかも店内だということが、頭の中から すっぽり消えていた…)

次に向かった先は、COSTCO

かねてから、噂は聞いていたものの、実際に行ったのは初めて!

初海外だった米国アイオワ州のスーパーマーケットを思い出しました。

すべてが でかい!

ちょうど、バケツサイズのコークについて笑った後だったので、余計に面白かったです。

こちらは〇〇さんの おごり、です

たっぷり北海道のミルク~な味。普通の2倍はある量でしたわー

もう、お腹一杯すぎて

 

 し・あ・わ・せ

久々に英語で喋った感覚でして、日本語検定や漢検の話まで話題は次から次へと発展していき…

「5月には間に合わないから10月に…」と言いながら、その後、見事に中断。

あの時の甘さが 「10月も結局、間に合わんわ~。暑いから、と勉強そのものを中断してる!」ということに…

ほぼ諦めかけていた漢検でしたが、

試験に落ちても、頑張り続けることに意義がある!」

という彼女に励まされました。

大いに刺激を受けた一日でした。

では、またお会いしましょう。

 

 

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台風

2018-08-24 01:57:04 | Weblog

 四国・近畿地方…大丈夫でしょうか…

台風の中心から外れている北部九州でも今、風が強いです。夕方、出かける時は傘を持って出ましたが、帰宅するまでに使用することはありませんでした。地面が濡れていたので、知らない間に多少、降ったようでした。

 この3日間、とても蒸し暑く、台風の影響を受けているため窓も開けられません。よって冷房しなければ眠れない状態です。(冷房していない部屋は深夜を過ぎても30度という熱帯夜!)その前に、激しい風の音で眠れないのですが…。

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ノモンハン事件

2018-08-23 13:30:59 | 読書

 ノモンハン事件について~ 書こう、書こうと思いながら、日数だけが過ぎていきました。

 

 毎年、8月になると戦争についてメディアが一斉に特集番組を組むことを『戦争月間』という、というようなことを新聞で読みました。8月以外は忘れているという皮肉も感じられる、とありましたが、それでも それまで全く知らずにいた歴史的事件、知れば知る程、「ノモンハン事件」は「事件」というより旧ソ連と日本の戦争と呼んでいい規模のものではないか?と。昨年はインパール作戦でしたが、今年、NHKが特集を組んだのは、第二次世界大戦に日本が参戦する前に起こった 「ノモンハン事件」についてでした。

 ノモンハン事件について当時の新聞は、”敵の戦闘機、〇〇機云々”と、関東軍が発表する数字をそのまま記事にしたらしいですが、詳細については、意図的に国民には伏せられていた、ということでした。『はじめてのノモンハン事件』著:森山康平(2012年PHP新書)より。以下、この記事の引用抜粋はすべて『はじめてのノモンハン事件』からです。本来であれば、複数の参考文献に当たるべきですが、今回は 無知な自分がノモンハン事件を知る導入部分として…ということでご了承下さいませ。メディアで観たこと、断片的に知ったことを次は実際に書物で読んでみたい、その事件が起こった頃、日本は世界の中で、どのような状況下にあったのか、もう少し詳しく知りたいと思ったことがきっかけです。

 

 ノモンハンは何処にあったのか?

 

当時の地図です。(51ページ)清王朝が倒れた後、中華民国へ、そして上記の地図が中華民国は認めないにしろ、当時の日本の認識地図ということになるでしょうか。

事の始まりは、モンゴル(…とはいえソ連)、そして満州国(日本、もっと細かく言えば関東軍)の間に、国境線を巡る ”いざこざ”が存在した、というところから。

  53ページより抜粋

日本側が主張する国境線はハルハ河。帝政ロシアが1906年(明治39年)に作成した地図や中華民国参謀本部が1918年に作成した地図を根拠としたそうです。 一方、ソ連とモンゴルが主張する国境線は清朝時代に紛争が絶えなかったハルハ族とバルガ族の勢力争いを清王朝が1724年に調停し裁断したラインなのだそうです。ハルハ族はその後、モンゴルという国を作り、バルガ族は満州国に組み込まれたのだから、その境界線が そのままモンゴルと満州国の国境で治まっていれば良かったものを…と思うのは、自分が のちの世の人だからでしょうか。

