松の木、第03号、2003年09月17日発行
浜松市積志公民館 哲学講習会の教科通信
前回は自己紹介とは何かを考えていただきました。2回目となり
、皆さんの文章がかなりのびのびしてきました。
自己紹介について
──自己紹介の場面を想定すると、
(1) 自己紹介をする目的を考える、
(2) 目的に応じた紹介内容を考える、
(3) 聞き手の反応に応じた紹介内容を追加する。
こんな風に即座に準備できればうまく紹介できそうです。ところ
が私は自己紹介が苦手です。紹介したい材料が貧弱であることが理
由で、話に行き詰まります。
今日のグループの対談を通して気づいたことは、自己紹介も一種
の会話であるということです。聞き手のことを考え、会話をする中
で自分のことを述べればいいとすれば、話題(材料)も拡大できる
のではないかと思いました。
──自己紹介は会合その他では日常している事なので、あまり深く
考えなくて挨拶位に気楽に行っていると思っていました。このよう
に突き詰めて話し合って考えてみると何か異様な思いがします。明
るい自己紹介をし、皆さんに好い印象を与える事が大切な第一歩と
思います。
★ 自己紹介を自己表出と言い直してみるとどうでしょうか。個
人が一生の間に行う言動はすべてその人の自己表出とみなすことが
できます。
すると、人間は一生かかって自己紹介しているということになり
ます。世間でも「人の評価はその人が棺桶に入ってから定まる」と
言います。
「いわゆる自己紹介」はその場に合わせたもので、全自己表出の
一部ないし「相手に対しての最初の自己表出」でしかないと思いま
す。学校でも、授業を3回やると生徒は大体「この先生はこういう
先生だな」と判断し、「自分はこの授業に対してこういう態度で臨
もう」と決めるようです。
──自分の名前を言うことの意味。特に大ぎょうに考えたことはあ
りませんが、自分の名前を自分自身で言う時、いつも気恥ずかしさ
を感ずるのは私だけでしょうか。
★ 多くの人が同じように感じているのではないでしょうか。自
分の名前を言う時は、いつも以上に自分を意識するからだと思いま
す。では、自分を意識するとなぜ「少しへんな感じ」がするのでし
ょうか。
──後ろを向いて向き合った3人は先に自己紹介をしたでも何でも
ないのに20分程の話し合いが和気あいあいとはずむように出来た。
最後にはお互いの性格まで認め合い楽しく終わった。何故だろう。
同じ場所で同じ事を学ぼうという目的で来た同志という仲間だ
〔からだ〕ろうか。この場合は本当の最小必要限度の名前さえあれ
ば何も要らない素晴らしい出会いであった。次回にお会いできれば
笑ってお互いを迎え入れる事が出来るだろう。
自己紹介というテーマで話し合う時、自己紹介の要らないこんな
素晴らしい出会いがある事を知ったし、貴重な体験で二人に感謝し
たい気持ちで一杯のひとときでした。
★ 「自己紹介というテーマで話し合う時、自己紹介の要らない
こんな素晴らしい出会いがある」とは面白い皮肉ですね。しかし、
これを生み出した原因についてはもう少しよく考えてみる必要があ
ると思います。集団で一番大切なのは何でしょうか。
──思い出したことだが、ある会で、「名前と最近嬉しかった事、
楽しかった事」と、司会者から自己紹介が促された。新鮮な紹介を
話し、また聞くことが出来た。
★ 集団では主催者や指導者のリーダーシップが決定的だと思い
