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「山手線 駅と町の歴史探訪(小林祐一)」という本はとてもオススメ!

2016年04月29日 01時00分00秒 | 
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 「山手線 駅と町の歴史探訪」という本は、東京のJR東日本の29駅からなる環状線の鉄道である山手線を紹介したもので、開業に至るまでのエピソードや駅の変遷、地形と山手線の関係、沿線の史跡や歴史・文化・地名、駅にまつわるトリビアなどが満載で、とても楽しめる内容となっています。

 江戸時代から昭和までの歴史にはナルホドと思われることが多く書かれてあり、特に1923年(大正12年)の関東大震災後にその復興として山手線は高架化などで立派に造られ、今もその面影を各駅で残しているということには感銘を受けましたね。

 震災は不幸なことですが、それをチャンスと捉えて今にもつながる立派なインフラ造りを当時行ったことは、とても素晴らしいことだと思います。

 そのほか沿線の史跡や歴史も、へ~そうだったんだ!と思える内容が多くてとても勉強になりましたね♪

 「山手線 駅と町の歴史探訪」という本は、山手線や山手線沿線の史跡や歴史なども学べて、とてもオススメです!

以下はこの本のポイントなどです。

・有楽町の地名は、織田有楽斎長益に由来するといわれる。織田長益は織田信長の弟で、茶人としても名をはせた武将。この織田有楽斎長益の屋敷が、数寄屋橋御門の近くにあり、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられた、とされている。しかし、この説には異論もある。織田長益は関ヶ原合戦後も豊臣家に仕え、大阪冬の陣の際には大阪城内にいて徳川軍と戦った。豊臣家にあって徳川との和睦を主張し、大阪夏の陣の直前に豊臣家を離れ京都に隠棲、茶道三昧の日々を過ごしたことがわかっている。こうしたことから、近年の研究では、有楽町の地名=織田有楽斎由来説に疑問が提示されている。徳川幕府の政権初期に、江戸城のすぐ近くの要地に、豊臣家家臣の屋敷が置かれることはないだろう、ということだ。ちなみに有楽町=織田有楽斎由来説の根拠は江戸時代後期の地誌「江戸砂子」によるものであって、同時代の史料ではないことも、通説に疑問を提示する一端となっている。有楽町の地名の由来についての異説は、土地の特色によるものだ。江戸幕府開府期には、このあたりまで海が入り込んでいた(日比谷入江)ことから、「浦原うらはら」「浦ヶ原うらがはら」とよばれ、これが転じて有楽原(うらくはら)となり、有楽町の表記につながったのではないかとしている。

・わが国の鉄道は、明治5年(1872)9月12日の新橋~横浜間の正式開業をもって始まりとされている。なお、当時は太陰暦(旧暦)が採用されており、これを現代の暦(グレゴリオ暦)に改めた明治5年10月14日が「鉄道の日」となっている。現在の新橋駅の開業は明治42年(1909)12月16日。これは開業当時の新橋駅と、現在の新橋駅が異なる場所にあるからだ。鉄道創業時の新橋駅は「新橋停車場」といって、現在の港区東新橋1丁目、汐留シティセンターの付近にあった。ちなみに鉄道創業時の横浜駅は現在の根岸線桜木町駅である。現在の汐留の地に最初に開業した新橋駅は、東海道線の起点駅であり、列車がこの駅で折り返し運転をするターミナル型(終着駅型)のプラットホームになっていた。その後、東海道線の延伸(東京縦貫線)が計画され、この延伸を見据え、現在の新橋駅の場所に「烏森」駅が開業したのが、明治42年12月16日である。同時に、烏森~品川~池袋~上野間が電化され、電車運転が始まった。これが今日の山手線のルーツである。烏森駅は東京駅の開業時に「新橋」と駅名を変更。現在の新橋駅となったわけである。また、旧新橋駅は「汐留」駅と改称、貨物専用の駅となった。

・新橋の烏森の地名は、カラスが群れ棲んでいたからであろう。烏森神社は人形町の「すぎの森神社」と神田須田町の「柳森神社」と並んで「江戸の三森」にも数えられている。しかし、他の2社は植物名の森であるのに、烏森だけは植物名ではない。それだけカラスの鳴き声がやかましく目立っていた、ということなのだろう。カラスが群れるためにはある程度以上の森林密度が必要なので、かつてこの神社はそれなりに大きな規模だったのかもしれない。

