ブログ「教育の広場」(第2マキペディア)

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教育の広場、第 106号、いわゆる拉致事件に思う(その6)

2005年12月03日 | ヤ行、ラ行、ワ行
 拉致事件で考えた最後のそして最大の問題は、「人類解放の理想を掲げて出発したはずの社会主義運動がなぜこのような拉致国家を生み出すことになったのか」という問題です。

 10年ほど前のソ連の崩壊以降、そして中国が社会主義から徐々に脱して「改革・開放政策」という名で事実上資本主義へと舵を切って以降、もはや社会主義を理想と思う人も少なくなったと思います。

たしかに社会主義をやめて資本主義に変えた国々では社会は混乱し貧富の差が広がり、それまでの自由はなく貧しくても安定していた生活がなくなったので、昔の社会主義の復活を求める意見も出ています。

しかし、前からの資本主義国でも、社会主義から資本主義に変わった国でも、資本主義の欠陥は認めながらも社会主義を理想とする人々は多くはありませんし、これからも多数派になることはないでしょう。

私自身、物心ついた時以来、社会主義の平等原則に引かれてきましたが、今では考えが変わりました。

では社会主義のどこが間違っているのでしょうか。私見では、この問題にきちんと答えた理論はないと思います。そして、こういう事をきちんと考えられないという事自体が社会主義の欠陥と結びついていると思いますが、それはともかく問題点を整理しておきましょう。

1、社会主義国家が内に対しては収容所列島になり外に対しては拉致国家になるのは、「科学的社会主義」思想の持つ根本的な欠陥からの必然的な帰結なのか、それとも社会主義の本質とは無縁な偶然的なことなのか。

2、もしそこに必然性があるとするならば、その根本的な欠陥とはマルクスとエンゲルスのいわゆる「科学的社会主義」理論の中にあるのか。そうだとするならば、それは何か。

3、又、マルクスとエンゲルスのいわゆる「科学的社会主義」理論に根本的な欠陥があるとするならば、その理論的な基礎となっている唯物史観(いわゆる弁証法的唯物論を含む)自体に根本的な欠陥があるのか。それともその理論的基礎には欠陥はないのだけれど、そこから「科学的社会主義」を導き出したことに間違いがあったのか。

4、それともマルクスとエンゲルスの社会主義思想には根本的な欠陥はなくて、それを発展させたと言われているレーニンの前衛党理論に根本的な欠陥があるのか。そうだとするならば、それは何か。

結論だけ申し上げますと、私の考えは「3」です。つまり唯物史観(弁証法的唯物論を含む)の根本は正しいのだけれど、そこから社会主義は出てこない、と今では考えています。

エンゲルスはその「空想から科学へ」の中で唯物史観の発見と剰余価値の発見によって「社会主義思想は空想から科学になった」と主張していますが、私はエンゲルスの推論を検討して、これは単なる断定に基づく希望にすぎないと考えるようになりました。つまり、マルクスとエンゲルスの社会主義も「空想的社会主義」の1種にすぎない、と思うようになりました。

そもそもマルクスとエンゲルスの社会主義思想は「ドイツ古典哲学とフランス社会主義とイギリス国民経済学を統一したもの」と言われていますが、ドイツ古典哲学の人間観は性悪説であり、フランス社会主義の人間観は性善説です。この両者がどのように統一できるのか、そういう問題意識すら2人にはありませんでした。

現実の社会主義運動を見ていますと、理論的には性善説に立っていながら、実際の運動では性悪説に立っているようです。「実例による模範を示して説得する」などと言いながら、実際には万事を強制で処理するやり方にそれがよく出ています。

ヘーゲルは「性善説より性悪説の方が深い」と言っています。私自身、歳をとるにつれて、人間の中にある悪魔的要素をますます大きく考慮するようになってきました。人間は神と悪魔の中間の存在なのです。人間は札束でひっぱたかれなければ働かないし努力しないように出来ているのです。

もちろん人間の中には天使的要素もあります。ですから、札束の力をうまくコントロールしてその悪魔的要素を制御して天使的要素を発揮させていくことが大切なのだと思います。

最後に、社会主義の評判がかくも衰えた今でも残っている2つの「社会主義」について言及しておきます。1つはわが日本の共産党です。もう1つはキューバです。

日本共産党は資本主義国の共産党としては唯一残っている党だと思います。その純粋性も立派だと言われています。では、それは拉致的性格と無縁なのでしょうか。

残念ながら、無縁ではないようです。立花隆さんのように、戦前の共産党の問題を繰り返したり、まして偶然にすぎない宮本顕治さんの指導したとされる「査問での死亡事件」とやらに焦点をあてて論ずるのは正しくないと思いますが、今でも共産党の査問体質は変わっていないようです。そして、査問は党内での拉致と同じなのです。
す。

1972年、共産党のなかでいわゆる「新日和見主義」の問題が起きました。その時査問された党員の1人である川上徹さんは『査問』(筑摩書房、1997年)を著しています。川上さんはそれまでは共産党のエリートコースを歩んでいた人でした。

その冒頭で川上さんは、1972年5月9日、民青本部に出勤した所、有無を言わさず共産党本部の一室へと拉致され、その後監禁状態で査問された経緯を詳しく書いています。

私自身、査問が怖くて自由に考えられない共産党員を何人も知っています。団体の規律をどう決めるかはその団体の自由ですが、日本の団体である以上は、やはりそれは憲法の保障する基本的人権を守った上でのその範囲内での自由だと思います。

もう1つはキューバでした。10月3日号の「週刊新潮」に「最後の巨人カストロに会いに行く」を寄稿した作家の戸井十月さんはキューバをこう評しています。「社会主義国なのに官僚的でない、一党独裁なのに権力の腐敗がない、超大国アメリカにいじめられ続けてもめげない、貧しいのに明るい、苦しいのに希望を持っている」。

私にもキューバのことは分かりません。事情もよく知りません。しかし、これだけではマルクスとエンゲルスの理想とは言えないのは確かだと思います。経済生活が苦しいのは彼らの社会主義ではないからです。

そもそも官僚的でなく権力の腐敗がないのに、なぜ優れた才能が続出して経済が発展しないのでしょうか。強いのはスポーツだけというのはやはりおかしいと思います。

(2002年12月17日発行)