ます。広末さんの感じている問題は、学校での経験だと思いますが
、教師(クラス担任、教科担任)が指針を示さずにおざなりに自己
紹介をさせることにその原因の大きな部分があると思います。
特に学校では、「いじめるのに適当な奴はいないかな」と悪意を
持っている人が、ほとんど必ず、いると思います。
日本の学校では、校門を入ってから出るまでの時間が長いのが根
本問題ですが、同時に、どの先生にも見られていない時間があるの
です。性善説に立っているのでしょう。
ドイツの学校では、生徒は常に誰かの先生に見られています。休
み時間も校庭に3~4人の先生が立って「監視」しています。職員
室には監視の当番表が張ってあります。
「松の木」を読んで
──それぞれの人生観を持って講座に参加しているんだなと感心し
た。自分はまだまだなんだと思った。むつかしく考えないで、自分
流の人生観、流儀でよいのかなとも思えた。
──前号に「こんなに話し合いをしたのは何年ぶりでしょうか」と
言っていた方がありました。私も1つの事について相手の話を聞い
たり考えを述べるなんて事、本当に久しぶりです。
それで自己紹介の事についても他の方は違う方法だった事も知っ
たりしました。そして、この会では名前も札を付けているし、お顔
を見れば何歳位か分かるし、あまりしゃべらなくても相手の事ある
程度分かる年齢になったと思いました。
★ 前半と後半は少し矛盾しているのではありませんか。話さな
くても分かる年齢になったつもりだったけれど、実際にはこの会で
深く話し合ってみて、こういう話し合いの好さを感じた、というの
なら筋が通ると思いますが。
VTR「コーチング」を見て
──現代社会がいかにコミュニケーションを行うことに対し閉鎖的
であるかを考えさせられた。〔ゲストの〕斉藤〔孝〕さんが、日記
はセルフコーチングであると話されていたが、かつての日本社会で
は種々の問題(個人的なものも含め)に対し、上下関係(先輩後輩
)、横関係(仲間うち、友人)で話し合い解決していたように思う
。
現代社会では人と人との関係も機能ばかりが優先し、もっと人と
しての本質(愛情、友情、仲間意識等)が希薄になっているように
感じられる。
──今の時代、本音で話せる人が少ないのではないかしら。だから
心の病気(うつ病など)が多くなってしまうのではないでしょうか
。このVTRを見て、相手の話をよく聞く、相手を認める、話の聞
き方チェック(目線、顔の向き、うなづく、ほめる、会釈する)等
、一つ一つすぐに実行できることで分かりやすくとても助かりまし
た。今、仕事で子供達と接していますが、VTRの中の言葉の一言
一言がそうそうとうなづくことばかりでした。
★ 拙著『哲学の授業』を読んでメールをくれた人がこの春、中
高一貫校の倫理の教師になりました。春に電話で話した時、「生徒
をほめる技術を磨け」と忠告しました。
──カウンセリングとコーチングはどのように違うのだろうか。
★ 分かりません。同じではないでしょうか。
その他
──77年間の人生でいろいろ考えられるのは、大東亜戦争を境にし
て我々の年齢者は戦争の現場と一番関係した年齢だと思います。今
生きていることすら不思議と思える位です。中国東北(満州)のソ
連との国境に5年間住んでいて、特攻隊志願で予科連に入り、命拾
いをしたような自分でありました。自己の命についてつくづく考え
ているこの頃です。
──「哲学史の大道の真ん中」とは? 「哲学史のはずれ」とは?