・浜松町駅から海側へ歩くと、竹芝桟橋、そして日の出埠頭がある。これらの港は、大正12年(1923)の関東大震災がきっかけで設けられたものだ。それまで東京では、外国との貿易など海上輸送による貨物の陸揚げ港として横浜港を想定していた。横浜で陸揚げし、東京への輸送は鉄道を利用するという体制だったのだ。しかし、関東大震災によって陸上交通網が壊滅状態となったため、その反省つぃて都心部にも海上輸送の拠点を設けるべき、ということになった。そして大正14年(1925)、まず日の出埠頭が完成。昭和9年(1934)には竹芝埠頭も完成し、これによって浜松町駅は臨港鉄道駅の性格を持つようになる。現在は廃止されたが、かつては浜松町駅の海側に貨物輸送のための臨港鉄道線があった。ちなみに現在の「ゆりかもめ」はこの臨港鉄道線の跡をたどるようにして建設されている。これらの埠頭からの旅客営業が始まったことにより、浜松町駅は海上交通と陸上交通の乗換駅となった。昭和39年(1964)、東京オリンピック開催にともなう外国人来日客の輸送ルートとして東京モノレールが開業。これにより浜松町駅は空港連絡のターミナルともなった。こうした海と空のターミナルと接続する駅という性格は現在も変わっていない。空港と旅客船の港との双方に接続する駅は全国でも稀である。

・浜松町駅の話題というと、3・4番線ホームの南端(田町寄り)に小便小僧の像が知られている。昭和27年(1952)10月14日、鉄道開業80周年の際に設置されたのが最初で、新橋駅の嘱託医だった小林光歯科医師から寄贈されたもの。これは白い陶器製の小便小僧像だったというが、昭和43年(1968)、現在のブロンズ像に替えられた。この小便小僧は4月にはランドセルを背負った新入生、5月には兜と鯉のぼりを手にし、夏場には浴衣、12月にはサンタクロースといった具合に衣替えをする。その始まりは昭和30年(1955)で、浜松町駅近くの会社に勤務していた女性がキューピッドの衣装を着せたのがきっかけ。その後、季節に合わせて衣装が替えられるようになった。現在はボランティアグループによって毎月着せかえが行われている。

・日本初の鉄道が開業した明治5年(1872)、品川~新橋間は、海上に築堤したところを走っていた。築堤の上を蒸気機関車の引く列車が走る錦絵が残されている。陸地に鉄道を敷設できなかった理由は、このあたりの海岸沿いは江戸時代の東海道沿いの町並みであり、すでに市街地化していたため住民の立ち退きなどの問題があった。また、火の粉をまき散らして走る蒸気機関車に対して反対運動が大きかったこと、などもある。

・品川駅の開業は明治5年(1872)6月12日(旧暦5月7日)。これは日本最初の鉄道として知られる新橋~横浜間の開業よりも早い。実は品川駅は、新橋~横浜間の開業に先立つ同年6月12日に仮開業し、列車の運行は翌13日から品川~横浜間で開始されているのだ。開業当時の運転本数は1日2往復。横浜駅8時発の列車が品川駅到着8時35分。この列車が折り返して9時品川発で9時35分横浜着。午後になって横浜発16時の列車が16時35分品川着。折り返し17時品川発で17時35分横浜着だった。運賃は1等1円50銭、2等1円、3等50銭。当時の米の価格が1升あたり4銭。概算すると、品川~横浜間の3等運賃は米20キロの値段に相当する。1等なら米が60キロも買えるのだ。現代は低価格米からブランド米までさまざまだが、おおむね10キロあたり3000~6000円くらい。ということは、品川~横浜の鉄道運賃は3等車で最低でも6000円、1等車なら1万8000円ということになる。タクシー並の価格ということだろうか。鉄道運賃は当時の貨幣価値からするとかなり高価だったといえるのだ。しかし、高価格にもかかわらず利用客は多かった。それまでの常識では、東京から横浜へはまる1日がかりの道のり。所用で横浜へ向かうことがあると、1~2泊はあたりまえだった。それが片道30分あまりになるのだから、日帰りも十分に可能になる。こうして運転本数は次第に増えて1日8往復になり、多いときは1ヶ月で7万人が利用した。乗客数の増加に伴い、運賃も値下げされ、新橋駅開業時には1等1円12銭5厘、2等75銭、3等37銭5厘となった。その後明治7年には上等1円、中等60銭、3等30銭とさあい値下げされ、列車の運行も1日12往復に増発された。品川駅中央改札口を出て高輪口へと階段を下りると、駅前のロータリーに「品川駅創業記念碑」があり、開業の由来と当時の運賃などが記されている。

