狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

「高貴な血」の流れる創造主の選民・部落の人達 & 飽く迄も被害者が正しく世間の常識・偏見・差別が悪い

2013-11-24 19:42:11 | 社会・経済
 総タイトル:【「高貴な血」の流れる創造主の選民・の人達 & 飽く迄も被害者が正しく世間の常識・偏見・差別が悪い・・・「明日を生きる―人権ポケットエッセイ〈2〉」を読んで】

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(旧約聖書・イザヤ書43章4節より)
 「明日を生きる―人権ポケットエッセイ〈2〉」((著者:森実氏他・計24人、出版日:2010/3/31、出版社:大阪府人権協会)
 上記の本を読みました。
 空気や世間を当てにするのでは無く、「真実を規範」としての捉え方や判断、人の心の理解が必要となります。「真実の規範」としての「聖書」がこの世に存在します。
 世間・社会や世界においては、戦争被害者、犯罪被害者、災害被害者、冤罪被害者、受刑後出所者、外国人、貧困者、失業者、非正規労働者、障がい者、高齢者、患者、子供、女性、地位・身分・学歴を持たない者等、社会的に弱い立場に在る人々が存在し、「生きにくさ」を感じながら生活しています。
 その中でも本書では、・同和問題、いじめ、就労、貧困、母子・父子家庭についての「人権」を、特に取り上げています。
 その内の差別のそもそもの原因・根拠については、の人々が実はユダヤ人であるが故に差別を受けて来たと言う事です。此処で言うユダヤ人とは、聖書の言うユダヤ人の事です。つまりの人々は「神の選民」であり、結局は「妬み」や「嫉妬」からの差別であったとも捉える事も出来ます。
 元々多民族国家であった日本には、昔から本当のユダヤ人(聖書の言うユダヤ人)が住んでいます。ユダヤ人達は旧約聖書に書かれてある通りに、自分たちの罪の贖いの為に、身代わりとして牛を犠牲にして神に捧げていました。しかし、やがて仏教が国教となって殺生が汚れたものと言う思想が「世間の常識」となってしまった為に、ユダヤ人達は一般世間に居座る事が出来なくなって人里離れた山奥に逃げ移ったり、その河原に住む様になりました。その一方で、中央政権の支配階級や一般社会に妥協したり迎合したユダヤ人達は、社会的成功や出世を果たしました。
 山奥や河原に逃げたユダヤ人達は、牛のを生業として、皮革産業の発展にも貢献しました。
 またその「」の人達からは、能楽・猿楽や歌舞伎が生まれ、今ではそれらが日本の伝統文化となるまでに発展しています。
 最近においても世間の人々は焼肉を好んで食べる傍ら、屠畜業に携わる人達を偏見や差別視する傾向が強かった(強い)ですが、その世間の根拠の無い考え方や空気に左右される考え方、右向け右と多数派に倣う所、既成観念に囚われてしまう所、世間の常識が正しいと思い込んでいる所、周りの顔色ばかりを伺って自分の考え・主張がない所等、それら世間の短所・欠点により差別や偏見、そしてそこから人権蹂躙に繋がっているのです。
 民主主義は多数決が原理とされていますが、多数決こそが偏見に繋がっています。群れ・集団から身を引いて、少数派として客観的に眺めてみる事で、周囲から影響を受けず、一般常識を疑ってその間違いに気付き、世間の人達にとって「普通」と思われない「真実」を見つける事が出来るものと思います。
 いじめの被害者や犯罪被害者はその受けている事、また過去に受けた事を恥ずかしいと思って隠す傾向が有ります。女性の性犯罪においての被害はその一例として挙げられます。その事が知れると、結婚や就職、その他日常生活等に支障が生じて、非常に生きづらさを感じてしまい、遠方への引越や自殺等に繋がってしまうケースが有ります。しかし、被害者の人達は悪い事をした訳では無く、恥ずかしいと思う必要も全く有りません。被害者の人達は正しいのであるから、正々堂々と生きて行けば良いのです。その生きづらさを感じさせるのは世間の人達であり、飽く迄も世間の人達が悪いのです。偏見や差別、いじめをする世間の人達が悪い訳なのです。その辺り、被害者も世間の人達も勘違いしているのではないでしょうか。
