<金曜は本の紹介>
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この「あの戦争は何だったのか」という本は、太平洋戦争は何であったのか、どうして始まって、どうして負けたのかを本質的に追求して真実に迫ったものです。
第1章では旧日本軍のメカニズムについて以下の説明が分かりやすくあり、特に「統帥」について理解を深めることができました。
・職業軍人の教育機関
・徴兵制
・帝国陸海軍の機構 等
第2章ではは開戦に至るまでのターニングポイントとして以下について書かれています。
特に2.26事件の影響で結果的に軍主導による国家体制の方向へ進んでしまったことがポイントかと思います。
・2.26事件
・皇紀2600年(1940年(昭和15年))
・「北進」か「南進」か
・東條内閣
・石油の備蓄と海軍
第3章では、昭和16年12月の開戦から昭和18年までの出来事等として以下について書かれています。
特にいつ戦争を終わりにするのかという想定がなかったこと、つまり勝利の想定がなかったことには驚きました。
・真珠湾攻撃
・ミッドウェー海戦
・ガダルカナル
・山本五十六の戦死
・絶対国防圏
第4章では、その後の敗戦について以下等について書かれています。
特にポツダム宣言から8月15日までの詳細な経緯については興味深かったですね。
・インパール作戦
・あ号作戦
・サイパンの玉砕
・硫黄島、沖縄の玉砕
・和平交渉
・ポツダム宣言
第5章では、8月15日以降の戦いについて書かれています。
特にシベリア拘留や現在の北方領土問題に関わる侵攻などの真実には興味深かったです。
また世界の教科書では、第二次世界大戦が終了したのは8月15日ではなく、降伏文書に正式に調印した9月2日が常識というのにも驚きましたね。
この「あの戦争は何だったのか」という本は、太平洋戦争やこれから同じような過ちを繰り返さないことについて考えさせられる良い本だと思います。とてもオススメです!
以下はこの本のポイント等です。
・陸軍の職業軍人になるための第一歩は、陸軍幼年学校から始まる。年齢で言えば満13歳の時である。高等小学校を終えた者か旧制中学の1年生修了時に、幼年学校を受けることができた。幼年学校は全国に6ヶ所、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本に建てられた。いずれも全国で6つの師団が置かれた都市であった。募集人員は年によって変わったが、全国でだいたい250名ぐらいに落ち着いた。日本各地から優秀な人材が選ばれ、入学した。学校教育は官費で金がかからないゆえ、経済的理由で進学するものも多かった。幼年学校に入るということは、地元の誉れであった。幼年学校では6つの都市で通常3年間教育が行われる(大正9年に制度改正)。そして幼年学校を終えると、今度は陸軍士官学校に進むことになる。士官学校では、幼年学校から上がってきた者以外に、一般中学を5年生で卒業、あるいは4年が終わった段階で新たに受験して入学してくる者もあった。幼年学校卒業者が士官学校入学者の過半数を占めるよう計画された。士官学校での教育期間は士官候補生時代を含めて大体が4年半で、卒業する頃には20歳そこそこの年齢となる。卒業した彼らは各原隊に赴き、そこで少尉となる。こうして将校見習いとして実地の訓練を受けるのである。ちなみに徴兵で入った一般の兵隊にとって、少尉に就くなどほとんどありえないことであった。さて、原隊に入った将校見習いたちであるが、彼らにはさらなる目指すべき上級養成機関があった。陸軍大学校(通称、陸大)である。陸大に入ることは、軍内の高級将校になる道が約束されていることを意味した。ただし陸大受験はそうとう難関であった。まず受験資格のハードルが待ちかまえている。任官2年以上(昭和期にいは任官後8年となっていた)の少中尉が対象で、自分が属する原隊の連隊長の推薦、それに30歳前の2年間だけという期限も設けられていた。試験は一次に学力、二次は口頭試問となっていた。定員はわずかに50人という狭き門である。晴れて陸大に入学すると、そこでの教育期間は3年間、卒業後はキャリア幕僚として扱われる。さらに陸大卒業時の成績上位者1割前後は「恩賜の軍刀組」と呼ばれ、参謀本部の作戦部など軍中枢部に入る特権を得た。まさにエリート中のエリートの存在である。
・陸軍の士官学校に相当する海軍兵学校の採用人数はおよそ100名前後。受験資格があるのは、陸軍士官学校と同じく、中学卒業生、あるいは4年修了時の学生であった。ただし試験科目には物理や数学などがあった。また陸軍のように幼年学校を経由してくるコースなどなく、士官学校よりもはるかに入学は難しかったようである。競争率が30から40倍になることも珍しくなかった。海軍兵学校の上には、海軍大学校があった。
・太平洋戦争開始時、日本の軍人や兵士や陸海合わせて総計で約380万人いた。そして終戦前年の昭和19年には、その数、何と800万人にも膨れ上がっていた。当時の日本の人口が約7500万人だったから、10分の1以上の国民が兵士になっていたことになる。その兵士全体のうち、職業軍人の数は陸軍の場合およそ5万人ほどと推測される。つまりそのほとんどが徴兵によって採られた一兵卒であった。
・通常の徴兵制は(戦時になると変わっていくのだが)、満20歳になると徴兵検査を受けて新兵として入隊することとなる。入隊して2年間(ただし海軍は3年間)、兵役に就かなければならなかった。除隊後も5年4ヶ月間(海軍は4年間)は予備役として登録され、ひとたび戦争が始まれば動員され、戦場に送られる状態にあった。太平洋戦争開戦後は陸軍は15年4ヶ月、海軍は12年に拡大されている。
・徴兵検査は、自分の本籍地にある徴募区、検査区で、毎年4月16日から7月31日の間に受けることになる。身体検査によって、現役として徴集する者、予備徴員とする者、兵役に適さない者、適否を判定し難い者の4つに区分された。現役に適する者は、まず身長152センチ以上(昭和15年改定後)であること、そして胸囲が身長の半分以上、筋骨が薄弱でなく、両眼の裸眼視力が0.6以上、特記する疾病その他身体または精神の異常がない者。それらの者を甲種とした。そして甲種に至らないが現役に適する者を乙種。以下、障害身体検査規則により現役に適さない者を丙種、身長145センチ未満及び疾病その他身体または精神に異常がある者は兵役に適さないとして丁種と、それぞれランク付けされた。また疾病あるいは病後などのため兵役の適否を判定し難い者は戊種として、翌年改めて検査を受けさせられた。
・徴兵検査の結果は、これも時代によって多少の差異はあったが、平均すると約4割が甲種であったという。甲種以外の、例えば身長が少々足りなかったり、ひどい近眼であるなどといった場合に、乙種に回された。つまり、ほとんどが現役に適すると判断されていた。徴集されることのない丙、丁種はほんのわずかなものだった。もっとも、太平洋戦争末期の昭和19年10月には、本土決戦に備えると称して総動員態勢が取られて、たとえ丁種であっても徴集されるようになった。
・旧日本軍「軍部」は、頂点に位置する天皇の下、大きく2つの構造からできていた。「軍令」と「軍政」である。「軍令」というのは、一言でいえば「戦争方針を決定する」部門のこと。通称「統帥部」と呼ばれた。「大本営」と言い換えてもいいだろう。「大本営」とは、戦時に設置される最高統帥機構を指している。一方の「軍政」は、陸軍省と海軍省からなる。統帥部に対して、「軍政」の陸軍省、海軍省は、陸軍大臣、海軍大臣の下、飽くまで行政機関の一つという位置づけであった。統帥部とは、天皇が持つ統帥権を付与された機関である。この統帥部は陸軍と海軍の2つに分かれていた。陸軍は「参謀本部」といい、海軍は「軍令部」と言った。参謀本部は参謀総長以下、軍令部は軍令部総長以下、一糸乱れぬ命令系統が出来上がっていた。
・参謀本部には、作戦部・情報部・運輸通信部・戦争指導班などが、軍令部には、作戦部・軍備部・情報部などがあり、大本営は全体でおよそ200人ほどの幕僚が詰めていた。大本営にいること自体、キャリア組の証しであっtが、その中でも参謀本部、軍令部ともに、ヒエラルキーのトップにあったのが「作戦部」である。作戦部にいた20人前後の幕僚は、特にエリート中のエリート、実際に軍を動かし、戦略を決定していた存在であった。いわゆる「軍部」といった時、指されるのは、彼ら「作戦部」の連中のことである。陸大、海大の成績で1番から5番までしか入れないという暗黙のルールもあった。しかもその人事は陸軍で言えば陸軍省人事局の管轄ではなく、参謀次長が握っていた。参謀本部は永田町の三宅坂にあり、作戦部はその建物の二階の一室にあった。作戦部の部屋の入り口には、24時間、衛兵が立ち、作戦部以外の者は誰も入れなかったという。たとえ、同じ参謀本部の「情報部」将校が行っても決して入れてはくれなかった。それほど徹底して秘密を厳守している少数集団だったのである。
・統帥権と統治権は両方とも天皇の大権として付与されたものであった。この2つは、簡単にいってしまえば、「軍事」権と「政治」権のことである。この二者の調整により、国策は決定されていた。昭和12年には「大本営政府連絡会議」という場が作られ、そこで両者の意見調整が行われた。会議の出席者は、大本営の側からは参謀総長、軍令部総長、政府の側からは首相、陸相、海相、蔵相、企画院総裁であった。もっとも議題によって出席者はかわった。ただし事務方は陸海軍省の軍務局が握っていた。ここで決定した議案は次に天皇の列する「御前会議」にかけられる。しかし、御前会議は飽くまで決定事項を追認する場に過ぎず、大本営政府連絡会議が、実質上の国策決定の最高機関であった。といっても大本営側は「統帥権の干犯は許さない」の名目で、軍事作戦や軍事行動計画について、一切その内容を洩らさずに独断で決定してしまうようになっていく。むしろ軍事作戦を円滑に行うためにいかに政治の側を利用するかという目的で、この会議を使うようになっていた。例えば、アメリカとの開戦を前に、東郷茂徳外相が「開戦日はいつか」と質しても、大本営は「教えられない」とつっぱねるだけであったという。戦争開始後も、どのような作戦を進めているのか、決して明かすことはなく、「政府はもっと船を造れ」「飛行機を造れ」と催促するだけになっていた。明らかに、「統帥権」は「統治権」より上だという考えが支配していったのである。「統帥権の干犯」という言葉は、いわば”魔法の杖”であったのだ。シビリアン・コントロール(文民統制)が効かなくなっている、国家として異常な状況にあったといっていいだろう。