・恵比寿駅の周辺は、古くは下渋谷村・三田村と呼ばれており、渋谷川と三田用水に挟まれる農村で、大名の下屋敷が点在している閑静な地域だったようである。この三田村が変貌を見せるのは明治20年(1887)。現在のサッポロビールの前身となる日本麦酒醸造会社がこの地に工場を開設したのだ。そして、同23年(1890)から売り出されたビールは、商売繁盛の神として馴染み深い七福神の恵比寿神にあやかって「恵比寿麦酒」と名付けられた。このビールを工場から出荷するために、工場の前から造られた坂道が「ビール坂」。やがて日本鉄道品川線が開通すると、ビールの出荷は鉄道によるものとなった。工場近くに貨物駅が設けられ、明治34年(1901)からビールの積み出しを行っていたが、その5年後、明治39年(1906)10月30日に、この貨物専用駅が旅客輸送を開始することになった。そのときに付けられた駅名が、ビールの商品名にちなんだ「恵比寿」である。ちなみにその2日後の11月1日に日本鉄道は国有化され、官営(当時は鉄道作業局)の路線となっている。その後、駅の東側の道が恵比寿通りと呼ばれるようになり、昭和3年(1928)にはこの恵比寿通りに沿った一帯が恵比寿通1・2丁目となった。つまり、一企業の商品名がいつしか駅名になり、そして地名にもなったという、珍しい例なのだ。

・原宿駅の北側200mほどのところに、黄緑色の屋根の小さな駅のような建物がある。この建物は、山手線の車窓からも見ることができる。これが皇室専用ホームだ。通称を宮廷ホームともいい、皇室専用の特別の駅である。周囲を白い壁で囲まれた入り口の門扉は閉ざされており、気づかない人も多い。この皇室専用ホームは建てられたのは大正14年(1925)10月。病気静養中だった大正天皇が神奈川県の葉山御用邸へ移動する際、人目を避けられるようにとの理由で初めて使用された。昭和天皇の時代には、那須や須崎の御用邸への移動などはもっぱらこのホームが使用されていた。だが、平成になってから今上天皇は、列車での移動は基本的に東京駅を利用している。平成13年5月、全国植樹祭から東京に戻られた際には皇室専用ホームが使用されたが、それ以降は利用されていない。皇室専用ホームを取り巻く状況も変わった。以前は皇室専用ホームから山手貨物線を利用して皇室専用列車の運行が比較的容易だったが、現在の過密な列車ダイヤでは専用列車を組むことが難しくなっている。

・代々木駅には、山手線の中でトップという記録がある。それは代々木駅の標高38.7mが、山手線の駅としては最高所ということ。ちなみにもっとも標高が低い駅は品川駅の2.9m。ここから、大崎(標高4.2m)~五反田(8.8m)と標高を上げ、目黒(22.9m)に向けて20パーミルの急坂を登る。目黒からは尾根に沿うようにして渋谷(19.6m)~原宿(27.8m)とさらに上り坂で、頂点の代々木駅へとやってくるのだ。代々木駅のホームの原宿寄りから眺めると、外回り電車はゆっくりと坂道を登ってくるといった印象だ。

・新宿駅が開業したのは明治18年(1885)3月1日。日本鉄道品川線の開通にともなって開設された駅である。開業当初は現在の活気ある新宿駅の姿からはとても想像もつかないほどの寂しい駅だったといい、乗客数は1日50人程度で、乗客ゼロの日もあったという。もっとも当時の新宿駅は今ある大型ターミナル駅の姿とはまるで異なっていた。そもそも開業した新宿駅付近は、東京市街の西はずれ。しかも1日わずか3往復しか運行されない日本鉄道品川線の中間駅に過ぎない場所なのだ。