★ 近世哲学はヘーゲルで完成したと皆認めています。従って、
その後の人はヘーゲル哲学の核心を(批判的に)受け継いだか、そ
の枝葉の部分を受け継いだ(難癖を付けた)かで分けられると思い
ます。
今日のテーマ
2002年度ノーベル物理学賞を小柴昌俊さんが受けることに決まっ
た時、「小柴語録」が朝日新聞に載っていました。その中に、2002
年3月の東大の卒業式での挨拶の1部がありました。
曰く「どんな偉い先生の言うことでも間違っていたら、公の場で
もその場で誤りを指摘するのが科学する者の当然の態度」。
果してそうでしょうか。
まず、「間違っていたら」は間違い(氏の真意を表現していない
)で、「間違っていると思ったら」だと思います。これは初歩的な
ミスです。ある人が、「あの先生の言っている事は間違っている」
と思った場合、実際に間違っていることもあれば、実際にはその先
生の言う通りのこともあります。
第2に、「その場で言う」のが正しいと一般的に言えるでしょう
か。
第3に、根本的な問題として、小柴さんはなぜこういう事を言っ
たのでしょうか。本当の問題はどこにあるのでしょうか。東大の卒
業式で来賓の挨拶としてこういう事を言うのは適当でしょうか。
第3問への参考事例
「どんな組織でも人間には考えの違いや感情の行き違いがあるも
のだから、それをなるべく理性的に解決するためには、苦情処理の
システムを作っておくことが大切だ」ということを考えていた時の
、或る学校での或る生徒のレポートです。
──本校では全然、言えません。実際、すごくいい授業をする人に
は言うけれど、苦情なんてとてもとても。〔担任との定期〕面接の
とき、「授業はどう? 分かりにくいのある?」と聞かれて、本心
は「あなたの授業は分かりにくいです」と思いながらも言えない。
でも、少し勇気を出して、「あのぅ、先生の授業ちょっと早すぎ
て、付いていけないとこがあります」と、言ってみたら、「アラー
、あの授業だけで理解できると思ってるの?予習とか復習してる?
」。(「してません」)。「それじゃあ、だめよ。これからもっと
付いていけないわよ」と、言われてしまいました。
確かに予習や復習はしていないけど、でもしっかり授業聞いてい
るのに分からないのは、先生の教え方もまずいのではないか、と思
うんです。というか、私の訴えは全然受け入れてくれないし、反対
に説教されてしまったのが、すごく悲しかった。言わなければよか
った、と思いました。(A)
この問題については、そのほかに、作曲家の中田喜直さんの例
(音楽の時間の先生の伴奏に「違います」と言った)もあります。
Aさんの例と中田さんの例の異同を考えてください。
内部告発者保護法はなぜ必要なのかも考えてください。
浜松市積志公民館 哲学講習会の教科通信
前回は自己紹介とは何かを考えていただきました。2回目となり
、皆さんの文章がかなりのびのびしてきました。
自己紹介について
──自己紹介の場面を想定すると、
(1) 自己紹介をする目的を考える、
(2) 目的に応じた紹介内容を考える、
(3) 聞き手の反応に応じた紹介内容を追加する。
こんな風に即座に準備できればうまく紹介できそうです。ところ
が私は自己紹介が苦手です。紹介したい材料が貧弱であることが理
由で、話に行き詰まります。
今日のグループの対談を通して気づいたことは、自己紹介も一種
の会話であるということです。聞き手のことを考え、会話をする中
で自分のことを述べればいいとすれば、話題(材料)も拡大できる
のではないかと思いました。
──自己紹介は会合その他では日常している事なので、あまり深く
考えなくて挨拶位に気楽に行っていると思っていました。このよう
に突き詰めて話し合って考えてみると何か異様な思いがします。明
るい自己紹介をし、皆さんに好い印象を与える事が大切な第一歩と
思います。
★ 自己紹介を自己表出と言い直してみるとどうでしょうか。個
人が一生の間に行う言動はすべてその人の自己表出とみなすことが
できます。
すると、人間は一生かかって自己紹介しているということになり
ます。世間でも「人の評価はその人が棺桶に入ってから定まる」と
言います。
「いわゆる自己紹介」はその場に合わせたもので、全自己表出の
一部ないし「相手に対しての最初の自己表出」でしかないと思いま
す。学校でも、授業を3回やると生徒は大体「この先生はこういう
先生だな」と判断し、「自分はこの授業に対してこういう態度で臨
もう」と決めるようです。
──自分の名前を言うことの意味。特に大ぎょうに考えたことはあ
りませんが、自分の名前を自分自身で言う時、いつも気恥ずかしさ
を感ずるのは私だけでしょうか。
★ 多くの人が同じように感じているのではないでしょうか。自
分の名前を言う時は、いつも以上に自分を意識するからだと思いま