・陸軍における隊の基本は「中隊」である。戦時には中隊が3つか4つの少隊に、少隊がさらに分隊に分けられる。「中隊」は平時100人ほどの編成だ。中隊が3つから4つ集まると「大隊」になる。これで300人規模である。この大隊が3つに機関銃隊ほか2つの中隊が加わって集まると「連隊」が構成されるのである。連隊になると、2000人余の規模となる。つまり連隊長というと、2000人の部下を持つことになる。連隊長になることは、たいへんな出世であった。戦時には中隊が250人規模になるなど、増員されることになる。さらに、連隊の上に「師団」という単位があった。連隊が4つか5つ集まって構成された。師団になると司令部やら工兵隊や高射砲隊とかいくつかの部隊も含まれるので一挙に1万人規模となる。
・太平洋戦争開戦直後の日米の戦力比は、陸軍省戦備課が内々に試算すると、その総合力は何と1対10であったという。米国を相手に戦争をするに当たって、首相、陸相の東條英機が、その国力差、戦力比の分析に、いかに甘い考えを持っていたかが今では明らかになっている。「1対10」という数字自体もだいぶ身びいきがなされて出された数字だったが、データをもとに軍事課では、戦争開始以降の日本の潜在的な国力、また太平洋にすぐに動員できる地の利を考慮すれば、「1対4」が妥当な数字と判断し、改めて東條に報告がなされた。東條はその数字を、「物理的な戦力比が1対4なら、日本は人の精神力で勝っているはずだから、五分五分で戦える」、そう結論づけてしまった・・・。
・青年将校の決起自体は失敗に終わったわけであるが、結果的に「2.26事件」は、彼らが訴えていた通りの「軍主導」、とくに「陸軍主導」による国家体制の方向へと進ませることになった。岡田啓介首相も襲撃されたが辛うじて難を逃れ、その後は外相だった広田弘毅が首相となった。その際、「軍部大臣現役武官制」が復活している。この「軍部大臣現役武官制」が、軍が政治にまで介入する”伝家の宝刀”となった。つまり合法的な暴力になったのである。「軍部大臣現役武官制」とは、現役の軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれないという制度である。大正2年まではこの制度が取られていたのだが、その後は現役の軍人だけではなく、予備役の者でも大臣になれると改正されていた。それが、「2.26事件」をきっかけに、二度と同じようなことが起こらないようにするためと称して、軍の内情をよく把握している現役の将官のみが大臣に就く、と戻したのである。つまり、軍の気に入らない内閣ならば、陸軍大臣、海軍大臣を出さなければいいのだ。そうしたら組閣ができず、その内閣は潰れてしまう。軍は意のままに内閣を操れることとなり、圧倒的な権力を持つようになった。
・もう一つ、「2.26」は当時の日本のある状況に、大きな爪あとを残すことになる。それは「断固、青年将校を討伐せよ」と発言した天皇の存在である。天皇は、その後一切、語らぬ存在となったのである。まるで自らが意志表示することの意味の大きさを思い知り、それを怖れるかのように。「大本営政府連絡会議」で決まった議案が「御前会議」で諮られる際も、「君臨すれども統治せず」と、天皇はより徹底して口をつぐみ、ただ追認するだけとなった。日米開戦が決まるまで、天皇は一貫して開戦に反対であったと思われるが、そうした意向も決して表に出すことはなかった。あるいは歴史に「If」が許され、開戦前の時期、もし天皇が「断固、戦争に反対する」と語っていたらどうなっていたか・・・。のちに天皇は「昭和天皇独白録」の中で、もし自分が開戦に反対したら、「国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない」状態になっただろうと言っている。私の生命はかまわないが、「今次の戦争に数倍する悲惨事」になったとも告白している。皮肉なことに天皇の神格化は「2.26」後、ますます進んでいくことになる。天皇を神格化することで、軍部が「統帥権」の権威付けにうまく利用していったのである。各学校で「御真影」を「奉護」するよう奉安殿が設置されていくのも昭和12年のころからであった。
・昭和15年-この年は「皇紀2600年」に当たった。「皇紀」とは、「日本書紀」に記載されている、神武天皇が即位した年を元年とする紀元をいう。神話に基づいての年数であった。日本建国2600年を祝い、日本各地で提灯行列が行われたり、奉祝会が開かれるなどお祭りムードに沸いていた。それはまるで鬱屈した空気を振り払うかのように。11月10日には、宮城前で大式典が盛大に行われている。宮城前広場には約5万人が集まり、君が代の大斉唱がなされた。私には、このセレモニーが、昭和15年の最も「変調」をきたした象徴的な出来事に思えてしまうのだ。大式典の1ヶ月前、10月12日には、近衛首相によって「大政翼賛会」が結成されている。民政党、政友会など、当時の政党はこぞって解散して「翼賛会」に吸収されていった。つまり、国家危急の時、議会で討論して何か結論を出すなどと悠長なことをやっているのではなく、今こそ、「天皇への帰一の下、国民は一致団結して国を動かすべき」としたものである。「国民は臣民となり、全てが天皇に帰一した国家システム」が最終的に作り上げられたのだ。「皇紀2600年」の大式典は、こうした「天皇に帰一する国家像」を象徴するものであった。いわば、日本は理性を失った、完全に”神がかり的な国家”に成り下がってしまったのである。
・日米交渉の努力が進められていた一方、日本国内では、昭和16年6月の「大本営政府連絡会議」で二つの軍事政策案をめぐって議論が白熱していた。日本がドイツの勝利に便乗して7月に南部仏印に進駐するか否か、つまるところ「北進」か「南進」かの問題である。「北進」とは、対ソ戦を意味した。ヨーロッパでは驚天動地なことが起きていた。「独ソ不可侵条約」を結んでいたドイツが、約束を破りソ連に電撃侵攻(6月22日)したのである。三国同盟を結んでいる日本は、今こそドイツに呼応して東からソ連に侵攻すべきではないかとの主張であった。一方の「南進」は、既に押さえている北部仏印からさらに軍隊を南下させようとする策であった。つまりは、そこにある石油が目標であった。8割近い石油をアメリカに依存している現状では、アメリカに生殺与奪の権を握られているのと同じこと。それを打開しようとの考えであった。「北進」論者、「南進」論者とも、それぞれ強い拘りがあった。「北進」論者は、主に陸軍が多かった。もともと、陸軍はソ連を仮想敵としていた。伝統的な教育として、大陸北部を想定した戦術が多く教えられていた。特に満州に駐在していた関東軍は「北進」を強く主張した。一方の「南進」論者は海軍が中心であった。海軍の仮想敵は太平洋上のアメリカである。そして海軍が「南進」に拘るのにはむ一つ大きな理由があった。軍艦は石油がなければ動かないのではないかと・・・議論百出した末、最終的に日本の出した結論は「南進」であった。しかし、「南進」と同時に、満州にも馬や兵隊、高射砲、戦車など20個師団、約40万人を動員し、ソ連にも攻め込むようなポーズを取ることに決めた。いわば目くらましの二面作戦に出たのである。このときの満州の動員を「関東軍特種演習(通称、関特演)」といった。しかし、実はこの目くらまし作戦をソ連はすっかり見抜いていたのである。日本で諜報活動を行っていたスパイ・ゾルゲのおかげであった。ゾルゲが、近衛周辺の人物から情報をとり、スターリンに日本の「南進」を報告していたからだ。その情報により、スターリンは軍隊を東部のシベリアにではなく、全て西部のヨーロッパ方面に向けることができたのであった。
・かくして、日本が南部仏印に進駐したのは、昭和16年7月28日のことであった。そこで石油、錫などの資源を手に入れることはできたが、その分、手痛いしっぺ返しを食うことになる。「日本の南部仏印進駐を絶対に許さない」と、アメリカが「在米日本資産の凍結」、それに「石油の対日輸出全面禁止」を通告してきたのである。 にわかに事態は、風雲急を告げ始めていく。アメリカで日米交渉を続ける野村大使に、以後、ハルは徹底的に厳しい条件をつけるようになる。「仏印からの軍隊の速やかな撤退」「三国同盟からの離脱」「中国から撤兵し、蒋介石政府を認めること」。この3条件を、ハルは終始一貫、変わることなく言い続けるようになった。しかし、日本にとってはどれも飲めない条件であった。9月3日、アメリカの強硬な制裁を受け、急きょ「大本営政府連絡会議」が開かれている。そこで、現状を鑑みて3つの取るべき国策が決定された。「米英に対して戦争準備を行う」、「これと同時進行して飽くまで日米交渉を続ける」、そして「10月上旬まで交渉を続けて、交渉の成果がない場合は米英に対して武力発動を辞さぜる」と。この議決は6日、「御前会議」でも決せられた。天皇はこの報告を聞き、驚くことになる。もちろん天皇にしてみれば、「戦争を辞せざる」事態などもってのほか、と思ったはずだ。だが天皇は、この時も自らの意志を発することはなかった。ただ、よほど耐えかねたのだろう。ある異例の行動に出た。やおら懐から一枚の紙を取り出し、それを読み出したのである。「四方の海いなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」それは明治天皇の御製であった。”できれば外交交渉で解決し、和平を以って収束っせて欲しい”、そう意味を込めた、精一杯の意志表示であった。
・近衛の力量では、もはや状況を収拾する限界を超えていた。東條との口論の12日後には、無責任にも内閣を投げ出してしまう。そして後継総理に収まったのは、陸軍大臣を兼ねた東條であった。東條内閣が発表されると、国際社会に衝撃が走ったという。「一番の主戦論者が首相に就き、日本はこれで完全な”開戦準備態勢”に入った」と。アメリカ海軍は、太平洋艦隊に対していつでも出動できる準備を整えるよう命令をくだした。しかし、国際世論の危惧に反して、東條は事を荒立てる様子ではなかった。海外メディアは訂正して、こう伝えた。「むしろ慎重に会議を行っているようである」。
