海洋物理学者である若土正曉先生が昆虫生理生化学者の茅野春雄先生から英語論文の書き方の手ほどきを受けたと言うエピソードは、先日お伝えいたしました。
では、茅野春雄先生はどうだったのでしょうか?
先生の「昆虫の謎を追う」では、こんなエピソードが紹介されています。少し長いのですが、ここに引用いたします。1955年頃、東京都世田谷区深沢で繰り広げられたエピソードです。
都立大学での六年半は、暦の上では長いと言えないだろうが、私の人生にとっては、単に仕事だけでなく、研究者として自立するために、最も重要な期間であった。
一つの仕事は、最後に論文として発表することによって終わり、そこから次の仕事が始まる。都立大学に来るまで、私は英文で三つばかり論文を書いていたが、すべて国内雑誌や大学の紀要であった。その英文はほとんど藤井先生がかいてくれたものだった。私の英語は下手を通り越して、箸にも棒にもかからないという表現がぴったりだっただろう。
團さん(発生生物学者)は、戦前アメリカに長い間滞在し、私にとっては(多分、私ばかりではなかったと思うが)、團さんと言えば、英語の達人、尊敬と羨望の対象であった。團さんはいつも言っていた。「はじめが大事だ。一番初めの論文を何処に出すかによって決まる。初めから国際誌を目指せ」。都立大学が新設された時、あえて理学部紀要を作らなかったのも團さんの意向によると、私は聞いていた。
(中略)
私が都立大学へ行った頃、(團さんから)「どうして、外国のジャーナルに出さなかったんだ」と、まず言われた。カイコの卵休眠の仕事が始まってから、私は全部で七編(Natureの短報も含む)の論文を書いたが、全部團さんに英語を見てもらった。
いくら脳みそをしぼっても、駄目なものは駄目。ろくな英語が書けるわけはない。恐る恐る部屋をノックし、原稿を差し出す。「そこへ置いて行けよ」と團さんは一言だけ。團さんが差し出す机の上は、論文の原稿がうず高く積まれていた。生物教室ばかりでなく、あちらこちらから英語直しを頼まれた原稿の山だった。一体いつ順番が回ってくるのか、私は不安で一杯だった。廊下で團さんとすれ違っても一言もない日が続く。ようやく声がかかった。しかし、ものの五分と経たないうちに團さんの顔は険しくなり、「君、英語はいつどこで習ったの」。私は戦中、戦後の有り様を、英語はenemy languageだったことを、精一杯説明してみたが、そんなことは團さんは先刻、十分承知のはずだったと思う。「君の英語は駄目なのはよくわかる。だが、これはどうせぼくがなおしてくれるんだから、という感じだね。下手は下手でいいから、君の努力を僕が感じ取れるような原稿にして来給え!」 それで、第一回目は終わりだった。
それこそ、身の縮む想いとはこのことだ。文字通り、一ワード、一センテンスずつ、一回に原稿が一枚か二枚進むのが限度だった。なおしてもらった分は、すぐタイプして持って行く。しばらくすると、また声がかかる。私は、すぐ先に進んでくれるのかと思った。ところが、團さんは、この前直して折角タイプを打った所を、また初めから直すのだ。「君は先に進みたいんだろう。それは間違いだ。一度直したところを通読して、文章の筋が通っているかどうか、必要なら、何度でも直す」。こういう次第だったから、一つの論文に最低でも三ヶ月、あるいはそれ以上かかっただろう。ただ、一つだけ例外があった。Natureに単報を投稿した時だ。私も驚くほどのスピードで直してくれた。「とうとうやったね」と言って、この時ばかりはすこし褒めてくれた。
こうして、毎回毎回、噛んで含めるように、英語らしい英文を、徹底的にたたき込まれた。今でも印象的だったのは、論文の中にsurprisingとかunexpectedとかいう単語は原則として使うべきでないと、きつく言われたことだ。「これは、君もそうだが、人間の思い上がりだ」と。こうして、六年半、私は英語の論文を書くことの大切さ、難しさを團さんから学んだ。そして、同時に、多くのことも。
なるほど、茅野先生も最初から国際誌に受理されるような英語論文を書けた訳ではなかったのですね。
大学院博士課程を修了して学位を取得しても、大学の教員や研究所の研究員になれたからと言っても、自立した研究者とは言えません。自ら実験計画を立て、結果を得て、最終的に科学論文(国際誌)を書けるようになって、初めて自立した研究者です。そのためにも、シニア研究者は若手の研究者を育てていかなければなりません。
低温科学研究所が、若手研究者を常にエンカレッジし、育てる教育研究機関であり続けて欲しいものです。