 私は高校中退です。その後、学歴を必要としない職仕事(鉄工)に携わって来ました。その後わけ合って、非正規・派遣労働等にも携わりました。もしも中退せずそのまま世間一般的な捉え方としての順調な感じで進んでいたならば、本来の自分は自分の中から出て来ず、繕って、偽って生きて来たのではないかと思います。なあなあで、馴れ合いで、世渡り上手になる為に、出世する為に、本当の自分が出て来ないままであったものと思います。私の場合は社会に出て働く前にその様な「挫折」が有り、元々有った「自尊心」や「反骨精神」に火が灯されたのではないかと思います。「自尊心」とは「自分の人格を大切にする気持ち。また、自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。プライド。」(goo辞書より)とあります。また「反骨」とは、「権威・権力・時代風潮などに逆らう気骨。」(同辞書より)とあります。挫折を却ってバネにして、利用して、それらの自分の本来の精神・心を持って勢いづけて生きてきたものと思います。世間や多数派、周囲に対しての反骨です。但し、自尊心が自惚れや思い上がり、高慢、自慢等に繋がらない様に自制しなければならないとも思います。
 社会に出てからも、多くの「失敗」や「挫折」を経験してきて、その都度「後悔」をして来ました。自分を正当化する訳では有りませんが、「失敗」や「挫折」と言う意味の有る経験を重ねた方が、「痛みを知り」、物事・人の理解や捉え方、考え方、判断の仕方等において優れたものになると思います。先の「被害経験」についても同じことが言えると思います。
 「自殺は罪」に当たります。例え辛い状況下に在っても、自殺はしてはいけないのです。なぜならば、自分の命は自分のものでは無く、創造主のものだからです。創造主のものを勝手に殺めてはいけないのです。「生命は神の領域」。人の誕生の時も死の時も、神が決める事なのです。生命倫理においてはその事を前提にしなければならないと思います。
 創造主によって、全ての人にそれぞれの「運命」が与えられています。誕生の時や死の時も「運命」、障害を持って生まれて来る事も「運命」、社会において様々な境遇下に置かれる事も「運命」です。例え生きづらいと感じても、それは神から与えられた試練であり、それによって勉強できる有りがたさを感じると言う捉え方が正しいのです。
 「絶望」とは、自分の「欲望」や目標の通りにいかない事から生じるもので、神が予め各人に立てている計画や望みはその人の持つ欲望とは異なるものです。神に委ねて従う事でその絶望とは無縁となり、「希望」を持つ事が出来ます。また欲望や世間のしがらみ等からも解放されて精神・心が「自由」になります。
 創造主に造られた全ての人は、元々神から愛されている存在です。信仰心を持って神から離れず背を向けない様にすれば、神に在って希望を得て将来・永遠の幸せが保障されます
 「全国キリスト教学校人権教育研究協議会」~「聖書研究」~2009年8月1日付「『イエスの人権宣言』(マルコ2:23~28)」(渡辺英俊氏著(日本キリスト教団神奈川教区なか伝道所))より「私はマルコの27,8節の言葉、これは『イエスの人権宣言』といっていいんじゃないかと思います。聖書の中にはこういう宝が隠れているんです。こういう大事な宝を、教会は全部営業用に『キリストは偉い』という話にしてしまっています。キリストは偉いですよ。だって、イエスはこれだけのラディカルな(過激な、極端な、根本的、根源的)『人権宣言』をして、その通り生きたんですから。だから十字架にかけられたんですから。だから彼は私のキリスト(メシア、救世主)なんです。天から下って審判するおっかない人がキリストじゃないんです。この『人間が法の主人』なんだと、この人権宣言を自分の身体で生きた人だから、わたしにとってはこの人がキリストなんです。この人に私はくっついて行きたい、それが私の生きる道だと思っているわけです。本当にイエスは律法を超える人間の権利の宣言をしている。同じことを私たちもそれぞれに自分の片隅でしこしことやっていきたいと考えています。」
 旧約聖書・マルコの福音書2章23~26節「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた。すると、パリサイ人たちがイエスに言った。『ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日なのに、してはならないことをするのですか。』イエスは彼らに言われた。『ダビデとその連れの者たちが、食物がなくてひもじかったとき、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。アビヤタルが大祭司のころ、ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者が食べてはならない供えのパンを、自分も食べ、またともにいた者たちにも与えたではありませんか。』」。
 同書2章27~28節「また言われた。『安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子
(=イエス自身)は安息日にも主です。』」


