久し振りに古城を訪ねた。
松浦党水軍の党祖、松浦今福の梶谷城々主である源久公の孫にあたる源披が治承・文治年間(1177-90)に築城した、佐賀県唐津市厳木町の獅子ヶ城である。
源持の時代に松浦党の拠点が平戸方面へ移っていったため一時廃城となるが、この地方は松浦党勢力の南東の最前線であり、室町時代にも松浦党と佐賀を拠点とする竜造寺氏のせめぎ合いの地となり、松浦党は鶴田兵庫介源前を獅子ヶ城主とし、天文14年(1545)城を改修した。
当時この地方は上松浦党の覇者、波多氏の勢力下にあったが数度にわたる戦いの末、源前は竜造寺氏に屈服、長子源賢の時に竜造寺一門である多久氏に降り、佐賀も竜造寺氏から鍋島氏へ勢力が推移していくに従い、この城も次第に重要性が薄れていった。ちょうどこの頃は秀吉が朝鮮出兵のために名護屋城を築城しており、波多氏も追われ、狭い地域間の争いどころではなかったのであろう。
この後、唐津城主寺澤広高公時代に一時支城となるが、元和の城割で最終的な廃城となり、その後使われることはなかったと思われる。
城址は写真の岩壁の上に三の丸、二の丸、本丸、駐車場手前に出丸と一列に並んだ縄張りで、井戸曲輪の他、幾つかの虎口があり、堀切とかあちこちに高石垣も残り、中世から近代にかけて修築された形態がよく残っている。
現地は補修のためかブルーシートがいたるところに掛けてあり、いい状態で見ることは出来なかったが、以前から行ってみたいと思っていた城址だったので、ほぼ満足。ただ城址は雑木が茂り鬱蒼としており、全部取り払って俯瞰的に見てみたいとも思うのであった。
mm
まさき設計
松浦党水軍の党祖、松浦今福の梶谷城々主である源久公の孫にあたる源披が治承・文治年間(1177-90)に築城した、佐賀県唐津市厳木町の獅子ヶ城である。
源持の時代に松浦党の拠点が平戸方面へ移っていったため一時廃城となるが、この地方は松浦党勢力の南東の最前線であり、室町時代にも松浦党と佐賀を拠点とする竜造寺氏のせめぎ合いの地となり、松浦党は鶴田兵庫介源前を獅子ヶ城主とし、天文14年(1545)城を改修した。
当時この地方は上松浦党の覇者、波多氏の勢力下にあったが数度にわたる戦いの末、源前は竜造寺氏に屈服、長子源賢の時に竜造寺一門である多久氏に降り、佐賀も竜造寺氏から鍋島氏へ勢力が推移していくに従い、この城も次第に重要性が薄れていった。ちょうどこの頃は秀吉が朝鮮出兵のために名護屋城を築城しており、波多氏も追われ、狭い地域間の争いどころではなかったのであろう。
この後、唐津城主寺澤広高公時代に一時支城となるが、元和の城割で最終的な廃城となり、その後使われることはなかったと思われる。
城址は写真の岩壁の上に三の丸、二の丸、本丸、駐車場手前に出丸と一列に並んだ縄張りで、井戸曲輪の他、幾つかの虎口があり、堀切とかあちこちに高石垣も残り、中世から近代にかけて修築された形態がよく残っている。
現地は補修のためかブルーシートがいたるところに掛けてあり、いい状態で見ることは出来なかったが、以前から行ってみたいと思っていた城址だったので、ほぼ満足。ただ城址は雑木が茂り鬱蒼としており、全部取り払って俯瞰的に見てみたいとも思うのであった。
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まさき設計