・ちなみに江戸時代に新宿で最も大勢の人でにぎわっていたのは、江戸時代の宿場町に端を発する「内藤新宿」の界隈である。現在の新宿三丁目の交差点よりも四谷寄りのあたりが内藤新宿の中心地で、交差点は甲州街道と青梅街道の分かれ道にあたる「追分」だったため、人の流れが活発だった。内藤新宿は新宿のルーツになった宿場である。江戸五街道のひとつ、甲州道中(街道)において、日本橋を出立して最初の宿場が内藤新宿だった。宿場の成立は江戸時代中期の元禄12年(1699)。江戸五街道の宿場としてはかなり後発である。この宿場が後発だったことには理由がある。内藤新宿の宿場が成立する以前の甲州街道では、日本橋から最初の宿場は高井戸だった。日本橋~高井戸間の距離は4里12町(約17km)。宿場間の距離が17kmでは長すぎるということから、日本橋~高井戸の中間地点に新しく宿場を設けることになった。そうして「新しく」設けられた「宿場」が、「新宿」である。宿場の用地は徳川譜代の大名である内藤家の屋敷地を利用した。内藤家屋敷の北側を幕府が召し上げて宿場町を新たに造営したため、宿場の名称は「内藤新宿」となった。ちなみに屋敷の南側は残り、今日の新宿御苑となった。内藤新宿は後発の宿場だけに、宿場経営には厳しいものがあった。そのため、宿場の経営者たちは飯盛女(遊女)を旅籠に配して誘客を図った。甲州街道の宿場であった新宿はこうして経営されてきた。つまり、新宿は、江戸時代から風俗営業の町として栄えてきたのである。

・新宿の淀橋浄水場で働く人たちも利用したであろう新宿駅は、大正時代以降、多くの私鉄が乗り入れるようになった。大正4年(1915)の京王電気軌道(現在の京王電鉄)開業、昭和2年(1927)の小田急電鉄の開業などでターミナル駅へと変わっていった。大正12年(1923)の関東大震災も人の流れを変えた。被災して家を失った人たちが、郊外に家を求めたため、郊外の人口が増えていき、新宿駅の利用客も増え続けることになったのだ。その後も第二次世界大戦の混乱期を経て、戦後間もないころの新宿はヤミ市からの出発だった。昭和27年(1952)に西武新宿駅が、昭和34年(1959)に地下鉄丸の内線が開通。昭和39年(1964)に東口に駅ビル(旧マイシティ、現在はルミネエスト新宿店)が完成し、駅周辺は繁華街として急速に発展していく。同じ年の秋には京王百貨店が開店。さらに昭和42年(1967)には小田急百貨店が新宿駅と直結するビルで営業を開始。新宿駅と新宿の街の目まぐるしい変化は、戦後日本の復興、高度経済成長時代の足どりとも重なる。

・新宿駅西口周辺にも大きな変化が起きた。昭和40年(1964)、淀橋浄水場がその機能を東村山に移転して廃止されえたのだ。新宿駅西口方面の地域には住宅と学校はあるものの閑散としていたため、再開発が望まれていた。そのために地元民を中心に浄水場の移転が要望されていたのだった。淀橋浄水場は、67年の歴史に幕を閉じたが、その跡地は新宿副都心として、新たに歴史が刻まれることになる。昭和46年(1971)、「京王プラザホテル」がオープンし、その後も住友ビル、三井ビルといった超高層ビルが次々に登場。平成3年には東京都庁が移転し、世界でも屈指の超高層ビル街を形作っている。淀橋浄水場は東京の人たちの快適な暮らしを作り、超高層ビル街は東京の新しい発展のシンボルとなった。

・山手線の最高所となるのが、新宿~新大久保間だ。山手線が、一周全線の最高地点・標高41mを通過するのは、新宿駅の北側で、中央・総武線の線路上を越えるあたり。もともと標高が高い場所で、そこに中央・総武線は築堤上に線路があり、さらにそれを越えるということで、山手線内の標高最高到達地点となった。この場所に向かう外回り電車の勾配は25パーミル。乗車していて「峠越え」を感じられるほどの高低差だ。

