世界はなんと長い間、このシュリーマンという人物に騙されつづけてきたことか。彼の自伝「古代への情熱」が出版されて100余年、当時もいまも、知識人が読むべき代表的古典として推奨されつづけているのだが、岩波文庫に収録されているこの本を初めて読んだのは、まだ中学生のころであった。以来、ハインリッヒ・シュリーマンは憧れのヒーローであり、「古代への情熱」は愛蔵の一冊として大切にしてきた。ホメロスの物語、なかでもトロイ戦争の記述に感動した幼いシュリーマンは、これは史実に違いない、大きくなったらトロイを発掘するのだと夢を抱く。やがて財を築き、ついにその夢をはたす。あまりにも有名なサクセス・ストーリーである。現代の若者は夢が持てないという。情報の多さやスピードに対応しようとして、一元化、平均化した若者ばかりが出来ていく。将来の大きな夢のために、長いステップをひとつずつクリアーしていく、シュリーマンのような根気さがいまこそ必要なのかもしれない。
7歳のとき、シュリーマンは絵入りの世界史の本を読みトロイ戦争に魅せられた。このトロイは今もどこかに埋もれているに違いない。いつの日にか必ずそれを発掘しよう。神話の世界の話だと思われていたトロイ。しかしその44年後、彼はトルコのヒッサリクの丘にトロイを発掘する。少年の日の夢の実現といえば簡単だがそこまでの道のりを知るとき、彼の人生設計の確かさが見えてくる。
シュリーマンは貧しい牧師の息子として東ドイツに生まれた。14歳のとき、学業を中断しなければならなくなり、彼は雑貨商の丁稚となった。そこで考えたのは先ず語学を身につけることであった。トロイを発掘するにはギリシャ語が解らなければならない。こうして語学に熱中、やがて十余りもの国の言葉を話せるようになった。これが商売の面でも大いに役だった。主人に重宝がられてあちこち出かけて行くうちに信用を得、やがて独立すると莫大な財産を築いた。発掘に必要な財力を獲得した彼は事業から身を引き、次にフランスで考古学を学ぶ。そして46歳になって遂にトロイ発掘へと乗り出すのである。
彼の自伝や伝記を読んで考古学にあこがれた人は、世界中に数えきれないほどいるに違いない。ところが、これがすべて嘘であったというのである。著者は、デイヴィッド・トレイルというカリフォルニア大学の教授でギリシャ・ラテン文学が専攻だという。本書のなかでシュリーマンの日記、自伝、往復書簡などの資料を克明に追い、彼の嘘をひとつひとつ暴いていく。
トロイを発掘しようという夢など、幼少のころから微塵ももっていなかったこと。中年になって財を築いたものの、それはトロイを発掘しようなどという崇高な目的のためではなかったこと。結婚生活が破綻に追いこまれ、新たなアイデンティティの確立を求めていたときに偶然出会ったのが古代ギリシャであったこと。ヒッサルリクの丘こそがトロイの跡であるというのも、彼独自の見解などではまったくなかったこと。日記の記述ですらも改ざんしていたこと…等々。次から次への嘘にはあっけにとられるばかりである。しかし、こうした嘘のつづきに浮上してくるのは、さまざまなコンプレックスや確執をかかえた複雑なひとりの人物である。学歴はないがアカデミズムにあこがれ、10数か国の言語や発掘の基本をも独学で身につける才能をもつ人物、目的のためには労力を惜しまない努力家、商売においても研究においても、そして結婚においてすら、ちょっと山師的なところがある、自己顕示欲のきわめて強い男である。
偉人とはなにか。ここには歴史に名を残す偉業を成し遂げた人物の原動力、偉大さ、そしてゆがみのすべてがある。