 

 世界情勢における当時の日本の状況はどうであったか、というと…

支那事変(1938年10月、ノモンハン事件の前年)

こちらは「事変」ではなく「日中戦争」と現在は呼ばれていますが、米国(ハルノート)の日本に対する輸出規制等により孤立を深めていた時期。当時の日本軍は日中戦争の最中で、蔣介石は村一つを水没させ、自国の人民の命を犠牲にしてでも徹底抗戦。戦闘機等近代兵器を持たない当時の中国に対し、地上戦のみならず、日本陸海軍航空隊は重慶を空襲していた…これにより市民4300人が死亡。参謀本部の稲田大佐は、中国に勝つことを最優先とし、このような時期に、「ソ連との大規模な戦に発展するかもしれない紛争を引き起こしてはならない」と強調。(78ページ11行)

 参謀本部稲田大佐

何処に書いてあったか、誰の台詞だったかは忘れましたが、砂漠で何もない場所を多少つつかれたからと言って反応するな、たいして違いはない、放っておけ、近代的兵器を揃えるソ連を相手に戦えない、それより中国だというのが、その頃の参謀本部に流れる空気だったようです。

最初は関東軍司令部も慎重で、「ソ連蒙軍が一歩、国境超えしたからといって早急に、しかも不用意に出動するのは急襲成功の道ではない。」と出動に積極的だった小松原師団長に告げている。(84ページ)要するに出動は見合わせよ、ということだが、NHK特集でも触れていたように、はっきりと「今は出動するな!」と言わない、これが当時の「高級軍人のたしなみ」だったとか。今現在も、はっきりと物を言わないのが日本人の伝統的気質だとは思うのですが…。 このはっきりしない”曖昧さ””が 「独断専行のタムスク爆撃」を生み、更に極限になってくると、引くにひけない、No(ノー)といえない、全体主義的な心理状態へと次第に追い込まれていったのではないか…と。

 

「慎重論」に対し、辻正信参謀は、ありとあらゆる場面で一貫して「積極一撃論」を展開。

ソ連&モンゴルとの戦闘については割愛しますが、兵器も兵士の数においても圧倒的不利な日本が大敗し、司令部との連絡網も途絶えた中、戦場で指揮を執った井置中佐は脱出を決断。当初の司令部の命令は「陣地死守」。それは形式上は命令違反だが、停戦後、井置中佐は自決を強要されている。(267ページ)

戦後、「辻参謀があの場にいれば、どう戦ったというのか」と問うた人もいたらしい。

多数の参考文献からなる著書、「はじめてのノモンハン事件」を読む限り、折角、生き延びた戦場指揮官に対する自決の強要には、NHK特集同様、やはり疑問が残ってしまう。

NHK特集では、彼の身内がTV取材に答えていました。他に主犯がいる筈で、誰かの命令に従ったに過ぎないといった趣旨を述べていた通り、辻正信氏も戦後、著書を残しているので、それを取りあえず読まないことにはフェアではないと確かに思います。

 

2万人を超える死者を出したノモンハン事件終結後、日本は第二次世界大戦へ…という道を辿ることになるのです。

 

 

 

 

 

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蛍川 著:宮本輝

2018-08-22 18:31:22 | 読書

 この夏、最も印象に残る小説、それが、宮本輝さんによる 『蛍川』でした。

今年、人生二度目の、しかも20年以上ぶりに蛍を見ました。いや、大量の蛍を見たというよりは、自分自身が蛍の群れの中に身を置いているような感覚。 まるで光輝く宇宙の中を彷徨っているかのような… 表題作のラストシーンの場面は強烈でいて、どこか物悲しくもあり、