す。では、自分を意識するとなぜ「少しへんな感じ」がするのでし
ょうか。
──後ろを向いて向き合った3人は先に自己紹介をしたでも何でも
ないのに20分程の話し合いが和気あいあいとはずむように出来た。
最後にはお互いの性格まで認め合い楽しく終わった。何故だろう。
同じ場所で同じ事を学ぼうという目的で来た同志という仲間だ
〔からだ〕ろうか。この場合は本当の最小必要限度の名前さえあれ
ば何も要らない素晴らしい出会いであった。次回にお会いできれば
笑ってお互いを迎え入れる事が出来るだろう。
自己紹介というテーマで話し合う時、自己紹介の要らないこんな
素晴らしい出会いがある事を知ったし、貴重な体験で二人に感謝し
たい気持ちで一杯のひとときでした。
★ 「自己紹介というテーマで話し合う時、自己紹介の要らない
こんな素晴らしい出会いがある」とは面白い皮肉ですね。しかし、
これを生み出した原因についてはもう少しよく考えてみる必要があ
ると思います。集団で一番大切なのは何でしょうか。
──思い出したことだが、ある会で、「名前と最近嬉しかった事、
楽しかった事」と、司会者から自己紹介が促された。新鮮な紹介を
話し、また聞くことが出来た。
★ 集団では主催者や指導者のリーダーシップが決定的だと思い
ます。広末さんの感じている問題は、学校での経験だと思いますが
、教師(クラス担任、教科担任)が指針を示さずにおざなりに自己
紹介をさせることにその原因の大きな部分があると思います。
特に学校では、「いじめるのに適当な奴はいないかな」と悪意を
持っている人が、ほとんど必ず、いると思います。
日本の学校では、校門を入ってから出るまでの時間が長いのが根
本問題ですが、同時に、どの先生にも見られていない時間があるの
です。性善説に立っているのでしょう。
ドイツの学校では、生徒は常に誰かの先生に見られています。休
み時間も校庭に3~4人の先生が立って「監視」しています。職員
室には監視の当番表が張ってあります。
「松の木」を読んで
──それぞれの人生観を持って講座に参加しているんだなと感心し
た。自分はまだまだなんだと思った。むつかしく考えないで、自分
流の人生観、流儀でよいのかなとも思えた。
──前号に「こんなに話し合いをしたのは何年ぶりでしょうか」と
言っていた方がありました。私も1つの事について相手の話を聞い
たり考えを述べるなんて事、本当に久しぶりです。
それで自己紹介の事についても他の方は違う方法だった事も知っ
たりしました。そして、この会では名前も札を付けているし、お顔
を見れば何歳位か分かるし、あまりしゃべらなくても相手の事ある
程度分かる年齢になったと思いました。
★ 前半と後半は少し矛盾しているのではありませんか。話さな
くても分かる年齢になったつもりだったけれど、実際にはこの会で
深く話し合ってみて、こういう話し合いの好さを感じた、というの
なら筋が通ると思いますが。
VTR「コーチング」を見て
──現代社会がいかにコミュニケーションを行うことに対し閉鎖的
であるかを考えさせられた。〔ゲストの〕斉藤〔孝〕さんが、日記
はセルフコーチングであると話されていたが、かつての日本社会で
は種々の問題(個人的なものも含め)に対し、上下関係(先輩後輩
)、横関係(仲間うち、友人)で話し合い解決していたように思う
。
現代社会では人と人との関係も機能ばかりが優先し、もっと人と
しての本質(愛情、友情、仲間意識等)が希薄になっているように
感じられる。
──今の時代、本音で話せる人が少ないのではないかしら。だから
心の病気(うつ病など)が多くなってしまうのではないでしょうか
。このVTRを見て、相手の話をよく聞く、相手を認める、話の聞
き方チェック(目線、顔の向き、うなづく、ほめる、会釈する)等
、一つ一つすぐに実行できることで分かりやすくとても助かりまし
た。今、仕事で子供達と接していますが、VTRの中の言葉の一言
一言がそうそうとうなづくことばかりでした。
★ 拙著『哲学の授業』を読んでメールをくれた人がこの春、中
高一貫校の倫理の教師になりました。春に電話で話した時、「生徒
をほめる技術を磨け」と忠告しました。
──カウンセリングとコーチングはどのように違うのだろうか。
★ 分かりません。同じではないでしょうか。
その他
──77年間の人生でいろいろ考えられるのは、大東亜戦争を境にし
て我々の年齢者は戦争の現場と一番関係した年齢だと思います。今
生きていることすら不思議と思える位です。中国東北(満州)のソ
連との国境に5年間住んでいて、特攻隊志願で予科連に入り、命拾
いをしたような自分でありました。自己の命についてつくづく考え
ているこの頃です。
──「哲学史の大道の真ん中」とは? 「哲学史のはずれ」とは?