 関連記事↓↓
   ・「全国キリスト教学校人権教育研究協議会」~「聖書研究」~2009年8月1日付「『イエスの人権宣言』(マルコ2:23~28)」(渡辺英俊氏著(日本キリスト教団神奈川教区なか伝道所))
   ・「長崎国際大学論叢」第1巻(創刊号)2001年3月付「旧約聖書における人権思想とそれを支えるHospitalityの理念について」(関家新助氏著)


 本ブログ過去の関連記事↓↓
   ・2012/11/21付「多民族国家の日本に古代ユダヤ人」
   ・2012/12/04付「人権週間、全ての人が障がい者・・・曖昧な根拠・基準」
   ・2012/12/13付「貧困・絶望感の中に光・・・イエス・キリストへの信仰を『根拠』とする『希望』」
   ・2012/12/27付「本当のユダヤ人であるパレスチナ人が偽ユダヤ人に虐げられている世界最大の矛盾・・・イギリスの三枚舌外交、イルミナティ・フリーメーソン」
   ・2013/04/13付「俗事における『無用性』は一時的なもの・・・信仰によって生き、永遠を求める」
   ・2013/05/24付「シリア内戦:反政府勢力が間違いで政府が正しい(3)・・・世界支配権力の欲望の犠牲になる末端の人々 & 平和ボケの日本人」
   ・2013/06/09付「慰安婦問題(4)・・・米軍の性的モラル・ハザードと性管理下での暗黙の売買春の歴史」
   ・2013/06/09付「慰安婦問題(7)・・・新約聖書・ヨハネの福音書8章7節『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』」
   ・2013/06/21付「アメリカ無人機攻撃による多数の民間人犠牲者と偵察・監視活動」
   ・2013/07/08付「日本人のルーツを取り戻す(5)・・・天皇と賎民は共に同じ民族ユダヤ人
   ・2013/08/18付「発達障害と言う『レッテル』」
   ・2013/08/20付「ヘイトスピーチの間違い・・・表面のイメージに騙されずに裏側・根本を見ての真の理解が必要」
   ・2013/09/12付「『Japanのあだ名』と『英語の義務教育』の疑問・・・『日本』に『誇り』は無いのか」
   ・2013/09/19付「根源からのお金への問いは、規範を背景にし『喜捨』を行なうイスラムに答えがある」
   ・2013/09/24付「『大阪・西成 貸しロッカーブルース』・・・自分を堅持する強靭さ」
   ・2013/09/24付「カネミ油症事件から45年、沈黙を破る被害者」
   ・2013/09/25付「同性愛・同性婚の間違い(1)・・・旧約聖書・創世記『ソドムとゴモラ』」 
   ・2013/09/25付「同性愛・同性婚の間違い(2)・・・ロシア・プーチン大統領の正義と、イスラムの『旧約聖書』を基にした正しさと毅然さ & 規範・根拠を持たない日本人・世間の人」
   ・2013/10/07付「権威・権力の広報として世論操作をするマスコミ・・・独立した『個人』の『反骨』が必要」
   ・2013/10/26付「『自然死』とは、死の時を、他人に決められるもの(=殺人)では無く、自分で決めるもの(=自殺)でも無く、創造主によって決められるもの(=運命)で、その運命を素直に受け入れて大きく委ねる事」
   ・2013/10/27付「『職員・施設にとっての普通』を拒み、自由でマイペースな『自分にとっての普通』を望む利用者」
   ・2013/11/05付「福島県民に対する『棄民政策』を阻止しようとした天皇への陳情の何が悪いのか・・・万世一系では無い天皇、そもそも天皇の権威とは一体何なのか」
   ・2013/11/10付「『道徳の教科化』により日本人は変わるのか」


 
明日を生きる―人権ポケットエッセイ〈2〉明日を生きる―人権ポケットエッセイ〈2〉価格:¥ 1,260(税込)発売日:2010-05



自由で自然なマイペースの自分を取り戻す為の、独り静かな食事・・・「孤独のグルメ」を読んで

2013-11-24 01:11:42 | 孤独・独立・自尊心
 「孤独のグルメ」(著者:原作・久住昌之氏、作画・谷口 ジロー氏、出版日:2000/2/29、出版社:扶桑社(単行本は1997年出版))
 上記の本(マンガ)を読みました。
  「モノを食べる時はね、誰にも邪魔されず、自由で、なんというか、救われてなきゃあダメなんだ。独りで静かで豊かで……。」(本書より、主人公・井之頭五郎の言葉)。
 主人公がスーツ姿と言うのは余り私にとっては気に入らないですが、第1話に東京・山谷の作業服姿の客が多い定食屋が舞台の話を持って来ている所は気に入りました。
 井之頭五郎は酒が飲めず、常におかずと一緒に御飯を食べないと気が済まない所も共感します。因みに私は飲めるのですが、特に夕食に御飯は必須です。
 タイトルに在るグルメと言っても、高級ホテルやレストランの食事では無く、またコンビニの様に「いつも新装で、ピカピカで、影とか闇が全く排除された完全人工無臭空間」(本書より)とも違い、見栄を張らず飾らない下町の定食屋が主な舞台となっている所も気に入りました。
 自由に、マイペースに、ゆったりと、自分の精神面において負担の無い、自分の心にとっての自然で普通に感じる独りでの食事
 あとがきに、入った事のない飲食店に独りで初めて入る時に、ある種の「勇気」がいると在る。また、店の中での客としての著者の態度が「小心者」であると在る。しかし、孤独である方がゆったりと、落ち着いて、精神面に「ゆとり」をもたらして心に余裕が出来、許す事の出来る「寛大さ」に繋がるのではないかと思います。精神的に余裕が無くイライラしてストレスが溜まっていると、遅いだの不味いだのと店員に小言を言う、本当の意味での「小心者」と言えるのではないでしょうか。
 あとがきの中から、共感できる言葉として、
 「たぶん、井之頭五郎にとっては食べることそのものが癒しなんだろう。それもひとりで、誰にも邪魔されず、誰にも気を使わず空腹という自分の肉体的精神的マイナスを埋めてゆく時、彼はいつも『自由』になれるのだろう。
 現代のめまぐるしい日常生活は、もともと一個の自然である人間のあらゆるバランスを崩し、言ってみれば不自然な状態を我々一人ひとりの肉体精神に強いている。みんな本来のニュートラルな自分を見失っている。無理してる。繕っている
 井之頭五郎は、食べる時、孤独に食べる時、つかの間自由になり、自分勝手になり、時間や社会にとらわれず幸福に空腹を満たすことで、現代の原始人と化して、歪んだ自分を癒しているのではないだろうか。」。


  
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