・東條は、とにかく天皇への忠誠心に篤い男であった。それをあえて利用しようとしたのである。木戸の報告を受けた天皇は木戸にこう語ったという。「虎穴に入らずんば、虎子を得ずだね」事実、東條は木戸に「陛下は、9月6日の御前会議の議決を白紙還元することを望んでおられる。もう一度、どんな可能性があるか探ってもらいたい。それが陛下の意志である」と告げられると、その通り白紙還元の方向を目指すのである。今まで通り日米交渉を継続する一方、東條は開戦回避が可能かどうか、今一度、陸海軍省の担当者たちに命じて、基本となるデータを全て出させることにした。いったい石油の備蓄はどのくらいあるのか、他の資源はどうか、工業力はどうか、そして日米戦わば、その戦力差はどのくらいなのか・・・。10月23日から30日までの間に、大本営政府連絡会議は「項目再検討会議」を開き、日本の必要とする物資、十数項目のデータの調査がなされた。しかし、東條の下に集まってくる数字はどれも絶望的な数字ばかりであった。特に石油の備蓄はこのままだと、2年も持たないとの結論だった。また、このデータが出されると、海軍の軍令部は「このまま油がなくなったら、日本はどうなるかわからない」と執拗に迫ってきた。東條は、もはや抜き差しならぬ状況に追い込まれていた。11月2日に開かれた「大本営政府連絡会議」で、東條を始めとする出席者たちはこう結論づけた。「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし、11月29日までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」と。12月に期限をきったのは、石油の備蓄量を逆算して限界の日時であること、またその時期以降になると季節風で太平洋南方の波が荒くなり海軍に不利になると考えたからであった。戦争への歯車が、この時から確実に動き出すことになる。
・まずアメリカに対して、日米交渉の最終的な通告として「甲案」と「乙案」を提出することに決めた。「甲案」とは、日本のこれまでの主張を譲れないとした強硬案。そして「乙案」は、「甲案」後の”落としどころ”として提出する、やや引き下がったものであった。「南部仏印から日本軍の撤退、その代償に蘭領印度(現在のインドネシア)での物資獲得の相互保障をする」といった南部仏印進駐前の状態に戻すとした内容である。日本は、野村大使の助っ人として「三国同盟」の調印をんした来栖三郎を全権大使としてアメリカに送り込み、まずは11月7日に「甲案」を、そして「乙案」を20日に提出した。だが、「甲案」「乙案」ともにアメリカは全面拒否、逆に11月26日、日本に通称「ハル・ノート」と呼ばれる最後通牒をしてきたのであった。「ハル・ノート」は何のことはない、今までのアメリカの主張を繰り返しているだけの厳しい内容であった。これを受け、11月27日の「大本営政府連絡会議」、そして12月1日の「御前会議」で、正式に対米英蘭開戦が決定したのである。
・私は、10月4日に行われた「大本営政府連絡会議」に注目したい。東條に責められ、「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」と言い放ち、近衛が内閣を投げ出した”瞬間”だ。この時、東條は近衛にこう詰問していた。「9月6日の御前会議の決定通り進むべきだ」と。前述のように9月6日に行われた「御前会議」では、10月上旬まで外交交渉を行い、それで決着がつかなければ「武力発動も辞せず」と決まっていた。このことを指して東條は言っていたのである。注目してもらいたいのは、東條は、「9月6日の御前会議の決定通り進むべき」だとしかいっていないことである。決して「武力発動せよ」「戦争しろ」と、直接的には口にしていないのだ。東條は、この時点では、強硬な主戦論者であった。当然、一刻も早く戦争を始めたかったはずである。それは陸軍の「軍部」の総意を表すものでもあった。でも、東條は、いや陸軍は、と言い換えてもいいが、「武力発動」はできなかったのである。太平洋戦争において「武力発動」ができたのは、唯一海軍だけであった。いくら陸軍が、南洋諸島や東南アジアで「武力発動」をしたくても、海軍の護衛で運んでもらえなければ、始めようがない。だから、10月4日の「大本営政府連絡会議」でも、東條は「9月6日の午前会議の決定通り・・・」としかいえなかったのだ。「武力発動」の発言力を持たなかったからである。
・この会議での調査報告では、その当の石油の備蓄量は、「2年も持たない」との結論であった。結局、それが、直接の開戦の理由となった。しかし、実は、日本には石油はあったのだ。実際に私は、陸軍省軍務課にいたある人物から、こんな証言を聞いた。「企画院のこの時の調査は、実にいい加減なものだったんです。陸軍もそうでしたが、特に海軍側は備蓄量の正確な数字を企画院に教えなかった。海軍の第一委員会が、”教える必要はない”の一点張りで、企画院は仕方なく、大ざっぱなデータから数字を割り出し、計算して出した結果なのです」
・なぜ海軍は戦争を欲したのか。満州事変、日中戦争と陸軍ばかりが表面上は国民に派手な戦果を誇っているのに海軍はいっこうに陽があたらない。アメリカ依存の石油供給体制を脱し、東南アジアの油田地帯を押さえて、不安のないようにしたい。軍縮条約から解放されての建艦自由競争で大艦巨砲主義に相応の自信をもったことなどがあげられよう。だが同時に時の勢いに流されたということも指摘できるように思う。
・私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きな一つの理由がある。それは、「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。当たり前のことであるが、戦争を始めるからには「勝利」という目標を前提にしなければならない。その「勝利」が何なのか想定していないのだ。例えば、それがワシントンのホワイトハウスに日章旗を揚げるでも、アメリカ西海岸の都市を占領するでも、何でもいい、何かしらの「戦争の集結」像があってしかるべきだと思うのだが・・・。開戦時の日本の「勝利」とはどのような状態を意味したのか、私は徹底的に調べてみた。ようやくそれに値するだろうある報告書に気づいた。それは、昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争集結促進ニ関する腹案」というものである。腹案には、こう書かれていた。「將界石政府を屈服させる。その上でドイツ、イタリアと提携してイギリスを屈服させ、アメリカの継戦意志を喪失せしめる」つまり、この腹案はこういうことである。日本は、極東にあるアメリカ、イギリス、オランダの根拠地を壊滅させて自存自衛体制を確立する。そしてイギリスは、ドイツとイタリアによって制圧してもらう。そうすると孤立したアメリカが「継戦の意思なし」というはず。その時にこそ、この戦争は終わるのだ、と-。この腹案を読み、私は指導者たちのあまりの見通しの甘さにあきれ返ってしまった。ここに書かれている内容は、いわば全て相手の意思任せである。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するといった勝手な思い込みだけである。
・当初、日本の軍部では、アメリカが本格的に反攻に出てくるのは昭和18年の後半からだと予想していた。平時態勢から戦時態勢に切り替わり、戦車や戦闘機など戦備の生産をフル稼働しても、そのぐらいの時間はかかるだろうとの読みであった。しかし、その読みは全く甘かった。兵力はもとより、銃器類、それに空母や駆逐艦など、昭和17年の終わり頃にはもう十分の戦時態勢に入っていたのである。
・日米開戦に至る前から、実は日本の暗号電報はアメリカ側に筒抜けだったのである。アメリカ陸軍通信部に在籍したウィリアム・フリードマンは”暗号の天才”の異名を取る人物であった。彼は、日本が昭和12(1937)年以降、外交時に使っていた暗号機の暗号解析に没頭し、15年には成功していた。暗号解読機は、日本の機密文書を「紫」と呼んでいたものにちなんで「パープル」と名付けられた。そして解読された暗号文は「マジック」と呼ばれ、ルーズベルト大統領、ハル国務長官らわずかの政府首脳と、信頼できる同盟国の指導者としてイギリスのチャーチル首相にも届けられていた。日本では、昭和16年の開戦直前、最終提案である「甲案」「乙案」をはじめとして、東京の外務省から在米日本大使館に宛てられ打たれた暗号電報は、ことごとく読まれていたのである。既に開戦に向かって進んでいる日本の裏事情もアメリカ側には筒抜けだったのだ。戦時下でも日本は、暗号が読まれていると知らず悲劇を生んでいく。
・昭和18年頃、既に「大本営政府連絡会議」「御前会議」という、日本の意思決定最高機関自体が混乱し、態をなしていなかった。「御前会議」は「連絡会議」で決まったことをただ追認するだけの場であり、また「連絡会議」にしろ、たとえそこで軍部がいったことを否定したとしても、軍は天皇のところに持って行き、勝手に判をもらってしまう。そうすれば、それで「勅令」として実行してしまえるのであった。陸軍省軍事課にいた幕僚に聞いた話では、「議会が何を言おうが、関係ありません。我々が文章を作って、天皇の下にいる侍従官に強く言いおき渡しておく。それで判をもらって、”勅令”として実行すればいいだけの話だったのですよ」と平然と述懐していた。
・昭和18年春から参謀本部の情報部に籍を置いていた、堀栄三から聞いたこんなエピソードを紹介しよう。当時、彼は「日本のマッカーサー」とあだ名されていた。なぜなら、アメリカ軍が次にどこを攻めてくるかを、ことごとく当ててしまったからである。どうしてそんなことができたのか、彼に言わせると、簡単なことだという。さまざまな情報を分析するとわかるというが、たとえばこんな方法も用いた。参謀本部の情報参謀のもとには、アメリカの放送を傍受した内容が毎日のように届いた。その中には天気予報や株式市況なども含まれており、何気なく、毎日、それらの株式市況を眺めていたのだそうだ。すると、彼はある一つの法則を見出したのである。それは、アメリカ軍の新しい作戦が始まる前には、必ず薬品会社と缶詰会社の株が急騰することであった。堀は、それはたぶん兵隊に持たせるマラリアの薬と食糧を軍が大量に購入するからだ、と推測した。また、アメリカの放送は、今、どこの部隊が休暇中であるかを報道する。その休暇中の部隊がどの戦線に出てくるか、次の作戦展開の場になる地域を見抜いていたのである。「でも、確実だとわかっている情報でも、作戦部では見向きもしてくれませんでした。彼らは自分の頭の中にある考えだけが全てであり、たとえ私の持っていった情報が正しくても、相手にしませんでしたね」せっかくの堀の情報も生かされることはなかったのだ。
・8月6日午前8時15分、広島に、続いて9日午前11時2分には、長崎に原爆が投下。さらに8日には、モスクワでモロトフ外相が佐藤尚武大使に宣戦布告の文書を渡し、翌9日未明に極東ソ連軍が満州国に侵攻した。事態はもう一刻の猶予も許さないところまで来ていた。そして、ここで「2.26事件」以来、決して意思表示してこなかった天皇が、ついにその禁を破る時が来る。天皇は、まず東郷に次のように命じた。「このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上、戦争を続けることはできない。不可能である。なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸、鈴木にも伝えよ」天皇には、当初広島への原爆投下は告げられていなかった。しかし、天皇はそのことに気づき、報告を受けてこの決断をしたともいえた。