・新大久保駅の開業は大正3年(1914)11月15日。日本鉄道品川線として開業した区間の駅では最も後発の開業である。現在のように高架化されたのは大正13年(1924)のこと。現在のホームもこのときの工事で建てられたもののようで、ホーム上にその証拠を見ることができる。それは古いレールを転用した柱で、その多くはホームの中央から立ち上がるが、一部は左右2カ所から立ち上がり、中央に向かって曲がる形となっている。これが大正時代のものと思われるのは、柱と柱の間隔が約4.5mになっているから。4.5mはおよそ5ヤード。鉄道にメートル法が採用されたのは昭和5年(1930)のこと。新大久保駅のホームの柱は、じつは5ヤード間隔で設置されているのだ。

・高田馬場駅は内回り線と外回り線に挟まれてプラットホームがあり、同じホームの両側に方向の異なる電車が停車するという「島式ホーム」の駅だ。このさして大きくはないホームを1日あたり20万195人(2014年調べ)の乗車客(降車客は含まない)が利用する。JR東日本の駅としては12位、山手線内では8位。全国のJR線でも14位(大阪駅と京都駅が上位に入る)となり、名古屋駅(15位)よりも乗客数が多いのだ。この数字は島式ホーム1面の駅としては日本一。そして、JRが1路線しか運転していない駅としても日本一の数字だ。ちなみに、全世界で年間乗客数上位の駅を見ると、1位から23位まで日本の駅が並び、24位でようやく日本国外の駅としてパリ北駅が登場する(2009年調べ)。このランクでは高田馬場駅は10位。つまり、日本一ということは、そのまま世界一の記録となりうるのだ。

・駅名の「目白」であるが、これも歴史的には地域の地名ではない。地域名を駅名にするならば、ここでふさわしいのは「雑司ヶ谷」「下高田」「下落合」などのはずだ。そもそも「目白」は、地域名ではなく、関口にあった新長谷寺という寺院の仏像に由来する名称。新長谷寺の不動堂にまつられていた不動明王が、徳川3代将軍家光によって江戸を鎮護する五色不動(目黒、目白、目赤、目青、目黄)のひとつ、「目白不動」とされたことによるもの。この新長谷寺は、現在の東京メトロ有楽町線江戸川橋駅の近く。目白駅からは直線距離で2km以上離れている。近隣の町村からの要望で設置した駅ゆえに特定の地名を避けたかったのか、それとも江戸五色不動の参拝口の駅としたかったのか。あるいは、同時開業する「目黒駅」と「不動つながり」で関連付けた結果なのか。ちなみにこの新長谷寺は昭和20年(1945)の空襲で焼失、目白不動は駅近くの金乗院に遷されたが、それでも目白駅から1kmほど離れた場所である。

・目白駅は山手線内では珍しい、他のJR線や私鉄・地下鉄線と接続がない駅だ。ちなみに山手線全29駅の中でこのように他の路線と接続がない駅は目白のほか、新大久保と鶯谷の2駅しかなく、この3駅が山の手線内で最も乗客が少ないということになっている。ちなみに2014年の1日あたりの乗客数は3万7190人。鶯谷に次いで山手線内駅では下から2番目である。

・池袋駅は大正3年(1914)に東上鉄道(後の東武東上線)、大正4年(1915)に武蔵野鉄道(後の西武池袋線)が開業。乗客は増加したが、駅周辺の開発はさほど進まず、昭和前期までは郊外駅という雰囲気を色濃くしていた。ちなみに当時の城北地区で繁華な街だったのは大塚で、駅前に白木屋百貨店と花街があってにぎわっていた。百貨店へ行くなら大塚の白木屋か上野松坂屋、新宿三越。映画を見るなら浅草、といった具合で、池袋はあくまでも乗り換えの駅だった。池袋が繁華な街へと変貌するきっかけは、昭和10年(1935)の菊屋デパートの開業。この菊屋デパートが後に武蔵野デパートと改称、さらに昭和25年(1950)、西武百貨店と改称。当時の西武百貨店は木造モルタル2階建てだったが、その後増改築を繰り返す。これが引き金となって周辺には三越、東京丸物(現在のパルコ)、東武百貨店などが昭和20年代後半から昭和30年代にかけて次々とオープン。池袋は急速に発展していく。現在の池袋駅の1日あたりの乗客数が54万9503人。JR東日本の駅では新宿駅について第2位のマンモス駅である。駅の周辺は都内でも屈指の繁華街となっている。