「もし、あと〇〇歩、先を歩いて蛍と出合えたら、大阪へ行く、そうでなかったら、このまま この地に留まる」

これからの身の振り方を 蛍に託す決心を人知れずしていた母。息子への想い。そんな息子、(主人公)は思春期真っ只中。中学生になったあと、数年ぶりに交わす幼馴染の女生徒との言葉。

「蛍、見に行く?」「うん、行く」

 

昭和30年頃の言葉遣いが何処か懐かしく、あたたかく、そして優しく耳に残ります。

蛍と少女のラストシーン。

まぁ~ こんな純粋でありながら艶やかな描写が、どうして出来るのですか?と 宮本輝氏に向かって言ってしまう。

 

 

 

背表紙にある紹介文です⤵

 

『泥の河』

 こちらは、小学校2年生の少年の目を通して大人の世界が描かれます。

「夜は、あの舟に近付いてはいけないよ」

父親のいいつけを最初は守っていた僕が、お祭りの帰りに立ち寄ると…

この物語の冒頭に登場する馬もそうですが、最後の方で登場する蟹のシーンには度肝を抜かれ、ただ文字を追うだけの自分も背筋に寒いものを感じました。少年が感じたであろう恐怖心に同情してしまうのです。すっかり小説の中に自分自身が入り込んだ証拠です!

 

つい、昨日、人はどのような境遇でも、諦めなければ生き抜く力を備えている、みたいなことを書いたばかりですが…

この二編の小説では、尊い命も、いとも簡単に呆気なく、終わるときは命尽きてしまうこともあるのだ、と。

儚さと一種の怖さを突き付けられた気がしました。

 

戦中の数少ない生き残り帰還兵が、命を失う時は、

こんなに突然に 

しかも、呆気なく… 

或は、さっきまで僕の傍で笑っていた友人が。 

約束までしていたのに…。

 

描写の怖さ、リアルさ、物哀しさ。

夏の終わりに 手に取りたい一冊です。

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思い出のウクライナーある強制移送の軌跡ー Josef Winkler ヨーゼフ・ヴィンクラー

2018-08-21 17:01:51 | 読書

 第一次世界大戦~第二次世界大戦を生きた上記の女性、ハーブカと、その母の人生をオーストリア生まれの作家、ヨーゼフが約一年をかけて彼女が暮らす農家に住み込み、書き留めたドキュメンタリー。

 ハーブカはウクライナ生れだが、ソ連、ナチスドイツに翻弄され、母国も母国語も失ってしまった。小学生の頃、「最後の授業」という短編を通じて、「突然、今日から母国語を話してはいけない状況になる」そんなことを強いられる人々がいたんだ…と初めて知った、あの時の感情が蘇ってきた。

 ハーブカはウクライナと思われる場所もソ連も、「ロシア」或は、「向こう側のロシア」という風に語る。故郷はウクライナでロシア語を母国語としていたようだが、学校へは思うように通えず、ポーランド人やロシア人と共に1943年、姉と共に母親から強制的に引き裂かれ、ナチスドイツの支配下にあったケルンテンへ強制労働のため移送された。二人が母を見るのは、この時が最後となった。彼女たちにとって唯一の救いは、ハーブカが送られた農園は、姉が送られた農園と30分ほどしか離れていなかったため、姉妹は週末に会うことが出来たこと。当初は全く理解出来なかったドイツ語も徐々に喋れるようになり、次第に姉と話をするときは、ロシア語とドイツ語の単語が半々になり、姉に指摘されて気付くほどになったという。少女だったハーブカがドイツ語が分からない当初、可笑しな単語をドイツ人から教わりながらも馬鹿にされ…そんな日常を淡々と語っている。作者は それを ほぼそのまま書き留めていったのではなかろうか、と思われるくらい、最初のページから最後まで話が展開されていく。苦労といえば、この世に誕生した瞬間から何度、生死を彷徨うのか、春になれば木の実があるが、酷寒のロシアは飢えとの闘い… 母の努力と運の強さと働きで裕福になれば、周囲に妬まれる、家を追われ、蓄えていた穀物も、着る物ですら、すべてをはぎ取られるハーブカたち。もし、彼女たちに手を差し伸べようとすれば、その家族も同じ目に合わされる。 親戚すら援助の手を差し伸べられない、そんな人間関係の中でも、「それでも そっと夜中にベリーを置いておいてくれる人がいた」 人は絶望の淵を彷徨っていても、諦めなければ生き延びられることもある、、、のかもしれない、、、少なくとも彼女たちは そうだった。