・そして「最高戦争指導会議」が開かれることになった。8月9日、最高戦争指導会議は、皇居で行われた。首相の鈴木が口火を切ることとなる。「原爆といい、ソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはありません。ついては各員のご意見をうけたまわりたい」東郷が、「ポツダム宣言受諾」を明確に主張した。しかしそれに対して、未だ反対論も相次いだ。阿南は、実は天皇の意思は充分わかっていたが、陸軍を代表する立場として軍を押さえなければならなかった。会議では、「ポツダム宣言を受け入れたら、国体護持はできない」と鈴木に反対する意見を執拗に繰り返した。参謀総長の梅津美治郎も「ポツダム宣言では戦争犯罪人の処罰も謳っている。我々、戦争責任者の裁判はどうなるんだ、賠償金だって取られてしまうのじゃないか」と感情論をぶつけてきた。議論は平行線をたどった。折りしも、会議の途中には、長崎への原爆投下の報も伝えられている。最高戦争指導会議は午前10時半に始まり、午後1時まで行われた。その後、閣議も行われたが、二つの会議とも結論を出すことはできなかった。引き続き、御前会議が午後11時50分から皇居地下にある防空壕で開かれ、日付を超えて午前2時を過ぎた。頃合と見計らい、鈴木が切り出した。「では、決を取ろう・・・」決を取ると、鈴木を除く出席者6人がちょうど3対3の半分に分かれてしまった。それで鈴木は天皇の前に進み出て奏上した。「ご覧のように、臣下は3対3の同数です。陛下のお気持ちをお聞かせください」それに対して天皇は、こう述べた。「空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲しないところである。私の任務は祖先から受け継いだ日本という国を子孫に伝えることである。・・・昨日まで忠勤を励んでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は、忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う」このときに天皇は、陸軍は本土決戦を言うが、自分が独自に調べさせたところではとうていその準備などでいていないとも話している。こうして聖断が下され、日本の「ポツダム宣言」受諾が決まった。「御前会議」の結果は、国内ではもちろん機密だったが日本の海外向け放送では流された。
・またもや政治、軍事指導者の間には混乱が生まれた。見かねて天皇は14日、再び御前会議を自ら召集している。この時の御前会議は異例で、いつものメンバーの他に、全閣僚、枢密院議長の参加も要請された。御前会議の場で天皇は、こう述べている。「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状を充分考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える」それを聞くや、出席者たちは全員、すすり泣きを始めた。中には号泣する者もあった。そして、阿南が涙ながらに、天皇にこう言った。「これを認めれば日本は亡国となり、国体護持も不可能になります」この時、「国体護持も不可能になる」という発言を聞くや、天皇は不思議な言葉を発している。「いや、朕には自信がある。国体護持には自信がある。自信があるから、泣くな、阿南・・・」また、こうも語った。「私が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ。・・・必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説き諭してもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と。阿南の言葉を受けて「国体護持には自信がある」と、この時、天皇ははっきりと語った。私は、この意味するところが、未だによくわからないのだ。なぜ天皇には「自信がある」といいきれる根拠があったのだろうか・・・。
・なぜ、こんな無謀な戦争を始めてしまったのか、なぜ、歴史的使命も明確でなく、戦略も曖昧なままに、戦争を続けてしまったのかー。誤解を恐れず結論的にいうなら、「この戦争は始めなければならなかった」のだ。戦争で亡くなった310万人(戦後の戦病死を含めると500万人になるだろうが)のことを考えると、本当に気の毒としかいいようがない。しかし、日本はやはり戦争に向かう”必然性”があったのだと思う。たとえ、昭和16年12月8日に始めなくても、遅かれ早かれ、軍の暴発は起こっていたはずだ。他に選択肢がなかったのだから。今でいう”逆ギレ”のようなものだろう。緻密な戦略を立てる前に”手が出てしまった”という感じだった。もっとも、始めたはいいが、”どう収めるべきか”ということを全く考えていなかったのは、お粗末というしかなかった。明治以降、日清、日露戦争と来て、いつの間にか”夜郎自大”となってしまっていた。こういう言い方をしたら語弊があるかもしれないし、乱暴かもしれないが、明治期以降の日本はいったん”ガス抜き”が必要であったのだろう。そして、誰も「なぜ戦っているのか」という疑問も持たず、無為無策のまま戦争を続け、本土決戦まで持ち込まれる寸前までいった。「1億玉砕」などという事態にもなりかねなかったこういう言葉も誤解を招くかもしれないが、あえて使わせてもらうと「原爆のおかげで終戦は早まった」のだ。戦争継続なら8月15日以降、空襲はもっと激しさを増していただろう。皇居や京都にだって爆弾を落とされていたかもしれない。あるいは、アメリカ軍の日本本土上陸作戦が実行されていたら、果たしてどうなっていたか・・・。もし昭和20年8月9日にソ連が満州に侵攻し、そのっま攻められ続けていたら、間違いなく「東日本社会主義人民共和国」なる国家が生まれていただろう。
・”勝ち戦”に乗じて日本の領土が欲しかったスターリンは、トルーマンに「我々は関東軍を掌握し、北海道方面に侵攻している。ソ連の制圧地域として北海道を認めて欲しい」と要求していた。しかし、トルーマンは、決してそれを認めなかった。スターリンはもう一度、「北海道が欲しい」と重ねて訴えるが、やはり断られてしまう。ならばと、「領土の代わりに、関東軍の兵を労働力としてもらう」と勝手に決めてしまった節があるのだ。こうして「シベリア拘留」が行われた。多くの日本兵が、極寒の地で強制労働につかされた。
・ソ連軍は8月15日以降も、国家の意思として攻撃の手を緩めなかった。樺太、千島列島に侵攻を続けていたのである。8月18日、激しい砲撃の末、千島列島北端の占守島、幌延島に侵攻。さらに28日には択捉島、9月4日には歯舞、色丹島を占領している。そして今でも北方領土は日本に還ってきていない。「日ソ中立条約」を破り、8月15日以降も侵攻、それどころか9月4日までも侵攻を続けていたのである。これは、いったいどういうことか。ソ連のある外交官に質した時に、彼は次のような言い分を繰り返した。「我々にとっては、日ソ中立条約よりヤルタ会談の”秘密議定書”の方が国際的に見て意味が大きかった。それに我々ソ連は、日本が降伏文書に署名したその日(9月2日)が戦争の終わりであり、それまでは戦争状態だったのだ」”戦後”も戦争は続けられていたのである。
・「戦争が終わった日」は、8月15日ではない。ミズーリ号で「降伏文書」に正式調印した9月2日がそうである。いってみれば8月15日は、単に日本が「まーけた!」といっただけにすぎない日なのだ。世界の教科書でも、みんな第二次世界大戦が終了したのは、9月2日と書かれている。8月15日が「終戦記念日」などと言っているのは、日本だけなのだ。
・忘れてならないのは、日本軍がいなくなった後、マレーはイギリスに、インドネシアはオランダに、ベトナムはフランスにと、また支配されていった事実である。なんのことはない。西欧列強の植民地主義が復活したのだ。それぞれの国々では、その地に住む人々による民族独立運動が、再び起こっていたのだ。そうした民族義勇軍の中には、一部の日本兵たちも加わった。彼らは、日本人であることを捨てて、あえてそうした民族独立運動の戦いの中に身を置いていったのである。インドネシアでは、現地の独立義勇軍に、武器を持って参加した日本兵たちがおよそ3000人近くもいた。その内、1000人が独立運動で命を失い、1000人は、その後、日本に帰国した。インドネシアでは、戦死した1000名を国立英雄墓地に葬り、今でも英雄として扱っている。そして、3000人の残りの1000人は、現地に住み着き、現地人の妻を娶り、インドネシア人として生き続けていた。
<目次>
はじめに
第1章 旧日本軍のメカニズム
1 職業軍人への道
陸軍士官の養成機関
「統帥」の教え
海軍の教育機関
2 一般兵を募る「徴兵制」の仕組み
「国民皆兵」の歴史
2年の兵役、5年の予備役
兵役免除、お目こぼし、徴兵逃れ・・・
3 帝国陸海軍の機構図
「大本営」とは何か
「統帥権の干犯を許さない!」
戦略単位としての「師団」と「艦隊」
第2章 開戦に至るまでのターニングポイント
1 発言せざる天皇が怒った「2.26事件」
「天皇機関説」から「神権説」へ
「大善」をなした青年将校たち
もはや誰にも止められぬ「軍部」
2 坂を転げ落ちるように-「真珠湾」に至るまで
「皇紀2600年」という年
「北進」か「南進」か
逆転の発想「東條内閣」
真の”黒幕”の正体・・・
第3章 快進撃から泥沼へ
1 「この戦争はなぜ続けるのか」-2つの決定的敗戦
果たして「真珠湾攻撃」は成功だったのか
”勝利”の思想なき戦争
完全に裏をかかれた「ミッドウェー海戦」
無為無策の戦場「ガダルカナル」
誰も発しなかった「問い」
2 曖昧な”真ん中”、昭和18年
”狂言回し”としての山本五十六
アッツ島の「玉砕」はなぜ起きたか
大本営が作った空虚な作戦「絶対国防圏」
開き直る統帥部
”とりつくろう”とした年
第4章 敗戦へ-「負け方」の研究
1 もはやレールに乗って走るだけ
「軍令」「軍政」の一線を超えた東條
無能指揮官が地獄を招いた「インパール作戦」
「あ号作戦」、サイパンの玉砕、東條の転落
軍令部の誤報が招いた”決戦”の崩壊
硫黄島、沖縄の玉砕
2 そして天皇が動いた
鈴木内閣の”奇妙な二面策”
「例の赤ん坊が生まれた」-
阿南泣くな、朕には自信がある
第5章 8月15日は「終戦記念日」ではない-戦後の日本
「シベリア拘留」という刻印
太平洋戦争はいつ終わったか?
