スガシカオの『夜空ノムコウ』の詩の世界は、私(たち)のツボを大きく刺激する。
この詩は、「過去の自分が思い描いた未来の位置に現在の自分が立っているだろうかと、自問自答する」点に凄さがあります。そのズレを認識して、明日へと歩んで行く。
ただ、過去の自分が何を考え、どんな未来を推し量って来たかと言うことは、現在の忙しさの中で時として曖昧になることがあります。そんな時、過去に書いた日記やメモが想起の介助をしてくれます。
先日、尾瀬(群馬県片品村)の調査に出かけたのですが、「なぜ、毎年尾瀬に来ているのだろう」と自問自答してみました。幸い、7年前に書いたモノが残っていました。
2000年の5月に日本産業技術振興協会(JITA)に依頼されて書いた小文です。日本産業技術振興協会は通商産業省(現・経済産業省)の外郭団体。毎月発行されているJITAニュースの巻頭言です。当時、10年間弱務めた国立研究所を退職し、都立大に転じて2年弱が経とうとしていた頃でした。国立研究所では工学的研究を中心に行って来たのですが、大学での理学的研究への転換を図る「決意」みたいなものを綴っています。都立大で定年まで送るとしたら、どんな研究が相応しいのだろう、と考えて、私なりの未来予想図を描いていたのです。
あれから7年が経ち、あのころの未来に、私は立っているのでしょうか? 全く予想もつかなかった札幌の地で、こうして立っています。今、この小文を読み返してみて、当時の未来予想図の重要性が一層増してきていることに気がつきました。
人生って、不思議なものですね(←美空ひばり風に、声に出して、歌ってみてください!)。
と言うことで、テイオンケンの皆さん、これからもよろしくお願いいたします。
(↓少々長いので、印刷体をご希望の方は、お気軽に連絡してください)
* ***<JITAニュースより転載>*********
尾瀬のアカシボへの想い-ミクロとマクロの接点
東京都立大学大学院 理学研究科 生物科学専攻 助教授
福井 学
尾瀬の雪解けを待つ中高年グループがいる。ゴールデンウィーク前から尾瀬の麓、片品村の星野さんに尾瀬ヶ原の残雪量を何度も問い合わせる。まだか、まだかとじっとこらえる。完全に雪が溶けても、また、残雪が多すぎても、そのタイミングを逸する。昨冬は降雪量が多く、その予想がなかなかつかない。尾瀬の雪解けといえば、ミズバショウ(サトイモ科)。彼らはそんなにミズバショウが恋しいのだろうか?
5月中旬、連絡がグループ内に電子メールで回った。2泊3日で尾瀬にて現地調査をすることに決定。当日、リーダーのF先生を中心に全国各地から6人の研究者(平均年齢52歳、最高齢67歳、最年少40歳)が片品村に集合。鳩待ち峠から目的地の山の鼻ビジターセンターまでは残雪1m以上雪道を1時間歩かねばならない。調査器具等をザックに収め、背に担ぎながらの雪の山道。汗が額から滴り落ち、体中が火照るが、時よりそよぐ涼しい風が心地よい。気を緩めると雪の下り道は滑落しそうになる。行程の半ばを過ぎたあたりだろうか、南斜面テンマ沢の雪解けの湿地にミズバショウの群落が見えるではないか。一瞬立ち止まり、条件反射的に「夏の思い出」(夏がくれば思い出すーーー)が脳裏をかすめるが、「いやいやわれわれの目的はこれではない」と我が身に言い聞かせる。平坦な道に入り、ようやく山の鼻「植物研究見本園」に到着。呼吸を整え、背中のアブリ山方面に目を向ける。広がる雪原のいたる所に大小さまざまな茶褐色の窪みがみえるではないか!これが目的の尾瀬の「アカシボ」である。調査を行うには、まさに最適の時期である。