・大塚駅の周辺は、豊島線の開業後、飛躍的な発展を見せる。それに一役買ったのは王子電車だった。明治末期の城北地区では唯一、山手線と他社線が交差する大塚は、その利便さもあって大いににぎわったのであった。そうして、大塚には三業地ができた。「三業」とは、料理屋(料亭や仕出し屋)、芸妓置屋(芸妓の手配などを扱う芸妓組合事務所)、待合(貸座敷。仕出し料理を取り寄せ、芸者遊びをする)の業態のこと。これがそろうと花街と呼ばれる。大正11年(1922)、西巣鴨街平松の一帯が指定許可を受け、谷端川沿いに料理屋と芸者置屋が軒を連ねた。大正13年(1924)には、待合の営業が許可され、三業地として発展する。谷端川に料理屋の灯火が川面に映って風情があったという。最盛期には料理屋85軒、待合18軒が軒を連ねており、芸者の数は200名を超えた。城北きっての花街であり、その勢いは神楽坂の花街をしのぐほどだったという。大塚三業地は現在はひっそりとしているが、営業を続ける料亭もあるし、少ないながら現役の芸妓も存在する。

・東京~品川間の各駅は「東海道本線」。東京~田端間の各駅は「東北本線」。ということで、山手線の正式な区間は品川から渋谷・新宿・池袋を経て田端までとなる。起点が品川、終点が田端。ということで田端や山手線の正式な終点なのだ。路線という視点からいえば山手線の営業キロは20.6km。「JR時刻表」の山手線のページでも、駅名欄の横に「線名」として正式な路線名が記載されている。

・田端の台地上から眺める風景が、一時期、芸術家たちに評判となったことがある。台地から眺める筑波山の山容がみごとということで居を構えたのは陶芸家の板谷波山。同じくこの風景を毎日の散歩の楽しみにしていたのは、鎌倉から移り住んだ作家の芥川龍之介。この二人が田端に住んだことによって、田端は芸術家や文学関係者の町になっていく。田端に住んだ作家たちを列挙すれば、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、野口雨情、竹久夢二。こうして芸術に携わる人々が同じ地域に集まったことで、明治43(1910)には親睦団体「ポプラ倶楽部」が生まれ、テニスコートや西洋料理の店も誕生し、田端は当時の流行の先端をいく町となっていった。しかし大正12年(1923)に関東大震災で被災し、昭和2年(1927)には芥川龍之介が自殺。求心を失ったことで芸術家に愛された田端の終焉を迎えることになる。北口駅前にある「田端文士村記念館」に足を運ぶと、詳しい資料が展示されている。

・「御徒」は「徒士」などと表記される身分の武士のことで、馬への騎乗が許可されない、すなわち戦時には歩兵となる武士のこと。このため、平時には主君の護衛を行うことが多い。徳川幕府の場合は、主として、江戸城や将軍の護衛を行う。身分は御目見以下の下級武士ではあるが、将軍の身辺警護という重要な役職を担っているためプライドは高い。28人で1組として、20組が、若年寄支配・目附配下に置かれていた。ちなみに下級武士とはいっても、町奉行所同心よりもはるかに各上である。ただし俸禄(給与)は安かったため、家計を賄い切れず内職をして生活していた。参考までに、下級武士とは主君に直接拝謁する資格のない身分の武士をいう。その下級武士の呼称のうち、もっともランクが上なのがこの「徒士」である。「徒士」以下の下級武士の身分については、時代や藩によって多少の変動があるが、おおむね、「同心」「小役人」「足軽」「中間」「小者」「郷士」の順となっている。徒士は下級武士のトップとして諸藩に置かれたので、「御徒町」「徒士町」「徒町」などの地名は城下町であれば全国各地に見ることができる。

良かった本まとめ(2015年下半期)

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