名もなき戦士たちの墓標
【基礎知識】
恩賜の軍刀
大東亜共栄圏、八紘一宇
軍人勅諭
大鑑巨砲主義
マジック
軍神
あとがき
太平洋戦争に関する年表
面白かった本まとめ(2012年上半期)
<今日の独り言>
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この「あの戦争は何だったのか」という本は、太平洋戦争は何であったのか、どうして始まって、どうして負けたのかを本質的に追求して真実に迫ったものです。
第1章では旧日本軍のメカニズムについて以下の説明が分かりやすくあり、特に「統帥」について理解を深めることができました。
・職業軍人の教育機関
・徴兵制
・帝国陸海軍の機構 等
第2章ではは開戦に至るまでのターニングポイントとして以下について書かれています。
特に2.26事件の影響で結果的に軍主導による国家体制の方向へ進んでしまったことがポイントかと思います。
・2.26事件
・皇紀2600年(1940年(昭和15年))
・「北進」か「南進」か
・東條内閣
・石油の備蓄と海軍
第3章では、昭和16年12月の開戦から昭和18年までの出来事等として以下について書かれています。
特にいつ戦争を終わりにするのかという想定がなかったこと、つまり勝利の想定がなかったことには驚きました。
・真珠湾攻撃
・ミッドウェー海戦
・ガダルカナル
・山本五十六の戦死
・絶対国防圏
第4章では、その後の敗戦について以下等について書かれています。
特にポツダム宣言から8月15日までの詳細な経緯については興味深かったですね。
・インパール作戦
・あ号作戦
・サイパンの玉砕
・硫黄島、沖縄の玉砕
・和平交渉
・ポツダム宣言
第5章では、8月15日以降の戦いについて書かれています。
特にシベリア拘留や現在の北方領土問題に関わる侵攻などの真実には興味深かったです。
また世界の教科書では、第二次世界大戦が終了したのは8月15日ではなく、降伏文書に正式に調印した9月2日が常識というのにも驚きましたね。
この「あの戦争は何だったのか」という本は、太平洋戦争やこれから同じような過ちを繰り返さないことについて考えさせられる良い本だと思います。とてもオススメです!
以下はこの本のポイント等です。
・陸軍の職業軍人になるための第一歩は、陸軍幼年学校から始まる。年齢で言えば満13歳の時である。高等小学校を終えた者か旧制中学の1年生修了時に、幼年学校を受けることができた。幼年学校は全国に6ヶ所、東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本に建てられた。いずれも全国で6つの師団が置かれた都市であった。募集人員は年によって変わったが、全国でだいたい250名ぐらいに落ち着いた。日本各地から優秀な人材が選ばれ、入学した。学校教育は官費で金がかからないゆえ、経済的理由で進学するものも多かった。幼年学校に入るということは、地元の誉れであった。幼年学校では6つの都市で通常3年間教育が行われる(大正9年に制度改正)。そして幼年学校を終えると、今度は陸軍士官学校に進むことになる。士官学校では、幼年学校から上がってきた者以外に、一般中学を5年生で卒業、あるいは4年が終わった段階で新たに受験して入学してくる者もあった。幼年学校卒業者が士官学校入学者の過半数を占めるよう計画された。士官学校での教育期間は士官候補生時代を含めて大体が4年半で、卒業する頃には20歳そこそこの年齢となる。卒業した彼らは各原隊に赴き、そこで少尉となる。こうして将校見習いとして実地の訓練を受けるのである。ちなみに徴兵で入った一般の兵隊にとって、少尉に就くなどほとんどありえないことであった。さて、原隊に入った将校見習いたちであるが、彼らにはさらなる目指すべき上級養成機関があった。陸軍大学校(通称、陸大)である。陸大に入ることは、軍内の高級将校になる道が約束されていることを意味した。ただし陸大受験はそうとう難関であった。まず受験資格のハードルが待ちかまえている。任官2年以上(昭和期にいは任官後8年となっていた)の少中尉が対象で、自分が属する原隊の連隊長の推薦、それに30歳前の2年間だけという期限も設けられていた。試験は一次に学力、二次は口頭試問となっていた。定員はわずかに50人という狭き門である。晴れて陸大に入学すると、そこでの教育期間は3年間、卒業後はキャリア幕僚として扱われる。さらに陸大卒業時の成績上位者1割前後は「恩賜の軍刀組」と呼ばれ、参謀本部の作戦部など軍中枢部に入る特権を得た。まさにエリート中のエリートの存在である。
・陸軍の士官学校に相当する海軍兵学校の採用人数はおよそ100名前後。受験資格があるのは、陸軍士官学校と同じく、中学卒業生、あるいは4年修了時の学生であった。ただし試験科目には物理や数学などがあった。また陸軍のように幼年学校を経由してくるコースなどなく、士官学校よりもはるかに入学は難しかったようである。競争率が30から40倍になることも珍しくなかった。海軍兵学校の上には、海軍大学校があった。
・太平洋戦争開始時、日本の軍人や兵士や陸海合わせて総計で約380万人いた。そして終戦前年の昭和19年には、その数、何と800万人にも膨れ上がっていた。当時の日本の人口が約7500万人だったから、10分の1以上の国民が兵士になっていたことになる。その兵士全体のうち、職業軍人の数は陸軍の場合およそ5万人ほどと推測される。つまりそのほとんどが徴兵によって採られた一兵卒であった。
・通常の徴兵制は(戦時になると変わっていくのだが)、満20歳になると徴兵検査を受けて新兵として入隊することとなる。入隊して2年間(ただし海軍は3年間)、兵役に就かなければならなかった。除隊後も5年4ヶ月間(海軍は4年間)は予備役として登録され、ひとたび戦争が始まれば動員され、戦場に送られる状態にあった。太平洋戦争開戦後は陸軍は15年4ヶ月、海軍は12年に拡大されている。
・徴兵検査は、自分の本籍地にある徴募区、検査区で、毎年4月16日から7月31日の間に受けることになる。身体検査によって、現役として徴集する者、予備徴員とする者、兵役に適さない者、適否を判定し難い者の4つに区分された。現役に適する者は、まず身長152センチ以上(昭和15年改定後)であること、そして胸囲が身長の半分以上、筋骨が薄弱でなく、両眼の裸眼視力が0.6以上、特記する疾病その他身体または精神の異常がない者。それらの者を甲種とした。そして甲種に至らないが現役に適する者を乙種。以下、障害身体検査規則により現役に適さない者を丙種、身長145センチ未満及び疾病その他身体または精神に異常がある者は兵役に適さないとして丁種と、それぞれランク付けされた。また疾病あるいは病後などのため兵役の適否を判定し難い者は戊種として、翌年改めて検査を受けさせられた。
・徴兵検査の結果は、これも時代によって多少の差異はあったが、平均すると約4割が甲種であったという。甲種以外の、例えば身長が少々足りなかったり、ひどい近眼であるなどといった場合に、乙種に回された。つまり、ほとんどが現役に適すると判断されていた。徴集されることのない丙、丁種はほんのわずかなものだった。もっとも、太平洋戦争末期の昭和19年10月には、本土決戦に備えると称して総動員態勢が取られて、たとえ丁種であっても徴集されるようになった。
・旧日本軍「軍部」は、頂点に位置する天皇の下、大きく2つの構造からできていた。「軍令」と「軍政」である。「軍令」というのは、一言でいえば「戦争方針を決定する」部門のこと。通称「統帥部」と呼ばれた。「大本営」と言い換えてもいいだろう。「大本営」とは、戦時に設置される最高統帥機構を指している。一方の「軍政」は、陸軍省と海軍省からなる。統帥部に対して、「軍政」の陸軍省、海軍省は、陸軍大臣、海軍大臣の下、飽くまで行政機関の一つという位置づけであった。統帥部とは、天皇が持つ統帥権を付与された機関である。この統帥部は陸軍と海軍の2つに分かれていた。陸軍は「参謀本部」といい、海軍は「軍令部」と言った。参謀本部は参謀総長以下、軍令部は軍令部総長以下、一糸乱れぬ命令系統が出来上がっていた。
・参謀本部には、作戦部・情報部・運輸通信部・戦争指導班などが、軍令部には、作戦部・軍備部・情報部などがあり、大本営は全体でおよそ200人ほどの幕僚が詰めていた。大本営にいること自体、キャリア組の証しであっtが、その中でも参謀本部、軍令部ともに、ヒエラルキーのトップにあったのが「作戦部」である。作戦部にいた20人前後の幕僚は、特にエリート中のエリート、実際に軍を動かし、戦略を決定していた存在であった。いわゆる「軍部」といった時、指されるのは、彼ら「作戦部」の連中のことである。陸大、海大の成績で1番から5番までしか入れないという暗黙のルールもあった。しかもその人事は陸軍で言えば陸軍省人事局の管轄ではなく、参謀次長が握っていた。参謀本部は永田町の三宅坂にあり、作戦部はその建物の二階の一室にあった。作戦部の部屋の入り口には、24時間、衛兵が立ち、作戦部以外の者は誰も入れなかったという。たとえ、同じ参謀本部の「情報部」将校が行っても決して入れてはくれなかった。それほど徹底して秘密を厳守している少数集団だったのである。
・統帥権と統治権は両方とも天皇の大権として付与されたものであった。この2つは、簡単にいってしまえば、「軍事」権と「政治」権のことである。この二者の調整により、国策は決定されていた。昭和12年には「大本営政府連絡会議」という場が作られ、そこで両者の意見調整が行われた。会議の出席者は、大本営の側からは参謀総長、軍令部総長、政府の側からは首相、陸相、海相、蔵相、企画院総裁であった。もっとも議題によって出席者はかわった。ただし事務方は陸海軍省の軍務局が握っていた。ここで決定した議案は次に天皇の列する「御前会議」にかけられる。しかし、御前会議は飽くまで決定事項を追認する場に過ぎず、大本営政府連絡会議が、実質上の国策決定の最高機関であった。といっても大本営側は「統帥権の干犯は許さない」の名目で、軍事作戦や軍事行動計画について、一切その内容を洩らさずに独断で決定してしまうようになっていく。むしろ軍事作戦を円滑に行うためにいかに政治の側を利用するかという目的で、この会議を使うようになっていた。例えば、アメリカとの開戦を前に、東郷茂徳外相が「開戦日はいつか」と質しても、大本営は「教えられない」とつっぱねるだけであったという。戦争開始後も、どのような作戦を進めているのか、決して明かすことはなく、「政府はもっと船を造れ」「飛行機を造れ」と催促するだけになっていた。明らかに、「統帥権」は「統治権」より上だという考えが支配していったのである。「統帥権の干犯」という言葉は、いわば”魔法の杖”であったのだ。シビリアン・コントロール(文民統制)が効かなくなっている、国家として異常な状況にあったといっていいだろう。