 母国語を失ったハーブカはロシア語もドイツ語も書くことが出来なかったが、そこへ現れたのが著者だったわけだ。自分の人生を書き残したいという思いが何処かにあったようで、ハーブカはJosef Winkler ヨーゼフ・ヴィンクラーとの出会いによって、その願いを叶えたのだった。 彼女がどのように 第二次世界大戦を生き延び、農場を営むまでになったのか…ついては、本を読んで下さい。

 

 実際には、ナチスドイツ以前の幼少時代が更に過酷で、読みながら何度か吐きそうになった。歴史の授業では、さらっと一行習うだけ、だったソ連によるコルホーズ。ウクライナでは700~800万人もの人が飢えで亡くなり、ハーブカの母の話では、「あちこちの村で少年少女がごっそり捕らえられ、殺されて、カツレツにしたり生で売っていたのは、肉屋と飲食店の主人たちでした。彼らはそれを馬肉だと言ったのです」「(149ページ)

 コルホーズの独裁者たちが村のすべての農民から財産を没収。自分たちで畑を耕すことが出来なくなると、皆、コルホーズで働くよう勧められたという。「党の指導者たちは、人為的に飢餓を作りだし、連中は何トンもの穀物をド二ェブル川に廃棄したのです」(149ページ10行目抜粋)

 

 ドイツナチスはハーブカ一家のようなウクライナ人にとっては、「解放軍」であった、と語られている。ロシアが撤退したあと、ハーブカと姉は、コルホーズによって奪われた自宅に3日間戻っている。この時期が最も幸せだった、というのは幼少から少女時代の彼女たちにとっては、そうだっただろうな、と思う。

 現代の日本を生きている自分にとっては、ハーブカの1ページ分の人生だけでも自分の一生分くらいインパクトがあり、過酷だというのに、なんて淡々と語れるのだろう。陸続きのヨーロッパで、どこが母国かも、味方かも分からない世界情勢の中で、母国語もアイデンティティーも曖昧にされてしまった少女たち。そして今、プーチン政権下のロシアとウクライナの関係に眼を向けた時、ウクライナの人々がロシアに対して抱く感情が少しは分かった気がする。理解はしていない、あまりに酷くて…でも想像することは少なからず出来るかもしれない。ハーブカの語りに耳を傾けながら、最後まで、その思いでいっぱいだった。

 

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戦前、戦後を生きてきた人々の…

2018-08-21 01:12:51 | Weblog

それぞれの ほんの一部の人生に触れる…

毎年、そんなお盆が続いている。

 

  毎年、この時期になると組まれるNHKの戦争に関連した特集番組。

Eテレの方では、2017年度放送された特集番組の再放送を通じ、

『インドネシアでオランダ人又はオランダとインドネシア人のハーフ女性と日本兵の間に生まれた子供達の戦後』の人生の、ほんの一部を知った。戦後、母と共にオランダへ渡り、そこで過ごして来た姉妹が 日本人の父を探すドキュメンタリー。帰還命令が出て日本へ戻った父と生き別れたまま70年以上が経過。どうしても実の父が知りたい、探し出したいと願う妹に対し、同じ父から生まれた姉妹ながら、見た目が日本人そっくりなため、親族、特に祖母からはハグもしてもらえなかったという姉。一度も会ったことがない ”日本人の父”に対する想いは、姉妹でありながら、かなり隔たりがあった。「あなたは見た目も西洋人だから…」「実の父を一緒に探そう」と言う妹に、最初は拒絶する姉。親族やオランダ社会で受けた差別や虐めを涙ながらに告白する。その姉にも娘がいる。母の話を隣で聴きながら母に寄り添う娘との対話…次第に感情の変化が現れ、遂には日本の家族と再会する。父はすでに他界しているものの、「日本の親族に受け入れられる筈がない」と信じ込んでいた姉の心は、ようやく平穏に…。