アカシボは尾瀬ヶ原で融雪時に雪原表層が部分的に赤くなる現象である。このアカシボの正体と発生メカニズムを解明することが、中高年研究グループの目的である。尾瀬沼、池塘や木道脇の水溜りに油膜様のものが見られ、油の汚染と勘違いするが、これもアカシボでまったくの自然現象である。融雪時の限られた期間に出現するアカシボは謎めいている。第1に、なぜ融雪時に、しかも低温環境下で急速に発生するのか?第2に、雪上に形成されたアカシボのプールやその下の雪の中にもソコミジンコ、ガガンボ幼虫、ユスリカ幼虫、イトミミズと言った動物が生息し、これらの餌は何によって賄われているのか?春の融雪時とは言え、夜間アカシボは凍結する。こうした極限環境下でさえも多様な生物が生息していることは驚異である。現在、アカシボの正体には2つの説が存在する。1つは、ある種の藻類やバクテリアが増殖したという「藻類-バクテリア説」。もうひとつは雪下の湿原泥炭中の無機質鉱物が何らかの作用で雪上に舞い上がってきたという「鉱物説」である。私の立場は「バクテリア説」である。赤茶色はまさしく酸化鉄の色である。このことは鉄酸化細菌の作用を考えれば説明可能である。鉄酸化細菌は酸素を使って還元型の鉄を酸化して得られるエネルギーを利用して増殖する。最長老のY先生はもっぱら藻類説である。茶褐色の藻類が雪中でも増殖しているのではないかとお考えである。Y先生、年季の入った根堀でせっせと積雪を掘り出し、雪の表面から50cm深い層からも藻類の存在とその培養を試みようとしている。ちなみに、Y先生の根堀は50年以上も愛用なさっており、大量消費型の生活に慣れた私には胸をえぐられるような事実である。
さて、このアカシボ研究を支えているのはF先生の「アカシボの正体は何だ」という強い知的欲求である。自然のからくりを知ること自体に価値がある。正直言って、この研究で大きな研究予算が獲得できるわけではない。ほとんどが手弁当の研究である。3年程前、F先生からアカシボの謎解明調査のお誘いを受けたとき、私は通産省の国立研究所で有害化学物質の微生物分解とそのモニタリングの研究に従事していた。特に、海洋環境での原油汚染を対象とし、湾岸戦争後のクウェートの原油汚染砂漠と沿岸海域にも調査を行ったことがある。汚染物質が現場環境でいかに微生物分解を受け、最終的にどのような物質に、どれくらいの時間をかけて変換されるのか?それらを予想するには様々な要素を解明しなければならず、多くの時間と労力を要す。したがって、こうした研究は国の研究開発費を投じて行わなければならない重要な課題であるし、納税者の理解も得られやすい。しかし、アカシボの研究はどう理由付けしようか?「尾瀬の自然を守る(自然保護)」、「生物多様性の保護」、それとも「観光資源の保護」? 化石燃料の大量消費によって、大気中の二酸化炭素濃度が増加し、地球温暖化を引き起こし、尾瀬のアカシボに壊滅的なダメージを与えるかもしれない。また、酸性雨により尾瀬ヶ原が極端に酸性化し、将来アカシボ現象が見られなくなるかも知れない。と、あれこれ考えたが、F先生の素朴な姿勢を盲目的に受け止めることが自然であると思うようになった。
2年前職場を大学に転じ、意欲的な若い学生を前にして、私は彼らに何が伝えられだろうかと悩む日々が続いている。今でも有害化学物質の微生物分解は私の研究でも大きな位置を示しており、学生も強い関心を示している。一方、アカシボはどうだろうか? 国研研究者時代に培った新しいアプローチでその正体に迫ろうとしている。微生物の持つ遺伝子情報から微生物の群集を捕らえるアプローチが培養困難なアカシボ解明の糸口である。なかでも鉄酸化細菌ガリオネラの存在が気になっている。沼鉄鉱と呼ばれる泥炭質の沼で見られる赤褐色沈殿はとても純粋な鉄鉱石で鉄酸化細菌によって生成されたものと考えられている。雪解けの尾瀬の低温環境でのバクテリアによる鉄鉱石の生成メカニズムの解明は地球上での鉄鉱床の形成を知る上での一助になるかもしれない。まさに、ミクロな視点とマクロな視点を統一した自然の理解が大切である。微生物の解明だけでなく、多方面から包括的にアカシボを理解する必要がある。だからこそ、中高年アカシボ研究グループの存在意義がある。来年雪解けの頃、尾瀬で無邪気にアカシボをいじって遊んでいる中高年集団に多くの20代の学生が混じっていることを期待したい。