・陸軍における隊の基本は「中隊」である。戦時には中隊が3つか4つの少隊に、少隊がさらに分隊に分けられる。「中隊」は平時100人ほどの編成だ。中隊が3つから4つ集まると「大隊」になる。これで300人規模である。この大隊が3つに機関銃隊ほか2つの中隊が加わって集まると「連隊」が構成されるのである。連隊になると、2000人余の規模となる。つまり連隊長というと、2000人の部下を持つことになる。連隊長になることは、たいへんな出世であった。戦時には中隊が250人規模になるなど、増員されることになる。さらに、連隊の上に「師団」という単位があった。連隊が4つか5つ集まって構成された。師団になると司令部やら工兵隊や高射砲隊とかいくつかの部隊も含まれるので一挙に1万人規模となる。
・太平洋戦争開戦直後の日米の戦力比は、陸軍省戦備課が内々に試算すると、その総合力は何と1対10であったという。米国を相手に戦争をするに当たって、首相、陸相の東條英機が、その国力差、戦力比の分析に、いかに甘い考えを持っていたかが今では明らかになっている。「1対10」という数字自体もだいぶ身びいきがなされて出された数字だったが、データをもとに軍事課では、戦争開始以降の日本の潜在的な国力、また太平洋にすぐに動員できる地の利を考慮すれば、「1対4」が妥当な数字と判断し、改めて東條に報告がなされた。東條はその数字を、「物理的な戦力比が1対4なら、日本は人の精神力で勝っているはずだから、五分五分で戦える」、そう結論づけてしまった・・・。
・青年将校の決起自体は失敗に終わったわけであるが、結果的に「2.26事件」は、彼らが訴えていた通りの「軍主導」、とくに「陸軍主導」による国家体制の方向へと進ませることになった。岡田啓介首相も襲撃されたが辛うじて難を逃れ、その後は外相だった広田弘毅が首相となった。その際、「軍部大臣現役武官制」が復活している。この「軍部大臣現役武官制」が、軍が政治にまで介入する”伝家の宝刀”となった。つまり合法的な暴力になったのである。「軍部大臣現役武官制」とは、現役の軍人でなければ陸軍大臣、海軍大臣になれないという制度である。大正2年まではこの制度が取られていたのだが、その後は現役の軍人だけではなく、予備役の者でも大臣になれると改正されていた。それが、「2.26事件」をきっかけに、二度と同じようなことが起こらないようにするためと称して、軍の内情をよく把握している現役の将官のみが大臣に就く、と戻したのである。つまり、軍の気に入らない内閣ならば、陸軍大臣、海軍大臣を出さなければいいのだ。そうしたら組閣ができず、その内閣は潰れてしまう。軍は意のままに内閣を操れることとなり、圧倒的な権力を持つようになった。
・もう一つ、「2.26」は当時の日本のある状況に、大きな爪あとを残すことになる。それは「断固、青年将校を討伐せよ」と発言した天皇の存在である。天皇は、その後一切、語らぬ存在となったのである。まるで自らが意志表示することの意味の大きさを思い知り、それを怖れるかのように。「大本営政府連絡会議」で決まった議案が「御前会議」で諮られる際も、「君臨すれども統治せず」と、天皇はより徹底して口をつぐみ、ただ追認するだけとなった。日米開戦が決まるまで、天皇は一貫して開戦に反対であったと思われるが、そうした意向も決して表に出すことはなかった。あるいは歴史に「If」が許され、開戦前の時期、もし天皇が「断固、戦争に反対する」と語っていたらどうなっていたか・・・。のちに天皇は「昭和天皇独白録」の中で、もし自分が開戦に反対したら、「国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない」状態になっただろうと言っている。私の生命はかまわないが、「今次の戦争に数倍する悲惨事」になったとも告白している。皮肉なことに天皇の神格化は「2.26」後、ますます進んでいくことになる。天皇を神格化することで、軍部が「統帥権」の権威付けにうまく利用していったのである。各学校で「御真影」を「奉護」するよう奉安殿が設置されていくのも昭和12年のころからであった。
・昭和15年-この年は「皇紀2600年」に当たった。「皇紀」とは、「日本書紀」に記載されている、神武天皇が即位した年を元年とする紀元をいう。神話に基づいての年数であった。日本建国2600年を祝い、日本各地で提灯行列が行われたり、奉祝会が開かれるなどお祭りムードに沸いていた。それはまるで鬱屈した空気を振り払うかのように。11月10日には、宮城前で大式典が盛大に行われている。宮城前広場には約5万人が集まり、君が代の大斉唱がなされた。私には、このセレモニーが、昭和15年の最も「変調」をきたした象徴的な出来事に思えてしまうのだ。大式典の1ヶ月前、10月12日には、近衛首相によって「大政翼賛会」が結成されている。民政党、政友会など、当時の政党はこぞって解散して「翼賛会」に吸収されていった。つまり、国家危急の時、議会で討論して何か結論を出すなどと悠長なことをやっているのではなく、今こそ、「天皇への帰一の下、国民は一致団結して国を動かすべき」としたものである。「国民は臣民となり、全てが天皇に帰一した国家システム」が最終的に作り上げられたのだ。「皇紀2600年」の大式典は、こうした「天皇に帰一する国家像」を象徴するものであった。いわば、日本は理性を失った、完全に”神がかり的な国家”に成り下がってしまったのである。
・日米交渉の努力が進められていた一方、日本国内では、昭和16年6月の「大本営政府連絡会議」で二つの軍事政策案をめぐって議論が白熱していた。日本がドイツの勝利に便乗して7月に南部仏印に進駐するか否か、つまるところ「北進」か「南進」かの問題である。「北進」とは、対ソ戦を意味した。ヨーロッパでは驚天動地なことが起きていた。「独ソ不可侵条約」を結んでいたドイツが、約束を破りソ連に電撃侵攻(6月22日)したのである。三国同盟を結んでいる日本は、今こそドイツに呼応して東からソ連に侵攻すべきではないかとの主張であった。一方の「南進」は、既に押さえている北部仏印からさらに軍隊を南下させようとする策であった。つまりは、そこにある石油が目標であった。8割近い石油をアメリカに依存している現状では、アメリカに生殺与奪の権を握られているのと同じこと。それを打開しようとの考えであった。「北進」論者、「南進」論者とも、それぞれ強い拘りがあった。「北進」論者は、主に陸軍が多かった。もともと、陸軍はソ連を仮想敵としていた。伝統的な教育として、大陸北部を想定した戦術が多く教えられていた。特に満州に駐在していた関東軍は「北進」を強く主張した。一方の「南進」論者は海軍が中心であった。海軍の仮想敵は太平洋上のアメリカである。そして海軍が「南進」に拘るのにはむ一つ大きな理由があった。軍艦は石油がなければ動かないのではないかと・・・議論百出した末、最終的に日本の出した結論は「南進」であった。しかし、「南進」と同時に、満州にも馬や兵隊、高射砲、戦車など20個師団、約40万人を動員し、ソ連にも攻め込むようなポーズを取ることに決めた。いわば目くらましの二面作戦に出たのである。このときの満州の動員を「関東軍特種演習(通称、関特演)」といった。しかし、実はこの目くらまし作戦をソ連はすっかり見抜いていたのである。日本で諜報活動を行っていたスパイ・ゾルゲのおかげであった。ゾルゲが、近衛周辺の人物から情報をとり、スターリンに日本の「南進」を報告していたからだ。その情報により、スターリンは軍隊を東部のシベリアにではなく、全て西部のヨーロッパ方面に向けることができたのであった。
・かくして、日本が南部仏印に進駐したのは、昭和16年7月28日のことであった。そこで石油、錫などの資源を手に入れることはできたが、その分、手痛いしっぺ返しを食うことになる。「日本の南部仏印進駐を絶対に許さない」と、アメリカが「在米日本資産の凍結」、それに「石油の対日輸出全面禁止」を通告してきたのである。 にわかに事態は、風雲急を告げ始めていく。アメリカで日米交渉を続ける野村大使に、以後、ハルは徹底的に厳しい条件をつけるようになる。「仏印からの軍隊の速やかな撤退」「三国同盟からの離脱」「中国から撤兵し、蒋介石政府を認めること」。この3条件を、ハルは終始一貫、変わることなく言い続けるようになった。しかし、日本にとってはどれも飲めない条件であった。9月3日、アメリカの強硬な制裁を受け、急きょ「大本営政府連絡会議」が開かれている。そこで、現状を鑑みて3つの取るべき国策が決定された。「米英に対して戦争準備を行う」、「これと同時進行して飽くまで日米交渉を続ける」、そして「10月上旬まで交渉を続けて、交渉の成果がない場合は米英に対して武力発動を辞さぜる」と。この議決は6日、「御前会議」でも決せられた。天皇はこの報告を聞き、驚くことになる。もちろん天皇にしてみれば、「戦争を辞せざる」事態などもってのほか、と思ったはずだ。だが天皇は、この時も自らの意志を発することはなかった。ただ、よほど耐えかねたのだろう。ある異例の行動に出た。やおら懐から一枚の紙を取り出し、それを読み出したのである。「四方の海いなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」それは明治天皇の御製であった。”できれば外交交渉で解決し、和平を以って収束っせて欲しい”、そう意味を込めた、精一杯の意志表示であった。
・近衛の力量では、もはや状況を収拾する限界を超えていた。東條との口論の12日後には、無責任にも内閣を投げ出してしまう。そして後継総理に収まったのは、陸軍大臣を兼ねた東條であった。東條内閣が発表されると、国際社会に衝撃が走ったという。「一番の主戦論者が首相に就き、日本はこれで完全な”開戦準備態勢”に入った」と。アメリカ海軍は、太平洋艦隊に対していつでも出動できる準備を整えるよう命令をくだした。しかし、国際世論の危惧に反して、東條は事を荒立てる様子ではなかった。海外メディアは訂正して、こう伝えた。「むしろ慎重に会議を行っているようである」。