 

 日本国内にも、多くの戦争孤児たちがいた。大阪、東京といった首都圏にある駅で暮らしていた。

「戦後、上野駅で寝泊まりしていた頃のことは主人にも言えなかった。そんな女だったのか、と知られるのが怖かった」

 

昭和から平成の終わりも近付いて、ようやく ぼつり、ぽつり、と語り始めた人もいる。

 

 

「きのこ雲の下には、人の人生があった。」と記したSusan Southardさん。大学で学生たちと原爆投下や被爆者について議論するSouthardさんを追ったドキュメンタリーも印象的だった。彼女の講義を聴講する前に学生たちがあらかじめ読んだ著書はこちら↓

Nagasaki: Life After Nuclear War Susan Southard

 

 昨夜は 73年という時を経て、家族の元へ届いた兵士たちの手紙に涙した。それらの多くは、ガダルカナル、ルソン島で戦死した日本兵から米兵が戦利品として母国へ持ち帰ったものだった。大量の手紙が今も遺族に届かぬままになっている。米国で大切に保管されていたことにも驚いたが、それらの手紙の内、ほんの一部が遺族に届けられた様子をTVで見ていた。38歳で戦地へと赴き、その間、妻から6番目となる我が子の誕生を手紙で知らされた男性。30通を超える手紙を一人の兵士が片時も離さず持参したままであったため、まとめて保管されていたらしい。それらの手紙が、父の顔を知らずに73歳になった男性の元へ届けられた。自分の成長を伝える母の手紙を戦地で最後まで大切に持っていた父のことを知り、「自分のことを父は知らないのではないかと思っていたが、こうして知っていてくれた…」と、涙していた。

 

聴力に障がいがある妹を心配していた兄の手紙も73年後、妹の元へ届けられた。

「兄のお蔭で仕事をし、(将来、自立できるようにと施設入所手続きをしたのは兄だった)

 結婚、出産…と幸せな人生を送ることができた」

 

  オランダと日本人の父を持つ姉妹は、自分たちの両親が出会ったインドネシアも訪問。Family Historiesを知ることで得られた心の平穏。73年ぶりに届いた手紙を通じて知った父の愛情。或は再確認した兄の愛。余りにも壮絶な人生に言葉も失う。それでも最後は…特に姉妹の姉の涙が憎しみ、哀しみから喜びの涙に変化したことで、こちらも救われた気がした。「大丈夫、自分を責めないで」母の傍で、そう言い続けた娘さんが素晴らしい。

 

 大丈夫、〇〇を責めないで

何かを責め続けると魂は救われない。自分であれ、他人であれ、世間であれ、時代であれ…

And I'll close here for now, but I'll keep reading stories of other people's life.

 

 

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ホークスも…

2018-08-17 23:23:17 | ホークス

 千賀投手が完封勝利で圧勝したようでして…(試合は見ていない)

高校野球もベスト8が出揃いましたね。福岡代表の2校が敗れた時の対戦相手がいずれも残っています!!

大阪桐蔭と日大三。

 今日は変化に跳んだ暑い日でした。自宅へ戻ると涼しいと感じたので、日中は暑くとも、秋は確実に近付いてはいるようです。

 

 Oh yes!!! 変化といえば、その前日も!

懐かしい~生徒さんと久々のレッスン。詳しくは書きませんが、大いに笑いました。

是非とも いつの日か、海外出身のお友達を誘って お寿司屋さんへ行って下さい♪

Oh, don't you know how to order sushi?  Just leave it to the fish 

Some people would say it doesn't make sense. But it does for us. 

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