★ 近世哲学はヘーゲルで完成したと皆認めています。従って、
その後の人はヘーゲル哲学の核心を(批判的に)受け継いだか、そ
の枝葉の部分を受け継いだ(難癖を付けた)かで分けられると思い
ます。
今日のテーマ
2002年度ノーベル物理学賞を小柴昌俊さんが受けることに決まっ
た時、「小柴語録」が朝日新聞に載っていました。その中に、2002
年3月の東大の卒業式での挨拶の1部がありました。
曰く「どんな偉い先生の言うことでも間違っていたら、公の場で
もその場で誤りを指摘するのが科学する者の当然の態度」。
果してそうでしょうか。
まず、「間違っていたら」は間違い(氏の真意を表現していない
)で、「間違っていると思ったら」だと思います。これは初歩的な
ミスです。ある人が、「あの先生の言っている事は間違っている」
と思った場合、実際に間違っていることもあれば、実際にはその先
生の言う通りのこともあります。
第2に、「その場で言う」のが正しいと一般的に言えるでしょう
か。
第3に、根本的な問題として、小柴さんはなぜこういう事を言っ
たのでしょうか。本当の問題はどこにあるのでしょうか。東大の卒
業式で来賓の挨拶としてこういう事を言うのは適当でしょうか。
第3問への参考事例
「どんな組織でも人間には考えの違いや感情の行き違いがあるも
のだから、それをなるべく理性的に解決するためには、苦情処理の
システムを作っておくことが大切だ」ということを考えていた時の
、或る学校での或る生徒のレポートです。
──本校では全然、言えません。実際、すごくいい授業をする人に
は言うけれど、苦情なんてとてもとても。〔担任との定期〕面接の
とき、「授業はどう? 分かりにくいのある?」と聞かれて、本心
は「あなたの授業は分かりにくいです」と思いながらも言えない。
でも、少し勇気を出して、「あのぅ、先生の授業ちょっと早すぎ
て、付いていけないとこがあります」と、言ってみたら、「アラー
、あの授業だけで理解できると思ってるの?予習とか復習してる?
」。(「してません」)。「それじゃあ、だめよ。これからもっと
付いていけないわよ」と、言われてしまいました。
確かに予習や復習はしていないけど、でもしっかり授業聞いてい
るのに分からないのは、先生の教え方もまずいのではないか、と思
うんです。というか、私の訴えは全然受け入れてくれないし、反対
に説教されてしまったのが、すごく悲しかった。言わなければよか
った、と思いました。(A)
この問題については、そのほかに、作曲家の中田喜直さんの例
(音楽の時間の先生の伴奏に「違います」と言った)もあります。
Aさんの例と中田さんの例の異同を考えてください。
内部告発者保護法はなぜ必要なのかも考えてください。