・東條は、とにかく天皇への忠誠心に篤い男であった。それをあえて利用しようとしたのである。木戸の報告を受けた天皇は木戸にこう語ったという。「虎穴に入らずんば、虎子を得ずだね」事実、東條は木戸に「陛下は、9月6日の御前会議の議決を白紙還元することを望んでおられる。もう一度、どんな可能性があるか探ってもらいたい。それが陛下の意志である」と告げられると、その通り白紙還元の方向を目指すのである。今まで通り日米交渉を継続する一方、東條は開戦回避が可能かどうか、今一度、陸海軍省の担当者たちに命じて、基本となるデータを全て出させることにした。いったい石油の備蓄はどのくらいあるのか、他の資源はどうか、工業力はどうか、そして日米戦わば、その戦力差はどのくらいなのか・・・。10月23日から30日までの間に、大本営政府連絡会議は「項目再検討会議」を開き、日本の必要とする物資、十数項目のデータの調査がなされた。しかし、東條の下に集まってくる数字はどれも絶望的な数字ばかりであった。特に石油の備蓄はこのままだと、2年も持たないとの結論だった。また、このデータが出されると、海軍の軍令部は「このまま油がなくなったら、日本はどうなるかわからない」と執拗に迫ってきた。東條は、もはや抜き差しならぬ状況に追い込まれていた。11月2日に開かれた「大本営政府連絡会議」で、東條を始めとする出席者たちはこう結論づけた。「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし、11月29日までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」と。12月に期限をきったのは、石油の備蓄量を逆算して限界の日時であること、またその時期以降になると季節風で太平洋南方の波が荒くなり海軍に不利になると考えたからであった。戦争への歯車が、この時から確実に動き出すことになる。
・まずアメリカに対して、日米交渉の最終的な通告として「甲案」と「乙案」を提出することに決めた。「甲案」とは、日本のこれまでの主張を譲れないとした強硬案。そして「乙案」は、「甲案」後の”落としどころ”として提出する、やや引き下がったものであった。「南部仏印から日本軍の撤退、その代償に蘭領印度(現在のインドネシア)での物資獲得の相互保障をする」といった南部仏印進駐前の状態に戻すとした内容である。日本は、野村大使の助っ人として「三国同盟」の調印をんした来栖三郎を全権大使としてアメリカに送り込み、まずは11月7日に「甲案」を、そして「乙案」を20日に提出した。だが、「甲案」「乙案」ともにアメリカは全面拒否、逆に11月26日、日本に通称「ハル・ノート」と呼ばれる最後通牒をしてきたのであった。「ハル・ノート」は何のことはない、今までのアメリカの主張を繰り返しているだけの厳しい内容であった。これを受け、11月27日の「大本営政府連絡会議」、そして12月1日の「御前会議」で、正式に対米英蘭開戦が決定したのである。
・私は、10月4日に行われた「大本営政府連絡会議」に注目したい。東條に責められ、「軍人はそんなに戦争が好きなら、勝手にやればいい」と言い放ち、近衛が内閣を投げ出した”瞬間”だ。この時、東條は近衛にこう詰問していた。「9月6日の御前会議の決定通り進むべきだ」と。前述のように9月6日に行われた「御前会議」では、10月上旬まで外交交渉を行い、それで決着がつかなければ「武力発動も辞せず」と決まっていた。このことを指して東條は言っていたのである。注目してもらいたいのは、東條は、「9月6日の御前会議の決定通り進むべき」だとしかいっていないことである。決して「武力発動せよ」「戦争しろ」と、直接的には口にしていないのだ。東條は、この時点では、強硬な主戦論者であった。当然、一刻も早く戦争を始めたかったはずである。それは陸軍の「軍部」の総意を表すものでもあった。でも、東條は、いや陸軍は、と言い換えてもいいが、「武力発動」はできなかったのである。太平洋戦争において「武力発動」ができたのは、唯一海軍だけであった。いくら陸軍が、南洋諸島や東南アジアで「武力発動」をしたくても、海軍の護衛で運んでもらえなければ、始めようがない。だから、10月4日の「大本営政府連絡会議」でも、東條は「9月6日の午前会議の決定通り・・・」としかいえなかったのだ。「武力発動」の発言力を持たなかったからである。
・この会議での調査報告では、その当の石油の備蓄量は、「2年も持たない」との結論であった。結局、それが、直接の開戦の理由となった。しかし、実は、日本には石油はあったのだ。実際に私は、陸軍省軍務課にいたある人物から、こんな証言を聞いた。「企画院のこの時の調査は、実にいい加減なものだったんです。陸軍もそうでしたが、特に海軍側は備蓄量の正確な数字を企画院に教えなかった。海軍の第一委員会が、”教える必要はない”の一点張りで、企画院は仕方なく、大ざっぱなデータから数字を割り出し、計算して出した結果なのです」
・なぜ海軍は戦争を欲したのか。満州事変、日中戦争と陸軍ばかりが表面上は国民に派手な戦果を誇っているのに海軍はいっこうに陽があたらない。アメリカ依存の石油供給体制を脱し、東南アジアの油田地帯を押さえて、不安のないようにしたい。軍縮条約から解放されての建艦自由競争で大艦巨砲主義に相応の自信をもったことなどがあげられよう。だが同時に時の勢いに流されたということも指摘できるように思う。
・私は、この戦争が決定的に愚かだったと思う、大きな一つの理由がある。それは、「この戦争はいつ終わりにするのか」をまるで考えていなかったことだ。当たり前のことであるが、戦争を始めるからには「勝利」という目標を前提にしなければならない。その「勝利」が何なのか想定していないのだ。例えば、それがワシントンのホワイトハウスに日章旗を揚げるでも、アメリカ西海岸の都市を占領するでも、何でもいい、何かしらの「戦争の集結」像があってしかるべきだと思うのだが・・・。開戦時の日本の「勝利」とはどのような状態を意味したのか、私は徹底的に調べてみた。ようやくそれに値するだろうある報告書に気づいた。それは、昭和16年11月15日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争集結促進ニ関する腹案」というものである。腹案には、こう書かれていた。「將界石政府を屈服させる。その上でドイツ、イタリアと提携してイギリスを屈服させ、アメリカの継戦意志を喪失せしめる」つまり、この腹案はこういうことである。日本は、極東にあるアメリカ、イギリス、オランダの根拠地を壊滅させて自存自衛体制を確立する。そしてイギリスは、ドイツとイタリアによって制圧してもらう。そうすると孤立したアメリカが「継戦の意思なし」というはず。その時にこそ、この戦争は終わるのだ、と-。この腹案を読み、私は指導者たちのあまりの見通しの甘さにあきれ返ってしまった。ここに書かれている内容は、いわば全て相手の意思任せである。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するといった勝手な思い込みだけである。
・当初、日本の軍部では、アメリカが本格的に反攻に出てくるのは昭和18年の後半からだと予想していた。平時態勢から戦時態勢に切り替わり、戦車や戦闘機など戦備の生産をフル稼働しても、そのぐらいの時間はかかるだろうとの読みであった。しかし、その読みは全く甘かった。兵力はもとより、銃器類、それに空母や駆逐艦など、昭和17年の終わり頃にはもう十分の戦時態勢に入っていたのである。
・日米開戦に至る前から、実は日本の暗号電報はアメリカ側に筒抜けだったのである。アメリカ陸軍通信部に在籍したウィリアム・フリードマンは”暗号の天才”の異名を取る人物であった。彼は、日本が昭和12(1937)年以降、外交時に使っていた暗号機の暗号解析に没頭し、15年には成功していた。暗号解読機は、日本の機密文書を「紫」と呼んでいたものにちなんで「パープル」と名付けられた。そして解読された暗号文は「マジック」と呼ばれ、ルーズベルト大統領、ハル国務長官らわずかの政府首脳と、信頼できる同盟国の指導者としてイギリスのチャーチル首相にも届けられていた。日本では、昭和16年の開戦直前、最終提案である「甲案」「乙案」をはじめとして、東京の外務省から在米日本大使館に宛てられ打たれた暗号電報は、ことごとく読まれていたのである。既に開戦に向かって進んでいる日本の裏事情もアメリカ側には筒抜けだったのだ。戦時下でも日本は、暗号が読まれていると知らず悲劇を生んでいく。
・昭和18年頃、既に「大本営政府連絡会議」「御前会議」という、日本の意思決定最高機関自体が混乱し、態をなしていなかった。「御前会議」は「連絡会議」で決まったことをただ追認するだけの場であり、また「連絡会議」にしろ、たとえそこで軍部がいったことを否定したとしても、軍は天皇のところに持って行き、勝手に判をもらってしまう。そうすれば、それで「勅令」として実行してしまえるのであった。陸軍省軍事課にいた幕僚に聞いた話では、「議会が何を言おうが、関係ありません。我々が文章を作って、天皇の下にいる侍従官に強く言いおき渡しておく。それで判をもらって、”勅令”として実行すればいいだけの話だったのですよ」と平然と述懐していた。
・昭和18年春から参謀本部の情報部に籍を置いていた、堀栄三から聞いたこんなエピソードを紹介しよう。当時、彼は「日本のマッカーサー」とあだ名されていた。なぜなら、アメリカ軍が次にどこを攻めてくるかを、ことごとく当ててしまったからである。どうしてそんなことができたのか、彼に言わせると、簡単なことだという。さまざまな情報を分析するとわかるというが、たとえばこんな方法も用いた。参謀本部の情報参謀のもとには、アメリカの放送を傍受した内容が毎日のように届いた。その中には天気予報や株式市況なども含まれており、何気なく、毎日、それらの株式市況を眺めていたのだそうだ。すると、彼はある一つの法則を見出したのである。それは、アメリカ軍の新しい作戦が始まる前には、必ず薬品会社と缶詰会社の株が急騰することであった。堀は、それはたぶん兵隊に持たせるマラリアの薬と食糧を軍が大量に購入するからだ、と推測した。また、アメリカの放送は、今、どこの部隊が休暇中であるかを報道する。その休暇中の部隊がどの戦線に出てくるか、次の作戦展開の場になる地域を見抜いていたのである。「でも、確実だとわかっている情報でも、作戦部では見向きもしてくれませんでした。彼らは自分の頭の中にある考えだけが全てであり、たとえ私の持っていった情報が正しくても、相手にしませんでしたね」せっかくの堀の情報も生かされることはなかったのだ。
・8月6日午前8時15分、広島に、続いて9日午前11時2分には、長崎に原爆が投下。さらに8日には、モスクワでモロトフ外相が佐藤尚武大使に宣戦布告の文書を渡し、翌9日未明に極東ソ連軍が満州国に侵攻した。事態はもう一刻の猶予も許さないところまで来ていた。そして、ここで「2.26事件」以来、決して意思表示してこなかった天皇が、ついにその禁を破る時が来る。天皇は、まず東郷に次のように命じた。「このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上、戦争を続けることはできない。不可能である。なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸、鈴木にも伝えよ」天皇には、当初広島への原爆投下は告げられていなかった。しかし、天皇はそのことに気づき、報告を受けてこの決断をしたともいえた。
・そして「最高戦争指導会議」が開かれることになった。8月9日、最高戦争指導会議は、皇居で行われた。首相の鈴木が口火を切ることとなる。「原爆といい、ソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはありません。ついては各員のご意見をうけたまわりたい」東郷が、「ポツダム宣言受諾」を明確に主張した。しかしそれに対して、未だ反対論も相次いだ。阿南は、実は天皇の意思は充分わかっていたが、陸軍を代表する立場として軍を押さえなければならなかった。会議では、「ポツダム宣言を受け入れたら、国体護持はできない」と鈴木に反対する意見を執拗に繰り返した。参謀総長の梅津美治郎も「ポツダム宣言では戦争犯罪人の処罰も謳っている。我々、戦争責任者の裁判はどうなるんだ、賠償金だって取られてしまうのじゃないか」と感情論をぶつけてきた。議論は平行線をたどった。折りしも、会議の途中には、長崎への原爆投下の報も伝えられている。最高戦争指導会議は午前10時半に始まり、午後1時まで行われた。その後、閣議も行われたが、二つの会議とも結論を出すことはできなかった。引き続き、御前会議が午後11時50分から皇居地下にある防空壕で開かれ、日付を超えて午前2時を過ぎた。頃合と見計らい、鈴木が切り出した。「では、決を取ろう・・・」決を取ると、鈴木を除く出席者6人がちょうど3対3の半分に分かれてしまった。それで鈴木は天皇の前に進み出て奏上した。「ご覧のように、臣下は3対3の同数です。陛下のお気持ちをお聞かせください」それに対して天皇は、こう述べた。「空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲しないところである。私の任務は祖先から受け継いだ日本という国を子孫に伝えることである。・・・昨日まで忠勤を励んでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は、忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う」このときに天皇は、陸軍は本土決戦を言うが、自分が独自に調べさせたところではとうていその準備などでいていないとも話している。こうして聖断が下され、日本の「ポツダム宣言」受諾が決まった。「御前会議」の結果は、国内ではもちろん機密だったが日本の海外向け放送では流された。
・またもや政治、軍事指導者の間には混乱が生まれた。見かねて天皇は14日、再び御前会議を自ら召集している。この時の御前会議は異例で、いつものメンバーの他に、全閣僚、枢密院議長の参加も要請された。御前会議の場で天皇は、こう述べている。「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状を充分考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える」それを聞くや、出席者たちは全員、すすり泣きを始めた。中には号泣する者もあった。そして、阿南が涙ながらに、天皇にこう言った。「これを認めれば日本は亡国となり、国体護持も不可能になります」この時、「国体護持も不可能になる」という発言を聞くや、天皇は不思議な言葉を発している。「いや、朕には自信がある。国体護持には自信がある。自信があるから、泣くな、阿南・・・」また、こうも語った。「私が国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ。・・・必要があれば、私はどこへでも出かけて親しく説き諭してもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意して欲しい」と。阿南の言葉を受けて「国体護持には自信がある」と、この時、天皇ははっきりと語った。私は、この意味するところが、未だによくわからないのだ。なぜ天皇には「自信がある」といいきれる根拠があったのだろうか・・・。
・なぜ、こんな無謀な戦争を始めてしまったのか、なぜ、歴史的使命も明確でなく、戦略も曖昧なままに、戦争を続けてしまったのかー。誤解を恐れず結論的にいうなら、「この戦争は始めなければならなかった」のだ。戦争で亡くなった310万人(戦後の戦病死を含めると500万人になるだろうが)のことを考えると、本当に気の毒としかいいようがない。しかし、日本はやはり戦争に向かう”必然性”があったのだと思う。たとえ、昭和16年12月8日に始めなくても、遅かれ早かれ、軍の暴発は起こっていたはずだ。他に選択肢がなかったのだから。今でいう”逆ギレ”のようなものだろう。緻密な戦略を立てる前に”手が出てしまった”という感じだった。もっとも、始めたはいいが、”どう収めるべきか”ということを全く考えていなかったのは、お粗末というしかなかった。明治以降、日清、日露戦争と来て、いつの間にか”夜郎自大”となってしまっていた。こういう言い方をしたら語弊があるかもしれないし、乱暴かもしれないが、明治期以降の日本はいったん”ガス抜き”が必要であったのだろう。そして、誰も「なぜ戦っているのか」という疑問も持たず、無為無策のまま戦争を続け、本土決戦まで持ち込まれる寸前までいった。「1億玉砕」などという事態にもなりかねなかったこういう言葉も誤解を招くかもしれないが、あえて使わせてもらうと「原爆のおかげで終戦は早まった」のだ。戦争継続なら8月15日以降、空襲はもっと激しさを増していただろう。皇居や京都にだって爆弾を落とされていたかもしれない。あるいは、アメリカ軍の日本本土上陸作戦が実行されていたら、果たしてどうなっていたか・・・。もし昭和20年8月9日にソ連が満州に侵攻し、そのっま攻められ続けていたら、間違いなく「東日本社会主義人民共和国」なる国家が生まれていただろう。
・”勝ち戦”に乗じて日本の領土が欲しかったスターリンは、トルーマンに「我々は関東軍を掌握し、北海道方面に侵攻している。ソ連の制圧地域として北海道を認めて欲しい」と要求していた。しかし、トルーマンは、決してそれを認めなかった。スターリンはもう一度、「北海道が欲しい」と重ねて訴えるが、やはり断られてしまう。ならばと、「領土の代わりに、関東軍の兵を労働力としてもらう」と勝手に決めてしまった節があるのだ。こうして「シベリア拘留」が行われた。多くの日本兵が、極寒の地で強制労働につかされた。
・ソ連軍は8月15日以降も、国家の意思として攻撃の手を緩めなかった。樺太、千島列島に侵攻を続けていたのである。8月18日、激しい砲撃の末、千島列島北端の占守島、幌延島に侵攻。さらに28日には択捉島、9月4日には歯舞、色丹島を占領している。そして今でも北方領土は日本に還ってきていない。「日ソ中立条約」を破り、8月15日以降も侵攻、それどころか9月4日までも侵攻を続けていたのである。これは、いったいどういうことか。ソ連のある外交官に質した時に、彼は次のような言い分を繰り返した。「我々にとっては、日ソ中立条約よりヤルタ会談の”秘密議定書”の方が国際的に見て意味が大きかった。それに我々ソ連は、日本が降伏文書に署名したその日(9月2日)が戦争の終わりであり、それまでは戦争状態だったのだ」”戦後”も戦争は続けられていたのである。
・「戦争が終わった日」は、8月15日ではない。ミズーリ号で「降伏文書」に正式調印した9月2日がそうである。いってみれば8月15日は、単に日本が「まーけた!」といっただけにすぎない日なのだ。世界の教科書でも、みんな第二次世界大戦が終了したのは、9月2日と書かれている。8月15日が「終戦記念日」などと言っているのは、日本だけなのだ。
・忘れてならないのは、日本軍がいなくなった後、マレーはイギリスに、インドネシアはオランダに、ベトナムはフランスにと、また支配されていった事実である。なんのことはない。西欧列強の植民地主義が復活したのだ。それぞれの国々では、その地に住む人々による民族独立運動が、再び起こっていたのだ。そうした民族義勇軍の中には、一部の日本兵たちも加わった。彼らは、日本人であることを捨てて、あえてそうした民族独立運動の戦いの中に身を置いていったのである。インドネシアでは、現地の独立義勇軍に、武器を持って参加した日本兵たちがおよそ3000人近くもいた。その内、1000人が独立運動で命を失い、1000人は、その後、日本に帰国した。インドネシアでは、戦死した1000名を国立英雄墓地に葬り、今でも英雄として扱っている。そして、3000人の残りの1000人は、現地に住み着き、現地人の妻を娶り、インドネシア人として生き続けていた。
<目次>
はじめに
第1章 旧日本軍のメカニズム
1 職業軍人への道
陸軍士官の養成機関
「統帥」の教え
海軍の教育機関
2 一般兵を募る「徴兵制」の仕組み
「国民皆兵」の歴史
2年の兵役、5年の予備役
兵役免除、お目こぼし、徴兵逃れ・・・
3 帝国陸海軍の機構図
「大本営」とは何か
「統帥権の干犯を許さない!」
戦略単位としての「師団」と「艦隊」
第2章 開戦に至るまでのターニングポイント
1 発言せざる天皇が怒った「2.26事件」
「天皇機関説」から「神権説」へ
「大善」をなした青年将校たち
もはや誰にも止められぬ「軍部」
2 坂を転げ落ちるように-「真珠湾」に至るまで
「皇紀2600年」という年
「北進」か「南進」か
逆転の発想「東條内閣」
真の”黒幕”の正体・・・
第3章 快進撃から泥沼へ
1 「この戦争はなぜ続けるのか」-2つの決定的敗戦
果たして「真珠湾攻撃」は成功だったのか
”勝利”の思想なき戦争
完全に裏をかかれた「ミッドウェー海戦」
無為無策の戦場「ガダルカナル」
誰も発しなかった「問い」
2 曖昧な”真ん中”、昭和18年
”狂言回し”としての山本五十六
アッツ島の「玉砕」はなぜ起きたか
大本営が作った空虚な作戦「絶対国防圏」
開き直る統帥部
”とりつくろう”とした年
第4章 敗戦へ-「負け方」の研究
1 もはやレールに乗って走るだけ
「軍令」「軍政」の一線を超えた東條
無能指揮官が地獄を招いた「インパール作戦」
「あ号作戦」、サイパンの玉砕、東條の転落
軍令部の誤報が招いた”決戦”の崩壊
硫黄島、沖縄の玉砕
2 そして天皇が動いた
鈴木内閣の”奇妙な二面策”
「例の赤ん坊が生まれた」-
阿南泣くな、朕には自信がある
第5章 8月15日は「終戦記念日」ではない-戦後の日本
「シベリア拘留」という刻印
太平洋戦争はいつ終わったか?
名もなき戦士たちの墓標
【基礎知識】
恩賜の軍刀
大東亜共栄圏、八紘一宇
軍人勅諭
大鑑巨砲主義
マジック
軍神
あとがき
太平洋戦争に関する年表
面白かった本まとめ(2012年上半期)
<今日の独り言>
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